パオと高床

あこがれの移動と定住

遠藤めぐみ『ひとつの町のかたち』(書肆侃侃房)

2011-11-27 21:01:31 | 国内・小説
風をとらえた表紙の写真が、まず、素敵だ。

東京は文京区春日を舞台にした変わりゆく町の物語。
春日局にちなんで名づけられた春日通りに沿う本郷界隈「かすが村」。そこにコーヒーとカレーの美味い「珈琲タカハシ」はある。フリーターの「おれ」は、その店でバイトをすることになる。その店のマスターと「おれ」、そして訪れる客とで織りなされる、80年代の町の物語だ。バブル期の狂奔、そしてバブル崩壊後の町の変わりよう。町は途轍もない速度で町の記憶を襞の下の下に埋めていった。それへの挽歌のようであり、そしてまた、静かな憤りとせつなさに包まれた物語である。

「ブラタモリ」という番組で、タモリが「土地の記憶」ということばを使っていた。川や坂、台地などに刻まれた「土地の記憶」があるというのだ。その記憶の上に「土地の記憶」を大切な層としながら「町の記憶」が築かれているのではないだろうか。ところが、その「町の記憶」の上にさらにボクたちは、ただ投資と利子という価値においてのみの殺伐とした新たな「町の記憶」を築いてしまった。そして、明治の、大正の、そして関東大震災後に引き継がれた昭和の町を一変させてしまった。それは、「町」が、人の関係で成り立つ時間の経過を伴った空間であるということを忘れた暴挙だった。物語はそれを、殺伐と糾弾しはしない。なぜなら、殺伐とした糾弾は殺伐とした開発と同じ土俵に立つことになってしまうからだ。だから、物語は、小説の歴史を踏まえ、本郷に生きた人たちへの敬意を込めて書かれる。また、詩情と情緒だけに流されない知的な感慨で怒りを抑制する。それは、怒りを質のよい「かなしみ」に変える。物語では「おれ」は頻繁に図書館に行く。そこには作者が愛したであろう様々な本がある。

  おれは、夢想する。かけがえのないひとつの町を。そこで、おれはひ
 とと会い、本を読み、あたりを散歩した。
  このまま朽ち果てるなら、おれは一枚の栞をのこそう。それを書棚に
 はさんで、黙って立ち去るのだ。あとからやってくる誰かが、この土地
 を豊かな心で散歩できるように。文学の迷宮を、ひとりで愉しめるよう
 に。想像の翼にのって、どんな苦しみも生き延びることができるように。

「おれ」はフリーターの日々の中で「自分探し」をしている。物を書くことへの欲求はある。多くの本にも出会っている。その「自分探し」の中で、彼は他者に出会っていくのだ。それが、町の中の住人としての「お互い」になっていく。そう、ささくれだった時間から離れて。

  おれは、珈琲タカハシのゆったり加減が好きになってきた。思えば、
 子ども時代、せきたてられてばかりいた。高度経済成長、バブル経済。
 おとなたちは、いつもいつも忙しかった。心が荒れて、ささくれだった。

確かに高度成長期の「がんばり」が繁栄をもたらした。しかし、それ以降、ボクらの価値は何を、あるいは何だけを優先させていったのか。
結果、ボクたちは今、この時間の中にいて振り返るように町の記憶を求めている。もちろん、これも時が描き出していく営為の一つである。常に世代は、その世代が生きた過去と現在と未来の中にいるわけなのであり、そこでは変わりゆく過去と現在の始まりは違うのかもしれない。
でもね、漱石が、鴎外が、一葉、啄木が暮らした街並みが一変していく加速的な時間は、幸福なのだろうか。ボクにとっての、ワタシにとっての、キミにとっての「ひとつの町のかたち」って何だろう。少なくともそこには有機的な風が流れていて欲しい。

  時はめぐり、ひとは変わる。きみは、きみでいいじゃないか。
  おれは心の中で声援をおくった。こんなふうにおれも、かすが村の誰
 かに見守られて生きてきたのだった。おれはいつも、村で会った誰かの、
 親切にすがって生きてきた。
  一生をはじめた日から一生を終わろうとする日まで、人生は未知の旅。

