パオと高床

あこがれの移動と定住

寺山修司『月蝕書簡』(3)最終回

2011-10-18 13:06:59 | 詩・戯曲その他
七 鑑賞からはなれて3

 現代歌人文庫の『寺山修司歌集』収録の第二歌集『血と麦』の「私のノオト」で、寺山は書く。

  大きい「私」をもつこと。それが課題になってきた。
  「私」の運命のなかにのみ人類が感ぜられる……そんな気持で歌をつくっ
 ているのである。(中略)
  私個人が不在であることによってより大きな「私」が感じられるというの
 ではなしに、私の体験があって尚私を越えるもの、個人体験を超える一つの
 力が望ましいのだ。
                      (寺山修司『寺山修司歌集』)

 この文章には、「一九六一年夏、小諸にて」という記述がある。そして、「いませねばならぬこと、長編叙事詩の完成」とも書かれているし、「いま、たったいま見たいもの、世界。世界全部。世界という言葉が歴史とはなれて、例えば一本の樹と卓上の灰皿との関係にすぎないとしてもそうした世界を見る目が今の私には育ちつつあるような気がするのだ」という記述も続く。六五年刊行の第三歌集『田園に死す』への道はここに予感されているのだ。
 寺山の「私とは誰か?」という問いは、寺山が評論集に収めたとき「Who are you?」という問いに書き改めたらしい。菱川は書く。「『私とは誰か?』を問うことは、『あなたとは誰か?』を問うことにつながる」と。この問いの転換は健全である。例えば、「私とは誰か?」という問いへの解答をあっさりと有効性の有無に還元して「私とはとるに足らないもの」あるいは「私とは何ものでもない」ということにし、他者に対しても、「あなた」に対しても、それを敷衍してしまう恐ろしさに比べれば。私を問うことは他者を問うことなのだ。
 菱川は、「『血と麦』の自己拡散には、そういう対話の活性力が秘められているのであるが、その活性力をさらに強靱なものに練りあげ、『大いなる〈私〉』の全体像を、日本人の血の故郷にさぐったのが、第三歌集『田園に死す』である」と、寺山の達成を評価していく。
 篠弘は同じことを『篠弘歌論集』の「前衛短歌論争」で書いている。この中の「寺山修司と岡井隆にはじまる私性論議」という章に次のような記述がある。

  岡井の「〈私〉をめぐる覚書」について、ここで詳述することはできないが、
 短歌が私詩として生きうる可能性が執拗にさぐられていた。(一)〈私〉の拡散と回収、(二)作品に生きる人間像と表現者の主体、(三)日常性の回復、(四)高次元のフィクション、などのテーマをめぐり、短歌の原質にかかわる巨視的な見通しをふまえて、作品の背後に「ただ一人だけの顔が見える」ように描出する方法が吟味されたのであった。
                         (篠弘『篠弘歌論集』)

 岡井の原著にあたっていないので、「ただ一人だけの顔が見える」がもう一つ理解できないが、おそらく表現されるべき作品において生きる者の顔のみが見えるように創作されるべきだということではないだろうか。それにしても、この四つのテーマはそれぞれに問われ続けるべき課題である。フィクションがフィクションであるかぎり、そのジャンルにあって、常に問いとして有効である。もちろん小説や詩になると、ポリフォニックに「私」とそれをめぐる「作品に生きる人間像」が交錯すること自体が作品の規模を支えるのである。
 篠は「この岡井提案をきっかけにして」と続けながら、「私性」についてのいくつかの見解を列挙していく。例えば、山中智恵子の「告白を断念したところから、私を拒絶したかたちで、測りがたき私に会うためには、いくたびも〈私〉にたち帰る」という「私」への出会いが「私」の実体を変え、越えていくという主張を書き、それたいして、寺山修司の、先に引用した「〈私〉とは誰か?」は、「近代的な自我の解体をうながすものとなった」として、

  〈われ〉という言葉で他者を語ることにこそ、短歌の特性があることをあ
 きらかにした。いわば劇化を志向するものであって、「大いなる〈私〉の全体
 像と、現実にいま存在している私の肉体との相克である」とし、はやくも存
 在論的な思考を暗示していたのである。
                         (篠弘『篠弘歌論集』)

と、篠弘も「〈私〉とは誰か?」を引いている。この「存在論的」というのが、また少々わかりにくいが、篠弘は前登志夫の言葉を引いて、次のように述べている。

  「前衛短歌のひとつのテーマは、たんに〈自然〉を回復することでもなく、
 〈私性〉を呼び戻すことでもなく、自らの行動のモーメントをたしかめてい
 くことであろう」と分析し、昭和四十年代の現代短歌が、私性の確認から存
 在論に深化してくる状況を、まさしく予知していたかのような視点をみせて
 いる。
                         (篠弘『篠弘歌論集』)

 「モーメント」とは、「きっかけ、要因、契機」という意味がある。しかも、ある瞬間の時間という意味も併せ持っている。行動の理由づけや意味、またその行動の起こる状況や原因を探る行為と考えると存在論的である。短歌が「劇化」を志向すれば、短歌に詠まれた状況のなかでの存在の有り様が表現されることになっていく。そう三十一音は「私」の旅の場所になり、様々な「私」の有り様になり、自我の実験室になり、実存の解釈を可能にする場所になる。それは存在の意味とそれに先立つ実存の姿を顕わにする劇的空間になるのかもしれない。
 ところが、ここに寺山修司の短歌離れと、歌への帰還を告白しながら未発表歌となってしまったきざしがほの見えるのである。「大いなる〈私〉の全体像と、現実にいま存在している私の肉体との相克」とは、寺山修司のいまある現実と短歌との相克にもつながったのではないだろうか。

八 鑑賞からはなれて4

 ボクらは『月蝕書簡』の付録佐佐木幸綱との対談に寺山の議論巧者ぶりを見てとることができるかも知れない。相手の言葉を微妙にずらして、相手の言葉の持つ主導権を奪還する。また、以前、自らが遣った言葉の定義をすり替えながら、いま考えている自己の現場に相手を引きずり込んで、相手が自分に対して作ってくる来歴からの批判を破産させる。ロラン・バルトの言葉の定義のずらしかたを比較すれば大げさだろうか。そんな寺山の姿勢は、先に引用した「人は、一つの形式を通して表現する方法を獲得した瞬間から、自分自身を模倣するという習性が身についちゃうからね」という点が「非常に問題なわけです」という考え方に根ざしていると考えることはできるかも知れない。が、というよりは、飽きちゃうことが嫌なのかもと思ったりもする。
 この対談は七六年に「週刊読書人」で交わされたもので、六五年刊行の『田園に死す』から十数年後、月刊「短歌」で寺山修司がふたたび短歌を書くという予告を契機に行われたものだろう。未発表歌集『月蝕書簡』は、そういった十数年ぶりの短歌発表に向けて、七三年から十年かけて作られた短歌を中心に田中未知が編集したものである。結局、本人の手で発表されることはなかった。「『月蝕書簡』をめぐる経緯」で田中未知は、八一年の辺見じゅんと寺山との対談を引いて、辺見が寺山の次に出す短歌に対して「意外と凄いものかも知れないわよ(笑)」と言ったのに寺山が「いや、駄目です」と応えたことばが「印象的である」と書いている。そして、「発表に至らなかったのは、この自信のなさが躊躇させていたのかもしれない」と続ける。それは、同じ対談にある、「自分の過去を自分自身が模倣して、技術的に逃げ込むわけでね、なるほど見た目には悪くないけれど、これは自分自身の何か新しいことを語る語り口として、二十年ぶりで短歌を作るということに値するかどうかと考え始めたら、だんだん自身がなくなってきてね」という発言と呼応する。だが、この吐露自体が創作の葛藤を語っているのだ。
 そして、もう一つ、付録のかたちで挿入されている佐佐木幸綱との対談では、短歌を離れた動機が次のように語られている。

  ぼくが『田園に死す』という歌集をつくってから短歌をつくれなくなった
 のは、短歌形式が最終的に自己肯定に向かうということがわかったからです。
  (佐佐木幸綱・寺山修司対談「現代短歌のアポリア-心・肉体・フォルム」)

