パオと高床

あこがれの移動と定住

オルハン・パムク『父のトランク』和久井路子訳(藤原書店)

 | 海外・エッセイ・評論
2006年度ノーベル文学賞を受賞したトルコの作家の受賞講演が収録された本である。講演の始まりはこうだ。
「亡くなる二年前に、父は自分の書いたものや、メモや、ノートの詰まった小さいトランクをわたしのところに持ってきました。いつものふざけた、皮肉な調子で、後で、つまり自分の死後、それらを読んで欲しいとあっさり言いました。」
小説の書き出しのような始まりである。そして、「わたし」は「父のトランクに触れて、それを開けることが」どうしてもできないのだった。そのわたしの心は父への思いと作家であることへの思いに拠っている。そして、「作家であること」とは、というところから講演は進められていくのだ。
「わたしにとって作家であると言うことは、人間の中に隠された第二の人格を、その人間を作る世界を、忍耐強く、何年もかかって、発見することです。」
「忍耐強く」は「針で井戸を掘る」ようにと表現される。その「根気と忍耐」が作家である大変さよりも作家である悦びに転じているパムクの強い小説への思いが感動的ですらある。
そして、「中心ではないという感覚」でトルコという地理的特色と「わたし」の心的状況の交差を語ったり、「なぜ書くか」という直截な問いに直截に向き合う姿勢を示したりしながら、この「父のトランク」という一編の物語性を持った話は、見事な着地点を見いだして終わるのだ。パムクは小説家なのだということを強く感じさせる講演だった。
また、この人は作家であると同時に読書家である自分自身を語っている。小説を書く悦びと同時に小説を読む愉しみを溢れるように語っているのだ。小説への強い信頼に裏打ちされた厳しさと真面目さが、何か爽快な印象をもたらす。そして、作家というものはこうでなきゃと思わせてくれるのだ。
収録された講演のひとつ「カルスで、そしてフランクフルトで」の中で彼はマラルメを引用して次のように語っている。
「マラルメの〈この世の全ては一冊の本のなかに入るために存在する〉ということばは、わたしによれば最後まで真実なのです。この世の全てをその中に一番よくとり入れる本とは、わたしにいわせれば、それは疑いもなく小説です」と。
また、別の講演では、その小説を書き了えることができるのは、作者がその本に「内包する作者」になれた時だと語る。
あるいは、「いい小説家は〈他者〉を示す境界線を調べ、それによって自分自身の境界を変えようとします。他者が〈わたしたち〉になり、わたしたちが〈他者〉になるのです。もちろん、小説はこの二つを同時にします。自分たちの生活を他者の生活のように語ったりしながら、同時に他者の生活を自分たちの生活のように書くことをわたしたちに可能にしてくれます。」そして、「わたしたちの想像力、作家の想像力が、この限られた現実の世界に、この上ない魔法の、特別な魂を与えるのです。」とも語るのだ。
多くの言葉がストレートに響いてくる。小説っていいなという思いに満たされてくる。たとえば、心から歌の好きな歌手や、その道を愛してやまない職人や、宇宙にとことん魅せられた天文学者や、生物にとりつかれた生物学者や、物理の謎のエレガントな答えに感応する物理学者や、言葉が好きで好きでたまらない詩人やらが語る話の力強さと説得力。いいいよね。

何人かの影響を受けた作家があげられている。まずトルストイ、ドストエフスキー、トーマス・マン、プルーストの四人。そして、フォークナー、ナボコフ、ボルヘス、カルヴイーノ。カフカも。他に「あなただったら誰にノーベル賞を出すか」の質問に応えて、数人を挙げているが、そんなサービス精神も楽しかった。