受け入れながら生きていく。でも、この物語の作者は知っている。引用されているエズラ・パウンドの詩。

  利子ではだれも美しい石の家をもつことはない

吉田篤弘の小説『つむじ風食堂の夜』やテレビドラマ『深夜食堂』などと通じるテイストがある。心はゆるやかな共同体を求めながら、その不可能も感受する。だから、エールを交わしあうのかもしれない。

『ひとつの町のかたち』は、ジュリアン・グラックのエッセイの書名から持ってきたということだ。いい書名だと思う。
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森鴎外「普請中」(『森鴎外全集Ⅱ』ちくま文庫)

2011-11-22 01:39:00 | 国内・小説
漱石が好きだ。
そのためではないのだが、鴎外に距離を置いていたのかもしれない。
というのは、嘘で、鴎外も好きで、さらに鴎外が好きであるよりも鴎外の系譜に多くの作家がいて、その系譜の作家が実はたいそう好きだったような気がする。
「じゃあ、その系譜って誰よ?」と言われると困るのだが。さて、誰でしょう。

2009年だから、2年前になるのか、詩人の伊藤比呂美とハン・ソンレの座談会があった。その時、伊藤比呂美が鴎外の文体に触れていた。鴎外の文体に層が見えるというのだ。言葉の地層が見える。漢語体とドイツ語から習得した外来語文体、そして古語と、言文一致で駆使する口語体、それらが鴎外の言葉の地層を築いていて、その層が見えるというのだ。そのとき、漱石もそうだなと思ったのだが、実際、漱石にもあるのだが、鴎外の小説、確かに言葉が層を刻み込む。
だが、その前に「普請中」の書き出し。鴎外は独特の改行を使いながら、読点で息遣いを記す。

  渡辺参事官は歌舞伎座の前で電車を降りた。
  雨あがりの道の、ところどころに残っている水溜まりを避けて、木挽
 町の河岸を、逓信省の方へ行きながら、たしかこの辺の曲がり角に看板
 のあるのを見たはずだがと思いながら行く。
  人通りは余り無い。役所帰りらしい洋服の男五六人のがやがや話しな
 がら行くのに逢った。それから半衿の掛かった着物を着た、お茶屋の姉
 えさんらしいのが、何か近所へ用達しにでも出たのか、小走りに摩れ違
 った。まだ幌を掛けたままの人力車が一台跡から駆け抜けて行った。

移動しているのだ。呼吸、そして歩行。この文のつらなり、読点はここにしかないのだと思わせる。全体、改行はほぼ五行以内。『青年』などの長編になると段落の行数は増えるが、文体、だらりと弛緩しない。段落の長さは違うが、読点の置き方と文のうねり、これがもう少し戯作体になれば、石川淳などに繋がる。
で、伊藤比呂美の指摘にあいそうな部分。

  廊下に足音と話声とがする。戸が開く。渡辺の待っていた人が来たの
 である。麦藁の大きいアンヌマリイ帽に、珠数飾りをしたのを被ってい
 る。鼠色の長い着物式の上衣の胸から、刺繍をした白いバチストが見え
 ている。ジュポンも同じ鼠色である。手にはウォランの附いた、おもち
 ゃのような蝙蝠傘を持っている。

まだ、ここで遣われているカタカナ言葉は名詞であるが、文章の中での言語対立というか、文化的な葛藤が展開されているようなのだ。

「普請中」は「舞姫」の後日譚と位置づけられる小説だが、日本を訪れたかつての彼女に対する渡辺参事官の態度は冷たい。この女性は鴎外を追って来日したエリスが投影されていると注釈に書かれていることから、実際そうなのだろうと考えられるが、そうすると、小説の渡辺参事官の耐えるような、あるいは仕事とはいえ別の男と旅行している彼女を責めるような態度は、何なのだろう。かつての恋人への冷然とした態度。ヨーロッパへの思いがすでに過去になり、自立した国家となっていく日本のどこか高揚感をなくした姿が背後にあるようだ。
二人が会う場所は「精養軒ホテル」のレストラン。近くからは騒がしい普請中の物音がしている。その物音は5時になるとやむ。寂しいレストランで「大そう寂しい内ね。」と、女は言う。渡辺はそれに応える。「普請中なのだ。さっきまで恐ろしい音をさせていたのだ。」と。そして、アメリカへ行くという女に対して、渡辺は言う。

