パオと高床

あこがれの移動と定住

パスカル・キニャール『アプロネニア・アウィティアの柘植の板』高橋啓訳(青土社)

 | 海外・小説
創作者は偽書を創造したくなるものかも知れない。そして、偽書は偽書という確証が曖昧なほどすぐれているのかも知れない。アプロネニアという女性が残した「柘植の板」の校訂版ジュレ師資料集によるのが、本書の?の部分になる。しかし、この人物の実在性や、校訂版の実在性はさだかではない。ただ、二部構成の?では、ローマ帝国の分裂前から、分裂、その後の西ローマ帝国の動向が、年号入りで記述される。そこには実在の歴史上の人物が登場し、キリスト教の流れや、人々の移り変わりが歴史記述のように描かれる。これが、偽書の正当性(?)を保証する。
そして、「柘植の板」の中身。これは、清少納言の『枕草子』を連想させる。まるで、大きな時代の流れとは別の世界のように、日々の事柄が記載される。ユーモアや開放的なエロスがさらりと描かれる。「恥ずかしいこと」「なすべきこと」「忘れてはならぬもの」などが、ものづくしのように書かれている。思わず微笑んだり、感心したりしながら読了することが出来た。
訳者あとがきは、この小説の奥の深さを教えてくれた。


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円城塔「つぎの著者につづく」(文学界11月号)

 | 国内・小説
円城塔という名前が気になっていた。で、「文学界」11月号を借りて、読んだ。題名は「つぎの著者につづく」。とても小説の中身を示唆している題名だ。わけわかんなくても面白い小説というものがあって、なんだか、よくわかんないんだけれど、読めてしまうし、読後感がいいのだ。

物語ることそれ自体が物語るものを創りだしていると言ったらいいのだろうか。

「ベコス」という発語が出てくる、ヘロドトスの『歴史』の二章冒頭(?)の部分から小説は始まる。「原初の民と起源の言葉」を求めて、二人の嬰児を羊飼いに預け、二人の間に最初に発せられた言葉で、それがわかったという話だ。作者は、この実験の不備を指摘しながら、話はあの有名な、海を見て「う」を発したという話しに行き、スカラベから『哲学探究』、さらに「プラハの図書館」が出てきて、カフカの影が横溢し出す。そして、この物語の「私」の書き物は「リチャード・ジェイムス氏」=R氏の剽窃があると批評されたという話から、R氏捜しの物語になっていく。と、書きながら、こんな流れとして書いていいのかなとボクは疑問に思う。と、いうくらい、いろんなものが溢れているような感じなのだ。そう、読者の知識の量と感性の質によって、謎が解けるのだろうと思わせるパロディ化引用化が推察できるのだ。
なんだか、原子モデルを思い出した。私とR氏という陽子と中性子。その周囲を引かれながら飛ぶ電子のような、様々なテキストたち意匠たち。このズレ方というか、こぼれ方というか、ライプツィヒが構成の鍵、あるいは構成への動機付けを行っているような気がするし、ウィトゲンシュタインが挑戦相手のように思えてくるし、カフカの「オドラデク」が作品の手触りを語っているようだしで、何だか読み終わってしまう。長い小説ではないので。

ボクら、広大な知の伽藍の中で、「つぎの著者につづく」ように手渡された膨大な螺旋構造の中にいて、その継続が物語を次へ手渡していく。その快感があった。
それから、この作品の魅力は、文章の言い回しの可笑しさ、諧謔にもある。それと、ラストに向かう際の高揚感。なんだか、クライマックスがありそうなドラマの謎解きの予感に震えさせるものがあった。


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吉田秀和『たとえ世界が不条理だったとしても』(朝日新聞社)

 | 国内・エッセイ・評論
朝日新聞夕刊一面の「人・脈・記」というコーナーで、吉田秀和のことが書かれていた。それを読んで、あっ、この人の文章を読んでみようと思った。音楽評論家と頭の中で分類して、音楽評論家の文章はほとんど、読んでみたことがなかった。ただ、なんとなく吉田秀和は、音楽の紹介者というだけではなく、文学、哲学、政治社会などにも広く、深く、発言する該博な人だという印象は持っていた。
朝日新聞に1971年から書き続けてきた「音楽展望」の2000年から2004年までの分が収録されている。「あとがき」には妻の死による、中断の時の心境などが記されているが、この時評を書き続ける営為に驚かされる。そして、限られた枚数の中で、充実した評論を表現し続ける力量をすごいと思った。こんな文章がある。「ニューヨークでのあのことが起こって以来、私は書くのが辛くてならない。それでも、いつまでかは知らないが。私は書き続けるだろう。人間は生きている限り、自分の信じ愛するものを力をつくして大切にするほかないのだから。」