 かつて、「私個人が不在であることによってより大きな「私」が感じられるというのではなしに、私の体験があって尚私を越えるもの、個人体験を超える一つの力が望ましいのだ」とか、「われ」という言葉で他者を語ることに「短歌の特性があることをあきらかにした」と篠弘に書かせ、「大いなる〈私〉の全体像と、現実にいま存在している私の肉体との相克である」と語った寺山が、自身の歌からの離れ(わかれではなく)をこう動機づけている。
 寺山の『田園に死す』での達成は、近代を、反近代的なもの土俗的なもので、それこそ血で、屠る行為を表現し得たことであったと思う。徹底的な土俗性、地域性、また自身の原風景的な個別性にこだわり、その空間と時間の中で生き得た自分を仮構していくことが、「日本人の血の故郷」(菱川善夫『歌のありか』)への探索となる。それがえぐり出した場面は「大いなる〈私〉」の中に「私」を呑み込んでいく。『田園に死す』の短歌に触れた途端、異次元への扉が開き、ボクらはそこで異空間に出会う。それは寺山の原風景であり、虚構化された世界である。そして、その異空間で、実は見知った何ものかに出会うようにボクらは、まるで日本の原郷のようなものに対面させられるのだ。そこには、残酷さと切なさが、ノスタルジーと疎外感が、愛おしさと受け入れがたさが、遊戯性と少年性が、悪意と傷が、癒しがたさと憐憫が、ひしめいている。跳梁する草子絵や、集落や、家族の幻想に宿りながら。
 そして、ボクらは、それを突き抜けて、問いつめられる自己という普遍に至るのだ。ある地域性からグローバルな普遍性に拮抗し、それへの問いを発する。すでにこれは現代文学の世界文学性への条件のひとつなのだ。この時期以降のいわゆる「アングラ演劇」の担い手たちは、結構、日本的なるものに劇的なるものを見いだして、新劇の翻訳的なるものに対抗していったのではないかと思われる。また、新劇自身も、自らの解体、再生のために土着性へと根ざしていったのかもしれない。そこに、世界への通底路があったのだ。
 篠弘も『田園に死す』に関して、菱川善夫と同様の見解を示しながら、近代との関係に触れている。

  三十年代における「前衛派」の志向性の一つとして、寺山の存在を軽視す
 ることができない点は、寺山が近代の解体に挑むにさいして、近代の規範を
 超えて、はげしく日本人の原型というところに着目したからである。各個が
 もつ土着的怨念のようなものを抽出し、それを内的ドラマとすることによっ
 て、民俗と現代人との饒舌な和解がおこなわれたからである。しかもそれが、
 時代の暗部をえぐり出すかたちで試みられたところに、寺山の大きな特色が
 あり、はやくも昭和三六、七年の段階から四十年代の根源的な課題をあきら
 かにするものであった。
                         (篠弘『篠弘歌論集』)

 しかし、それが、「短歌形式が最終的に自己肯定に向かうということがわかったからです」という、佐佐木幸綱との対談とどうつながるのか。もし、この発言が文字通りであれば、かつて、寺山が「様式」と「私」にこだわり、先鋭化させていった契機かもしれない嶋岡晨との論争は、そのまま詩と短歌とのジャンル的な差異だけを明らかにしたまま、いつか寺山の中では終息してしまったのかもしれない。いや、むしろ、その差異が必要だったとも考えられる。嶋岡晨の寺山批判として『篠弘歌論集』に引かれている、「寺山の作品には、ドラマティカルな〈私〉が現れているだけで、徹底的に〈私〉を追求していない」や「強靱な客観的精神によって別のものに転化された〈私〉こそ〈典型〉となるものであるとぼく(嶋岡晨)は考えていますから」とか、「ぼく(嶋岡)のいう〈自我〉は決して単なる〈私〉ではなく〈私〉を創造する根底にあるもの、〈私を変革する私〉、一つの世界観であるということです」に対して、寺山は「人間の劇的性格こそ作歌の動機」や「〈私〉的なものの掘り下げから普遍的な〈個〉を生みだそうとする現代詩人とは二律背反である」や「〈私〉がつねに普遍性をもち、万人の中で自発性をもちうることが実は大切である」として反駁していることが、そのまま宙づりにされる。
 おそらく寺山修司は、短歌における「私」の問題は問うただろうが、短歌の中で、「私」を批評的に扱うことはしなかったのではないだろうか。「私」を探すことが、そのまま「私」を強靱な批評にさらすことにはならない。嶋岡晨の批判に現れる「私」は、より時間的な存在としてあるのではないだろうか。あるいは弁証法的と言っていいのかもしれない。寺山の「劇的性格」は空間の中に「私」を置き去りにする。つまり、『田園に死す』で、問いつめられる自己に至るのは、普遍に至るのは、自己批判の先に統合された自己の在処としてではなく、あるいはなりうべき総体としての自己ではなく、むしろ、それぞれの歌に偏在している「私」たちが、『田園に死す』という世界として現実世界と対抗している、その拮抗線上においてなのだ。
 確かに、寺山の中では、どこまで追求しても「自己肯定に向かう」ということは、受け入れがたさになりうる理由だったのかもしれない。時代を回顧するように、いや回顧するふりをしてかもしれないが、対談で寺山は「六○年代は価値喪失の乱世で、あらゆる形式が崩壊に向かっていた。(中略)政治的な激動期の中での七五調は、一つの自己模索の過程をはらんでいた」と語る。さらに、「短歌をつくることが逆に自己破壊でありうるという時代にあって、あなた(佐佐木幸綱)なんかも短歌を始めたわけだけれども、いま(七六年当時)はそうじゃない」と語っている。その上で、「散文の文脈との相補性の中で、対立物を持たないですむ状況に向かっていく感じだな。地響きを立ててさ。暴力的な出会いを全く欠いている」と批判的な言葉を発している。佐佐木幸綱も、寺山の批判的な言葉には同調しないまでも、「自分の位置を確認できる何かのそばに行きたいという雰囲気は、たしかにあるみたいですね。だから短歌をつくることが、すでにスキャンダルではなくなってしまった」と受け答えしている。そして、寺山は短歌の外に出る。「集団が、自己解体のための一つの有効な手続だと思って、短歌から一気にダイアローグに飛び込んでいったわけだけれども」という演劇への移行を語っている。
 現在の短歌の広がりは、一概には言えないが、この七六年当時の二人の対話の延長にある側面も持っていると思う。「自己破壊」や「スキャンダル」からは遠く、「自分の位置確認」としての「形式」や「束縛」への魅力。「価値喪失」と「形式が崩壊」する過程が続く現在にあって、「自己模索」と「自分の位置確認」の両方になりうる短歌の魅力に人々は惹かれているのかもしれない。
 その短歌の広がりを意識しながら、寺山の言った「散文の文脈との相補性」について考えてみると、次のような寺山の言葉が生きてくる。

  しかし、人は無人島に行っても自分というものを定義づけようとするだろ
 うかということが問題だと思うんですね。歌人にとって、短歌が非常に抜き
 差しならない表現であるということは、散文との緊張関係の中で、初めてと
 らえられるものだろうと思うんです。(中略)散文的な表現との葛藤なしでは、
 短歌の表現としての屹立性は問われないことになる。
  (佐佐木幸綱・寺山修司対談「現代短歌のアポリア-心・肉体・フォルム」)

 前衛短歌論争の時は、それ以前の短歌への様々な批判を受けて、現代詩との抗争に短歌の屹立性を見いだしてきた寺山が、ここでは散文との葛藤の必要を説いている。ジャンルがジャンルでいる自立性を、ジャンル横断した寺山が語るところが、いい。短歌においては、他ジャンルからの本歌取り-時に剽窃と批判され-を行いながら、短歌形式に現代詩、俳句の封じ込めを図り、演劇という、むしろ様々なジャンルの混交体に向かう寺山が、ジャンルという島宇宙が島宇宙で終わらないための葛藤を説いているのだ。
 このジャンル横断の姿勢は、寺山修司の短歌における虚構化された「私」の表現に呼応する。それぞれの状況、場面における「私」の創作。そして、これは、彼の「私」をいれる容れ物としての「肉体」という空間的な考え方とつながる。

  いまやっぱりぼくは、言葉に対峙するものは何かというと、心なんかじゃ
 なくて肉体だとおもうわけだよ。
   (佐佐木幸綱・寺山修司対談「現代短歌のアポリア-心・肉体・フォルム」)
         
 この言葉は、佐佐木幸綱の「心」と「言葉」について、「『心』と『言葉』という二元的な対立を思いつくところが佐佐木幸綱の歌人的な発想なんだと思ったね」と言った後に続くものである。これに対して、佐佐木はこう切り返す。

  寺山さんは、主として空間的な旅に出て行って、(中略)空間に広く出てゆ
 くことによって、日本というもの、あるいは東北というもの、あるいは寺山
 修司自身というものを確かめるみたいな形になっているわけですね。ぼくは
 どっちかというと、時間をさかのぼっていっちゃったみたいなところがあっ
 て。それと、「心と言葉」の問題は関係がある。(中略)広いところに行くと、
 (中略)すぐ自分が拡散していっちゃうような気がするんですよ。
  (佐佐木幸綱・寺山修司対談「現代短歌のアポリア-心・肉体・フォルム」)