  「それが好い。ロシアの次はアメリカが好かろう。日本はまだそんな
 に進んでいないからなあ。日本はまだ普請中だ。」

明治43年発表の「普請中」。「舞姫」から20年経っている。そして、この明治43年は1910年で、大逆事件や韓国併合の年である。明治の終わりまであと2年、鴎外48歳の時の作品である。
ちなみに夏目漱石は『三四郎』『それから』『門』の三部作を1908年、09年、10年で発表している。

  
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江戸川乱歩「心理試験」(『江戸川乱歩全短編Ⅰ』ちくま文庫)

2011-11-18 22:42:47 | 国内・小説
「D坂の殺人事件」に続いて、有名な乱歩短編小説の傑作。
この小説は文庫版の『ちくま日本文学全集・江戸川乱歩』にも収録されている。『ちくま文学全集』は、早い時期に、尾崎翠を初めとする、読みたくてもなかなか手軽に読めなかった作家を多く集めたすぐれものの全集である。装幀は安野光雅。福岡の県立美術館で「安野光雅の絵本」展という展覧会が開催されていて、一週間ほど前に行ったのだが、楽しくて時の経つのを忘れた。

で、「心理試験」。
まず、「D坂」でも書いたが、乱歩の小説にある、大正時代の東京の人が暮らす街の空気が、魅力的だ。そして、乱歩の語り口は、そこを一緒に移動させてくれる。主人公、蕗屋清一郎の侵入場面。

  老婆の家は、両隣とは生垣で境した一軒建ちで、向こう側には、ある
 富豪の邸宅の高いコンクリート塀が、ずっと一丁もつづいていた。淋し
 い屋敷町だから、昼間でも時々はまるで人通りのないことがある。蕗屋
 がそこへたどりついた時も、いいあんばいに、通りには犬の子一匹見当
 らなかった。彼は、普通にひらけば、ばかにひどい金属性の音のする格
 子戸をソロリソロリと少しも音をたてないように開閉した。

語りから臨場へ、連れていってくれる。
この小説は倒叙探偵小説だから、犯人はわかっている。あとは、その犯人のアリバイがどう崩されるかが作家の腕の見せどころなのだが、それには作家の表現力に魅力がないと読者はついて行けなくなる。

さらに、引用。冒頭、語りはこう始まる。

  蕗屋清一郎が、なぜこれからしるすような恐ろしい悪事を思い立った
 か、その動機についてはわからぬ。またたとえわかったとしても、この
 お話には大して関係がないのだ。

語りものであり、「お話」なのだということをいきなり宣言して、その話の中心に誘う。動機が重要ではないのだ、これは犯人の犯行を証す「心理試験」なのだ、と。で、ありながら、動機について触れていく。この動機は、ドストエフスキーの『罪と罰』から持ってきている。大金を持っている老婆から大金を奪うこと、それは、

  あのおいぼれが、そんな大金を持っているということになんの価値が
 ある。それをおれのような未来のある青年の学資に使用するのは、きわ
 めて合理的なことではないか。

となり、

  彼はナポレオンの大掛りな殺人を罪悪とは考えないで、むしろ讃美す
 ると同じように、才能のある青年が、その才能を育てるために、棺桶に
 片足ふみ込んだおいぼれを犠牲にすることを、当然のことだと思った。