文章は、作者がかつて聴いた演奏の思い出に向かい、それが現在聴いている演奏と比較され、現在の音楽の様相や音楽の変化と普遍性に言及されたりする。また、作曲家と演奏者の関係を語れば、そこから溢れ出す多くの演奏への批評が繰り出される。筆致は簡明で、心地良いリズムがある。
例えば、リヒテル。
「リヒテルは「ピアノが怖い」と悲鳴を上げるときがあった。(中略)
リヒテルー特に晩年の彼には、この恐怖はしばしばきき手に伝わってきた。あの特別暗くした舞台で僅かな光の下で楽譜を前にグリーグの小品などを弾いている彼の身辺には異常に切迫した空気が漂い、楽譜そのものもピアノを超えた彼方から見えてくる何かから彼を守るためにおかれていたように、私には、思われた。」とか。
あるいは、ベートーヴェン。
「《第九》は人類の理想の輝かしい表明だが、《荘厳ミサ曲》は人類の厳しい現実を率直に受けとめたうえでの祈りの音楽で、ベートーヴェンという人は理想と現実の両方から目を離さなかった。大事なのはこのことだと思う。」と、《荘厳ミサ曲》の音楽に沿った解読のあとに書き、さらに、この文章を受けて、
「理想の追求、その謳歌は良いけれど、それ一点張りで理想しか目に入らず遮二無二突っ走ることは独りよがりの傲岸、他人への無理強いになりやすい。理想と信念の正しさだけでの行動がどんなに恐ろしい結果を生むかは、冷戦時代に私たちが散々経験したことだ。」と結ぶ。2003年4月の記述だ。現在への警鐘を書き込んでいる。
グールド、リヒテル、ヴァント、カラヤンなどなどから、朝比奈隆と田中真紀子に触れた文章、相撲の話から音楽のリズム論へと飽きない。
批評の姿勢は、こんな文章に見てとれるのではないだろうか。
「「何とかの曲は誰それに限る」と言う人がいる。こういう言葉は格好が良く、潔く、倫理的にさえ見える。しかし、もし、それが「だから、ほかのはだめ」というところまで行ったら、それは音楽の息の根を止めかねない。ある曲はひとつの弾き方しか正しくないとしたら、むしろその曲にどこか問題があるのではないかと考えるのが順序ではないか。」
この柔軟さと、革新、普遍への目配り。そして既成概念にとらわれない自身への責任と信頼。
CDを流しながら、毎晩、数編ずつ読むのは楽しい時間だった。



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サガン『悲しみよ こんにちは』朝吹登水子訳(新潮文庫)

 | 海外・小説
池澤夏樹の個人編集による河出書房新社の『世界文学全集』の内容案内を見ていたら、サガンの『悲しみよ こんにちは』が収録されていた。かなり以前、ベストセラーになったときは、なんか妙に反発して、そのまま読まずにいたのだが、突然読んでみた。
1954年の作品で、作者自身、サルトルが好きと言っていたとあとがきにもあるように、ある時代の精神の有り様が見てとれる。秩序や完璧さへの反発。虚無的な感じと享楽的なものの混在。理知的な分析と湿り気のない情緒。実感や実体に出会うまでの距離。これらが南仏の太陽のきらめきと海岸の風景の中に描き出される。何か、時代的なものへの葛藤も感じられた。と同時に、時代性ではなく、普遍的な若さの持つ残酷さと痛々しさと繊細さなのかもしれない。
ラストの方の、「観念的実在物」ではなく「生きた、感じやすい人間」として他者に出会ってしまう場面は、他人の顔をどうやって想像できるかの実感の問題を孕んでいる。それは、とりもなおさず、自己の残酷さの結果、責務と罪を背負ってしまう瞬間でもあるのだ。
題名にもなり、冒頭に引用されているエリュアールの詩「直接の生命」、この詩のフレーズいいな。
原作の文章を生かそうとしたのだろうが、訳が、ちょっと、つらいかな。


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ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』越前敏弥訳(角川文庫)

 | 海外・小説
遅ればせながら、あの大ベストセラーを読んだ。壮大な歴史ミステリーの謎解きの面白さ、追跡劇の展開の速さ、構成の上手さ、二転三転するどんでん返し、解明される後半の合点のいき具合、それに翻訳文の速度感、どれもそろって一気に読ませる。
それにしても、聖杯伝説と秘密結社は興味深い読み物を生み出すものだ。
文庫本には解説が付いていて、それを荒俣宏が書いている。確かに、書くならこの人しかいないだろう。この解説も面白い。荒俣宏って知らないことがないんじゃない。


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