8
グレーゴルと家族との最後の交錯をどう考えるか。それは食事をしなくなったグレーゴルから繋がっていく問題なのだろう。「未知の食べ物」をどうとるか。グレーゴルの行動が、虫を抱えながら生活していたこの家族の平衡を壊す。グレーゴルを別室に封じ込めたままの、家族と間借人の食事。ヴァイオリンを弾く妹、あからさまに退屈する間借人。それに憤るグレーゴルの動き。気づかれないようにグレーゴルは部屋から妹のほうへ進み出る。間借人の「三人がそろって鼻や口からタバコの煙を吐き出す勢いからして、苛つきぶりが見てとれた。だが、妹はとても上手に弾いていたのだ。」と、グレーゴルの耳と目が動く。妹は「顔をわきに傾け、たしかめるように」そして、「悲しげに」楽譜を追っている。グレーゴルは「妹の眼差しに出くわすように」動く。妹にだけ気づかれようとしているのだ。妹を救えるのは自分しかいないかのようだ。ここで、問題の文章が入る。「獣だからこそ、それで音楽がこんなに身にしみるのか?」という文章だ。音楽に退屈する人間たちを逆手にとっているようなフレーズである。「悲しげ」な音楽は「獣」にこそしみわたるのか。作者カフカの人と獣の位置の逆転がこのフレーズの中をかすめる。池内紀の訳はそんな思いを抱かせる謎を孕ませている。もちろん、ここは、「獣だから、身にしみるのか。いや違う、獣になりきっていない人間だから、音楽が身にしみたのだろう」とも読める。城山良彦の訳は「これほど音楽に心を奪われても、彼は動物だろうか?」となっている。これだと、「獣だろうか」という、グレーゴルの「虫」性への疑問になっている。いずれにしても、ここで、虫と人ということを「獣」という言葉で、読者にもう一度喚起しているのだ。しかも、「身にしみる」という言葉ともどもに。そして、
ひそかに求めている未知の食べ物への道が示されたような気がした。妹のと
ころに進み出ようと、グレーゴルは決心した。スカートを引っぱって、それ
となく示すのだ。妹はヴァイオリンをもって自分の部屋に来るといい。この
部屋では甲斐がない。自分のもとでこそ演奏が生きてくる。そのあと、もう
部屋から出したくない。少なくとも自分が生きている限りは、出さないだろ
う。
カフカ『変身』池内紀訳
と、繋がっていくのだ。妹を活かすために、妹を自らのほうに引きずり込もうとする。それが、「未知の食べ物」への道になっている。もう一度、城山訳に触れれば、「未知の糧」となっている。「糧」となれば、生きる糧、目標、使命とも取れる。家族から脱落したグレーゴルは、ここで復帰への足がかりを見いだすと考えることができるのではないだろうか。しかし、虫であるグレーゴルにとって、それは「糧」よりも「食べ物」である。「未知」という言葉には、既知ではあり得ない既存でない奇妙な共生への示唆もある。さらに、この関係は、強制された制度ではないのだ。「妹は強いられてではなく、自分の意志で彼のもとにとどまるといい」と、グレーゴルは考えるのだ。鈴木の訳はここでもより強い。「妹は強制ではなく、自由意志で彼のところに留まらなくてはならない」となっている。そして、妹に音楽学校にやることを告げれば、「妹は感動のあまり泣き出すだろう」と想像する。ここで、何気なくグロテスクな文章が現れるのだ。
グレーゴルは立ち上がり、妹の肩のところにのび上がって、首すじにキスを
する。店に出るようになってから、リボンもカラーもつけていない。むき出
しの首すじだった。
祝福と情愛のキスなのだろう。しかし、虫が首すじにキスをするのだ。これは、はたから見たら、刺しているのではないだろうか。ここで、「食べ物」という訳が活きる。さらに、この虫の大きさから考えれば、ここにある「未知の食べ物」というとらえ方は、より歪んだ共生を連想させる。食事をしなくなっているグレーゴルは死を前にしている。死を前にして虫が持つであろう本能的な保存の営みの暗示も、ここには含まれているような気がする。ベンヤミンが『フランツ・カフカ』で書いているように「今日の人間も自己の身体のなかで生きて」いて、そこにグレーゴルのように内的葛藤がなかったとしても、「この身体は彼から滑り落ち、彼に敵対している」のである。「獣だからこそ」の文章が告げる、グレーゴルの宿命は、このグレーゴルの「未知」の見いだしとともに、破綻する。三人の間借人がグレーゴルの侵攻に気づくのである。そして、まさにその妹が、グレーゴルを家族の枠から追放する。グレーゴルが見つけた「ひそかに求めている未知の食べ物」が、グレーゴルに引導を渡す。
「お父さん、これしかないわ。これがグレーゴルだといった考えは捨てなく
ては。そう思っているかぎり、わたしたちの不幸はつづく。どうしてこれが
グレーゴルかしら?もしこれがグレーゴルなら、人間とこんな動物とがいっ
しょに住めないことに、とっくに気がついている。自分から出て行っている。
そうなると兄はいなくなるけど、暮らしていけるし、兄さんのことは大切に