 統一体のイメージが、この二人では違うのである。「心」は自己を時間の持続総体としてつなぎとめ、分裂を避けようとする。「時間をさかのぼる」や「自分が拡散」するという言葉の出方は、「心」によって、「私」が統合され自己を成立させようとする場合に起こる。時間の中で自らが生成していくのだ。対立、分散、批判し合う自己が時間の連続の中で自らを自らと認識し、統合化を行うところに「心」は現れるのではないだろうか。あるいは「心」が統合を成し遂げる。ボクらは生成変化する自らを、そうやって自分としてまとめる。木村敏の『時間と自己』では、時間の観念が生まれてから、分断された「いま」の中の自己を、「いま」を統合する「私」に出会わせることで「自己」が拡がりのある自分として認識できる過程が綴られていたが、「心」はそこに通じているのではないだろうか。これは、かつて嶋岡晨の寺山批判のスタンスにも共通するのかもしれない。
 佐佐木はここに言葉の問題を関連づけていく。

  人間は過去ともつながり合える、未来ともつながり合えるというところに、
 人間の言葉の意味があるんじゃない?つまり、サルの文化というのは連続し
 てゆかない。
  (佐佐木幸綱・寺山修司対談「現代短歌のアポリア-心・肉体・フォルム」)

 寺山は応酬して言う。

  ぼくはいまここにいても一方しか見えないわけだから、うしろ側で起こっ
 ている出来事というのはわからない。それは想像するだけだ。どうやったっ
 て世界の部分としかかかわれないわけだから、あとの大半は、イマジネーシ
 ョンあるいは言葉によって補っていくしかない。(中略)だからここで空間と
 時間という二元論じゃなく、手を触れられる現実と、手を触れられない現実
 として分けた場合には、柿本人麿もニューカレドニアや、パプア島の現地人
 と大差ない。
  (佐佐木幸綱・寺山修司対談「現代短歌のアポリア-心・肉体・フォルム」)

 本当に、ああ言えばこう言うの人だが、佐佐木の時間的、空間的を破産させようとしている。過去の人物も、現在の遠い地域の人物も、触れられなさでは同じだと言っている。その逆もある。すべてを「現在進行形」の中でとらえて、虚構の場所で出会わせることもできるのだ。案外、現在の仮想空間と現実空間の状況から考えれば、有効な分別かもしれない。
 そして、寺山は「肉体」を持ってくるのだ。

  ぼくは他者というものがからだの外側にだけあるものだという考え方は、
 正しくないと思っている。肉体というのは一つの容れ物にすぎないんで、一
 人用だ、個室だというふうに思われてきたけれども、実はそうではないので
 はないか。(中略)二人部屋もあれば、三人部屋もあるわけでね。そういう意
 味では、葛藤できるような肉体というのは十分にあり得る。
  (佐佐木幸綱・寺山修司対談「現代短歌のアポリア-心・肉体・フォルム」)

 肉体に宿る内在する他者とでもいえばいいのだろうか。そこでは肉体も変転しうる。人の体を裏返してみると、中に幾つかの大きな袋がぶら下がっていて、そこから数人が顔をのぞかせているようなイメージが湧く。あるいは大きなマントをした怪人がマントを開くと、その裏側に無数の人がぶら下がっているような感じがある。こういった他者への想像力を働かせながら、さらに、時間性による連続に疑いを持つのだ。

  一人でいる場合には、変わっていくということも、変わらないということ
 も、自身で引き受けられることだけれども、集団の中では別のことです。ぼ
 くは何一つ連続したものがないという形で歴史を認識している。
  (佐佐木幸綱・寺山修司対談「現代短歌のアポリア-心・肉体・フォルム」)

 歴史を「連続したものがないという形」で「認識」するとは、散文性への批判である。寺山修司の持つ劇的性格、彼が短歌に導入した「フィクショナルな〈私〉」は、「連続体」に疑いを持つ彼の発言の中に見いだせる。

  たとえばきのうときょうと同じことを言っても、それは変わらないんじゃ
 なくて、偶然に同じ観念が出てきたと考えるべきだと思っている。だからぼ
 くは「変わる」「変わらない」ということには興味はあるけれども、「変わる」
 「変わらない」という発想が、つねに一つのものを連続体としてとらえてい
 なければ成り立たない観念だということに疑いをもつ。きのうときょうが同
 じか変わっているかということは、きのうときょうが連続したものだという
 考えがなければ、出てこない問題だからね。そして万物を連続体としてとら
 える発想というのは、すでに散文の発想なんだ。
  (佐佐木幸綱・寺山修司対談「現代短歌のアポリア-心・肉体・フォルム」)

 連続する歴史性の否定という共時的な場での現象としての存在の現れ。そして存在することを確認し合うための他者あるいは、「私」という他者の導入。これは劇空間の創造であり、同時に演劇的なるものが散文に仕掛けた攻撃、影響でもある。

  だいたい、ぼくはストーリーを記述するとき、書く人間に対する疑いをは
 らまない小説というのは、信用できないという気がするわけです。
  (佐佐木幸綱・寺山修司対談「現代短歌のアポリア-心・肉体・フォルム」)

 こう続けて、先に引用した、「ぼくが『田園に死す』という歌集をつくってから短歌をつくれなくなったのは、短歌形式が最終的に自己肯定に向かうということがわかったからです」につながるのである。そして、

  同じように、散文を書いている人間が鉛筆を持って、「私は」と書き始めた
 ときから、「私」というものを一つの連続体としてとらえないと、叙事という
 ものが成り立たない前提をもつ。このことがどうにも疑わしいのです。
  (佐佐木幸綱・寺山修司対談「現代短歌のアポリア-心・肉体・フォルム」)

 寺山の「私」へのこだわりが見てとれる。この対談にもある「自己を複製化せず」しかし、「自分の容れ物に自分が入っていたい」という欲求は、連続体への疑いの結果として、「〈私〉というものの主体がどんどん入れ変わっていく」という形式に引かれていくのである。
 「私」は消されながら、どこにでも偏在する。いることといないことを証明するかのように。「手を触れられる現実」にも、「手を触れられない現実」にも。そう、実在することと、言葉で存在することを往来しながら。ただし、「私」が「私」を探すかぎりにおいてであり、探すことによって、「私」は「私」に出会ったり、「私」を見失ったりする。それは忘れることとは違うのだ。

九 鑑賞のさきに

 『月蝕書簡』に導かれ旅に出た。寺山修司が寺山修司としてある世界。そこから届く短歌たち。『月蝕書簡』の言葉の先に寺山修司が立っている。彼の言葉の快楽が手招きをする。

 地の果てに燃ゆる竈を尋ねゆきしいまひとたびのわれは還らず

 そして、

 みずからを預けんと来し駅前の遺失物預かり所の窓の雪

 寺山還らず、ただそこには、

 一本の釘を書物に打ちこみし三十一音黙示録

 が、ある。


参考・参照・引用文献

田中未知編『月蝕書簡』(岩波書店)
菱川善夫『詩のありか』から「前衛短歌」(国文社『現代歌人文庫』)
篠弘『篠弘歌論集』から「前衛短歌論争」(国文社『現代歌人文庫』)
中井英夫『中井英夫短歌論集』から「中条ふみ子と寺山修司」(国文社『現代歌人文庫』)
寺山修司『寺山修司歌集』(国文社『現代歌人文庫』)
寺山修司『寺山修司詩集』(角川書店)
寺山修司『花粉航海』(ハルキ文庫)
『新潮日本文学アルバム寺山修司』(新潮社)
小高賢『現代短歌作法』(新書館)
田村隆一『腐敗性物質』から「帰途」(講談社文芸文庫)
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寺山修司『月蝕書簡』(2)

2011-10-16 10:27:05 | 詩・戯曲その他
五 鑑賞から離れて1

 これまで「鑑賞アプローチ」を重ねると、寺山の中で「消す」ということが重要な意味合いを持っていることに気づく。消すという作業が、ただ推敲するという作業だけにとどまらないのである。推敲の先にある「消す」という行為の追跡は、

  この二、三年のあいだ、私は自分の歌を消す作業にばかり熱中しているよ
 うに思われる。それは所詮、孤立した個の中への退行の歩みにほかならない
 のだが、一首の周辺から消してゆくことで、作者の内部を活性化するという
 試みが、五を消し、七を消し、この歌をも消してしまうことにある。
              (「個への退行を断ち切る歌稿-一首の消し方」)

と語られるのだが、これは、寺山が歌人としてあった時に果敢に闘われた「私」性の問題とも重なっているのだ。『月蝕書簡』解説で佐佐木幸綱は「前衛短歌運動」当時「論議された問題の一つが〈私〉の問題だった。私小説にもたとえられる近代短歌の〈われ〉とは別次元の〈私〉をどう短歌に定位するか。短歌だって殺人が歌えるはずである。前衛短歌運動はそれを可能にした。」とさらりと記述し、寺山の「私」へのこだわりを寺山の問題と時代の問題の文脈に置いている。一首をその周辺から消す作業と「われ」を消してゆく作業は同質なものである。そこに消えずに残る歌と「私」。それは虚構化された中で勝ち取られた「私」の別のステージとして企まれているのである。
 国文社の現代歌人文庫『寺山修司歌集』には、歌集のあとにノートの形で創作ノート的エッセイも掲載されている。その第1歌集『空には本』のあとの「僕のノオト」には自己告白へのさげすみと「私」の自発性へのアプローチが宣言されている。

