パオと高床

あこがれの移動と定住

小森陽一 佐高信『誰が憲法を壊したのか』(五月書房)

2010-04-30 02:01:14 | 国内・エッセイ・評論
書名にあるように誰が憲法を壊したのかを、ただ問い、糾弾していく本ではない。「九条の会」の講演からできている一冊なので、九条と政治にまつわる問題は語られている。また、今考えればより一層そうだと思うのだが、小泉政権下でのヒートアップしていく異形さが批判されてもいる。「自己責任」といった言葉による真理を求める好奇心へのバッシングや反対派を「抵抗勢力」と決めつける非論理性、勝ち馬に乗り多数派に与することで糾弾者に回ろうとする打算的熱狂などを確実に批判している。そして、平和主義と教育基本法への言及が一章を構成している。ところが、この本はそれだけではなく、むしろ小森陽一の政治性を孕みながらも文学者としてのスタンスが表れている一冊なのだ。

プロローグで小森陽一はこう書いている。
「いま、言葉を操る生きものとしての人間の言葉の力で、軍事力の行使を阻止することができるかどうかのせめぎあいのただ中を私たちは生きています。本書における佐高信さんとの対談は、言葉を操る生きものとしての人間の、これまで生み出してきたすぐれた言葉の力と知恵について、豊かで、そして鋭い問いかけと思いの結晶です。どうかじっくりお楽しみ下さい。」
この言葉通りに二章は「勇気ある少数派の系譜」として、泉鏡花、夏目漱石、芥川龍之介、太宰治そして井上ひさしや水木しげるにまで及ぶ、少数派という立場を取りながら、考える力、表現する力を発揮した作家たちに触れていく。もちろん、彼らはメジャーな作家である。では、かれらのどこが時代に置いて少数派だったのかも語られている。そして、三章では小森陽一の研究対象である夏目漱石が中心になる。

時代の中で、漱石の小説や漱石自身がどういうスタンスを取ろうとしたか、またそれが作品のどこに刻みつけられているか。作品のどこからそれを読みとれるのかを小森陽一は手際よく語る。そして、漱石の小説に表れる「経済」の面に漱石の画期を見出している。経済を小説の中に書き込めた作家としての漱石は、四章では松本清張に引き継がれ、佐高信が松本清張と五味川純平について語りながら五味川純平の再評価に挑もうとしていく。

五味川純平については、僕は名前しか知らない。だから、もっとも面白かったのは漱石の読みの部分だった。

確か、立花隆が『エーゲ』という本だったかで、歴史を動かす両輪は思想と経済だと書いていたように記憶しているが、漱石の中にある豊穣さに、また誘われたような気がした。
時代の中で生きていた作家を立体的に考えることは、視線の多様性を手に入れるためにも必要なことなのかもしれない。

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エドワード・ゴーリー『華々しき鼻血』柴田元幸訳(河出書房新社)

2010-04-21 13:28:38 | 詩・戯曲その他
どうしても、柴田元幸の訳だというと読んでみたくなる。ただ、この本、読むと同時に見る本であって、左のページに一行一文の英語。その下にいろはカルタのように縦書きの英文の訳があって、右ページはモノクロームの線画となっている。
英文はアルファベット順でアルファベット・ブック。ところが、この本のアルファベットは名詞ではなく副詞をつないでいくというところが稀有。例えば冒頭「She wandered among the trees Aimlessly.」では、AimlesslyのAがアルファベットの始まりとなる。で、訳は「あてどなく/こだちを/さまよう。」と、バチッと決まっているのだ。線画は三本の細い木立のなかに女性が一人立っているもの。この立ち姿が、言葉にならない。まさに「あてどなく」なのだ。ちなみにBの副詞はBalefullyで「まがまがしく」。全編、選ばれた副詞は、このようにどちらかというと負のイメージ。柴田元幸の解説によると、「それにしても、何とまあ偏った副詞の選び方か。(中略)と、確固たる目的を持たぬ人間が、悪意にみちた世界のなかで、切ない想いをしばしば胸に抱えて、不確定に生きている……というゴーリー的世界がはっきりと浮かび上がってくる」となる。しかし、この詩句にしても、線画にしても、過剰な情感や怒りや恨みや悲壮感やウエットな感じはない。むしろ淡々としていながら、無気味で、また諧謔がある。超然のステップも見えてくるかのようだ。その背後に孤独を見るか。この辺は読者によるのかもしれない。ただ、仮に孤独を見ても、この孤独どこか殺伐としていないのだ。柴田元幸は「読後感は妙にさわやかだ(と思う)。」と書いているが、何かかすかな体温のようなものがあるような気もするし、無気味さや謎っぽい感じがむしろほっとした感じを与えてくれるような気がする。そして、くすっと笑ってしまうかもしれない。そう、「~(と思う)」と、いう感じがいいのかもしれない。