覚えている。このへんな生き物は、わたしたちを追い払うのだわ、間借人を
追い出して、きっと住居をひとり占めにする。わたしたち、往来で寝なくち
ゃあならない。ほら、お父さん、ほら」
排除に向かう心的状況、不安がこのセリフの中に凝縮されている。グレーゴルの側からではない、家族の側の、グレーゴルという「権力」化されてしまったものへの怖れが排除と結びついている。そして、先ほど書いたグレーゴルの妹への思いが見事に断罪されているのだ。
しかし、仮に追い払われてしまった人間たちのあとに、この家に残ったとしてグレーゴルのそのときの姿はどういった様相を見せるのだろうか。グレーゴルは依存することでしか生きられないのかもしれない。枠から逸脱しながらも依存しなければならない、そこにも、この虫の置かれた状況があるのだ。
9
池内紀に導かれているのか。この解説が気になっていた。
カフカは注意深く書いている。主人公がいつも三方から見守られていると
いうこと。むしろ見張られている。家族で唯一の稼ぎ手であって、せっせと
働いてもらわなくてはならない。
池内紀『となりのカフカ』
虫になり部屋から出てこないグレーゴルに父、母、妹が三方から声をかける場面だ。この「見守られていること」の根拠を池内は「家族の稼ぎ手」という家族制度の中に見いだす。虫になったから「見守られている」のではない、すでに「三方」から「見守られている」存在なのだ。ここに、虫になる契機を見ることはできる。ベンヤミンは『フランツ・カフカ』の中で、マックス・ブロートによって伝えられた、ある短い会話として、次のようなカフカの会話を引きながら、思索を展開している。
「いやまさか」、と彼は言った、「われわれの世界はたんに神の不機嫌、調
子の悪い一日に過ぎないんだよ」。「それじゃ、われわれが知っている、世界
というこの現象形態の外には、希望があるというわけなのか」。彼は微笑んだ。
「ああ、希望は充分にある、無限に多くの希望がある。-ただ、われわれにと
って、ではないんだ」(「詩人フランツ・カフカ」一九二一年)。この言葉は、
カフカのあの最も奇妙な登場人物たちへの橋渡しをしてくれる。彼らは家族
の懐を逃れた唯一の存在であり、彼らにとってはもしかしたら希望というも
のがあるのかもしれない。それは動物たちではなく、猫羊やオドラデクとい
った、あの雑種たちや糸巻きのような存在でもない。これらすべてのものた
ちは、むしろまだ家族の呪縛のうちに生きている。グレゴール・ザムザが、
ほかならぬ両親の住居で毒虫として目覚める(『変身』一九一五年)のは理由
のないことではないし……
ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミン・コレクション2』から
『フランツ・カフカ』西村龍一訳
ベンヤミンの言う「希望」という言葉の難しさはあるのだが、カフカの「神の不機嫌」と、「われわれにとって」ではない「無限の希望」という言葉が制度の外と未知性をにじみ出している。その未知性は一体、何にとってなのだろう。川村二郎はここを引きながら、「ベンヤミンの『カフカ』論において最も異様な感銘を与えるのは、またしても、というべきか、「希望」についての実に独特なこだわり方である」と、ベンヤミンを解読していく。そして、希望があるものとないものの区別をするベンヤミンの言葉を受けて、
さし当り、グレーゴルたちのために希望が存在しないのは、家族の圏内
に彼らがいるからだという具合にベンヤミンの言葉を理解して敷衍すれば、
とにもかくにも何らかの庇護のもとにある者に外から希望をさし向ける必
要はないのだ、ということになろうか。グレーゴルが庇護されているかどう
か、すこぶる疑問だとしても。
川村二郎『アレゴリーの織物』
と、続けられる。
では、「われわれにとって」ではない「希望」は、どうやって、われわれの希望になりうるのだろうか。
当り前すぎることをいうが、希望はやはり人間のためにあるのでなければ、
そもそも存在理由はないはずなのだ。ただ、人間をめぐって、人間と関りの
ない希望を孕んだ生が、瘴気を孕んだ沼地のようにひろがり、人間をその気
にひたし、醜く縮ませる。その経過を通じて辛うじて、人間にも、そのため
に希望が与えられる生物としての可能性が生じるのだと、考えてよいのかも
しれない。
川村二郎『アレゴリーの織物』
できあいのヒューマニズムに溢れた啓蒙的希望とは違う。「無定型な生の沼地」、その「輪郭が定かでない」なにものかを、「名づけようもないと承知の上で任意の呼び方をあえてする方が、ほかならぬその命名を通じて、対象の名づけがたさを際立たせる時、客観的により誠実な態度ではなかろうか」と述べている。「沼」の沼としての見極めが、転位の契機を孕むと語っているのかもしれない。川村二郎はベンヤミンが書いた「カフカの小説は沼の世界で演ぜられる」という読みを解読していく。「ベンヤミンはただ、沼から現れた異形をカフカの世界に見定めながら、それらを逆転の契機を秘めた寓意的形象として受け取ろうとしている」と。そして、それは「希望なき者へ、ほかならぬその希望のなさ故に希望をさし向けるのも、同じ働きである」のだ。