ただ、パムクの小説を読まなきゃいけないのだけれど。ちょっと訳がきついんだよな。

トルコは興味深い。


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パトリック・モディアノ『さびしい宝石』白井成雄訳(作品社)

 | 海外・小説
ボクらがボクらの存在を支えられるのはどうしてだろう。ただ意味もなく在る状態から存在しているとりわけの自分に思えるのはどんなときだろう。
自分が生きていることの意味と、自分がいることの役割が、ボクらを世界につなぎとめる。そこまで自覚的でなかったとしても、その生きてきた時間なりの過去が、自分自身の過ごした時間が、ボクらの存在の基盤となってボクらを未来につないでいく。
かりに、今が無意味に思えたとしても、その今がたちどころに過去になっていくときに、その過去の実体がボクらの今を支えるものに変わっていけるか。それは、充実しきった今ではなくても、今を実際に生きるところからしか始まらないのかもしれない。実際に生きられた今があれば、そのリアルは過去の実体となって今を支える。
ボクらは断続的な無数の今を、自分の存在のなかにあって自分の存在を支える連続として再構築できるのだ。現在と過去と未来を、自分の時間として自分の存在の拡がりとして自覚し、自分の存在を立ち上げることが出来るのは、おそらく人間だけなのかもしれない。

しかし、過去が嘘で塗り固められていたら。探し出すべき自分の意味が、いつかあらかじめ失われてしまっていると感じていたら。自分ひとりが愛情の世界から切り離されて、世界のただ中に置き去りにされたとしたら。さまよう「わたし」の現実は曖昧で、実体のないものになるのかもしれない。そんな19歳のテレーズの物語だ。

ある日、彼女は死んだはずのママンを見かける。そして、尾行し、会おうとも思うのだが、彼女はどうしても気後れしてママンに会うことができない。彼女はママンのことを思い出していく。そのことが自分自身を探す旅にもなるからだ。しかし、そのママンの経歴は嘘で塗り固められているのだ。深まる謎。ビスケット缶の中の写真と手紙が残った実質で、あとは記憶の中にある。小説はテレーズの現在を描写しながら、断続的に思い出され問いただされる過去を織り交ぜていきながら進む。ボクらの記憶は連続的ではないのだ。非連続の集合体として存在している。それを意味の脈略でつなごうとするのだ。しかし、テレーズによって思い出され問いただされる過去は謎の中に宙づりにされる。だが、そのこと自体がかろうじてテレーズの生を支えているのかもしれない。
それとテレーズが関わる数少ない人たちである翻訳をする男や薬局の女性との交流の温かさ。この温かさが、テレーズを支えるようにこの小説を支えている。冬のパリの中で孤独な魂がほんのわずか救われていきそうな気配が、小説を優しさで包み込む。
また、テレーズは仕事で出合った少女の中に自分自身を見いだして、優しく接しようとする。その姿は痛々しさと切なさがやわらかさを伴っているのだ。そのやわらかさと優しさが、現実感が曖昧で危ういこの小説を、また設定として暗く殺伐としたものになってもおかしくないこの小説を、大きく抱きしめている。読んでいるときよりも読み終えたとき、しばらく小説から沁みだしてきた空気におおわれてしまう。その読後感は、妙に穏やかで、何か離れがたい気分にさせるものがあった。

切なさ、痛さ、いとおしさ、やさしさなどは、そういった言葉の直接表現ではなく、小説の行間から溢れ出したり、にじみ出したり、したたり落ちたりするものなのだ。言葉にすれば、結局そういった感情なのかもしれないという情感の中に、小説を読みながら読者は連れて行かれるのだ。そして、そこに置き去りにされる。置き去りにされるとき、余韻の質は決まるのかもしれない。
心地良く置き去りにされた小説だった。



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蜂飼耳「ヤドリギの音」(文學界5月号)

 | 国内・小説
蜂飼耳の不思議な世界。段落ごとにイメージとその意味するものが絡まるような速度感。
『紅水晶』の作品たちに比べると、鋭敏に揺れつづける感性はオブラートにくるまれている感じがする。しかし、むしろそれは、詩的表現が散文的表現にくるまれている結果なのかもしれない。より散文的なたたずまいがあるのかもしれない。しかし、謎は深まっているような……。
『紅水晶』の短編にあった共生する設定が、この小説にもある。そして、独特の距離感。ただ、主人公が疑問形を使うことで、この距離感が案外、客観性を持っている印象を与えるのだ。そして、痛々しさの合間に、微妙なおかしみが加味されている。

