パオと高床

あこがれの移動と定住

三好達治『月の十日』(講談社文芸文庫)

2014-03-30 12:31:54 | 国内・エッセイ・評論
三好達治のエッセイ集である。つらつらと、ぱらぱらとページをめくっていたのだが、文体が不思議で面白い。この人の多くの詩はばさっとそぎ落とされた日本語の切れが鋭いのだが、散文はむしろうねうねとしている。それが、削がれた痕跡を残しながらうねうねとしているのだ。確かに、三好達治の詩にも、削がれながらつながっていく詩があるが、この散文文体は面白い。散文のお作法と抵触しながらスタイルという文体の本来性を持っているのだ。
例えば、長い引用になるが、

  以前はもっていた気軽に旅に出る習慣を私は永らく失っている。どう
 いうわけか、つい無理が先にたってそうなっている。時間と財布の都合
 の悪いことも重なり重なりしている。田舎は田舎で戦後の苦渋な生活に
 さいなまれているらしき様子は、眼にふれる読みものなどで承知するだ
 けでたくさんのような気持もした。旅行雑誌の写真などを眺めていると、
 ついでに案内地図を丹念に詮索してみたりはするけれども、そうしてい
 るうちに気分の滅入ってしまうのを覚えるようなことが多い。風景なん
 ぞが、何のたすけになるものかと、と考えることもあった。都会の乱雑
 な、無様な景物は、その騒音よりもいっそう私には閉口の、苦手の、比
 喩ではない手ごたえをもって日日痛ましく痛々しく見えるものではあっ
 たけれども、そこの生活には一種の魅力があった。場末のごった返しに
 は奇妙に、見なれてはいてもなっとくのいきかねる妙な魅力のあるのを、
 これもまた日日に私は覚えた。
                       (『月の十日』一から)

『月の十日』の第一章のほぼ書き始めの部分である。昭和25年に発表。三好達治の戦後の精神が反映しているエッセイであると考えられる紀行文だ。紀行文なのに、旅に出る魅力を感じないと書き始める。なんだか不機嫌。田舎は書物で十分だという風であり、東京への不満をいいながらも、それでも魅力を感じているという。そんな自身の感じへの不満感もある。「何だかな、いいのかな、変だよな、いいんだけどな、でもな」というあたりを逡巡しながら、風景との呼応を探っているような心がある。
解説で佐々木幹郎が坂口安吾と比較しながら上手く書いている。坂口安吾の『堕落論』の「墜ちよ、墜ちよ」を引きながら、

  坂口はここで戦後の日本人に、「墜ちよ、墜ちよ」と、まさに三好が拒
 否した「堕落し、浅ましく成り下が」ることをこそ奨励していた。現在か
 らふり返ってみると、この坂口安吾の乱暴とも言える提言は、戦後の日本
 文学が焼け跡から立ち上がる原動力と呼応していたとわたしは思う。三好
 達治は、「けれども」と「しかし」の狭間で、孤独になる以外になかった。
               (『月の十日』の佐々木幹郎「解説」から)

 詩は、この「けれども」と「しかし」から生まれるのかもしれない。割り切れてしまったら、詩を生みだす時差は、空隙は、生まれない。そして、散文のうねりも、三好達治の詩精神から生まれだしているようだ。
引用した文を追ってみる。
「どういうわけか、そうなっている」で済むところなのに、「どういうわけか」のあとに、「つい無理が先にたって」という挿入句が入る。何だか、無理へと読者を誘う。その無理が、「時間と財布の都合の悪いことも重なり重なりしている。」という次の文の微かな諧謔味につながる。あっさりいかない面白さ。そして「重なり重なり」という重複表現のおかしみとも、それこそ「重なり重なり」する。で、「重なり重なり」と「田舎は田舎で」という次の重なりも呼応している。
で、行きたがっていないようにしながら、「旅行雑誌の写真などを眺めていると、ついでに案内地図を丹念に詮索してみたりはするけれども」と、結局、「詮索」しているのだ。心はそぞろ神に引かれている。そして、「けれども」という接続。芭蕉と違って、「詮索」のうちに「気分の滅入ってしまう」わけで、なかなか、芭蕉にはなれない。ただ、文章の背後には『おくの細道』の冒頭の気配が漂っている。

