パオと高床

あこがれの移動と定住

吉田秀和『マーラー』(河出文庫)

2015-02-01 12:22:44 | 国内・エッセイ・評論
吉田秀和の『永遠の故郷』4部作はよかった。
その3冊目に当たる「真昼」は、11の章のうち7つがマーラーについての文章だ。マーラーの歌曲と歌が、吉田自身の「永遠の故郷」になっていく様子がしみじみと伝わってきた。

そして、今、この『マーラー』に収録されている、1973~74年に書かれた音楽評論「マーラー」を読むと、吉田の思索がずっと繋がっていて、それ自体が音楽の流れのようであり、彼はそこへと戻っていったのだという思いがする。
小沼純一が解説の結びで胸に迫る書き方をしている。

  吉田秀和は、本書の「以後」においても、マーラーについて思考をとめたわけではない。さ
 きごろ四部作が完結した『永遠の故郷』(集英社)、その三冊目「真昼」の半分以上はマーラ
 ーの「うた」をめぐってのものとなっている。音楽が心身の中でうごいているかぎり、思考も
 とどまることはない。

マーラーブームは何度かくる。日本ではその端緒が70年代に入った頃からなのだろうか。
73年の文章「マーラーの流行をめぐって」に、「世界の大勢も50年代終わりからかわりはじめ」、この頃(50年代末)から「若い世代までが、選りに選ってマーラーには大きな興味を示しているのである」と書かれている。そして、2011年の文庫版への「あとがき」で、吉田は、マーラーの交響曲全9曲を聴いたのはバーンスタインの全集を通してで、「あれは七〇年代に入ってからのものだったと思う」と記している。
そんな中で、吉田はマーラーと、73年というその時、「私に与えられた課題は、自分がまだやれる間に、私の今の力が許される限りでの決着をつけておくこと」として格闘する。
あっ、さすがだと思うのは、対象が、つまり、マーラーが、自分との関係性の中に存在しているということを前提しているところだ。「私の今の力が許される限り」ということは、継続性と変化を見通しているのだ。私も動的な存在である以上、対象であるマーラーも動く。音楽とその聴き手の関係、相手と自分との関係を批評の中で意識しているのだ。変化があれば、不変が見える。不変にかたくなに固執すれば変化は見えない。すでに、それは音楽と楽譜の関係、CDと演奏の関係、演奏者の一回性の関係も含んでいる。それ自体が音楽というものの基本スタンスになっている。作曲家が生きた現在があったように、評論家吉田が生きた現在があり、指揮者が生き、演奏者が生きた時代というものに同期した「私」がいるのだ。楽譜は、そのプログラムとしての普遍を刻む。だが、それは、どこまで作者が注釈を加えても「楽譜」である。「楽譜」の読み込みと再現された演奏の聞き込みは二つながら批評される。
音楽評論の面白さのひとつは、その「楽譜」の意味とそこから立ち上がる音の鮮烈を伝えるところだ。だが、それが分析に終始しては生きた音は言葉にならない。そこに評者の耳の実在がある。
吉田秀和は、「マーラー」の冒頭をこう書き始める。 

  マーラーはむずかしい、私には。
  私には、まだ、彼がよくわかったとは言えない。では、なぜ、彼のことを書くのか?彼の全
 体について、知れるだけのすべてを知り、味わえるだけのすべてを味わいたいという欲望をか
 き立てずにはおかない。

わからなさは魅力なのだ。それが想像を、創作を、かき立てるものである限り。もちろん、吉田秀和は「わからない」わけではない。「むずかしい」のだ。言いかえなければならないだろう。「よくわかったとは言えない」ところが、魅力あるいは引力なのだ、と。仮にたっぷりの斥力があり、それと相殺してもなお。

  いや、今でも、まだ、私は、マーラーを聴いていると、それに異常にひきつけられると同時
 に、そこから離れたいという気持ちを覚える。この音楽でなくて、もっと軽い足どりで歩いた
 り踊ったり、歌ったりする音楽へ戻ってゆきたいという考えの、たかまってくるのを感じる。