『ベンヤミン・コレクション2』では「家族の呪縛のうち」と訳され、『アレゴリーの織物』の中では同じ箇所の引用は、「家族の勢力圏の内」と訳されているが、池内の「カフカは注意深く書いている」という部分の、「主人公がいつも三方から見守られているということ。むしろ見張られている。家族で唯一の稼ぎ手であって、せっせと働いてもらわなくてはならない。」という指摘も、この家族の中での位置が示唆されている。ただ、どうにも、「三方」からと「見張られている」という言い方が気になるのだ。これは、僕の中では三人の間借人と重なってしまう。ここに、家族制度の先の遠景を見ることもできるのではないだろうか。
プラハの町のカフカ。プラハに暮らすカフカの状況を『黄金のプラハ』という本が語っている。
カフカのようなユダヤ人は、当時、自分がドイツ人の目には「完全なドイ
ツ人」とは映らず、ユダヤ人と映っていることを意識させられた。しかも、
チェコ人の目には、自分がドイツ人ないしその同類と映っていることを意識
させられ、自分が(ドイツ人によって)排除されているドイツ人に属すると
いう、矛盾した状態に置かれていることを、意識させられた。
石川達夫『黄金のプラハ』
家族からのまなざしだけではなく、社会のまなざしにもさらされている、その存在の位置。
つまり、チェコ人、ドイツ人、ユダヤ人が混在し、三つどもえの緊張関係
にあったプラハという町のユダヤ人は、ドイツとチェコの二つの鏡に挟まれ
た、合わせ鏡状態に置かれ、矛盾した自己像に引き裂かれていたわけである。
石川達夫『黄金のプラハ』
虫が登場し、それを目撃してその存在を知ると家賃を払わずに解約すると言いだす三人の間借人。チェコの現代史にも思いは行く。
一つの時代の中で一回性だけを生きる作家が、宿命的に引き受ける作家自身の生は、その作品の中で、生の不可能を生きながら、絶望や放擲ではない作家の生を刻みつけるのだ。仮に作品の成立によって作家の死が告げられたとしても、だ。
10
グレーゴルの死の場面に向かう。
虫に消えて欲しいと願う父は繰り返す。「こいつに言葉がわかるようだとな」と。その言葉は、一方通行でありながら伝わっているかのように書かれている。部屋に戻るグレーゴルは死を迎える。
家族のことを懐しみと愛情をこめて思い返した。消え失せなくてはならない
と、たぶん、妹以上に彼自身が思い定めていた。むなしいような、そしてや
すらかな思いのなかで、グレーゴルは塔の時計が朝の三時を告げるまで、そ
のままじっとしていた。窓の外がしらみかけていくのに、なお立ち会った。
それから彼の頭が意志とかかわりなくガクリと落ちた。鼻孔から最後の息が
弱々しく流れ出た。
カフカ『変身』池内紀訳
しみるような死の場面である。しかし、小説はその後、父や母という表記から「ザムザ夫妻」へと表記を変えた家族が、間借人を追い出し手伝いの女をクビにし、三人そろって解放されたように郊外に出かける場面で終わる。池内紀も指摘していたが、その前に死の場面で時計が「三時」を告げるとして動き出しているのだ。さらにその前に家族の側で「時計が十時を打つと」という表現はあるが、グレーゴルの側で時間が動くのである。父や母がザムザ夫人となるように、時間はグレーゴルから社会的時間のほうに移行していく。グレーゴルの死によってひとつの時間も消滅する。死体は「すっかり平べたくなって、ひからびていた」。季節は「もう三月の終わり」である。春に一個の生は終える。
虫がグレーゴルであったという事実は、家族の中でだけ生きている。間借人にとって虫はこの家に寄生する、あるいはこの家族が飼っている異様な虫なのだ。グレーゴルの職場ではどうだろう。グレーゴルは出社しなくなったものというだけで片づくだろう。日常の中に忘却される存在の裏の存在があるのだ。こうなると、この小説を読んだあとでは、実際の虫をかつて人だったものとして見るとどうだろうと考えてしまったりする。人の言葉を解する、かつて人だった虫たち。依存しながらも、虫にとって、実は人とはやっかいな生き物かもしれない。
例えば、中島みゆきの「この空を飛べたら」の中の一節「人は 昔々 鳥だったのかもしれないね」や、長田弘の詩集『人はかつて樹だった』の、人であることに繋がっていく想像とは逆に、『変身』はかつて人だった虫の誕生と死が描かれている。自然からの逸脱が人間の悲しみを生む。そして、人は鳥や樹を見つめる。それは、「楽園追放」のイメージだと思う。ところが、人が人から滑り落ちてしまう。そこに楽園への帰還はない。それは神との関係なのか、人との関係なのか。「変身」という現象についての根の問いは消えない。例えば契約を破ることで何ものかに変えられる魔法があるとする。その契約は神となのか、悪魔となのか、そして人間となのか。どうしても思いは人が人を虫にする状況に向かってしまうのだが、このことだけでも、この小説『変身』の持つ多義性は思考の連鎖を生みだすのだ。そして、連鎖するのは思考だけではない。この小説の最終部分は「あたたかい陽射し」に包まれている。
