パオと高床

あこがれの移動と定住

渡辺玄英『けるけるとケータイが鳴く』(思潮社)

2008-10-25 08:36:00 | 詩・戯曲その他
帯書きの詩のフレーズ。

 ひとりずつ気が狂っていき(のこされて
 最後のひとりは狂っているのか正常なのかさえ(わからない(だろう
 わかりますか(わかりません
 救われるのはぼくでもきみでもなく
 狂気だけが一本のアンテナになって立ちつくしていた
                    (「追われる人」)


詩集冒頭の詩「ココロを埋めた場所」から。

 屋上に行く
 贖罪する
 太陽が沈んだ後
 星はかがやく
 その先は
 ない
 (よーな気が(する
 おしえてください
 ボクはどんな人なのか
 どんな顔をしているのか

最初の6行が、儀式的な、どことなくアニメ的な言葉で始まる。7行目で詩集表題の「ケータイ」の世界に突入することで、「(よーな気が(する」というフレーズで、世界が揺れる。そして、直裁に疑問と不安の中心に向かう。そこでは、「顔」の多面性と、そもそもの「顔」の不在性が告げられる。このあと続く言葉は、日常的な身のまわりのものを記号化するように異物に変える。ところが、その異物が拒否されるのではなく、「ボクは声の出し方をわすれている」という詩句や「でも どこまで逃げられるだろう」という詩句にあるように抵抗感を示しながらも、距離感を持って、なお異物として受け容れられているのだ。記号が、薄いながらも質感を、軽いながらも量感をともなって、ある。この際どさのもつバランス。
屋上に立ったあと、最終連が来る。

 息止めて
 (ソコカラ何ガ見エル?
 屋上には低い呟きが
 灰色にみちている
 気が狂いそなくらい
 星の音が転写して
 地の風に吹かれている
 (ねえ セカイはいくつあるんだろうか
 見えるのは市街地の灯りと星空で
 あの星の下に
 ボクの心が埋めてある
 わかってる(そんなもの初めからないって
 ウサギ跳ねる
 わりと近く
 (星はきれいだ
 ついでの死

ここに宿っている痛さのようなものは何だろう。誰に向かって語っているのだろう。流れている風の熱量は何なのだろう。
「リアル」が現実性と作られた記号性の間で質的に変換されながら、地上から屋上に吹き上げる風があるように、詩の言葉の中に不思議な「リアル」の実感の糸のようなものが延びている。そこが痛く、切ない。
屋上で「星」の「音」が「転写」する。「音」も視覚化されるように「転写」される。例えば、星のまたたきを星の音と考えてみる。その光の信号が脳に伝わる。脳は光を転写している。しかし、これが星の音として感じられても、音もまた脳は信号として転写するのだ。その「星の音」が「地の風に吹かれている」。静かでありながらざわついている、「低い呟き」の「みちている」屋上。その「つぶやき」を脳は「灰色」という色で認識している。視覚と聴覚の「転写」。
こんどは、この「星の音」を、その前のフレーズとの関係で考えてみる。屋上に呟きがみちていて、それが星の音だとすれば、「心」をなくした多くのボクたちの「心」の「呟き」となるのだ。屋上に残されたままの「呟き」。そして、「星の下」に「心」が埋められている以上、外に出てしまった「心」との「呟き」の形でしか交わせない対話と考えてみたりもする。「心」がないという「心」を作者は実はとらえているのかもしれない。
そして、詩は「(ねえ セカイはいくつあるんだろうか」と、別の「セカイ」への素朴な気持ちを記述しながら、世界が「セカイ」であるように、「見えている」のは街の灯りではなく、距離を伴った、あるいはニュース報道的な言葉である「市街地」の灯りと書かれている。複数あるはずの世界。しかし、「セカイ」である世界。詩の題名ではカタカナの「ココロ」が、詩の中では「ボク」が自身の「ココロ」を指すときには「心」と漢字になっている。だが、「ボク」はカタカナであり、漢字で書かれた「心」はすでに「ボク」を離れて、「あの星の下」に埋めてある。「星」ではなく「星の下」なのだ。どう見えているのだろう。ボクと星と星から降りる垂線の地面に三角形が出来てしまう。これは、作者が目論んでいるかどうかは別にして、結構意味深い三角形なのだ。で、次に「わかっている(そんなもの初めからないって」と、その「心」は打ち消される。同時に三位一体の三角形は消える。「ウサギ跳ねる」という詩句、つまり月が近くなる。飛び降りる、それは飛翔する=「跳ねる」ことだろうか、ただ、ここでも、この瞬間は「ついでの死」であるのだ。ところが、その「ついでの」という言葉に、薄ら寒さと反対のリアルな痛さが感じられる。