そして、修飾部の多用される文体が現れる。
「都会の乱雑な、無様な景物は、その騒音よりもいっそう私には閉口の、苦手の、比喩ではない手ごたえをもって日日痛ましく痛々しく見えるものではあったけれども、そこの生活には一種の魅力があった。」
ね、「乱雑な、無様な」、「閉口の、苦手の、比喩ではない手ごたえをもって」という部分。散文のお作法から言えば、しつこいようにも思うのだが、ことばを生きている作者の姿勢が感じられる。さらに、対句を微妙にずらしているような表現に、破格のようでありながら妙な様式性があるのだ。さらに、視覚的な文だったはずなのに、ここで「騒音」という耳が介入してくる。三好達治は都会を「騒音」としても感知しているのだということがわかる。
そして、他の箇所にもある、三好達治の散文でボクが最も驚いた表現にぶつかる。
「痛ましく痛々しく」という同義反復だ。こんな言い回しがよく遣われている。「景物」は「日日痛ましく」と書いたときの、この痛ましさは景物の視覚的な痛ましさである。そして、それが「痛々しく見えるもの」といったときに、視覚を通して見たものの痛ましい景観が、三好達治の心で「痛々しく」感じられているのだ。外観から内観への移行が瞬時に行われている。心が呼応する状態が一瞬のうちに書き採られているのだ。
で、ここにも「けれども」が来る。常に心の振幅を感受している。だから、「場末のごった返しには奇妙に、見なれてはいてもなっとくのいきかねる妙な魅力のあるのを、これもまた日日に私は覚えた。」という感性のありかが記述されるのだ。「見なれてはいてもなっとく」しない。そして、「なっとくのいきかねる」からこそ、存在する「魅力」。さらりと詩の精神が語られている。

これだけの引用でも、何だか驚きを感じてしまった。三好達治、喰わず嫌いだったのかも。

重複表現の追記。
「机にむかって落ちつきよく落ちついているのでもなくて」
「注釈書の類にもその後気をつけて眼をとめたが、私の求めるところに力点を置かない風の気のないものがたいていであった」
とかとか。

エッセイは、このあと松尾芭蕉の甲子吟行の話にすすむ。ここも面白い。
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村永美和子『一文字笠〈1と0〉』(あざみ書房2014年1月31日発行)

2014-03-13 22:02:00 | 詩・戯曲その他
すべてが二元化されるわけではないが、帯書きにあるように「有と無、あるいは表と裏、または虚と実」や、まえがきに書かれているように「〈日常と非日常〉、〈実在と非在〉」に言葉を配置したとき、どういったスタンスをとるか。言葉は、どこにボクらを連れだしていくか。例えば、この境界に懸崖を描くように言葉を書き込む人がいる。また、この境界を往来するように地続きの地平を見せる人もいる。こちら側とあちら側といういい方をすれば、描かれるのは、こちらとあちらの懸崖か、こちらとあちらの通底路か。あるいは、こちらとあちらのカクテル状態だってある。
おそらく言葉は、こちら側のものなのだ。言葉は境界にまでは至る。そして、なお、こちら側にある。だから、言葉は、そこにない非在のものを運ぶことができる。そこにない桜であっても、「桜」という言葉で桜を運ぶ。ただし、そもそもないものは語れない。また、逆に言葉にないものも存在しない。現れるのは1か0かだ。もちろん、1だって0だって言葉だ。ぎりぎりの。で、村永さんの挑戦は、まえがきの一文に文字通り集約される。

  しかし色なら黒白、死と生、暗と明、醜と美、およそ対立項となるも
 のが、1と0、に集約され、別々に吸収されていきそうになる。すると
 存在そのものもあやうくなる。
                         (詩集まえがき)

