パオと高床

あこがれの移動と定住

太宰治『人間失格』(新潮文庫)

2009-06-30 01:01:05 | 国内・小説
生誕100年でいろいろと話題の作家。どうしても、この機会に、6月に、ということで、読む。相変わらず、引き込まれるし、語り口がうまい。今なら、一流のコピーライターとしてもやっていけたのではないだろうか。

「はしがき」と「あとがき」によって、作家太宰治が葉蔵の手記に出会うという構造をとりながら、どこか太宰自身を擁護しているような印象が心を打つ。世の中との齟齬の中で、みずからの人間らしさが人間失格によってしか保ち得ないという逆説が、甘えや諦観、道化的客観性と切迫した主観性、陰惨さと饒舌さを行き来しながら綴られていく。もちろん、この齟齬は、主観性が客観性を穿つという価値観によって起こるのだが、太宰治は、超然とした主観性とかは描かずに、そこで痛み傷つき、世の中へのおそれと不可解を感じる主人公を描く。道化て同化したふりをしながら、見透かされると傷つく。戦いがどこか敗北感に先を越されてしまう、人が生きていくことの困難と恥を直接読者に語りかけてくる。だが、それが、実は絶対自己の戦いの中では、絶対自己が引き受けざるを得ない敗北感であり、おそれであり、恥であると感じさせてしまう迫力が、この小説には、ある。

選択することを強いられる世の中にあって、選択できなさの中で社会的意義を見失い、実存の延期の状態に立ち止まってしまう姿勢。その先にある「いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ一さいは過ぎていきます」の空虚は存在が抱え込む空虚を見据えている。
主義や主張に、人間通で対抗しているような印象も与える。

それにしても、この小説の後半部分、志賀直哉『暗夜行路』への抵抗が太宰治の心にはあったのではないだろうか。あの志賀直哉の結末との激しい抗いを感じた。

それから、奥野健男の解説を久しぶりに読んだ。この人の太宰に注ぐ熱い思いは、感動的であった。

現在、例えばマーラーを単に悲劇性で聴くのではなく、そこにある音楽が徹底しようとすればするほど笑いが介在できると解釈する人もいると思うが、太宰治の小説も、太宰の深刻さが増せば増すほど、そこに諧謔を読みとる読みをする人もいるのかもしれないと思った。
で、太宰治、どの小説がボクは好きかな?
思い返すと、高校の時、太宰治よりも坂口安吾が圧倒的に好きだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トーマス・マン『ヴェネツィアに死す』岸美光訳(光文社古典新訳文庫)

2009-06-25 03:01:39 | 海外・小説
梅雨の湿気の中で、突然読みたくなって、読んだ一冊。
作家の思索や価値観が、登場人物の口を借りて語られる。いや、むしろ作家が作り出した人物が、その人物の思索を語るといったほうがいいのかもしれない。作家は自身を作り出すこともできるし、自らにとって否定的人格を作ることもできるし、理想的な人物を創作することもできるのだ。ただし、その人物が生きて動くことができるかどうかは、作家の力量である。一個の巨大な知性が生み出した人物は、それ自体が時代を体現する。
とにかく、作中に挿入されていく美学が酔わせる。

「彼が海を愛するには深い理由があった。まず困難な仕事を続ける芸術家の休みたいという欲求。様々な出来事や人物を多種多彩に描き出すという課題の難しさのために、単純で巨大なものの胸に隠れたいと思うのである。つぎに、尺度もなければ分割することもできない永遠のもの、つまり無に向かおうとする、禁じられた、自分の課題に真っ直ぐ対立する、だからこそ魅惑的な性向。優れたものを求めて努力する人は、完全なものに触れて安らぎたいという憧れを持つ。そして無は完全さの一つの形ではないだろうか。しかし、彼の夢想がこんな風に深く漠とした方向に入りこんだとき、とつぜん波打ち際の一本の線を人の影が断ち切った。彼が境界のない領域から視線を回復し集中すると、それはあの美しい少年だった。」