  しかしそれよりも作意をもたない人たちをはげしく侮蔑した。ただ冗漫に
 自己を語りたがることへのはげしいさげすみが、僕に意固地な位に告白性を
 失くさせた。
  「私」性文学の短歌にとっては無私に近づくほど多くの読者の自発性にな
 りうるからである。
                      (寺山修司『寺山修司歌集』)

 名エッセイストであり、時代のオピニオンリーダーとなる寺山の一端に触れるような文体である。「はげしく侮蔑」や「はげしいさげすみ」そして「意固地な位に」という言い回しの自己希求させる呼びかけ、逆説的表現での喚起力。これは権力や権威に立ち向かいながら逆転させようとする意図を孕む寺山の文章である。「無私に近づく」ほど「読者の自発性になる」というのは、確かに、社会性や作品の開かれになるし、おそらく現代の表現者へと継承される問題だったのだろう。事実「私性論議」として、「私」の問題は継承されていく。
 だが、これは一方で、ポピュラリティーの罠に陥る危険性を持っていた。つまり、この無私による自発性は、歌謡曲的要素も強く持つものであるからだ。であれば、俳人、歌人、詩人であり、「時には母のない子のように」の作詞家であり、演劇人、エッセイストである寺山にとって、このことは非常に寺山的なあり方ではある。しかし、この「私」は嶋岡晨によって批判される。

  「多様な状況の設定のなかに選ばれた“われ”なるものが、フィクション
 の機能のもとにどれだけ真実の自我を生かしているかは疑問に思われる」と
 して、あまりに多角的な表現が、どれだけ作者独自の自我をとらえているの
 か疑義をただしたのである。
                (『篠弘歌論集』国文社『現代歌人文庫』)

 寺山修司と嶋岡晨との「様式論争」として現代短歌の論争史に残る論争の一つであるらしいが、篠はさらに嶋岡の批評を書いている。

  《悲劇は、彼が短歌の形式に救われ得るポエジイの所有者にとどまってい
 るところにある。発想の根底にあるものが、もしムード的な自我でないなら
 ば、新しいポエジイは古い形式を内部から壊して立ち現れるはずではないか。 (中略)そこにさまざまの物語とモルモット的「私」が投影される。しかし短
 歌の表現形式ではそれらはこまぎれの「型」にとじこめられ。否定的な「生」
 の印象を残して、とらえがたい自我はとらえがたいままに流れ去る。》
                (『篠弘歌論集』国文社『現代歌人文庫』)

 そして、篠はこの嶋岡の批判を

  「寺山の作品にはドラマティカルな『私』があらわれているだけで。徹底
 的に『私』を追求していないため、自我がとらえられないままである」と言
 っている。嶋岡は、寺山のリズミカルな感覚的な表現の美しさを認めながら
 も、こうした発想では、ムード的な自我をつかむに適しているかもしれない
 が、「強靱な批評精神はもとめられない」として、きわめて否定的であった。
                 (『篠弘歌論集』国文社『現代歌人文庫』)

 と、まとめている。
 この篠弘の論考に引用された部分を見ると、嶋岡晨の批判は、寺山批判から短歌の形式への批判に移行しているような感じがする。現代詩という自由詩が「私」と「世界」への批評性をどこまでも追求胚胎するものであるとした場合の現代詩からの短歌批判の様相も持っていたのではないだろうか。寺山は様式の面から嶋岡に対そうとしたようだ。

  《つまり人間の劇的性格こそ作歌の動機であり、「私」的なものの掘り下げ
 から普遍的な「個」を生みだそうとする現代詩人とは二律背反であることを、
 何より人は知るべきなのだ。》
                (『篠弘歌論集』国文社『現代歌人文庫』)

 一九五八年当時の論争である。寺山修司第一歌集、二十二歳のころである。論争や前衛短歌運動を通して、様式と定型の問題や「私」の問題は先鋭深化されていった。それ以前の、その端緒に立つ寺山修司は第一歌集『空には本』の「僕のノオト」に、「僕もまた戦争が終わったときに十歳だった。僕たちが自分の周囲に何か新しいものを求めようとしたとしてもいったい何が僕たちに残されていただろうか。」と書き、その中で、「芽ぐみはじめた森のなかを猟りあってい」るうちに、「新しいものがありすぎる以上、捨てられた瓦石がありすぎる以上、僕もまた『今少しばかりのこっているもの』を粗末にすることができなかった。のびすぎた僕の身長がシャツのなかへかくれたがるように、若さが僕に様式という枷を必要とした。定型詩はこうして僕なかのドアをノックしたのである。」と定型詩との出会いを書いている。
 そうして寺山は、このジャンルに対する作意を強化していくのである。短歌を「市民の信仰的な呟きから、もっと社会性(ユニヴァリテ)をもったものにしたいと思いたった。作意の回復と様式の再認識が必要なのだ。」としながら、「作意をもった人たちがたやすく定型を捨てたがることにも自分をいましめた。」と、自身を定型の中に置く。そして、先に引いた「作意をもたない人」への「侮辱」と「自己を語りたがること」への「さげすみ」を表明しながら現代短歌の前面に躍り出るのである。当然、嶋岡の批判は寺山修司にとって避けられない問題を孕んでいた。篠弘は寺山と嶋岡の論争をこうまとめている。

  しかし、嶋岡との抗争によって、寺山の収穫がなかったわけではない。か
 れ自身が様式論に取りかかる契機をつかんだばかりでなく、「私」性について
 の独自の考え方を打ちだすことができたのである。これまでの短歌における
 私小説的な詠嘆性を払拭して、フィクショナルな「私」の設定を試みてきた
 ことが、ここにいたって、いっそう明確になっていった。そういう意味から
 は、塚本・岡井の論争の場合とはちがって、さらに彼らよりも若い層に与え
 た暗示と影響は、小さくなかったといっていい。
                (『篠弘歌論集』国文社『現代歌人文庫』)

 なんだか、回りくどい言い回しで、こう書く篠弘の心情も興味深いのだが、六五年の最終歌集『田園に死す』までアクチュアルな作歌活動をし、十年ほどで短歌から離れる寺山修司の短歌の特質はすでに、この論争批判のなかにむしろ個性として刻まれているような気がする。
 菱川善夫は、その著書『歌のありか』で、寺山修司の短歌デヴユー作「チエホフ祭」を引きながら、寺山の特質を次のようにまとめている。

  しかもここには、すでにはっきりとした寺山修司の詩学が顔をのぞかせて
 いる。たとえば、これらの作品に頻出する「われ」「父」「母」は、けっして
 現実の寺山修司の「われ」「父」「母」の、そのままの投影ではない。それは
 あくまでも作品の上でつくりだされた虚構の「われ」であり「父」である。
 そこに寺山修司の断固とした告白の否定と、〈そうありたい私〉の創造、すな
 わちロマンの設計においてこそ、人間は真に自由であり創造的でありうるの
 だ、という寺山修司の基本的な考え方のあることを読みとらなくてはならな
 いだろう。実際寺山修司ほど、作品世界で多様な「われ」を創りあげた人は
 いない。その意味では、寺山修司は、短歌の告白性、私小説性の価値転覆を
 徹底的に試みた歌人だといってよい。
                       (菱川善夫『歌のありか』)

 前衛短歌運動への共感と愛情に支えられた菱川の論考は、感動的である。この寺山の「自由であり創造的で」あることを求める戦いは、他の前衛歌人と呼ばれる人びとの活動とあいまって、短歌を五十年代から六十年代へと続く文学運動の前線へも押し出していったのである。
 しかも、寺山修司はその攻撃性をたぐいまれな抒情性という武器で武装する。菱川善夫はさらに続けて、前登志夫の寺山評「魔術師の掌を流れる数滴の水」や中井英夫の「したたる美酒」という言葉を引いて、「感傷」という「生命の露」の「露の光を言語でとらえるということは、思想をとらえる以上に実は至難なこと」であり、「すぐれた感受性と、鋭い言語感覚」なしでは不可能であると書く。そして、「チエホフ祭」より二年早く、詩集『二十億光年の孤独』を出し、すでに活躍していた谷川俊太郎に触れながら、「作品が倫理の時代から感受性の時代に突入したことは、戦後の歌壇においても、ほぼ通い合う現象だといえる」と、同時代性を示唆している。そして、この同時代性は、篠弘が「前衛短歌論争」としてまとめている「塚本邦雄と大岡信の方法論争」「岡井隆と吉本隆明の定型論争」そして先に挙げた「寺山修司と嶋岡晨の様式論争」という論争の仕掛けからも見てとることができるのである。