夫婦は口数が少なくなった。ほとんど無意識のうちに、たがいに目で了解し
合って考えていた。そろそろ娘にいい相手を見つけてやるころあいだ。電車
が目的地に着いて、娘がいちばん先に立ち上がり、若いからだで伸びをした
とき、それが二人には、自分たちの新しい夢と、たのしいもくろみを保証し
ているような気がした。
カフカ『変身』池内紀訳
冒頭「不安な夢」から目覚めたグレーゴルに呼応するように「新しい夢」と未来への希望が小説を結ぶ「ような気がした」終わり方だ。小説の骨格を確かにしようとするラストと取れないことはないだろう。しかし、グレーゴルの死をラストにしなかった小説のラストなのだ。家族は、それぞれの日常を復帰させた。しかし、それは日常の継続でもあるのだ。グレーゴルの存在は、忘れられたもの、記憶の底に忘却されたものとなるのだろう。もし、虫がカフカ自身であったなら、作家カフカの小説背後への消滅は、ある決意なのかもしれない。そして、これは一回性で終わるだろう。しかし、この虫を一般化すれば、娘がむかえる「いい相手」は、家族の中で虫になる可能性を持ち続けることになるのだ。虫になったグレーゴルと継続してきた生活は、グレーゴルの死後の日常に繋がっている。
そして、カフカの小説背後での死であるとしても、一般化された虫の死と継続であるとしても、読者は様々な読みを展開する謎の現場に立ち会うことになるのだ。しかも、そこは、ロラン・バルトが「テクストの舞台には、客席との間の柵がない。テクストのうしろに、能動的な者(作者)もいない。テクストの前に、受動的な者(読者)もいない。主体も、対象もない」(『テクストの快楽』)と書いたような、まなざしが交錯する読みと書きの現場なのだ。ここに、作品の連鎖という、もう一つの連鎖が起動する場があるのだ。
さらに、これをカフカの側から言えば、ベンヤミンの「彼の力は、解釈できるもののなかで決して尽きてしまわず、むしろそのテクストの解釈に抵抗する」(『フランツ・カフカ』)となり、川村二郎も引いていたベンヤミンのカフカ寓話に対する有名な比喩「つぼみが展開して花開く」が出てくるのである。
合点のいかなさをめぐるベンヤミンの比喩はこうである。「大人が子供にやり方を教える折り紙の船は、展開して平たい一枚の紙になってしまう。」それは、「寓話には本来ふさわしいのであって、寓話を平らにし、その意味を手のひらに乗せてしまうという、読者の楽しみに適うもの」なのだが、カフカの寓話は「つぼみが花になるように展開する」というものだ。むしろ、『変身』以外のさらに寓話的な寓話に適した言葉なのかもしれないが、この『変身』でも、十分、解釈は解釈を呼び込み、連想は連想を生み、謎は宙づりになる。
カフカという特殊が、もちろん彼の生そのものが特殊というのではない、むしろ特権的地位の作家はカフカ以前のものなのかもしれないが、彼の置かれた環境において、このような想像力と創造性を発揮したカフカという特殊が、グレーゴルが虫になるという特殊を描きながら、その日常性を具体的克明に一般化し、普遍に至る。しかし、その普遍はむしろ普遍的何ものかを立ち上げるのではなく、あらゆる特殊の介在をもたらす。そこでは、実存主義的解釈が起これば、作家カフカの生活からの投影に、より解釈を見いだすべきだという主張が起こり、心理学的解釈や精神分析的解釈、神学的解釈、身体論など多くの読みが続いている。おそらく、そのどれもが面白いものなのだろう。で、ありながら、開かれた作品は閉じることはない。
川村二郎が、ベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』から引いている一節がある。
《名づけられず、ただ読まれること、しかもアレゴリーの信徒によって不正
確に読まれ、もっぱらアレゴリーの信徒の手によってきわめて意味深いもの
とされること、それは名づけられることに比べて、どれほど有意義だろうか。》
川村二郎『アレゴリーの織物』
そして、これに続けて「正確な読みというものがそもそも成り立たない対象に関しては、不正確な読みが正しいのだ、ということである」と、川村二郎は書いている。つまり、先に引用した「任意の呼び方」をあえてすることが「不正確な読み」になり、正確な読みの成り立たなさが「対象の名づけがたさ」になる。それは、また、「ああも呼びこうも呼ぶ方が、対象の性格に忠実に寄り添った行為でさえあり得よう」とする態度となる。ただし、「アレゴリーの信徒」にとってはなのだ。
この『アレゴリーの織物』では、ベンヤミンによるカフカ論の章は「カフカの沼」という章題になっている。その沼沢にあるカフカの作品の群れたち。ブクリと浮かんだあぶくのひとつが『変身』だった。しかし、このあぶく、球形はこの惑星の相似形であったのだ。つまりは、僕らの生きる時間なのである。