少年と老芸術家との出会いの場面である。無に完全さを求めてしまうという境界の思考から、美が形となって、その境界を突き抜けてくる。虚無のあわいに立ち現れる存在。少年への想いはある種、背徳と退廃を含むのだろうが、虚無の淵とコレラという死の使者と、ヴェネツィアのどこか退廃した光景の中にあっては、その芸術家の想いは、むしろ虚無への誘惑との拮抗線に思えてくる。美が破壊しながら救済するとでも言ったらいいか。
理性的なものだけで掌握し得ない美の感性から貫かれてくる全体性。これが、芸術家自身を死と充実に導いていく。
訳者は「閑暇」と訳す言葉に価値を見いだし、解説でもそのことに触れている。

「読者はここで〈閑暇〉の時を思い起こしてみてはどうでしょうか。そこには人間が一つの全体として回復する希望が秘められています。マンはここで、男女の性差を超え、人間の全体性の予感を託して〈美しい少年〉という寓意のカードを引き抜いて見せたのです」

そうか、こういう読みもできるのかと思った。美をそれに誘惑されていく退廃からのみ捉えるのではなく、美の中での人間の感覚と知性の統合が、力強い倫理レヴェルでの人間性の回復につながっているのかもしれない。だが、そこに待つものは何なのだろうか。
小説の読みにも強く時代性の投影がある。

小説中に「愛するものは愛される者より神に近い、なぜなら愛する者の中には神がいて、愛される者の中にはいないからである」という表現があって、何かで読んだなと思ったのだが、プラトンを思い出すより先に、C・ノーテボーム『これから話す物語』(鴻巣友希子訳)を思い出した。その中に
プラトンの引用として、「愛は愛するものなかにあるのだ。愛されるもののなかではない」というフレーズが書かれていた。

それから誰かが、マンの「にもかかわらず」について評論を書いていたと思うのだが、この小説にでてくる「にもかかわらず」は、ドラマや小説の人物造形の基本になるものなのかもしれない。例えば、「裕福であるにもかかわらず悲しい」とか、「冷酷であるにもかかわらず優しい」とか。そんなところを見通せないとドラマは作れないといったようなセリフがテレビドラマ「彼らが生きる世界」にあった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鶴見俊輔・上村冬子『対論異色昭和史』(PHP新書)

2009-06-15 23:26:35 | 国内・エッセイ・評論
帯に「165歳の激論」とある。が、対論は白熱してというわけではない。お互いが、お互いを認め合っている上に、自らの中に、核となる頑固さを持ち合わせているお二人。むしろ節度ある自在さとでもいえるような印象かも。
鶴見俊輔の柔軟な頑固さとでもいえる語りは、独特の反骨さを伴って、そのくどさも、また味わいかなと思わせたりする。自身の価値観に則った、言い切りのぶれなさは、それはそれでいいのかもしれない。
会話のくり返しの中で、この人は、学力エリートやレッテル張りや主義に対して強い反発心と嫌悪と束縛性を感じているのだということが伝わってきた。風通しの悪さを怖れ、しっかりと筋を通さない、いい加減さを嫌い、かりに正当性を欠いたものでも、その人がひたむきに賭けているものがあれば、その価値を認める姿勢は、対話と議論を重ねる思考にとって大切なものなのかもしれない。

「思想の科学」の時代を語っている章が、面白かった。

ニュース23で筑紫哲也と交わした対談が、懐かしかった。

憲法9条、靖国。日本にっての戦後の意味と道筋は、さらに、いよいよ、継続的に問い、かつ、考える問題なのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本郷和人『天皇はなぜ生き残ったか』(新潮新書)