六 鑑賞からはなれて2

 菱川善夫は『歌のありか』で、前衛短歌運動について、こう書いている。「私は前衛短歌の前衛性を、〈想像力の犯罪性〉の上に置く」と。この価値の置き方への衝動の背景は何だろう。ひとつの批評はその批評に至る衝動にどんな背景を持っているのか。
 彼は「技法上の革命は前衛短歌にとって必須の条件ではあるが、技法以上に重要なのは、その技法を必要とした想像力の犯罪性である」と書いている。ここに、単なる技法変革だけではない、前衛短歌の前衛性を見出そうとしているのだ。そして、塚本邦雄に「文明への鋭い批判」を、岡井隆には「反権力の想像力」を、春日井建と中条ふみ子からは「通俗倫理と法的規制に対する反逆」を、寺山修司には「日常的規範性からの脱出という思想」を「とりだすことができる」としながら、「その犯罪性において、彼らは彼らの時代の現実性を作品の中に奪いとることができたのだ。それが前衛の栄光であった。当然のように、その想像力が絶えたとき、前衛時代は終わることになる」と「基本的な見解」を述べる。さらに、この自身の前衛短歌観が何に要請されているのかを考えていく。

  こういう私の前衛短歌観は、人間が無化しつつある現代への破壊力を、前
 衛短歌の中からとりだそうとする私自身の要請に根ざしていることはいうま
 でもない。特に一九七〇年代に入って、人々は社会的共同規範性に自己をゆ
 だね、安易な想像力を食べあって生きているのが実情である。そこから人間
 を覚醒させるためにも、前衛短歌から何を学ぶべきか、現代の要求に応じて、
 前衛短歌の本質を規定しなおすことは、きわめて重要なことだと私は考えて
 いる。私が技法以上に、想像力の犯罪性に重きをおくのもそのためである。
                       (菱川善夫『歌のありか』)

 彼の認識である「共同規範性に自己をゆだね」ている実情から導き出される言葉が「犯罪性」である。「現代の要求に応じて、前衛短歌の本質を規定しなおす」というのであれば、ボクらは「人間が無化しつつある現代」をさらに生きているのかも知れない。その存在の軽さの中で、殺伐としたいわれなき「犯罪」の中で、現代の生は、前衛の本質に「犯罪性」という言葉を置くことは、もはやできないのではないだろうか。この「犯罪性」が訴えようとしているもの、価値として呈示しようとしているものはわかる。しかし、その言葉が時代の中で変更を余儀なくされる。むしろ、今、社会を侵犯しうる、あるいは屹立させる言葉は、「倫理」であったりするのではないだろうか。それが、ここで使われる人間性回復のための「反権力」や「反逆」や「日常的規範性からの脱出」になる「犯罪性」という言葉が、時代の中で移り変わる言葉ではないのだろうか。「人間を覚醒させるため」のラディカルな問いと想像力は、現代にあって「倫理」のもつ「社会的規範」や「慣習」への問いとして、人を、その人間性の側に覚醒させるものではないのだろうか。
 七〇年代に入って、文化相対主義や虚構の流れは、存在の軽量化と呼応するように身体性を忘れていくのかも知れない。用意されたポストモダンへの状況の中で、菱川善夫は前衛短歌運動の収穫を検証していく。そこには、短歌の中に引き寄せられた「現実性」の実体を問うことで、七〇年代以降の現在への批判を明確にしようとする意図がある。この問いの図式は続いている。ボクらは現代にあって、前衛なき時代を生きている。それは、つまり、後衛なき時代ではある。しかし、そこは勝ち組負け組に代表されるような、表層での浮沈の構図だけが有効性を持っているかのようであるのだ。
 そんな時代の中で、ボクらはボクらの「物語」を求めている。さらに「私」探しの旅に再度出ようとしている。国家や社会への集約を強いる大きな「私」の存在を前にして、たじろぐ「私」に気づいている。大きな物語は失墜したとする時代が終わり、大きな物語への欲求とその網の目に宿る小さなエピソードの輝きが共存できることを模索している。身体の持つ現実が、か細い糸のようにあなたの身体の持つ現実とつながれていることを、その切れやすさとともに感じている。そして、そんなボクらにとって「現代の要求に応じて、前衛短歌の本質を規定しなおす」重要さは継続しているのかも知れない。
 菱川善夫は「前衛短歌の収穫」として各歌人論を展開する。その中で寺山修司についてこう書く。

 画一化された人間からいかに私を解放し、個人の尊厳を回復するか-寺山修
 司の創作行為は、当然その課題をめぐって展開することになる。だから寺山
 修司は、傲岸な自己憐憫を楯とする境涯短歌を激しく否定する。(中略)大切
 なのは「いまある現実」の中の自己肯定や弁明ではなく、「もう一つの世界」
 へ呼びかける「形而上学」だという。そのために〈私〉の拡散と回収という
 方法が、寺山修司の重要な方法となる(後略)
                       (菱川善夫『歌のありか』)
 
 そして、寺山修司の次の言葉を引用する。

  「あなたは?」そう。私とは誰か?
  詩の中にさまざまに拡散していく私の要素を、内的に統一する形而上学な
 しには、私自身の思想は成り立ち得ない。私文学の出発は、そうした大いな
 る「私」の全体像と、現実にいま存在している私の肉体との相克であって、
 短歌もまた、そのための一つの証言にすぎないのである。
           (『歌のありか』中引用、寺山修司「『私』とは誰か?」)

 この「私」をめぐる問題は『月蝕書簡』付録の佐佐木幸綱との対談でも寺山が短歌から離れる理由のひとつとして攻撃的に語られる。

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秦皇島に行く 北京に行く(5)

2011-10-13 12:14:57 | 旅行
北京で食事ばかりしていたわけではなく、そんな旅行もとてもいいのだが、今回の旅行の目的地秦皇島に行った。
秦皇島で一泊しようかとあれこれ考えていたら、北京からの日帰りツアーがあり、それに申し込む。往復新幹線を使うので可能になったツアーかもしれない。新幹線にかなり不安があったけれど、秦皇島での効率のよい周遊と一日で戻ってこられるという点でこのツアーにした。
訪問先は九門口長城、角山長城、天下第一関山海関、老龍頭長城。
北京から北戴河まで2時間。新幹線は満席だった。もともとそんなに速度を上げる路線ではないようだが、何か慎重さに配慮しているような感じ。
駅で中国のガイドさんに会い、あちこち工事中の道を抜けながら、街中を過ぎて山道へ。遼寧省との省境にまで至る。そこに、川にまたがる九つの水門を持つ「九門口長城」があった。
入り口はこんな。

水門はこんな感じ。

周囲の山にはむきだしのままの野良長城があって、ガイドさんは子どものころからそこを遊び場にしていたといっていた。
昼食後、角山長城へ。北京の八達嶺のように広大ではないが、傾斜が急で観光地化が進んでいない分、自然のままの長城のような雰囲気が残っている。山の畝歩きをする印象かな。
登りはリフトを使った。

こんな感じで。

傾斜を見下ろすとこう。

とか、

汗をかきかき、楽しい散策のあと、山海関に行く。思ったよりも街の中央部にあった。

これで、一応、数年前に行った西の関門嘉峪関と東の第一関が繋がりました(もちろん点としてだけれど)。
あとは、海に突き出した東の果て、老龍頭。ここは、周囲が公園のようになっていた。渤海へと長城は突き出しているのであった。この先に不老不死の妙薬がある国をみたのだろうか。この長城と時代は違うけれど。

砂漠に消える長城と海へと消える長城。すごいな。
で、7:07の新幹線に乗っていって、北京駅に帰着したのは21:45。
一日、目一杯、満足だった。
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寺山修司『月蝕書簡』(1)

2011-10-12 13:02:11 | 詩・戯曲その他
カフカの『変身』について書いたあと、2008年に書いた寺山修司の『月蝕書簡』についての文章を何回かに分けて載せたい。