日本舞踊で使う「一文字笠」に「触発」されて、1と0の間に言葉を存在させる。70篇の三行詩たち。三行とは実在・非在・そして境界かもしれない。架けられた言葉に、賭けられているのは存在か。三行と決まった行数なのに伸縮する世界がある。
で、どの一篇から行こうか。
まずは、最初に配置された詩篇から。

    1

 1 は流れ星
 宙 に うく
 無限大 の数追う 死に体

あっ、やはり。そう数字が横書きで出ちゃうんだ。こうなりそうな気がした。詩集は縦書きで、1は算用数字で縦向きの「1」。目線の流れが変わる。数字の「1」が「流れ星」をイメージさせるのだが、横書きになるとせき止めてしまう。でも、詩集全体が単一イメージではないので、最初の詩から入る必要はないのかもしれないが、全体の印象は、やはり、すでにここにある。助詞への感覚。助詞を文節から切り離す。助詞は、単語に移動性を与え、音の運びを変える。この詩は、視覚から入っている。そして、幻想への契機を示して閉じられる。0は、その気配だけ。無限大に0の気配が宿る。数が数を追う。死に体はひとつだろうか。空間に空隙はありながら、なぜか、死が溢れているように感じた。

     34

 1 は未生の閾(いき)
 から の発語 ? 魚(うお)の肚(はら) 白白くねり
 水底(てい) の 0(れい) のユートピアへ

水底は死から生への変換点になりえないのか。そんな思いが隠れているようにも感じた。
音つながりの詩篇である。「1」と「閾(いき)」、「から」と「肚(はら)」、「の発」と「の肚(はら)」、「白白くねり」のラ行音、「くねり」の「り」のイ母音と「水底(てい)」のイ、単独の助詞「の」を置いて、0を「れい」とルビ打ちして「てい」から「れい」へつなげ、今度は「の」を「ユートピア」とくっつけて「へ」で音の伸びをだしている。これが作者のリズムなのだと思うが、面白いのは、「魚の肚」以降をこう書いてみた時だ。
 魚の肚 白白くねり 水底の 0のユートピア
五・七・五・八の字余りひとつになるのだ。詩はこの五・七音を分断して破調にしている。意識・無意識わからないが、格闘のあとがあるのだ。それから、この音並びがあるせいで「?」マークにも発声があるような、ブレスがあるような、短い「んっ」があるような気にさせる。面白いな。
 でいて、書かれた文字だけを目で追えば、「?」は、意味として「かな?」となり、無音の「?」マークになるのだ。

もうひとつ、こんな詩も。

     49

 蝶 の0(くち) いきなりの
 1すじストロー
 蜜 透き とおっ り うず 渦 るつぼ

 この詩篇も「1すじストロー」が横書きではもうひとつ視覚イメージが違うかも。それでも、引用したのは、何かじれったいような色っぽさがある詩だからで、こういった詩もあるということで。三行目の分断が効果的。  「うずうず」を分けたような「うず 渦」という一字あけが、かえって、うずうずさせる。「蜜」と「透き」が分かれていることで、それぞれが独自の動きを示す。「透き」は「好き」、「とおり」の「とおっ り」には遠回りする表現に何を感じるか。含蓄か驚きか。離れておかれることで「り」が「るつぼ」の「る」と交接する。
なんてね。きりがない。この笠を見るには

     66

 1匹 の蛙
 人の かぶり笠 さし傘 の容(かたち)ながめ
 る 雨 もよい

雨模様の「雨もよい」が「雨 もよい」という雨もいいになる、掛詞。二行目「ながめ」で改行されているので、一行目の「蛙」が人の笠を「ながめ」ていると読める。例えば、「一匹の蛙眺める人の笠」あるいは「人の笠」を「かぶり笠」にして俳句(?)にしてしまうことだってできる。
で、「ながめ」で切れているから、三行目への期待を持たせ、いきなり「る」だけが配置されて、肩すかしを喰ってしまう。読者は、ここで前のめりになる。そこに、降る「雨」。それも、「よい」のだ。
そして、笠をかぶるはずの人の存在は、かさこそと消えるようだ。