英文に不慣れだが、柴田元幸の訳は相変わらずフィットしている(と思う)。
本の原題「THE GLORIOUS NOSEBLEED」を「華々しき鼻血」と訳すのだから。

作者ゴーリーは2000年にすでに死んでいる。ボクは初めて知ったのだが、この人は熱狂的なファンがたくさんいるだろうと思った。

表紙の鼻血を出してのけぞっている人物は、読者であるボクかもしれない。
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ジェラルディン・ブルックス『古書の来歴』森嶋マリ訳(ランダムハウス講談社)

2010-04-17 03:47:44 | 海外・小説
邦訳通りに、一冊の本がたどった道のりを探っていく物語である。その本は「サラエボ・ハガダー」。実在の本である。そこに、作者あとがきによると「現時点で明らかになっている歴史に基づく部分」と「架空」の「大半の筋と登場人物」を織り交ぜて、500年に渡る歴史の一端を描き出していく。
訳者の森嶋マリが、あとがきで、「ハガダー」について説明している。「ハガダーとはユダヤ教徒の過越しの祭の正餐の席で使う本だ。その祭は奴隷だったユダヤ人がエジプトを脱出して自由の身となったことを祝うもので、ハガダーには“出エジプト記”や祭の次第が記されている。出エジプトの物語を親から子へと語り継げというユダヤ教の教えを守るために、不可欠な本である。」
ところが、この「サラエボ・ハガダー」は、中世ユダヤ教が絵画的な表現を禁じていたという定説を覆すような見事な彩色画が描かれていた。

物語は、ほぼ100年前にサラエボで見つかったこの本が、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争下の危機的状況から学芸員によって守られ、95年の国連調停後の博物館で展示すべく修復を行うというところから始まる。
始まりは1996年春。修復を任されたのは保存修復家のハンナ・ヒース。このヒロイン、ヒースの進んでいく時間軸の物語が7章ある。その各章は、ヒースの見出した古書に刻まれた様々な痕跡から、その痕跡が刻まれた時代の物語へと繋がっていく。この過去の物語は時を逆行して、「ハガダー」が作られた時代へと突き進んでいく。現在と過去を交互にくり返しながら、物語は古書の謎をひとつひとつ解き明かしていくという構造になっている。そして、終章前の一章だけは過去の物語と現在が交錯する。

それぞれの物語が胸を打つ。
ハンナの物語は、自分自身の根を探る旅と文化の衝突、家族の物語を描き出している。ヒロインがオーストラリア人であるということで、ヨーロッパの紛争地域へのスタンスを持った眼差しが感じられる。
また、1940年サラエボ、1894年ウィーン、1609年ヴェネチア、1492年スペイン、タラゴナ、1480年セビリアと綴られる物語は各時代とその時代を生きた登場人物を魅力的に描き出している。ユダヤの受苦が語られる。イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の相克と時代に翻弄されていく人間の欲望と良心、献身と忍従がストーリーの面白さを伴いながら描き出されている。そして、それぞれの信徒でありながらも救い合おうとする人々の姿も可能性の側で願いとして語られている。
お互いの文化を破壊するのではなく、築き上げ、守り、伝えていくための共存。そのためにこそ傾けられるのが人類の叡智なのだという作者の声が聞こえるような気がする。
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堀江敏幸『熊の敷石』(講談社)