誘発の『月蝕書簡』-「私」のアリバイ・反アリバイ 
                

一 鑑賞まで

 高校生の時、寺山修司の『青春歌集』が大好きだった。国語教師が教科書に載っていない短歌を印刷してきて、その中に寺山修司の有名な「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」があったのだ。読んだときの印象が違った。胸にズドンときた。角川文庫の『寺山修司青春歌集』を買って、学校に持っていき、早朝誰もいない部室で読んでいた。冬だった。その寺山修司との出会いで、中城ふみ子の『乳房喪失』を読み、岸上大作の『意思表示』を読んだのだ。だが、いつか歌人の寺山修司は劇団「天井桟敷」の寺山になり、それさえも忘れてしまった。
 そこに突然、ざわりとした出来事が起こる。寺山修司の未発表歌集『月蝕書簡』が出たのだ。没後二十五年ということで、寺山修司再評価の機運は高まった。そこに、打ち上げられた旗幟は、歌集だった。ざわりとした感じは残ったまま、それでもこの本を手に取らずに時間が過ぎた。そんな折り、没後二十五年特別企画として演劇実験室「万有引力」による『引力の法則』が上演された。寺山修司作、構成・演出・音楽は「天井桟敷」で音楽を担当していたJ・A・シーザーである。音楽劇の様相を見せながら、おそらく演劇自体はシーザーと「万有引力」のものになっていたのだろうと思う。しかし、そこに展開される舞台情景、動く道具、吐かれるセリフ、場面転換はまさに寺山修司のものだった。僕の中に、ふたたび、寺山修司がやってきた。
 そして、『月蝕書簡』である。果たして寺山修司は思い出の中の人だったのか。違う。この歌たちは、確かに既知感があるものが多い。ところが、その既知感自体が寺山修司の出現なのだ。失踪した寺山が住所のひとつをぶらさげて、物語の沃野を背後にし、立っているのだ。影さえ映しながら。
 寺山修司未発表歌集『月蝕書簡』は、寺山の秘書的役割をはたしてきたといわれる田中未知によって、編まれた。この本に記載されている田中未知による「『月蝕書簡』をめぐる経緯」には、一九八一年に「現代詩手帖」で行われた寺山と辺見じゅんとの対談が引かれている。その中で寺山は「自分の過去を自分自身が模倣して、技術的に逃げこむわけでね、(中略)だんだん自信がなくなってきてね」と語っている。また、「書栞」として差し挟まれた、付録のような佐々木幸綱との対談「現代短歌のアポリア-心・肉体・フォルム」でも「人は、一つの形式を通して表現する方法を獲得した瞬間から、自分自身を模倣するという習性が身についちゃうからね」と語っていることから、『月蝕書簡』に収められた短歌は、これまで未発表のままだったのかもしれない。それが、発表された。そうなると、読者というものは困ったもので、作者の思惑に関係なく、この歌集の歌たちを自己模倣に過ぎないと思う人も含めて、なお、ここでの寺山修司の短歌との出会いを楽しんでしまうのだ。このスリリングな出会いを、それこそ月を蝕するように。

二 鑑賞アプローチ1 

 面売りの面のなかより買い来たる笑いながらに燃やされにけり

 冒頭に配された歌である。いきなり寺山ワールドだ。ボクらは縁日のお面売り場の棚の前に立たされる。赤、白、黒、肌色。並ぶお面としての顔、顔、顔。そのお面のなかから買ってきた面があった。ところが、笑いながら燃やされてしまうのだ。「笑いながらに」とは、何が、誰が笑っているのだろう。連体形の「買い来たる」のあとに「面は」を補えば、燃やされるのが面だということになる。しかし、笑っているのは面なのか、面を燃やしている人なのか。炎の中にある笑い顔の面という像が浮かぶ。同時に、炎に浮かび上がる笑う人たちの顔という映像も浮かぶのだ。ここに何があるのか。どんな物語があるのか。ボクらは記述されない物語の可能性の前に立たされる。歌はそこで成立する。寺山修司は、その隙間に演劇を仕掛けるのかもしれない。面を燃やされる少年の物語か、あるいは面が経てきた時間の旅か。また、燃やされるのは何故なのだろう。夏祭りで買ってきた面が、秋になり冬になり、いつか不要のものとなって燃やされると読むのが常套だろうか。だが、ここに宿る江戸川乱歩のような気配は何だろう。あるいは少女性と怪奇性の出合った梅図かずおの『笑い仮面』を連想したりもする。さらに誰と買ったのだろう。母か父か。寺山修司が刻んだ短歌の中の家族の影も歌の中にほの見える。ただ、ボクらは気づかされるのだ。燃えたのは紛れもなく、少年期のある時期であり、自らの時間が燃やされたという事実だけが記憶されているのだということを。語りたい過去を前にして、季節の消失しか語られない。そこに抒情が宿る。創り出された虚構の隙間に虚構を引き寄せる引力なのかもしれない。しかし、そこに物語を見なくても、この歌自体、スリリングな連想を生む。ボクは面売りのなかから面を買う人物が現れるのが見えるのだ。その人物は実は自らが買う面を顔にはめている。並んだ面の一つが動くイメージが伝わる。そして、その面は笑いながら燃やされてしまうのだ。その面をかぶった人物は即座に消尽してしまう。面の下の顔の不在は、面が燃やされることと存在が消えることを同質にする。ここには創造者としての寺山の虚構にかける思いが見える。作り出し、被せられる面が、その虚構性ゆえに消えていく、いや燃やされていくという寺山の創作にかける思いが見えるような気がするのだ。演劇の舞台は役者が消えたとき、何もない空間になる。
 さらにこの歌は「燃やされにけり」と「けり」を使って収束する。「けり」は伝聞したことを回想として述べるのではなく、過去にあった事実に気づいて回想して述べる用法として使われているのかもしれない。もちろん、この言葉に詠嘆はあり、それが歌を歌わせている。が、この虚構を事実化して語るという意図を持って「けり」を使ったのではないかとも考えられる。
 面売りをモチーフにしている歌があと三首載っている。

 面売りが面つけしまま汽車に乗るかなしき父の上海事変
 面売りが面売りと逢う港町われは一人の母をさがして
 面売りの売れのこりたる面ひとつ母をたずねて来し旅の果て

 面売りがつけたままの面は表情が無表情の面なのかもしれない。去る父や不在の母を追う「われ」につきまとう面と面売り。それは少年期のノスタルジイであり、記憶の暗がりがそのままつながる精神の暗部を表している。「われ」は面に取り巻かれている。ペルソナに溢れる面の世界と、その中で顔につけた、あるいはひとつ残った面の刻印。そこに自身の故郷への細い一本の糸がほの見えるようでもあり、切ない。冒頭の歌で面が着けられて動くように感じられるのは、この本の中にあるこの三首との交感によるのかもしれない。
 ここで、年譜と照合してみよう。寺山修司は一九四五年、九歳の時に青森大空襲に遭遇している。年譜では「炎の中を母子逃げまどう」(新潮日本文学アルバム寺山修司)と書かれている。これが、「燃やされにけり」なのではないのだろうか。笑い顔の面が空襲の炎の中で燃やされていく。空襲という子どもの時の体験が歌に刻まれていると考えられる。
 さらに、「父」。警察官の父は寺山が五歳の時に出征する。一九四一年の秋とある。日中戦争と呼ばれることになる第二次上海事変から太平洋戦争に移る年の秋である。「母子は青森駅で見送る」と年譜に書かれている。そして、青森大空襲の同年、終戦後に父病死の報が届く。「汽車に乗るかなしき父の上海事変」なのだ。
 母はベースキャンプで勤め始め、留守がちになり、寺山十二歳の時、福岡県の「米軍キャンプで働くために三沢を去る」とある。このころから俳句に熱中しだしたらしい。早稲田大学の学生になり、短歌研究新人賞を取る十八歳の時に、母は「立川基地に住込みメイドの職を」得ている。これが、「母をさがして」や「母をたずねて」になる。その父と母を見失う前の記憶に面は結びついている。それは、短歌の中での上の句と下の句の結びつきを支えている。

三 鑑賞アプローチ2 

 霧の中に犀一匹を見失い一行の詩を得て帰るなり

 この歌は二重の言語が漂流しているようなのだ。犀の実在を見失うことでの言葉の獲得と、「犀一匹」と書かれてはいるが、そもそも犀が霧の中にいたのかというこの言葉自体の実在性への問い。確かに寺山自身が犀を目撃したということは考えられるし、その結果書かれたものかもしれないのだが、見失って得ている詩というこの歌には何か犀の実在を疑わしくさせるものがある。喩に喩を重ねるというか、虚構が虚構を引力で引き寄せ、その不在に言葉を生みだし、その言葉は実在するかのような物語の可能性を見せる。言葉は定着する。この歌の次にくる歌はこうだ。

 消しゴムの孤島に犀を飼わんとす言語漂流記をなつかしめ

 消しゴムの孤島の犀なのだ。
 なぜ、「犀」なのだろう。「犀」の属性は何だろう。「犀」は寺山自身が使ったモチーフの一つである。例えば、犀は父のイメージに繋がっている。寺山の俳句に「父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し」というものがある。動かざる動物。鎧の皮膚を身につけた動物。それが父と重なっている。この句の凄さは、犀の古色蒼然とした印象と父が重なりながら「嗅ぐ」という嗅覚になり、それが書斎の本のセピアカラーやかび臭さを想起し、その古色騒然を膨張させながら、「幻想し」という作者の立ち位置に帰ってくるところである。消えた父の気配と存在していた時の父の印象が17文字の中に封じ込められている。『月蝕書簡』中の短歌の多くは、以前の短歌や俳句のモチーフであったりする。そこにも生前寺山が発表しきれなかった何かがあるのだと思うが、むしろこのモチーフの再録は、寺山が寺山修司という圧倒的な個性だったということを迫ってくる。
 さらに、寺山の詩に次のようなフレーズがある。