言葉と戯れる。スリリングな懸崖を持ちながら、言葉の尾根を渡る。軽みも重みもそなえながら。言葉、意味、音。視覚、知覚、聴覚。そんな三行が、言葉書く者を、言葉読む者を、逆照射する。
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劉暁波(リュウ・シャオボ)詩集『牢屋の鼠』田島安江・馬麗 訳・編(書肆侃侃房2014年2月15日発行)

2014-03-09 22:48:25 | 詩・戯曲その他
捕らえられて、抜け出せない状態が続いている。直截に響いてきた。そんな詩群だ。
と、これだけで、いいのかもしれない。
だが、どうしても、こねくり回したくなってしまう。読みは、独断的と教科書的を往き来する。
なぜか。あたりまえ。そこにある詩が、捕らえて、抜けださせないほど、魅力的だからだ。

劉暁波。中国の民主化運動に深くかかわって、何度も投獄、自宅軟禁を繰り返す。現在、2008年の「08憲章」の中心人物として懲役11年の実刑判決を受け、服役中。2010年「ノーベル平和賞」を受賞。だが、中国政府がこれを認めず、授賞式は本人不在であった。この詩集の著者略歴から拾えば、このように紹介できるだろうか。
そして、彼は詩人なのだ。その彼の詩人としての初めての、まとまった詩集である。

何になることを夢想できるか。何になれると思うのか。その幅の広がりが自由の度合いのひとつだと考えられるのかもしれない。そして、それとは逆に、何ものかになりたいという願いの強度は不自由の尺度になるのかもしれない。何ものかへの欲求の強さは自由さと反比例する。そして、なれるものの偏狭さは不自由さと比例する。夢想の翼にはリアルの枠が存在するのだ。これが精神的な話にとどまらず、実際の身体的な不自由が、拘束が、加わった場合、さらに激しく緊張を強いる。さらに、何かになれることを夢想することさえ出来なくなる事態というものもあるわけで、そんな悲惨をボクらは何によって知り、何によって学ぶのだろう。

劉暁波詩集の第1部を読んだとき、「なる」への痛切な思いが胸を打つ。
詩集は5部構成になっている。その第1部「蟻が泣いている」から、どの1篇を引こうかずいぶん悩みながら、冒頭の詩「一通の手紙で十分だ」か詩集表題詩「牢屋の鼠」か。
で、「牢屋の鼠」。

 一匹の小さな鼠が鉄格子の窓を這い
 窓縁の上を行ったり来たりする
 剥げ落ちた壁が彼を見つめる
 血を吸って満腹になった蚊が彼を見つめる
 空の月にまで魅きつけられる
 銀色の影が飛ぶ様は
 見たことがないぐらい美しい

 今宵の鼠は紳士のようだ
 食べず飲まず牙を研いだりもしない
 キラキラ光る目をして
 月光の下を散歩する
             (「牢屋の鼠―霞へ」全篇)

ボクらは通常、「壁」を比喩として使う。例えば、陳腐だが「人生の壁」とか。
ところが、劉の詩は逆のベクトルを取る。「壁」は比喩ではなく、現実的な状況なのだ。むしろ読者がそこに自らの比喩を重ねる。では、単に現実を書いているだけか。それならば、同情しか呼び込まない。「壁」の中に比喩を呼び込んでいるのだ。
吉本隆明が田村隆一の詩について語っていた言葉がある。聞き語りを文にしているので切りにくいので長い引用になるが、田村隆一の詩「幻を見る人」の一部、「空は/われわれの時代の漂流物でいっぱいだ/一羽の小鳥でさえ/暗黒の巣にかえってゆくためには/われわれのにがい心を通らねばならない」を引いた後、