著者はゲンナリするかもしれないけれど、とにかく、読みはじめると、どんどんあれこれ考えたくなる詩集だ。
「今」と向き合って、「今」のなかに言葉のありかを求めて、「今」をすくい上げている言葉たちに出会うのは、不謹慎さや不道徳さも含めて、楽しい。その楽しさを味わえた詩集だった。「今」は時々刻々常に流れていくのだろうが、そこに書かれた言葉は、それ自体が奇跡のような軌跡を見せて、過去化され消えていく「今」を「現在」という少し広い枠組みにしていく。作者は言葉の背後に旅にでる。少し古い言い方だが言葉に対して「命がけの跳躍」を果たそうとして賭けられた言葉は、同時に「現在」から「今」を射程に入れることができるのかもしれない。
いくつかのバージョンを持つ詩集表題作、「ドージ多発的」、他社会現象や事件をテーマにした機会詩群、面白かった。

山水画の山水の中にいる旅人や漁師の視線と、その山水画自体を見ている鑑賞者の視線の往還かな。
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徳永洋『横井小楠』(新潮新書)

2008-10-17 03:06:00 | 国内・エッセイ・評論
勝海舟の『氷川清話』の「人物評論」をつらつら読んでいたら、横井小楠にぶつかった。この本にも度々引用されていたが、 「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南州とだ。」 「その思想の高調子な事は、おれなどは、とても梯子を掛けても、及ばぬと思った事がしばしばあったヨ。」「横井の思想を、西郷の手で行はれたら、もはやそれまでだと心配して居たに、果して西郷は出て来たワイ。」 「かれは、ひと通り自己の見込みを申し送り、なほ、『これは今日の事で、明日の事は余の知るところにあらず』といふ断言を添えた。おれは、この手紙を見て、初めは、横井とも言はるる人が今少し精細な意見もがなと思ったが、つらつら考へて、大いに横井の見識の人に高きもののある事を悟った。世の中の事は時々刻々転変窮まりなきもので、機来り機去り、その間、実に髪を容れずだ。この活動世界に応ずるに死んだ理屈をもってしては、とても追い付くわけでない。横井は確かにこの活理を認めて居た。」 と、こんな感じだ。それにしても勝海舟の語り口は面白い。勝海舟というのも十分変な人だが、この『横井小楠』という一冊、熊本生まれの著者の小楠への思い溢れる入門書だ。かつて、司馬遼太郎が『花神』で示した、変革期における思想家、戦略家、技術者の段階で考えると、小楠はどの位置になるのだろう。体制を作る技術でいけば最終段階の技術者なのかもしれないが、その図版を描いたという点では思想家だったのかもしれない。ただ、思想家というには観念を具体化していたといえるだろうか。この本の副題は「維新の青写真を描いた男」となっている。1869年、明治二年に刺客に殺されたところを考えると、大村益次郎に重なったりもする。制度を練り上げるための困難を具体的に解決していける手腕を持った技術者。そして、それはヴィジョンを明確に描き出す理念を抱えこんだ柔軟さから生まれるものなのかもしれない。この流動性の表層が誤解を受けないためには、時宜の先を見通す視力が必要なのだろう。近視眼にはわからないのだ。そして、そのために多くは凶刃に倒れてしまう。歴史の中から、ぬっと現れる魅力的な人物。江戸時代の後半も、様々な個性のるつぼだ。もちろん、ヒロイックな個性にだけ時間が収斂されるわけではないのだが。
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佐々木幹郎『アジア海道紀行』(みすず書房)