この複雑骨折。これが、逆に骨肉を強靱にする。吉田は、それでも「マーラーを考えるということは、個人の好みを超えた意味があると考えられる。」と書き、彼がいなければ「音楽は十九世紀の芸術から二十世紀のそれへの以降は完全に成しとげるわけにはいかなかったろうと思われる。」と書いている。
マーラーの人となりを語りながら、マーラーへの自身の思いを告げ、そして、マーラーの音楽を分析する。楽譜を収録しながらこう書く。

  《大地の歌》の主調は、この五音音階の上に築かれる(シューマンの《交響的変奏曲》の主
 題との驚くべき類似性!)。と同時に、この六つの歌からなる交響的作品では、全曲の最後を
 結ぶc-e-gの三和音とそれに6度のaを付加した四つの音に、一種の音列的な役目を与えられて
 おり、その姿がーあるいはこの順で、あるいはその反行、または逆行の形で(もちろん前の例の
 ように移調も含めて)出没しながら、全曲を統一するかなめとなっているのである(譜面16)。
  生の暗さは死の暗さの反映であるとともに、その裏返しでも、逆でもありえよう。

楽譜を読める人や音楽をやっている人は、こういうくだりがきっちり理解できるのではないだろうか。それができない僕は、それでも楽譜を添えて書かれた吉田の分析を面白く読める。そして、導き出すコメント「生の暗さは…」などに、そうかと思うのだ。
吉田は「マーラー」の後半半分以上を、マーラーの後期三作、《大地の歌》《第九交響曲》未完の《第十交響曲》のためのアダージョについての考察に費やしている。そして、痛切な思いを読み取る。

  つまり、死への恐怖は生へのあこがれの裏の面である。
  もう一度、生きたい。生きて愛したい。(略)かつて、自分はあんなにひとりぼっちだった
 が、しかし、今にしてみれば、その孤独の中で、自分はいつもよりずっと充実して生きていた。
 それが、間もなく、許されなくなる。生きたい、もう一度!
  いつの間にか年を重ねてきた今となって、聴くたびに、この音楽の中から、私に聴こえてくる
 のは、この声だ。

そして、《大地の歌》の終楽章〈告別〉で大地からの告別を示しながらも、しかし、その終結部がなお、真の終わりに達していないで、「もう一度回帰してくる希望のすべてが閉ざされ切ったわけではない」ことの「暗示」を聴き取る。読みながら、あっと感動する。しかも、この箇所では、曲に、べートーヴェンのピアノ・ソナタ「告別」のモットーからの引用があることをを指摘している。さりげなく音楽のつながり、知の連鎖が示されているのだ。

吉田秀和はマーラーの魅力を、「楽式の構造」と『旋律の比類ない表現力」としている。そして、この二点を軸に構造分析ともいえる解読を、学者然としてではなく、魅力的な文章家、批評家として行っているのだ。それは、吉田の文章の「知の構造」の強固さと「文章の情感も含んだ比類ない表現力」に対応できる。

それにしても、この文章でも書かれているが、十九世紀末から二十世紀初頭、旋律が出つくした後の作曲家はたいへんだったと思う。モーツァルトやベートーヴェンなどなどがやりたい放題した後の音楽家は、「一方では旋律の発明が至上の命令なのだが、その発明の可能性は調性の枠内に留まる限り、もう残りは数え上げられるくらい、少なくなってきていた」状況にいた。その中で、マーラーは旋律家として生きた。その才能はおそろしいものだ。だからこそ、「マーラー」の結びの文で書かれたように、彼は「いつの時代に属するというよりも、永遠の存在のひとりとなるべきだったというべきではないだろうか?」。

この本には、他に指揮者によるマーラー演奏についての文章が収録されている。ヴァルター、ショルティ、バーンスタイン、カラヤン、シノーポリなどなど。僕はカラヤンのマーラーについての文章が面白かった。
これを書きながら、今、佐渡裕指揮、シュトゥットガルト放送交響楽団演奏の五番を流している。 
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