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俵万智『考える短歌』(新潮新書)

2011-10-08 11:35:05 | 国内・エッセイ・評論
俵万智が短歌を添削しながら、短歌を書くときに注意したいことを解説していく本である。と、書けばそれだけなのだが、8講座編集のこの本からは表現することの楽しさと読むことの愉しさが伝わってくる。

構成は、各講座、実践編と鑑賞コーナーからできている。実践編は、雑誌「考える人」への投稿歌がもとになっていて、最初に優秀作が掲載され、選評が加えられている。次に添削する作品が載り、実際に講座で伝えたい作る技術を示しながら添削を加えていく。ここでの作品の変化が見物である。読者は読者で、俵万智の指摘に添いながら掲載短歌をどう書きかえようかと考え、実際に添削されたものと比較して楽しむこともできる。また、添削されたものともとの状態との差に、表現する術の心地良いスリルを味わうことができる。
以前、短歌や俳句はオリジナルに添削が加えられ、作者はどんな気持なんだろうと思ったことがあったが、この〈習うー教える〉の関係も創造の場なのかもしれないという気がする。案外、この関係には共同体的な快感が存在するのかもしれないと思ったりもした。俳句もそうなのかもしれないが、短歌が31文字だからこそできることばの微妙な差や配置などによる、より完成された表現へと正解を求めていく作業が、どこか問題を解く気持ちよさに繋がっているようにも思う。もちろん数学のような正解があるわけではないのだが、31文字でできるエレガントな状態というものがあるはずで、それを追求する姿勢は、大仰にいえば、現代数学や物理の考えがエレガントな整合性を追求するのに似ているともいえそうで、そういえば歌人には理系の人も多いような気がする。

で、例えば第8講座は「主観的な形容詞は避けよう 会話体を活用しよう」という講座なのだが、こう書かれている。
「たとえば〈嬉しい〉〈愛しい〉〈苦しい〉と百回言われても、本人でないかぎり、どんなふうに嬉しいのか、どれほど愛しいのか、何がそんなに苦しいのか、はわからない。作者にとっては、あまりに自明のことなので、つい簡単に使ってしまいがちなのが、このような主観的な形容詞だ。形容詞に頼れば、ひとことですんでしまうが、その思いは読者には伝わらない。たったひとことの、その重みを伝えたいために、私たちは短歌を詠む。」
わかりやすくて的確な言い回しなのだ。言っちゃっうことで伝わらなくなってしまうものがあって、それを言わずに伝えるために表現をする。続けて書かれているのだが、「作者は、その風車の様子を見て〈寂しいなあ〉と思ったのだろう。が、短歌にするならば、その様子を描いて、読者に〈寂しいなあ〉と思ってもらわねばならない。そのとき、作者と読者の心に、同じ思いが共有される。」。こう書いたあとに実際の添削が示されるのだ。そうなのだ、主観的形容詞になっているものを、表現は実質のようにして読者に感じさせるのであり、それを読んだ読者が、主観的形容詞を思い浮かべるものなのだ。だから、主観的形容詞のことばだけをやりとりするわけでないのだ。そして、そのことばのみのやりとりでは実際伝わってはいかないのだ。
でもね、例えば現代詩は、そこを逆手にとって、主観的形容詞を使うことで、それを記号化する方法だって使ってしまう。そのあたりにも現代詩の難解さや困難はあるのかもしれないが、現代詩の面白さもあるのだと思ったら、俵万智もちゃんとその辺考えていて、鑑賞コーナーに穂村弘の短歌を載せて、主観的形容詞を生かした例をあげていた。「サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい」という短歌だ。お見事。

第1講座「も」があったら疑ってみよう、第2講座句切れを入れてみよう 思いきって構造改革をしよう などなど表紙裏に書かれているように「短歌だけに留まらない、俵版『文章読本』」である。

俵万智という人は、もちろん書き手だが、読み巧者、教え上手な人なのだと思える一冊だった。鑑賞文の日本語も適切な日本語だった。平易でありながら平板ではなく、自然と流れるようで背後に技術が隠れているといった文章なのだ。
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