  ここに示されているのは、我々の時代は、どんな豊かな自然を見て
 も、いつも「にがい心」つまり、死の影を通してしか見ることができ
 ない、小鳥たちの姿さえ、そのようにしか見られない、ということだ。
 (略)
  象徴詩人たちは、暗い気持ちを何かに託して表現してみせた。鳥が悲
 しみの姿をしているとか、カラスが死を示しているとか。田村さんは違
 う。自分の外にあるもの(鳥)と内側にあるもの(にがい心)を完全に
 結び付けて表現する。それがしかも、詩になっている。これは詩を象徴
 の次の段階に進めたということだ。
  つまり、鳥を心の中の風物に変えてしまっている。象徴や比喩として
 心に入れたのではない。本当に、空を飛ぶ鳥を心の中に入れてしまって
 いるのだ。(略)
  外にある物象を全部、心の中に入れないと言葉にできない。これは詩
 人の全体像からすると、戦争というきわどい生死の体験から来ていると
 思う。戦争体験から、こんなことが精神の中に生まれたのだ。
               (吉本隆明『現代日本の詩歌』から)

「壁」が比喩でないように、「蚊」や「鼠」に何かが仮託されているわけではない。それは、読者が比喩を加える表象なのだ。ただ、ここには作者である「私」と「私」ではないものがいる。「私」でないものは「私」を素通りできない。むしろ、「私」を通らなければ、そこに言葉として現れない。
しかし、すごいのは、「剥げ落ちた壁が彼を見つめる」という詩句が示すように、同時に「私」自身も「私」を通って「彼」になっているのだ。「鼠」を見ている「私」を見ている「壁」が見ている「彼」は「私」だという関係。
あっ、そういえば、ジャン・ジュネの『女中たち』に、箪笥が見ているだか、家具が見ているといった表現があったような。そこにあるものが、裸形の存在である私を見つめる、自己の浸潤した他者のまなざし。と、同時に、自己と切り離された絶対他者という存在の気配。そんなこんなを連想してしまった。
で、戻る。
ここで現れる「彼」は、「私」が分裂したわけではない。自己の分裂によって引き出された「彼」ではない。ただ、「まなざす」という行為が真摯に行われているのだ。私はまなざす。だが、その私は同時にまなざされている。この関係を純粋に維持しているのだ。これはとりもなおさず、作者が求めている社会との関係でもある。作者と祖国の体制との関係とも考えられるのかもしれない。「まなざす」と「まなざされる」は、そこに「ある」ということを前提とする作業である。「ある」を認識すること。劉が存在していること。その認識。体制が存在すること。その認識。そして、そのお互いがお互いをまなざすこと。「ある」の認識。そして、「ある」は「なる」への道筋でもある。その道筋も、その「なる」への不可能性を含めて作者と祖国との関係を遠近している。

それにしても、何よりも、「私」という「彼」をまなざすものが、「壁」や「蚊」であることによって、「私」の孤独は痛切になる。だが、ここから精神の、強靱な、そしてしなやかな跳躍が始まる。

 空の月にまで魅きつけられる
 銀色の影が飛ぶ様は
 見たことがないぐらい美しい

見つめ返すのだ。しかも、壁や蚊をではない。ここから、壁や蚊を引き受けた「私」は、この空間全体を空の月をまなざす視線に変えるのだ。
「銀色の影」とは何だろう。蚊か鼠か。「飛ぶ様」というのだから、飛び出せる蚊なのかもしれない。いや、飛ぶのは「影が」と書かれているのだから、「銀色の影」なのだ。鼠の影かもしれない。
だが、それよりも、差し込んでくる月の光と呼応する銀色が「美しい」のだ。室内全体が「私」となっている、その室内が銀色に塗りこめられるような印象を持つ。見つめる「壁」や見つめる「蚊」、そして、「彼」というここにある現象はすべて「私」の意識を通りながら、なお私にとっての他者なのだ。現象は私の意識でありながら、しかし、他者として確実に存在している。現象の始まりである。とてもプリミティブな現象と自己との関係が書き込まれている。そして、その全体が、月がある外をまなざす。
詩は、歴史を経てきた多くの詩に乗っかるように第二連に移行する。