2008-10-12 13:43:00 | 国内・エッセイ・評論
詩人佐々木幹郎の東シナ海を巡る旅である。歴史に思いを馳せ、伝統の根に好奇の翼広げ、言葉の由来に反射する。海を渡る海洋民族の道程は交易の証であり、今ある私たちの拠点であるのだ。東シナ海の向こうにある「唐」、佐々木幹郎は「海彼」という言葉を遣って、「それは海の彼方にあって、外国を意味する古い日本語としての〈海彼〉そのものであった」と「あとがき」に書く。その「海彼」から届く文化。それは時間の中で内部化していく。旅は、国際詩人祭で出会った、天安門事件以降国を追われた中国の詩人との話に始まる。その出会いから「移動する」ということに憑かれたように、詩人は、東シナ海を渡る旅にでる。鹿児島の坊津と秋目浦から鑑真の跡をたどる。この秋目津の章はよかった。そして、遣唐使船を思いながら、海を渡った様々な人たちへと想像の触手を伸ばし、江南デルタで、普陀山で、舟山群島で、信仰や習俗の交流を考察していく。学究的でありながら想像的であり、推察と確認を、飛躍と地道を往来するように、今と過去とも往還しながらフィールドワークする。旅は、「凧」への考察で一端、蕪村と中原中也という二人の詩人を引く5ページくらいの間奏に入ってから、長崎から釜山へ移動する。唐辛子の「唐」にこだわり、「唐」を求めて、その「唐」がとらえるスケールを探しに。釜山から済州島に至る二章が個人的には面白かった。連想は済州島で「橘」と「桜」にまで至る。そこから、今度は、元寇に乗って、平戸、鷹島に戻ってくるのだ。だが、これで帰還したわけではない。旅は元寇が、また大陸へ戻っていったように、上海の現在に戻って、その変貌の渦中に入り込んで一端終わる。そう、変化の継続が移動の継続なのだと告げるように。これは、港である「浦」をたずねる旅でもある。「浦」は歴史を抱えこみながら、ひっそりと佇み、あるいは変貌して巨大な港湾都市に変わりながら、今も海に向き合っている。佐々木幹郎は「あとがき」で書く。「東シナ海。 日本列島と大陸とのあいだに横たわるこの海は、中国を中心とするアジアの漢字文化圏の真ん中にある。 日本列島はその文化圏の環の周辺に位置する。そのことの意味を、日本からだけではなく、また大陸からだけでもなく、東シナ海という海の歴史の中から、考えてみたいと思った。〈海は都市である〉という副題を付したのは、海こそが都市と同じように異文化交流の場であったからだ。」これは、「環日本海文化圏」という言葉などとも重なり、刺激的で魅力的な視座である。裏表紙に書かれた「クレオールな東シナ海、ハイブリッドな漢字文化圏」という言葉の一部に触れることができたような気がした。ただ、このフレーズ自体は何だか不思議な言葉だが、このフレーズも交易の結果の言葉だと思っておこう。
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アンナ・カヴァン『氷』山田和子訳(バジリコ株式会社)

2008-10-09 23:13:00 | 海外・小説
「小説の極北」という言葉は魅力的だ。でも、では極北とは何といわれても困るのだが、おそらく、この一冊、極北に入れてもいいのではないだろうか。地上を覆い尽くそうとする氷。氷河期へと入っていく気象異変の中で、地球は終末を迎えようとしている。その中で、少女を追う「私」の物語である。話の基本ラインだけを考えれば、囚われの姫を救う騎士の物語なのだ。そのファンタジーは悪夢のようなSF的設定で、現代文学の洗礼を受ける。寓話に姿を変え、理由と結論のない現代文学の迷路に変貌するのだ。冒険にはっきりとした意味とヒロイックな活力はない。また、騎士に潔白な正義の意志はない。第一、救済されたとしても、その場所は終末を迎える世界であって、あらかじめ失われた楽園なのだ。また、少女を捕らえる男と少女を追う男に異質さはない。むしろ同質の者の現れ方の違い、社会的力の違いがあるだけであって、この二人には同根のような離反と共感の入れ替わりがあるのだ。さらに、少女が果たして実在するのか、妄念が生みだしたものなのかが定かではない。追えば離れる、捕まえれば拒絶する、常に対等になり得ない暴力の図式が描き出される。それを生みだす精神の動きは、見事に封じられた無意識の層として書かれずに表現されている。無意識といいながら、意識上に明快に記述していくご都合のよい小説とは違うのだ。恐怖から服従を反射的に選択してしまう少女。その少女に対して屈服させる快楽に取り憑かれてしまう男たち。崩壊する世界の中で、戦いに明け暮れる国家と人びと。その国家を統べる独裁者でありながら、少女を追う長官。長官の「城」は要塞のような「高い館」であり、そこは迷宮の様相も見せる。また、ガラスと氷が常にある。「私」は時間の妙なずれを見せながら、事態の順序が微妙に逆転した語りに乗って、夢のなかの飛躍のような移動を見せながら、なぜか少女に行き着きながら、離れてしまう。少女のために少女を救うというよりも、「私」は「私」の欲望として少女を救済することに取り憑かれている。二人はどこに行きつくのだろう、無機質化する世界の中で。様々な解釈を生みだしそうな、イメージの冒険がここにはある。ただ、矛盾した言い方だが、どこか多様性が拒絶されているような印象も与えるのだ。「虹色の氷の壁が海中からそそり立ち、海を真一文字に切り裂いて、前方に水の尾根を押しやりながら、ゆるやかに前進していた。青白い平らな海面が、氷の進行とともに、まるで絨毯のように巻き上げられていく。それは恐ろしくも魅惑的な光景で、人間の眼に見せるべく意図されたものとは思えなかった。その光景を見降ろしながら、私は同時に様々なものを見ていた。私たちの世界の隅々までを覆いつくす氷の世界。少女を取り囲む山のような氷の壁。月の銀白色に染まった少女の肌。月光のもと、ダイヤモンドのプリズムにきらめく少女の髪。私たちの世界の死を見つめている死んだ月の眼。」 こんなイメージに入り込めれば、作者の幻視をともに味わえるのだろう。
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