パオと高床

あこがれの移動と定住

S・ベケット「ダンテ・・・ブルーノ・ヴィーコ・・ジョイス」川口喬一訳(白水社)

2007-05-26 12:22:15 | 海外・エッセイ・評論
ベケットの詩と評論集『ジョイス論/プルースト論』の中のひとつ。
立花隆の本でヴィーコについて興味がわいたのだが、そのヴィーコの歴史哲学を援用しながら、ダンテを絡ませ、ジョイスの文学の特質と意味を描き出す。その語りのなかには、例えば「あたかも重ね合わせたハムサンドを観照するような」とかいった楽しくなるような表現がある。訳のせいもあるのだろうが、独自の表現をはさみながら、割と婉曲したような言い回しでありながら、断定があるといった文章になっている。
ヴィーコの歴史哲学が面白そうだ。歴史を「個人」のみにも運命などの「超個人」のみにも見ず、その双方の働きで見る態度は現在の社会心理学とか社会行動学とかの先取りなのではないかと思ったりもした。
ダンテの「浄界」の円錐構造とジョイスの「最高地点」なき「球形」構造の比較や、何かを語るのではなく表現態そのものがなにかであるとする内容と形式の一致をめぐるジョイス作品への言及は、ベケット本人の価値観や志向を同時に語っている。
刺激的なところが、そして語り口が、心地いいエッセイだった。


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コンサートに行く 弦が凄い

2007-05-21 23:19:21 | 雑感
また、コンサートに行った。ストラディヴァリウス・サミット・コンサート。
ベルリン・フィルの演奏者で、ベルリン・フィル事務局から名器ストラディヴァリウスの奏者として正式に称号を冠されたメンバーによるアンサンブルだ。11台のストラディヴァリウスを堪能できた。
ヴァイオリンだけではなく、ヴィオラやチェロもあったというのは知らなかった。
曲はドヴォルジャークの「弦楽のためのセレナード」やヴィヴァルディ「二つのチェロのための協奏曲」など6曲。曲名は知らなかったが、よく聴く、バーバーの「弦楽のためのアダージョ」があって、ドラマ「冬のソナタ」の場面を思い浮かべてしまった。バッハの「ハープシコードのための協奏曲」も曲名は知らなかったが、聞いたことがある美しい曲だった。チェンバロのバロックな響きがよかった。
アンコールは3曲。チャイコフスキー「弦楽セレナード」のワルツやモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」、ヴィヴァルディの「四季」から夏の場面などポピュラーな曲をサービスたっぷりに演奏してくれた。
弦がすごい。何か余裕すら感じさせる演奏。感動した。
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金両基監修『韓国の歴史』(河出書房新社)

2007-05-12 10:21:46 | 海外・エッセイ・評論
この「ふくろうの本」シリーズはとても役に立つ。写真、図版が豊富で、その国の歴史が手際よく整理されている。それでいて、監修者、編者の意向というか主張のようなものが、ところどころににじみ出していて、面白さもある。頭が整理できながら、その国の歴史をたのしむ(?)ことが出来るのである。表紙裏のスペースの使い方も年譜や地図で有効に生かされている。
今回は韓国ドラマ『朱蒙』が始まって、古朝鮮から高句麗建国あたりの流れがわからないので、この本を読んでみた。檀君神話から古朝鮮、高句麗建国、三韓時代、三国時代の概観が整理できた。その後の新羅と唐による半島統一、その新羅と唐の戦いなど、北から半島へと降りてくる朝鮮半島の歴史が、中国との緊張関係で展開されていることが感じられた。
韓国では歴史ドラマがブームらしい。日本でも『大長今』『ホジュン』『商道』といったドラマが放送され、それぞれ面白い。これらに『李舜臣』なども加えた朝鮮王朝時代のものから最近は、高句麗、百済の古代ものが盛んになっていると聞いた。好太王のドラマ化、白村江の戦いの頃の唐と半島を描いたドラマとかもある。
世界的にグローバリゼーションの一方で国家の根っこ探しが始まっているような気もなんとなくする。それが、間違った方向に進まないといいのだけれど。どうも、僕らの国は危ういかな。

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立花隆『エーゲ 永遠回帰の海』写真・須田慎太郎(書籍情報社)

2007-05-10 23:50:15 | 国内・エッセイ・評論
立花隆の『ぼくの血となり肉となった500冊そして血にも肉にもならなかった100冊』を読んでいたら「ぼくが書いたたくさんの本の中でも、内容的に3本指に入る本だと思う」と書かれていたので、これはと思って読んで見た。
内容もさることながら、あとがきにもあるように、ふんだんな写真が収められたこれだけの本が、1500円という値段なのが驚きだ。
1972年にヨーロッパを放浪したという作者の過去に、82年に連載のために取材旅行で回ったギリシャ、トルコをめぐる思考が重なり、さらにすぐ本にならずに、2005年までの時間が経過することで生まれたであろう熟成が加わった一冊なのかもしれない。「永遠回帰」という時間の円環が作中に頻繁に出てくるが、立花隆がこの一冊の本成立に過ごした時間が、時の円環を実践したものではないだろうか。ギリシャ、トルコを巡るヨーロッパ思考の源泉、哲学・思索の源流を辿る旅は、膨大な作者の知のエッセンスのように一部を記述しながら、魅力的な写真と相互に対峙し合って、本という姿それ自体が創造的に存在している。
写真展が凝縮されたような写真と断章で構成された長い序。写真の中の断章がいい。アトスの修道士の顔が語るもの。廃墟が語る時間は現在を歴史の円環の中に位置づける。想像力が生み出す異形なものの美。ギリシャの神々の跳梁する姿に人間の世界観を見出し、その変遷について思索する。立花隆は書く、「物質界が観念を変えるのであって、観念が物質界を変えるのではない、という。しかし、私には、歴史はその逆を証明しているように思える。世界観の変化は世界を変えてきたのである。」と。「観念は世界を動かすことが出来るのである。」と。ドストエフスキーや自然哲学、思弁哲学に沈潜し、哲学史を体得しながら、知の最前線にいる立花隆ならではの言葉ではないだろうか。科学の前線も世界観が切り開いていく。さらに、その前線が世界観を変革する。
宿命的にも円環する歴史であっても、想像力の豊穣な世界なのである。
ちょっと変な言い方だが、立花隆版『街道をゆくーエーゲ海紀行』かな。


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