 今宵の鼠は紳士のようだ
 食べず飲まず牙を研いだりもしない
 キラキラ光る目をして
 月光の下を散歩する

月はくまなく世界を照らす。ボクが見ているこの月を別の場所でキミも見ている。というこの感じ方は特別なことではない。離れ、引き裂かれている2人を考えたとき、窓外の月は、こんな連想を示す。しかし、それがここで胸に迫るのは、呼びかけるキミが題名の「霞へ」以外には詩の中に書き込まれていない点だ。抑制されているのだ。しかし、ボクらには、この言葉が向かう先にいるキミが見える。語りかけの対象がはっきりと自覚されているのだ。だから、「月光の下を散歩する」で終わっているのに、その月の光の下に、同じ月を見ているキミを想像できるのだ。いや、もっと痛切に、見ていて欲しいという思いが伝わってくるのだ。
また、この部分を、「鼠」に思いを仮託するという読みも可能かもしれない。「牢屋」から出て行ける「鼠」に、出て行けない自身を対比させ、現状を詠嘆するという感じ方だ。おそらく古典であれば、そういった定型をとるのかもしれない。そうなっていないところが現代詩なのかも。
むしろ、「鼠」は「私」である。だが、第一連で、「私」と「彼」というように意識を客観性の場に連れだしている。一連でまなざすとまなざされるを転換させてみせたのは、二連の「鼠」へとつながっていく。「私」から離れる「私」の意識とでもいえばいいのだろうか。それが「鼠」である。「壁」は「彼」を見つめ、「蚊」も「彼」を見つめるのだが、「鼠」だけはその表記がない。「鼠」は「彼」を見つめずに、「紳士のよう」なのだ。ここに「私」の意識は乗っている。「霞へ」の思いは、言葉となって「月光の下を散歩する」。いや、むしろ、まっすぐボクらに届いてくる。

と、ここまで書いて、全く別の読み方のほうが実はオーソドックスなのかなと思った。
「彼」というのは「鼠」のことなのだ、とする読み方だ。「鼠」が「紳士」になることを考えても、「鼠」の人称代名詞は「彼」だ。
そして、「鼠」に劉は自身を仮託する。「鼠」を劉の比喩にする。そうすれば、「月光の下を散歩する」という、ここで、「鼠」は劉の思いとなる。こう読めば、「彼」という人称代名詞がすっきりと解決できる。壁から見つめられる「彼」を「私」と考えたところで、この詩の読みを複雑にしてしまったのかもしれない。「彼」を「鼠」にすれば、「鼠」からだけ「私」が見つめられないのも当然になる。あとは、「鼠」に「私」が仮託され、「剥げ落ちた壁」「満腹になった蚊」に何かを仮託すれば、第一連は寓意的な、そして、暗喩の方向性を持った詩になる。その暗喩に込められた力も十分にボクを圧倒する。牢屋の鼠に仮託されたのが作者「私」であれば、見つめられているのは「私」になり、「私」の状況が描きだされていると考えればいいのかもしれない。「銀色の影」は「鼠」の影になる。「魅きつけられる」は意味的には「引きつけられる」でいいのかもしれない。「影」が「月」に引きつけられる。この読み方のほうがシンプルで、美しいかもしれない。すっきりする。合点がいく。「私」は、「鼠」は、「キラキラ光る目をして/月光の下を散歩する」。精神は、意志は、捕らえられない。

ブランキは、トーロー要塞の土牢の中で、『天体による永遠』という天体論、宇宙論を書いた。彼は何を見たのか、見ようとしたのか。ニヒリズムと永劫回帰が、そこにはあったのかもしれない。一方、劉暁波は、語りかけの中に、人へ、人へと帰ろうとする。

第1部ではやはり冒頭の詩が、1部全体への決定力を持っているのかもしれない。冒頭詩も気になりながら、それはまた、次の機会に。5部それぞれに気になる詩がある。しばらくは離れられない。
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