引用・参考・参照
カフカ『変身』池内紀訳(白水Uブックス)
『変身』からの引用は特記がないものはすべてこの本からだ。「グレーゴル」
の表記は、それぞれの引用文献に従った。
カフカ『変身』城山良彦訳(集英社ギャラリー「世界の文学」)
川村二郎『アレゴリーの織物』から「カフカの沼」(講談社)
川村二郎氏は2月8日の新聞で亡くなられたことが報道されていた。
ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミン・コレクション2』浅井健二郎編訳から「フランツ・カフカ」西村龍一訳(ちくま学芸文庫)
T・W・アドルノ『プリズメン』から「カフカおぼえ書き」渡辺祐邦、三原弟平訳(ちくま学芸文庫)
池内紀『となりのカフカ』から「第三章虫になった男」(光文社新書)
池内紀『カフカのかなたへ』から「変身譚」(講談社学術文庫)
木村敏『時間と自己』(中公新書)
内田樹『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』(海鳥社)
ミラン・クンデラ『小説の精神』から「そのうしろのどこかに」金井裕、浅野敏夫訳(法政大学出版局)
ロラン・バルト『テクストの快楽』沢崎浩平訳(みすず書房)
三原弟平『カフカ変身注釈』(平凡社)
石川達夫『黄金のプラハ』から「Ⅳ プラハのユダヤ人街をめぐって」(平凡社)
グレーゴルと家族との最後の交錯をどう考えるか。それは食事をしなくなったグレーゴルから繋がっていく問題なのだろう。「未知の食べ物」をどうとるか。グレーゴルの行動が、虫を抱えながら生活していたこの家族の平衡を壊す。グレーゴルを別室に封じ込めたままの、家族と間借人の食事。ヴァイオリンを弾く妹、あからさまに退屈する間借人。それに憤るグレーゴルの動き。気づかれないようにグレーゴルは部屋から妹のほうへ進み出る。間借人の「三人がそろって鼻や口からタバコの煙を吐き出す勢いからして、苛つきぶりが見てとれた。だが、妹はとても上手に弾いていたのだ。」と、グレーゴルの耳と目が動く。妹は「顔をわきに傾け、たしかめるように」そして、「悲しげに」楽譜を追っている。グレーゴルは「妹の眼差しに出くわすように」動く。妹にだけ気づかれようとしているのだ。妹を救えるのは自分しかいないかのようだ。ここで、問題の文章が入る。「獣だからこそ、それで音楽がこんなに身にしみるのか?」という文章だ。音楽に退屈する人間たちを逆手にとっているようなフレーズである。「悲しげ」な音楽は「獣」にこそしみわたるのか。作者カフカの人と獣の位置の逆転がこのフレーズの中をかすめる。池内紀の訳はそんな思いを抱かせる謎を孕ませている。もちろん、ここは、「獣だから、身にしみるのか。いや違う、獣になりきっていない人間だから、音楽が身にしみたのだろう」とも読める。城山良彦の訳は「これほど音楽に心を奪われても、彼は動物だろうか?」となっている。これだと、「獣だろうか」という、グレーゴルの「虫」性への疑問になっている。いずれにしても、ここで、虫と人ということを「獣」という言葉で、読者にもう一度喚起しているのだ。しかも、「身にしみる」という言葉ともどもに。そして、
ひそかに求めている未知の食べ物への道が示されたような気がした。妹のと
ころに進み出ようと、グレーゴルは決心した。スカートを引っぱって、それ
となく示すのだ。妹はヴァイオリンをもって自分の部屋に来るといい。この
部屋では甲斐がない。自分のもとでこそ演奏が生きてくる。そのあと、もう
部屋から出したくない。少なくとも自分が生きている限りは、出さないだろ
う。
カフカ『変身』池内紀訳
と、繋がっていくのだ。妹を活かすために、妹を自らのほうに引きずり込もうとする。それが、「未知の食べ物」への道になっている。もう一度、城山訳に触れれば、「未知の糧」となっている。「糧」となれば、生きる糧、目標、使命とも取れる。家族から脱落したグレーゴルは、ここで復帰への足がかりを見いだすと考えることができるのではないだろうか。しかし、虫であるグレーゴルにとって、それは「糧」よりも「食べ物」である。「未知」という言葉には、既知ではあり得ない既存でない奇妙な共生への示唆もある。さらに、この関係は、強制された制度ではないのだ。「妹は強いられてではなく、自分の意志で彼のもとにとどまるといい」と、グレーゴルは考えるのだ。鈴木の訳はここでもより強い。「妹は強制ではなく、自由意志で彼のところに留まらなくてはならない」となっている。そして、妹に音楽学校にやることを告げれば、「妹は感動のあまり泣き出すだろう」と想像する。ここで、何気なくグロテスクな文章が現れるのだ。
グレーゴルは立ち上がり、妹の肩のところにのび上がって、首すじにキスを
する。店に出るようになってから、リボンもカラーもつけていない。むき出