それにしても、例えば多岐彦に惹かれるあかねの表現。
「それでも、多岐彦の顔貌があかねを引きつけることに、変わりはないのだった。うつくしいというのとはちがう。それは光のとどかない深海のような顔だ。開かれていると同時に、閉じられている。人間の顔というものに、このように引かれたことはない。けれど、多岐彦という人に引かれているのかどうか、わからないのだった。顔というものがここにある、とあかねは思う。あらゆることを飲みこんでしまう顔。」
二つのもの(境界や二項対立)の間を往き来する蜂飼耳の表現がある。開かれていて、閉じている。何だろう?レンジャクは何だろう。木箱は何だろう。ロバは。葵さんは。たくさんの意匠が、話されたがっているようで、沈黙されたがっているようなのだ。何だか、「振動をやめない車体に、からだは丸ごと運ばれる」ような気分だ。気になりつづけている。

顔で、ルオーの肖像を思い浮かべてしまった。

レンジャクという鳥は写真で見ると思ったよりふっくらしていて、冠羽が長く精悍な印象の顔かもしれない。二羽かルーズコロニーで繁殖するらしい。


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姜尚中『姜尚中の青春読書ノート』(朝日新書)

 | 国内・エッセイ・評論
帯書きに「注目の政治学者が疾風怒濤の学生時代に出合った珠玉の古典に学ぶ〈世界とのつき合いかた〉」とある。
大澤真幸によって「理想の時代」から「虚構の時代」への転機として位置づけられた1970年。著者の青春はその渦中にあって、自らへの問いと社会への問いを深化、先鋭化していったのだ。紹介された本五冊が、その当時の著者の置かれた状況、心的状況と重なりながら、そこから何を読みとっていったのかを伝えてくれる。取り上げた本、著者自身、当時の社会状況、現代の状況がすべて陸続きに語られる。配置された問題をその距離を確保しながら遠近法で語りあげる手腕が見事だった。

熊本から東京への自分自身の上京と三四郎を重ねる『三四郎』についての第一章。それは、当時の夏目漱石の日本への批判的眼力と呼応しながら、青春期の姜尚中が感じた東京への印象に繋がる。そして、日露戦争当時と70年代を比較しながら、さらに現在の東京について考察し、「亡びるね」という広田先生の言葉に現在の危うさを込めていく。現代の政治学者姜尚中が、青春期の回想の先にきちんと現れてくるのだ。
さらに二章の『悪の華』の章は、ボードレールの頃のパリをイメージしながら、70年代韓国ソウルの状況と東京の比較に合わせて、引き裂かれた自身の心を語り、憂鬱な時期に何を考えたのかを検証していく。それは、金大中拉致事件や韓国の民主化運動と連動しながら、三章『韓国からの通信』に関係づけられていく。ソウルの変貌に民主化を果たしていく韓国の立ち上がりと、著者自身が韓国を訪れ、自らの煩悶から自立していく過程を重ね、さらに南北の関係を将来性も含めて記述する。その著者の態度は政治思想史という学問との出会いから始まったとする四章『日本の思想』での丸山真男との出会い。事柄に「距離をおく」ことの大切さを知り、「スタンスを持つ」ことを学んだ姜尚中が座標軸を作り星座を作成することで政治思想史の有効性に気づく姿が語られる。「星座」という言葉にベンヤミンを連想してしまった。そして、その政治思想史的態度の実践としてマックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が五章に配置される。人間を支える「意味への意志」(フランクル)を引きながら、ウェーバーによって「意味問題」を中心に考えることの新鮮さに触れたと語りながら、労働の転化と現代の資本主義の姿に批判を加えていく。

さらりと読める。しかし、かなり刺激的な一冊。歴史と個人の同調性の力を感じさせてくれた。また、思考のスタンスが、いかに広範囲にわたって物事を認識する術になるかをわからせる強靱な思考力の一端に触れることができたような気がする。次への思考に誘ってくれる一冊だった。