と、身勝手な思想を展開する。『罪と罰』の一人を殺せば殺人だが、ナポレオンのように大量殺人を国家として行えば英雄になるといった言い回しの本歌取りである。もちろん、ドストエフスキーはそこからの呵責を小説として展開させたし、推理小説では笠井潔は、この動機づけを思想的に掘り下げて、傑作を著した。乱歩は、短編であるこの小説では、ここに拘泥しない。ただ、年譜にドストエフスキーを読むと書かれているように、それを小説の中に取り入れて活かしている。
そんなところにも面白さを感じながら、小説は、ペーパーでの心理試験での心理分析と、その心理試験を実践化してみせる心理に仕掛ける罠とを描き出す。
古畑仁三郎がコロンボによって生まれたように、コロンボは探偵小説の築き上げた歴史によって生まれ、その沃野に江戸川乱歩はいる。もちろん、その乱歩は探偵小説の黄金時代を滋養として、日本の探偵小説史上に屹立している。
蕗屋と明智の心理合戦は、裏をかく蕗屋の、その裏の裏をかく明智によってお見事という終わり方をする。
「D坂」でも引用されていた心理学者ミュンスターベルヒに触れながら、「ミュンスターベルヒは、心理試験の真の効能は、嫌疑者が、ある場所、人、または物について知っているかどうかを試す場合に限って、決定的だといっています」ということばが心に残る。
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日原正彦「三崎口」(詩誌「橄欖92号」)

2011-11-13 12:47:23 | 雑誌・詩誌・同人誌から
この詩誌に、日原正彦さんの詩が三篇掲載されている。三篇といういいかたは正確ではないのかもしれない。二篇と連作一篇。「三崎口」と「裏半分」に、連作の「かけら」の62から70までである。
「三崎口」の冒頭の語り口に引かれる。

 三崎口で降りたら
 海は見えますか

詩は、レストランで、そうたずねた「私」(詩の中では一人称は記述されない)とウエイトレスとの齟齬(?)を描いていく。この詩誌に掲載されている詩は、どちらも「私」と今そこにいる「あなた」とのまなざしのずれに触れていく。三行ある第二連のあとに、

 注文したラーメンをがたがたテーブルにおきながら
 お世辞にもかわいいとは言えない
 しかくいかおのウエイトレスはどぎまぎしながら答えた

と、第三連が続く。「私」の視線は決定的である。相手は「どぎまぎ」している。

 あ あ ちょっとお待ち下さい

 いえわからなければいいんです

詩はこのように続くが、かえって、あまり「いいんです」にはなっていなくて、ウエイトレスは萎縮している。

 そそくさと背をむけ むこうに立っている
 かわいい猫みたいなまるがおの別のウエイトレスに聞いている

 あの 見えないそうです

 そうですか ありがとう
 と言ってそっとむこうを見る
 猫が冷ややかに笑っている(ように見えた)

視線の決定力は括弧を使うことでむしろ強まる。日常的な殺伐がここには漂っている。「私」のささやかな欲求の行き先は奪われている。私たちは、日常的にささやかな欲求がかなえられずにいて、またそれに対して「私」ではない者たちは、「私」の失望に見合うだけの無念を示しはしない。それは、あたりまえのことであり、そのあたりまえのことが実はお互いを存在させている。「あなた」との間の自然な齟齬。相手は「猫」と呼ばれ、「しかくいかお」と呼ばれることで、「私」の中に位置づけられる。

 食べ終わって お金を払う
 レジに立ったのは猫の方だった

 アリガトウゴザイマシタ

「私」にはこのことばが、カタカナに聞こえている。どこか、志賀直哉の短編を連想する。その印象は次の連でさらに進む。

 抑揚のない 四百八十円の声を
 背中にはりつけられながら店を出るとき
 ふと
 しかくいかおのウエイトレスと
 猫がおのウエイトレスと
 両方を 微かに 憎んだ

 三崎口で降りても
 海は見えないんだ
 と 思いながら
          (日原正彦「三崎口」二連のみ略)

見えない海への思いは、ウエイトレスへの微かな憎しみで対価を払おうとする。こうやってささやかな願いとささやかな失望は、他者へのささやかな思いで解消されていくのかもしれない。私たちはその累積の中にいる。ただし、私たちは常に忘れることで、日々を新たにすることができるのだ。
この詩は僕の中では、連作「かけら」の69と結びついた。

 小鳥よ
 小鳥は全くかるい

 つりあうくらいだ
 青空と
          (「かけら」69 全篇)