2009-06-06 13:48:48 | 国内・エッセイ・評論
書き出しはこうである。
「ある大学の学術会議で、西洋中世史の先生が〈日本の場合は天皇と将軍というように、権威と権力が分離していたので……〉とごく自然な調子で発言されたのを聞き、驚くとともに強烈な違和感を感じた」
このあっさりとした区分に、検証を加えていくのが本書。「当為」というあるべきこととしてあってしまうものに対して、その「実情」を問うていく科学的態度での考察。天皇という存在が「当為」から「実情」への変貌を遂げながら生き残り、さらに「文化・情報の王」としての地位を確保しながら、尚、その存在自体を「幽玄」にしていく移行が語られていく。

平安から鎌倉、そして室町。さらに、安土桃山から江戸へと語られるが、むしろ桃山以降は追記のように書かれている。ただ、この部分に、信長、秀吉、家康がとった天皇への態度が推察されていることで、理解が進むと同時に、読後感がいい。
面白いのは、個人的には後醍醐天皇のくだり。後醍醐天皇について、網野善彦にケンカを売っているみたいなところ。確かに、あの南北朝期は天皇の歴史にとってかなり大きなポイントなのかもしれない。

もう少しボクのほうに受容力があれば、書かれていることの画期性がもっとわかったのかもしれない。
常に、経済力を確保、担保し得たシステムに興味を持った。また、文化の継承が、今のように、大衆文化化していない時代のことを思ったりした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

是永駿編訳『中国現代詩三十人集』(凱風社)

2009-06-03 12:37:54 | 詩・戯曲その他
副題に「モダニズム詩のルネッサンス」とある。中国のモダニズムの一部を見ることができる一冊。と、同時に、二つの天安門事件に関わる中国の民主化運動の中での、詩人の表現が迫ってくる。国家や共同体と向き合う中で、詩の使命が表現と結びついて強い緊張感を伴って現れている。もちろん、翻訳である以上、これは訳者是永駿の持つ緊張感にも拠っているのだろう。

明日は6月4日。今年は第二次天安門事件二十年である、改革開放路線の中で飛躍的な経済発展を遂げた国。資本主義的経済と社会主義的政策というウルトラ級の混在を果たしている国。そして、なお民主化の問題を指摘されている国でもある中国。経済格差、民族問題などの社会問題を抱えながら、グローバル化の中で強い影響力を持つ中国。この国は、アジア的な民主主義への道を見せてくれるのだろうか。

ちょうど今、テレビで韓国ドラマの『第五共和国』というのを見ている。全斗煥が権力を握る段階を描いたドラマだ。「光州事件」の場面が終わり、ついに大統領になっていくというところまで話は進んでいる。「光州事件」に象徴される民主化の動きを、その反対勢力が軍事力を持って抑え込んでいく状況が、強く描き出されている。民主主義を獲得していく、それこそ血と涙の流れる営為が、現代史の中には積もっている。
そういえば、以前読んだ韓国の詩人アン・ドヒョンの詩はよかった。


世界よ、きみに告ぐ
わたしは信-じ-な-い!
たとえ戦いを挑んだ一千の者たちをお前の足下に踏みしだいていようと
わたしが一千一人目になろう
                      (北島「回答」)

ほら、聞こえるかい
あの死者たちの骨から伸び出た枝葉が
花の盃をチリンカリンとうちあわせ鳴らしている

それが春だ
                      (芒克「春」)

傘をさすとは何
待つとは何
ふりむいて見はるかす雨のしずくは何
濡れそぼる心とは何
                (老木「あの大雨の追憶」)


手のひらの石を握りしめて黄金に変え
懐の花を抱いて武器に変え
わたしは立ちひとりの巨大な敵となる
わたしはひとりの人間ではない
風の音にさえずる夜鶯の挽歌を学んで一生を終えた者ではない
見よ、わが胸より湧き立ち次々と飛び立つ海ツバメの群れを
                  (黙黙「わたしの命令」)


個でありながら、個に分断されることを拒絶する複数の「私」への意志と呼びかけがある。


血には血を。火には火を。      (顧城、楊煉「弔辞」)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする