パオと高床

あこがれの移動と定住

ファン・ジョンウン『誰でもない』斎藤真理子訳(晶文社)

2018-03-17 02:33:32 | 海外・小説

ボクらの今に漂っている不安が小説から滲みでてくる。
だが、それは湿気を帯びたものではない。最近の韓国の小説でよく感じられるように、過剰な重さは取り払われているのだが、
それがむしろ現在のボクらの存在の重量と呼応するようで不安と危機を醸し出す。
クンデラの『存在の耐えられない軽さ』ではないのだが。そう、あの小説の時代よりもさらに実存は軽くなっているのかも知れない。
かけがえのなさと無名性が背中合わせであるような。かけがえがないと語りながら一方では、それを語らずにはいられないほどの
交換可能性のなかに存在が置き離されている。その現在を小説は捉え、魅力的な小説世界を描きだしている。

「誰でもない」というフレーズが韓国語では「何でもない」とよく間違われると作者は日本の読者へのあとがきで書いている。
それは同時に「何でもない人」として扱われる瞬間の連続であると彼女は言い、この短編集の扉にも「人はしばしば〈誰でもない〉を
〈何でもない〉と読み違える」と書かれている。ここから、小説は、私のようなあなた、あなたのような私を描きだしていく。
だが、その「ような」の中に、どんなに近似的であっても代えられるものではないという願いがあるのかも知れない。だからこそ、
小説は同時代の空気の中にいるボクらの気分の、ボクらの状況の普遍性を獲得している。

マンションの近隣の騒音に悩まされ、弱い立場にある者が、現実の中でこころの バランスを崩しながら、いつのまにか騒音の主体に
なっていく姿を密度のある描写とチェーホフ的な「喜劇」性で描く「誰が」。

韓国の97年の通貨危機を、ヨーロッパを旅行している夫婦の危機と絡めて描き、危機の瞬間のラストへと見事に持っていく
「誰も行ったことがない」。

「唐辛子畑に唐辛子を摘みに行こうと言われ、行くと答えた」と書き始められる冒頭の小説「上京」。
この小説は、田舎に唐辛子摘みに行く私とオジェとオジェの母と、田舎の老婦人たちの関わりを、人手のない農村と都会のよるべなさとを
絡めて描いている。エピソードもふくめ独特のテイストがある小説だ。

ファン・ジョンウン。1976年ソウル生まれの作家で、「現在、最も期待される作家」と紹介されているが、
作者の名前を覚えておこうと思わせる小説だった。
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カルロス・バルマセーダ『ブエノスアイレス食堂』柳原孝敦訳(白水社)

2018-03-14 11:53:21 | 海外・小説

怖ろしい小説だった。
いきなり、冒頭1章でやられる。書き出しだから書けば、
「セサル・ロンブローソが人間の肉をはじめて口にしたのは、生後七ヶ月のころのことだった」と始まる。
この1章で読みやめるかどうか。読みすすめていけば、読書の快楽が待っている。
そして、悪夢はその後数章のあいだは訪れず、小説終盤三分の一ぐらいからやってくる。ノワールはノワールぶりを発揮する。
といっても、この小説、「ブエノスアイレス食堂」の開店からの変遷をアルゼンチンの歴史と絡めて描いていく小説なのだ。
移民の双子の兄弟が1911年に開店した食堂は第一次世界大戦やアルゼンチンの軍事政権の中で栄枯盛衰を繰り返す。その中で
それぞれの料理人が食堂を引き継いでいく。そして、最後にセサルが現れるのだ。
この食堂には双子の兄弟が執筆した『南海の料理指南書』が受け継がれている。その料理の記述のおいしそうなこと。
これはどんな味なのだろうと、ワクワクさせる。だが、この食堂の料理人たちは運命に翻弄されていく。
そして、極めつけの恐ろしさへと突きすすんでいくことになるのだ。

面白いのは、小説が時系列に沿って描かれていない点で、各章ごとに時間が入り乱れている。
様々な食堂の歴史と食堂に関わった人々のいきさつが、幾層にも重なって、厚みや神話性のようなものを感じさせる。
各章は長くても10ページほど短ければ2ページほどで出来上がっている。描写は淡々として客観性があり、それが読む快さと
読みすすめる速度を促し、また、何ともいえない不安感のようなものを醸し出している。訳もいいのだろうな、きっと。

宮沢賢治の「注文の多い料理店」が、スケールの大きな時間軸を持ち、南米的な運命の因果関係でつながれていけば、
こういった小説になるのかも知れない。それに、人間の複雑な深層心理と食すために在りつづける飢えの根源への思考が入りこみ、
殺意の暗がりを抱え込めば、こうなるのかな。こうなってしまえば、もちろん、全く別ものなのだが。

知人から、ちょっといわくありげに、躊躇いがちにすすめられて、読んだ小説。小説を読む醍醐味を味わった。
ただ、個性を持った小説だからこその、読者を選ぶ小説なのかも知れない。
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