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蜂飼耳『紅水晶』(講談社)

 | 国内・小説
この震えるような感性は何なのだろう。とても感度のよい感性が微妙に揺れる。その特殊が違和感なく共鳴を呼ぶ。病的といえる鋭敏さが、むしろ常態を感じさせる。抱きしめながら突き放す、突き放しながら抱きしめる。近くにあるのに遠い、遠くにあるのに近さがふいに現れる。相反するものが宿り合う世界。背理が道理で、背離は公理で、希求の危うさが浮遊する。境界は境界をまたぐものにとっては失われているのかもしれない。日常に非日常、正気にも狂気、生にも死、存在にも不在、科学には幻影。距離が揺らぎながら人々を関係づけている。距離が、人の息遣いを伝えながら絶え入らせ、かぼそさと野太さとを交差させながら、エロスとタナトスとを、空気のなかに漂わす。そこに介在する冷たい暴力と破壊。そこに立ち上るかなしみ。
心をつかみ取る短編集だった。

この作家の文章は後追い型ともいえる文章に魅力がある。改行されると詩になるようなフレーズがつながり、文を次の文が追いかけるような筆致に速度が宿り、その認識の手順が読者に同調感を感じさせる。そして、作者の認識の手順に従って同調していった先に、境界の割れた、相反するものが共存する場所が立ち現れるのだ。そこに至った瞬間、一瞬戻れなくなる。言葉が作り出す、現実の底の底。言葉は言葉のない世界の際まで行くような印象を与える。

言葉は言葉の背後に空虚を持っている。なぜなら言葉は実体と共にあるものではないからだ。だから、実体を持たずに言葉だけをボクらは持ち歩くことができる。この詩人であり小説家である作者は、言葉を先行させるのかもしれない。言葉を、言葉の空虚を埋めるために、言葉の持つ手触りと空虚を埋めるための言葉の連鎖で繋げていく。それは、形を後発的に認識する行為に似ている。そこでは、曖昧なものは実体化に向けて像を作り始めるはずだ。しかし、ここで反転する。ボクらの現実は合点がいくような像を結ぶだけではすまないのだ。むしろ、像は異形にゆがんでいる。その地点に連れて行ってくれる作品。そんな作品が持つ魅力が、この短編集にはあった。

で、なんだかんだで、とにかく、まず、随所にある文に惹かれたのだ。



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石見銀山に行く

 | 旅行
5月の連休に石見銀山に行った。
新緑のなか、中国山地の山間は気持ちがよかった。石見銀山の龍源寺間歩という銀山採掘坑道は、往時の一端を想像させて、なかなか見応えがあった。
それにしても、人が多かった。現地の担当者はよくがんばっていたと思う。いろいろな場所に係をおいて、懸命に応対していた。しかし、ボクらも含めて、それを超える集客数なのだ。少し、時期をはずして、ゆっくり回れば、さらに楽しめたかもしれない。それでも、大森の街並み地域やせせらぎの横の遊歩道など、とぼとぼ歩いて時を過ごすことはできた。
世界遺産としては十分に価値がある場所だと思う。それに観光地としての役割が、当然、くっついてきてしまうのが大変なことなのだろう。観光地としてのリピーターはそこまではいないだろうから、このブーム後が、実は真価を表すときなのかもしれない。
銀を積み出した鞆が浦の港も見たが、入江になった漁港の夕暮れがなかなかいい感じだった。
それから、仁摩のサンドミュージーアムにも立ち寄った。博物館としても世界の砂を集めてあったり、一年砂時計があったりと面白いのだが、とにかく、砂時計人気おそるべしの人気スポットだった。琴ヶ浜の鳴砂、本当に音がするのだ。
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アントニオ・タブッキ『夢のなかの夢』和田忠彦訳(青土社)

 | 海外・小説
他人の夢を見ることはできるのだろうか?