 発狂した母が
 浴槽の中で美しい犀を飼いはじめる
               (『寺山修司詩集』から「水の中の少女」)

 こうなると犀を飼う行為は狂気と結びつく。浴槽に住む犀の像が衝撃的である。「美しい犀」を「父」とおく連想もできるが、むしろ妙に性的なイメージも立ち上っている。組み合わされ変奏していく「犀」なのだ。
 短歌に戻る。霧に霞んでいく犀という絵画を連想させるような一首目と、消すことを方法の中心に置いた短歌の書き方を示す二首目がくっついている。「犀」を飼うということの意味が不在でも、犀を飼いたいという、その何とも不思議な感覚は伝わるのだ。

 父ひとり消せる分だけすりへりし消しゴムを持つ詩人の旅路

 次の歌である。消しゴムで先の歌とつながっている。この本には「個への退行を断ち切る歌稿-一首の消し方」という文章が収録されているのだが、J・A・シーザーが構成演出していた『引力の法則』でも大きな消しゴムが舞台の背後を移動した。「消す」という行為は大きな意味を持っている。

  もともと、あらゆる物語は書かれつくされてしまっていたのである。これ
 からの作者の仕事は、消すという手仕事でしかない。
  どの部分を消し残すか、ということが作歌のたのしみに変ってゆくことだ
 ろう。
             (「個への退行を断ち切る歌稿-一首の消し方」)

 言葉は作品が完成した時点で残されたもののはずだ。しかし、切り捨てられた膨大な言葉がそこにはある。さらに、残った言葉は、すでに具体的な物の手を離れ、言葉としての具体をあるいは言葉という抽象を生きている。そこにはこれまた廃棄された膨大な実体や物があるのだ。そして、もうひとつ重要なことはおそらく寺山修司にとって演劇が、他の創造行為にも強く影響を与えているということだ。もちろん、俳句、短歌の後に演劇行為は現れてくる。しかし、短歌などにある演技せられた「私」や役割として生きる「私」および作中の人々や、舞台として設置せられた虚構の空間などは、すでに演劇的なのである。そして、演劇はその劇の終演に向けて加速度的に消失を目指す表現形態なのだ。空間に創り出された世界は、その空間の何もなさに向けて走る。猫をめぐる二首を並べてみよう。

 王国の猫が抜け出すたそがれや書かざれしかば生まれざるもの
 幻燈のひなたぼこりに一匹の猫がけむりとなるを見ており

 どうだろう。田村隆一の詩集『言葉のない世界』の中の「帰途」なども連想できる。

 言葉なんかおぼえるんじゃかった
 言葉のない世界
 意味が意味にならない世界に生きていたら
 どんなによかったか
                         (田村隆一「帰途」)

 言葉を知らなければ生かしめなくてすんだものを、言葉で生みだしたものだから、消しちゃわなければならなくなったという思い。しかし、言葉があるから生みだせるのだ。「王国の猫」に西洋の童話的世界が感じられ本から抜け出してくる「たそがれ」の猫というイメージも浮かぶ。逆に「幻燈」は土俗の祭りのような印象があり、何か江戸川乱歩の初期作品や夢野久作の短編小説の世界を思い出させる。そして、こちらは「ひなたぼこり」で「けむり」になるのだ。ノスタルジーが漂う。けむりになっていく猫のいた場所にノスタルジーの気配が立ち上るのだ。そこはただの空白になっていこうとしている。

 満月に墓石はこぶ男来て肩の肉より消えてゆくなり

 消える短歌である。この本の中の秀歌に選ばれる歌だと思う。人が月の光にとらわれて、きらきらと光の粉末に変わっていきながら消える物語がなかっただろうか。「肩の肉」という言葉がそこだけを逆に強く印象づける。ロシア・フォルマニズムの絵画を連想し、隆々とした脈打つ筋肉の実在がデフォルメされて浮かぶ。と、そこから「消えてゆくなり」なのである。ボクは死へ向けて解かれる引力を感じてしまった。墓石はふつう、土中に立てられる。しかし、この「はこぶ男」は土の中に消えるのではない。肩から消えるのは空に消えるのではないのか。肩から土の中にくずおれて消えるという読みもできるだろうが、「満月」がやけに煌々としているのだ。東ヨーロッパ風のテイストか。フォークロア的世界を感じさせながら、吸血鬼伝説や狼男伝説にもつながっていくような物語世界がある。舞台の奥、作られた斜面を墓石を担いで無口に歩く男。斜面を昇っていくほどに舞台端から端に至り、最後は頭、肩と客席の視界からは消えていく。プロメテウス的な実存も連想してしまう。
 
四 鑑賞アプローチ3 

 一夜にて老いし書物の少女かな月光に刺す影のコンパス
 一夜にて老いし書物の少女追う最後の頁に地平をすかし
 一夜にて老いし少女をてのひらで書物にかくす昼の月蝕

 言葉が疑問の波となって押し寄せる。そこには何が封じ込められているのだろうと思わせる。一夜で老いてしまう少女の物語とは、寺山修司のよく使う言葉で言えば行方不明の少女なのだ。物語のこもった物語の中に一夜で消えてしまい、老女となって少女を喪失してしまう、時間の中に消える少女。ここには、書物の物語と、まるで書物から抜け出したような少女の物語と、それに対処する「私」の物語という三つの物語が孕まれながら置き去りにされる。この歌集の中で、家族が登場する歌の方が、歌の背後に物語を連想させ、物語の胚胎についてはよりわかりやすいのかもしれない。だが、挙げた三首は、その物語を書物に封じるという構造で面白いのだ。
 佐佐木幸綱は本書解説で短歌における物語という問題に触れながら、寺山の歌を解説する。この歌集自体が、寺山修司が短歌で問い続けた、「消す」ということ、類型化、「私」の問題、物語性を濃厚に持っている以上、佐佐木幸綱の解説もそれに則して展開されている。

  短歌には、物語を抱き込む短歌と、物語を排除して、瞬間つまり時間の断
 面をうたう歌がある。古典和歌では藤原定家が一首の背景に物語を想像させ
 る歌を好んだとされている。近代では、例えば石川啄木が物語を抱え込んだ
 歌を多く作っている。寺山修司は、その点で啄木の強い影響を受けた。
                    (佐佐木幸綱『月蝕書簡』解説)

 物語の抱え込み方の問題はあるが、これは現代における表現すべての分野に適応できる分別である。小説も、演劇も、詩も、絵画、音楽さえ物語との関係は立ち位置を規定する。そして、寺山の短歌の特質に迫る。

  演歌的物語あるいは童心の物語などをいったん深く抱え込んで、シュール
 な色合に染める手ぎわが、寺山短歌の大きな魅力だった。
                    (佐佐木幸綱『月蝕書簡』解説)

 「演歌的物語」と「童心の物語」を繋ぐものとして江戸川乱歩や夢野久作的世界、小栗虫太郎もいるのかもしれない、それに、サーカスや縁日の世界が出現したりする。原色、セピア色、月光と影、白粉、かび臭さ、古典、土着、古き家具、玩具に文具、もやの中で開けられたおもちゃ箱からいろいろなものが唐突に出現する。あるいは、古びた巨大な図書館か。その図書館の迷宮から開かれた書物はさらに書物の迷宮を作り出し、それを手にする者は、おのれ自身の精神の迷宮にも行き迷ってしまう。書物を開いた途端、そこに唐突に出現するのだ、夢のイリュージョンが。

  具体的にいえば、物語をベースに置きながら、突出した特異な映像の発明
 に賭けるのである。
                    (佐佐木幸綱『月蝕書簡』解説)

 この衝迫力が、寺山の短歌を立たせる。コラージュやモンタージュのような技法を使いながら、特異なものが三十一音の中で出会うのだ。そして、佐佐木幸綱がさらに書くように、寺山短歌の人物たちは「みな話せば長い物語を抱いている」のだ。
 「一夜にて老いし」三首。どれか一首を残そうとしたのだろうか。短歌の場合は同じ上の句で数首連作することもあるし、また同じモチーフでの連作はあるので、別に一首に収斂させようとしたのではなく、三首共が完成品なのかもしれない。組み替えや下の句のぶつけ方が巧みな三首だと思う。ここにもうひとつ、寺山修司の俳句を並べてみよう。

 肉体は死してびっしり書庫の夏  
 老いたしや書物の果てに船沈む
                   (『花粉航海』から「少年探偵団」)