しの首すじだった。
祝福と情愛のキスなのだろう。しかし、虫が首すじにキスをするのだ。これは、はたから見たら、刺しているのではないだろうか。ここで、「食べ物」という訳が活きる。さらに、この虫の大きさから考えれば、ここにある「未知の食べ物」というとらえ方は、より歪んだ共生を連想させる。食事をしなくなっているグレーゴルは死を前にしている。死を前にして虫が持つであろう本能的な保存の営みの暗示も、ここには含まれているような気がする。ベンヤミンが『フランツ・カフカ』で書いているように「今日の人間も自己の身体のなかで生きて」いて、そこにグレーゴルのように内的葛藤がなかったとしても、「この身体は彼から滑り落ち、彼に敵対している」のである。「獣だからこそ」の文章が告げる、グレーゴルの宿命は、このグレーゴルの「未知」の見いだしとともに、破綻する。三人の間借人がグレーゴルの侵攻に気づくのである。そして、まさにその妹が、グレーゴルを家族の枠から追放する。グレーゴルが見つけた「ひそかに求めている未知の食べ物」が、グレーゴルに引導を渡す。
「お父さん、これしかないわ。これがグレーゴルだといった考えは捨てなく
ては。そう思っているかぎり、わたしたちの不幸はつづく。どうしてこれが
グレーゴルかしら?もしこれがグレーゴルなら、人間とこんな動物とがいっ
しょに住めないことに、とっくに気がついている。自分から出て行っている。
そうなると兄はいなくなるけど、暮らしていけるし、兄さんのことは大切に
覚えている。このへんな生き物は、わたしたちを追い払うのだわ、間借人を
追い出して、きっと住居をひとり占めにする。わたしたち、往来で寝なくち
ゃあならない。ほら、お父さん、ほら」
排除に向かう心的状況、不安がこのセリフの中に凝縮されている。グレーゴルの側からではない、家族の側の、グレーゴルという「権力」化されてしまったものへの怖れが排除と結びついている。そして、先ほど書いたグレーゴルの妹への思いが見事に断罪されているのだ。
しかし、仮に追い払われてしまった人間たちのあとに、この家に残ったとしてグレーゴルのそのときの姿はどういった様相を見せるのだろうか。グレーゴルは依存することでしか生きられないのかもしれない。枠から逸脱しながらも依存しなければならない、そこにも、この虫の置かれた状況があるのだ。
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池内紀に導かれているのか。この解説が気になっていた。
カフカは注意深く書いている。主人公がいつも三方から見守られていると
いうこと。むしろ見張られている。家族で唯一の稼ぎ手であって、せっせと
働いてもらわなくてはならない。
池内紀『となりのカフカ』
虫になり部屋から出てこないグレーゴルに父、母、妹が三方から声をかける場面だ。この「見守られていること」の根拠を池内は「家族の稼ぎ手」という家族制度の中に見いだす。虫になったから「見守られている」のではない、すでに「三方」から「見守られている」存在なのだ。ここに、虫になる契機を見ることはできる。ベンヤミンは『フランツ・カフカ』の中で、マックス・ブロートによって伝えられた、ある短い会話として、次のようなカフカの会話を引きながら、思索を展開している。
「いやまさか」、と彼は言った、「われわれの世界はたんに神の不機嫌、調
子の悪い一日に過ぎないんだよ」。「それじゃ、われわれが知っている、世界
というこの現象形態の外には、希望があるというわけなのか」。彼は微笑んだ。
「ああ、希望は充分にある、無限に多くの希望がある。-ただ、われわれにと
って、ではないんだ」(「詩人フランツ・カフカ」一九二一年)。この言葉は、
カフカのあの最も奇妙な登場人物たちへの橋渡しをしてくれる。彼らは家族
の懐を逃れた唯一の存在であり、彼らにとってはもしかしたら希望というも
のがあるのかもしれない。それは動物たちではなく、猫羊やオドラデクとい
った、あの雑種たちや糸巻きのような存在でもない。これらすべてのものた
ちは、むしろまだ家族の呪縛のうちに生きている。グレゴール・ザムザが、
ほかならぬ両親の住居で毒虫として目覚める(『変身』一九一五年)のは理由
のないことではないし……
ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミン・コレクション2』から
『フランツ・カフカ』西村龍一訳
ベンヤミンの言う「希望」という言葉の難しさはあるのだが、カフカの「神の不機嫌」と、「われわれにとって」ではない「無限の希望」という言葉が制度の外と未知性をにじみ出している。その未知性は一体、何にとってなのだろう。川村二郎はここを引きながら、「ベンヤミンの『カフカ』論において最も異様な感銘を与えるのは、またしても、というべきか、「希望」についての実に独特なこだわり方である」と、ベンヤミンを解読していく。そして、希望があるものとないものの区別をするベンヤミンの言葉を受けて、