2010-04-03 09:31:22 | 国内・小説
以前、途中で読みやめたのはどうしてだったのだろう。今回、知人にすすめられて、読んでみるとよかった。前回も、つまらなくて読みやめたというより、何か他の本のほうに行っちゃったような気がする。と、いうことは、その、他の、本に興味が向かったということなのだが。

読点がつないでいく文体に、独特の含蓄があって、静けさが、心のもどかしさを伝えてくるようだ。

相手にとってのベストの僕にはなれないのかもしれない。いや、それどころか、相手にとっての僕とは、すれ違いながら、知らないうちに傷を負わせてしまっている存在なのかもしれない。そんな自他の関係が静かに語られる。

「彼の言いたいことは、それこそ『なんとなく』わかるような気がした。私は他人と交わるとき、その人物と『なんとなく』という感覚に基づく相互の理解が得られるか否かを判断し、呼吸があわなかった場合には、おそらくは自分にとって本当に必要な人間ではないとして、徐々に遠ざけてしまうのがつねだった。」

「なんとなく」という関係の中で、つながりを持つ。そして、

「ながくつきあっている連中と共有しているのは、社会的な地位や利害関係とは縁のない、ちょうど宮沢賢治のホモイが取り逃がした貝の火みたいな、それじたい触ることのできない距離を要請するかすかな炎みたいなもので、国籍や年齢や性別には収まらないそうした理解の火はふいに現われ、持続するときは持続し、消えるときは消える」

ものなのかもしれない。距離が、ボクらを規定して、自分を相手の前に自分として立たせている。当然、

「公の悲しみなんてありうるのだろうか、とヤンの言葉を耳に入れながら私は思っていた。悲しみなんて、ひとりひとりが耐えるほかないものではないのか。本当の意味で公の怒りがないのとおなじで、怒りや悲しみを不特定多数の同胞と分かち合うなんてある意味で美しい幻想にすぎない。痛みはまず個にとどまってこそ具体化するものなのだ。」

である。しかし、この文体の背後にはすでにこういった表現の持つ悲しみのようなものが漂っている。
主人公の「私」は、そう考えながらも実は、友人ヤンの語るヤンの存在の持つ重さにさらされている。もちろん彼は、そのこととの距離を保とうとしている。だが、「いらぬお節介」という意味を持つラ・フォンテーヌの「熊の敷石」の『寓話』に出会ったとき、「無知な友人ほど危険なものはない」との教訓に、「私」は自分がヤンにとってそんな存在だったのではないかと思い至る。

「話す必要のないことを『なんとなく』相手に話させて、傷をあれこれさらけ出させるような輩は、素知らぬ顔の冷淡な他人よりも危険な存在なのではないだろうか。ヤンとのあいだに、いまも小さな貝の火を共有しているという想いが私にはある。ヤンのほうでもそれに似たような譬え話をしてくれたことがあるから、こちらの存在が鬱陶しさや不快感を催させているわけではないだろう。だがあれこれ思い返してみると、私たちの会話は、日常のくだらない話以上に、『なんとなく』胸につかえるような話題をめぐって言葉が費やされることのほうが多かった。」

そして、「私」はヤンに対して、自分が、

「投げるべきものを取りちがえているのではないか、と。」

思う。
僕の前に現れる他者の他者性。それは、常に背中だけを向けていくのか。了解しえない領域から不意に現れる他者。自分自身を投影し、自らの距離でのみ判断しうる相手ではなく、そんな自己投影を拒んで在る他者。引き受けえない存在によって知らされるのは「取り返しのつかない時間」と責任に対する傷の実感なのだろうか。他者が顔を持つ、その顔の現れる刹那を自分の時間のなかで描き出そうとしている小説のように感じた。
この「私」の全身を貫く痛みの先に、この痛みの持つ実質が問われるのかもしれない。
また、常に遅れてやって来る認識。小説は、それによってもたらされるコミュニケーションの限界を語りかけているのだろう。

熊の道の夢、モン・サン・ミシェルとの出会いの場面やカトリーヌとダヴィドという母と子などの配置も効いている。

この小説をすすめてくれた知人に感謝。

読後、須賀敦子さんの凛とした文章をまた読んでみたいとも思った。
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