 老いと死、そして封じられた書物のモチーフはすでにある。しかし、これに「一夜にて老いし少女」を重ねるところが劇的で物語的である。知識の迷宮譚に憧れと望郷と残忍さを重ねたような構成になっている。たとえば、ここに寺山の詩句を置いてみれば、先ほどの俳句や詩句との出会いが想像できる。

 少女が眠ると時計の老婆が目ざめ
 時計の老婆が眠ると少女が目ざめる
                (『寺山修司詩集』から「水の中の少女」)

 それにしても、少女が一夜で老いる物語。何かそんな物語があったのではと思いつきそうで、なかなか思いつけない。ただ、例えば『卒塔婆小町』の百夜通いを連想したりする。九十九夜の次の一夜を果たせずに、小野小町に会えずに死霊となって老いた小町に取り憑く深草少将の物語を連想する。あるいは少し飛躍するが習俗としての「一夜官女」のような生け贄の儀式も想起する。でありながら、歌どおりに鑑賞すれば、老いるのは書物の中の少女である。書物の中では少女は時間を加速して一夜のうちに老いてしまう。読み始め、出会った書物の少女は、読み終えるときすでに老女となってしまう。そして、書物から抜け出してこようとするのだ。それをこの三首の最終歌では「てのひらで書物にかくす」と儀式的に封じ込めるさまが刻まれている。二首目の少女を追って「最後の頁」を「地平にすかす」という書物からの溢れ出しと好対照になっている。孔子の「光陰矢のごとく」をロマンティックに歌い込んだと考えられなくもない。消えてしまう少年期に抒情が宿るように、過ぎゆく時の取り返せなさにも普遍的な抒情がこもる。二首には三句目に「かな」と「追う」が使われている。「少女」が三音なので、そこに残る二音に、この名詞を支えるための作者の自由が保証される。短歌の定型は音の拘束力を持つだけではなく、使われた名詞が定型の音を残した場合、その名詞を動かすために残り音に作歌の自由が賭けられる。二音ほどの隙間がどこに連れ出すかの広大な空隙になり得るのだ。
 一首目の「かな」は詠嘆の切れ字である。このため息が詠嘆のもやを歌に吹きかける。少女への思いが煙となって漂いながら、思いを残す。そこに下の句の「月光」が射すのだ。「射す」はここで「刺す」に変わる。ため息のもやに射し込む月光。それに「刺す」のは「影のコンパス」。意味を越えている。音とイメージされた物との出会いが頭の中で炸裂する。射した月光は刺されたコンパスによって影に蝕されるのだ。「かな」のもや、月光、影と短歌後半一気に転換する。そして、ボクらは時間の中で月蝕する月の像を脳裏に刻み歌を読み終える。さらに、この「影のコンパス」はクルリとコンパスを回すと円が描かれながら、その円の内部が影になっていくという動的契機を孕んでいる。その動きだしまでが、結句の中に集約されている。コンパスを「刺す」までは記述されているが、回しはしない。しかし、「影のコンパス」で回転の動作が見えるのだ。運動エネルギーが静止の瞬間に蓄積されている状態なのだ。体言止めが、動作の起動の瞬間を止めている。四句と結句の倒置が生んだ体言止めは、次の動作まで呼び込んで効果的だ。
 もうひとつ、うがった連想ができる。月蝕とは、地球の影が月に射すのである。書物と月光という、いわば夢的世界、空想の世界が、地球という現実の影に浸食されてしまうという読みも可能である。その場合、現実の影が浸食する現象自体が、「影のコンパス」という表現でむしろ夢幻的状況に包まれるているところが凄いのかも知れない。この三首ともに、もっとも素直に読めば、上の句の書物の世界と下の句の現実世界という図式が成り立つだろう。上の句を抜けて現実の時間に出会ってしまう。しかし、そこにある現実世界が寺山の言語感覚とイメージの力で変質しているところが魅力的なのだ。これは演劇に似ている。劇場やテント、あるいは街頭においてボクらが演劇に出会ってしまえば、そこをひとたび抜けたとき現実は異質な姿を見せてしまう。そこにあるのは現実、しかし、また異なる現実になる可能性をもった現実なのかもしれない。
 二首目の「追う」は作者とともに読者に追跡をさせる。少女を追っていく、その先に下の句が横たわる。最後の頁の先に地平線が現れるのだ。しかも、「すかし」。これは横たわる地平線ではない。遠く遥かに透けるように地平線が現れるのだ。淡く透けている地平線は開かれた頁との遠近法を見せるようだ。そこに消えていく、あるいは帰っていく少女。永遠の思慕が漂う。追いかける少女が持って消えるのは、少女への思慕であり、時間への憧れのようなものなのかもしれない。これは抒情の本流ではないだろうか。
 三首目では三句に「てのひらで」が入ることで、「少女」と「書物」の配置が移り変わる。少女への働きかけが先の二首と比べると「てのひら」を返しているのだ。この「てのひらをかえす」という慣用句が、そのままこの歌の態度を決定している。この慣用句から発想したのではないかという気にもなる。先の二首は、少女への追跡とその果てのとらえ難さで歌が終わっているのに対して、三首目は自ら書物の中に「かくす」という封じ込めを行っているのだ。書物を閉じる「私」の位置で歌が終わっている。「私」がどこか巨大化している。ところが同時に、このかくれんぼは、かくされて消尽してしまうのだ。ここにほんの少しきざす「私」の老いのような気配。すでにわからないものはわからないまま、ありえないものはありえないまま、「昼の月蝕」として呈示される。一首目の影は二首目で透けた色彩になり、三首目では真昼の白になる。これは空白の白ではないのだろうか。そして、その中で時は止まったままになる。

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小野山紀代子「カレンダーの猫」(詩誌「GAGA」51)

2011-10-09 13:13:56 | 雑誌・詩誌・同人誌から
以前にも紹介したシンプルだけれど洒落た詩誌「GAGA」。
小野山紀代子さんの詩「カレンダーの猫」は書き出しに引かれた。

フェニキア人が最初に船に乗せた
黒ネコ
足の裏まで真っ黒なら
漱石の福猫

飛ぶ
屋根から屋根へ
三次元のギリシャの猫

泳ぐ
トルコの湖を渡る
青と金色の目のワンキャット

と、三連までくる。題名が「カレンダーの猫」だから、カレンダーの猫かなと思うが、それを書くのって結構、難しくない?
で、一行目の「フェニキア人」がよくって、この名詞を使うならこんな感じはいいなと思えた。そして、「黒ネコ」。ここは「黒猫」ではなく、カタカナだと思う。そして、「足の裏まで真っ黒なら」と黒繋がりで持ってきて、漱石の「猫」になる。固有名の力を上手く引き出している。さらに、「三次元のギリシャの猫」という言い回しに、飛んでいる猫を表現することばとの出会いがあって楽しい。三連では色を出す。うずくまる猫、歩く猫、飛ぶ猫、泳ぐ猫と、この三つの連でさらりと猫のようにことばを動かしている。で、このあと詩が説明や解説に入ってしまうと、その
詩は失速するのかもしれないが、

変化
お手のもの
日めくりに収まってなどいられない

紐で結ばれていない
しなやかなこころ

と、「カレンダー」の特質を生かして、猫のカレンダーからの逃亡を試みる。だから、「紐でむすばれていない」へと移行できている。そして、ここで固有名詞をまた上手く使ってくる。

やあ、岩合さんじゃないですか
と、寄って来て
ごろりと腹を見せ
肉球をさわらせたりして

そして
ここでお別れよ
と、行ってしまう

「岩合さん」は動物写真家の岩合光昭だろう。岩合さんで彼の写真の猫が立ち上がる。そして、作者は猫の気持に寄り添う。カレンダーから飛びだした、あるいはカレンダーの中の写真になる前の撮影された当時の猫が、岩合さんに対して見せる心としぐさを見て、猫を退場させる準備にかかる。

同じ船に乗っていたはずの
リズ、ジェリー、ブラッキー
悲しみは一人で背負って

時のひずみに
やあ、
と、扉を押しあける
         (「カレンダーの猫」全篇)

カレンダーから飛びだした猫は行ってしまう。これは、同時に「カレンダー」自体が行ってしまったことを表している。ちりぢりになって、一人で行ってしまうしかないボク達。過ぎてしまった時間を刻んだ「カレンダー」は「時のひずみ」に漂い出していく。ただ、小野山さんの時間観、時空観は時間(宇宙)のパラレル構造を認めているのかもしれない。だから、最終行は、「扉をおしあける」のである。ちょっと大げさにいえば、猫の背中を追って、一瞬宇宙空間が見えたような気がした。

「同じ船に乗っていたはずの」の連に災厄の気配が感じられた。ボクが猫好きだったら「リズ、ジェリー、ブラッキー」の名前の由来にピンと来たのかもしれない。それが、ちょっと残念。
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