さし当り、グレーゴルたちのために希望が存在しないのは、家族の圏内
に彼らがいるからだという具合にベンヤミンの言葉を理解して敷衍すれば、
とにもかくにも何らかの庇護のもとにある者に外から希望をさし向ける必
要はないのだ、ということになろうか。グレーゴルが庇護されているかどう
か、すこぶる疑問だとしても。
川村二郎『アレゴリーの織物』
と、続けられる。
では、「われわれにとって」ではない「希望」は、どうやって、われわれの希望になりうるのだろうか。
当り前すぎることをいうが、希望はやはり人間のためにあるのでなければ、
そもそも存在理由はないはずなのだ。ただ、人間をめぐって、人間と関りの
ない希望を孕んだ生が、瘴気を孕んだ沼地のようにひろがり、人間をその気
にひたし、醜く縮ませる。その経過を通じて辛うじて、人間にも、そのため
に希望が与えられる生物としての可能性が生じるのだと、考えてよいのかも
しれない。
川村二郎『アレゴリーの織物』
できあいのヒューマニズムに溢れた啓蒙的希望とは違う。「無定型な生の沼地」、その「輪郭が定かでない」なにものかを、「名づけようもないと承知の上で任意の呼び方をあえてする方が、ほかならぬその命名を通じて、対象の名づけがたさを際立たせる時、客観的により誠実な態度ではなかろうか」と述べている。「沼」の沼としての見極めが、転位の契機を孕むと語っているのかもしれない。川村二郎はベンヤミンが書いた「カフカの小説は沼の世界で演ぜられる」という読みを解読していく。「ベンヤミンはただ、沼から現れた異形をカフカの世界に見定めながら、それらを逆転の契機を秘めた寓意的形象として受け取ろうとしている」と。そして、それは「希望なき者へ、ほかならぬその希望のなさ故に希望をさし向けるのも、同じ働きである」のだ。
『ベンヤミン・コレクション2』では「家族の呪縛のうち」と訳され、『アレゴリーの織物』の中では同じ箇所の引用は、「家族の勢力圏の内」と訳されているが、池内の「カフカは注意深く書いている」という部分の、「主人公がいつも三方から見守られているということ。むしろ見張られている。家族で唯一の稼ぎ手であって、せっせと働いてもらわなくてはならない。」という指摘も、この家族の中での位置が示唆されている。ただ、どうにも、「三方」からと「見張られている」という言い方が気になるのだ。これは、僕の中では三人の間借人と重なってしまう。ここに、家族制度の先の遠景を見ることもできるのではないだろうか。
プラハの町のカフカ。プラハに暮らすカフカの状況を『黄金のプラハ』という本が語っている。
カフカのようなユダヤ人は、当時、自分がドイツ人の目には「完全なドイ
ツ人」とは映らず、ユダヤ人と映っていることを意識させられた。しかも、
チェコ人の目には、自分がドイツ人ないしその同類と映っていることを意識
させられ、自分が(ドイツ人によって)排除されているドイツ人に属すると
いう、矛盾した状態に置かれていることを、意識させられた。
石川達夫『黄金のプラハ』
家族からのまなざしだけではなく、社会のまなざしにもさらされている、その存在の位置。
つまり、チェコ人、ドイツ人、ユダヤ人が混在し、三つどもえの緊張関係
にあったプラハという町のユダヤ人は、ドイツとチェコの二つの鏡に挟まれ
た、合わせ鏡状態に置かれ、矛盾した自己像に引き裂かれていたわけである。
石川達夫『黄金のプラハ』
虫が登場し、それを目撃してその存在を知ると家賃を払わずに解約すると言いだす三人の間借人。チェコの現代史にも思いは行く。
一つの時代の中で一回性だけを生きる作家が、宿命的に引き受ける作家自身の生は、その作品の中で、生の不可能を生きながら、絶望や放擲ではない作家の生を刻みつけるのだ。仮に作品の成立によって作家の死が告げられたとしても、だ。
10
グレーゴルの死の場面に向かう。
虫に消えて欲しいと願う父は繰り返す。「こいつに言葉がわかるようだとな」と。その言葉は、一方通行でありながら伝わっているかのように書かれている。部屋に戻るグレーゴルは死を迎える。
家族のことを懐しみと愛情をこめて思い返した。消え失せなくてはならない
と、たぶん、妹以上に彼自身が思い定めていた。むなしいような、そしてや
すらかな思いのなかで、グレーゴルは塔の時計が朝の三時を告げるまで、そ
のままじっとしていた。窓の外がしらみかけていくのに、なお立ち会った。
それから彼の頭が意志とかかわりなくガクリと落ちた。鼻孔から最後の息が
弱々しく流れ出た。
カフカ『変身』池内紀訳