違う意識で交差する眼差しは、非対称でありながらつりあっているのかもしれない。
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新倉俊一『詩人たちの世紀』(みすず書房)

2011-11-12 09:59:53 | 国内・エッセイ・評論
2003年に出版された本である。副題が「西脇順三郎とエズラ・パウンド」。パウンドと西脇を辿りながら、モダニズムが企図した壮大な詩の夢の歴史が描き出される。もちろん、パウンドや西脇が書き残した詩は「夢」ではなく「現実」として、在る。だが、その歴史はたぶん夢の歴史なのだと思う。現実と拮抗しながら、ジョイスが、エリオットが、西脇が、パウンドが生みだしていった世界は、彼ら相互の交流と抗いを経ながら、さらにはイェイツやジョン・コリア、ヒューム、萩原朔太郎や三好達治、シュールレアリスト、「荒地」派の詩人なども巻き込みながら、現代詩の歴史を象っていく。
豊富な詩の引用とコメントや文章の引用で、時代の中で彼らがどう表現の拡大と総合をはたしていったのかが伝わってくる。特に、西脇とパウンドが共に古今東西の作品をモンタージュしていきながら作りだした、独自の詩が持つ世界観が、魅力的だ。また、パウンドとエリオット、ジョイスとの差異の指摘なども興味深い。
この本を読み進めるさいの推進力は、パウンドや西脇の詩の魅力もさることながら、それは例えば、西脇とエリオットの詩の位相に触れる、「西脇の水平の詩学はエリオットの垂直の詩学と交差している」などの表現のように、縦横に互いの同族性と違和を語り証してくれる新倉俊一の視点の面白さと表現の楽しさから来る。

あとがきで、新倉俊一は書いている。
「現代詩はいわば、生まれたときから漬かった産湯である。だれも時代と離れては存在できない。」だから、「現代詩の歩みをたどることは、自分の出生記録をたどるようなものといえよう」と。
この本が持つ内部から膨れあがるような印象は、この現代詩への思いに由来している。であればこそ、「やがて戦前からの西脇順三郎やパウンドのグローバルな詩活動を知るにつれて、ますます現代詩の同時代性を確信するようになった。歴史は偉大な個人の影に過ぎない。この二人の物語を中心に書いているうちに、現代詩の歴史に及んでしまった」となるのであろう。
それに、触れえたような感触をおこさせる一冊だった。

そういえば、別の本で、ニーチェの「思想というものは、われわれの感覚の影である」ということばを見つけた。感覚総体つまり五感を持った身体の影が思想であると考えたとき、歴史というものも、確かに偉大な個人の影に過ぎないのかもしれない。もちろん、この「偉大な」という形容は、偉大な実績を刻んだ者への敬意であって、歴史というものは、と考えたときには、歴史は個人の影に過ぎないのかもしれないといういい方も可能となるだろう。個人が、感覚をつまり身体を持つかぎりにおいて。

この『詩人たちの世紀』は、読み進めた先の第五部「ユリシーズ、私の〈ユリシーズ〉?―『キャントーズ』への案内」で、楽しさが増す。
ここで、新倉は「これまで私は島の周りをめぐってきた。(略)しかし、いつまでもテクストそのものに触れない批評とは、いったい何だろうか?」と書いて、パウンドの壮大な詩『キャントーズ』の解読にむかう。それだけで、本来一冊本になりそうなものを、20ページほどで書くのだから、「ひとつの読み方の提示」であり、「多くの意味の糸のうちの一本にすぎない」のかもしれないが、この一本が楽しい。この詩群の部分的なすばらしさを認めながらも、やはり、ここにある「意識の流れとしての一つの物語」を読み解く一例を示してくれる。そして、「『キャントーズ』は〈開かれた作品〉であって、他にもさまざまなライトモチーフを探すことはできる」と、ウンベルト・エーコの〈開かれた作品〉といういい方を使いながら、読解の多様な可能性を示唆してくれる。それは作品の持つ豊かさを語ることになるのだ。そして、そのことは、現代詩の持つ解釈の多様性と豊かさを示すことにもなっているのだと思う。
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