タブッキは芸術家が見た夢を想像し、その夢を創り上げて、「一人ひとりに捧げる夢のオマージュを織りあげ(訳者あとがき)」る。その夢は、彼の人生の転機であったり、死の直前であったりしたときに夢みられた、刹那でありながら、その人そのものを表す夢である。タブッキはその夢に、愛した芸術家の創作した作品や、彼らの苦闘や希望や恐れを埋め込んでいく。

ゴヤの夢では、彼の絵が連想できるし、彼が人間に対して注いだであろう眼差しが示される。アンジョリエーリの夢は、彼に起こった出来事が及ぼしたであろう体と精神への痛手が夢の形象となって表れる。コウルリッジの詩を生かしきった彼の夢。「月に魅せられた男」と表題されたレオパルディの夢は月のイメージが美しい。死の際を描くスティヴンスンの旅の終わりの夢。ランボーの詩の空気を醸しながら、夢の生き直しと自由を求める出発への憧れを描くランボーの夢。コラージュと批評の合体が見事なチェーホフの夢。自身の無意識が表れるフロイトの夢。そして、それ自体がペソアの変装への言及であり、ペソア自身の異名者探しでありながら、タブッキのペソア探しに繋がっているようなペソアの夢。それぞれの夢がイメージ豊かに作家を語る。

あとがきで和田忠彦が書いているように、これらは「物語のなかの夢ではなく。夢の物語である」。その断章が抱えこむ膨大な物語の情報は、断章として描かれた夢のなかから、さらに夢みられる。断章の断面が想像力のうねりにきらきら輝いている。

これらの断章はタブッキが娘からもらった手帖に綴られたものだということで、この本の冒頭に娘への言葉が書かれているが、その次に中国古謡からの引用がある。
 
 恋人の胡桃の木の下に立ち、
 八月の新月が家の裏手からのぼるとき、
 もし神々が微笑んでくれるなら、
 きみは他人の見た夢を
 夢に見ることができるだろう。

タブッキの夢も読者は見ることになるだろう。
夢についてのペソアの言葉があとがきに引用されている。
「一言で現代芸術の主要な特徴を要約しようと思えば、それは〈夢〉という言葉のなかに完璧に発見できるだろう。現代芸術とは夢の芸術なのだ。」
クンデラも現代小説の重要な要素のひとつに夢の記述と夢の文体を挙げていたと思う。他人の夢そのものを形象化しようとしたタブッキの独創と創造力が楽しめた。



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J.L.ボルヘス『伝奇集』鼓直訳(岩波文庫)

 | 海外・小説
ボルヘスを久しぶりに読む。以前より、楽しめたのかもしれない。しかし、以前も楽しかったのだ。だが、今回も読みながら、きっとボルヘスってもっと楽しいのだと思ってしまう。何だか、魔法にかかったみたいになる。真から偽への横滑りを果たしながら、真偽の境はなくなって、終わりが繋がる円環の中で、夢と現実も繋がって、時間は途切れなく、その物語は物語の完結を見せずに物語の時間の中にボクらを置き去りにしてしまう。解読を求めながら、意味づけに固定されない寓話の群れは、壮大な図書館である。次の物語への契機に満ちた物語の元型でもありながら、それまでの壮大な知に裏付けられた物語のネットワークでもある。多くの作家がこの人に影響されたのがわかるような気がする。まさに円城塔の『つぎの著者につづく』の世界なのである。

夢が常に他人によって夢みられた夢であるとして迷宮のように繋がっていく「円環の廃墟」。知の図書館への夢を搔き立て、人類の宿命も思わせる「バベルの図書館」。現代文学の推理小説的構造を先取りしている「死とコンパス」。実在と偽書の間を往き来する探求ものも面白い。きっと、ボク以外の人たちは、ボルヘスを読んで、もっともっと楽しんでいるのだと思いながら、自分にできるところまででしか楽しめないボルヘス。それでも、じゅうぶんに楽しみながら、「平原が何かを語りかけようとする夕暮れのひとときがある。だが、それは決して語らない。いや、おそらく無限に語りつづけているのに、われわれが理解できないのだ。いや、理解はできるのだが、音楽と同じでことばに移せないのだ……。」(「結末」)と言葉で刻まれたフィクションに、酔いしれてしまう。



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