しみるような死の場面である。しかし、小説はその後、父や母という表記から「ザムザ夫妻」へと表記を変えた家族が、間借人を追い出し手伝いの女をクビにし、三人そろって解放されたように郊外に出かける場面で終わる。池内紀も指摘していたが、その前に死の場面で時計が「三時」を告げるとして動き出しているのだ。さらにその前に家族の側で「時計が十時を打つと」という表現はあるが、グレーゴルの側で時間が動くのである。父や母がザムザ夫人となるように、時間はグレーゴルから社会的時間のほうに移行していく。グレーゴルの死によってひとつの時間も消滅する。死体は「すっかり平べたくなって、ひからびていた」。季節は「もう三月の終わり」である。春に一個の生は終える。
虫がグレーゴルであったという事実は、家族の中でだけ生きている。間借人にとって虫はこの家に寄生する、あるいはこの家族が飼っている異様な虫なのだ。グレーゴルの職場ではどうだろう。グレーゴルは出社しなくなったものというだけで片づくだろう。日常の中に忘却される存在の裏の存在があるのだ。こうなると、この小説を読んだあとでは、実際の虫をかつて人だったものとして見るとどうだろうと考えてしまったりする。人の言葉を解する、かつて人だった虫たち。依存しながらも、虫にとって、実は人とはやっかいな生き物かもしれない。
例えば、中島みゆきの「この空を飛べたら」の中の一節「人は 昔々 鳥だったのかもしれないね」や、長田弘の詩集『人はかつて樹だった』の、人であることに繋がっていく想像とは逆に、『変身』はかつて人だった虫の誕生と死が描かれている。自然からの逸脱が人間の悲しみを生む。そして、人は鳥や樹を見つめる。それは、「楽園追放」のイメージだと思う。ところが、人が人から滑り落ちてしまう。そこに楽園への帰還はない。それは神との関係なのか、人との関係なのか。「変身」という現象についての根の問いは消えない。例えば契約を破ることで何ものかに変えられる魔法があるとする。その契約は神となのか、悪魔となのか、そして人間となのか。どうしても思いは人が人を虫にする状況に向かってしまうのだが、このことだけでも、この小説『変身』の持つ多義性は思考の連鎖を生みだすのだ。そして、連鎖するのは思考だけではない。この小説の最終部分は「あたたかい陽射し」に包まれている。
夫婦は口数が少なくなった。ほとんど無意識のうちに、たがいに目で了解し
合って考えていた。そろそろ娘にいい相手を見つけてやるころあいだ。電車
が目的地に着いて、娘がいちばん先に立ち上がり、若いからだで伸びをした
とき、それが二人には、自分たちの新しい夢と、たのしいもくろみを保証し
ているような気がした。
カフカ『変身』池内紀訳
冒頭「不安な夢」から目覚めたグレーゴルに呼応するように「新しい夢」と未来への希望が小説を結ぶ「ような気がした」終わり方だ。小説の骨格を確かにしようとするラストと取れないことはないだろう。しかし、グレーゴルの死をラストにしなかった小説のラストなのだ。家族は、それぞれの日常を復帰させた。しかし、それは日常の継続でもあるのだ。グレーゴルの存在は、忘れられたもの、記憶の底に忘却されたものとなるのだろう。もし、虫がカフカ自身であったなら、作家カフカの小説背後への消滅は、ある決意なのかもしれない。そして、これは一回性で終わるだろう。しかし、この虫を一般化すれば、娘がむかえる「いい相手」は、家族の中で虫になる可能性を持ち続けることになるのだ。虫になったグレーゴルと継続してきた生活は、グレーゴルの死後の日常に繋がっている。
そして、カフカの小説背後での死であるとしても、一般化された虫の死と継続であるとしても、読者は様々な読みを展開する謎の現場に立ち会うことになるのだ。しかも、そこは、ロラン・バルトが「テクストの舞台には、客席との間の柵がない。テクストのうしろに、能動的な者(作者)もいない。テクストの前に、受動的な者(読者)もいない。主体も、対象もない」(『テクストの快楽』)と書いたような、まなざしが交錯する読みと書きの現場なのだ。ここに、作品の連鎖という、もう一つの連鎖が起動する場があるのだ。
さらに、これをカフカの側から言えば、ベンヤミンの「彼の力は、解釈できるもののなかで決して尽きてしまわず、むしろそのテクストの解釈に抵抗する」(『フランツ・カフカ』)となり、川村二郎も引いていたベンヤミンのカフカ寓話に対する有名な比喩「つぼみが展開して花開く」が出てくるのである。
合点のいかなさをめぐるベンヤミンの比喩はこうである。「大人が子供にやり方を教える折り紙の船は、展開して平たい一枚の紙になってしまう。」それは、「寓話には本来ふさわしいのであって、寓話を平らにし、その意味を手のひらに乗せてしまうという、読者の楽しみに適うもの」なのだが、カフカの寓話は「つぼみが花になるように展開する」というものだ。むしろ、『変身』以外のさらに寓話的な寓話に適した言葉なのかもしれないが、この『変身』でも、十分、解釈は解釈を呼び込み、連想は連想を生み、謎は宙づりになる。
カフカという特殊が、もちろん彼の生そのものが特殊というのではない、むしろ特権的地位の作家はカフカ以前のものなのかもしれないが、彼の置かれた環境において、このような想像力と創造性を発揮したカフカという特殊が、グレーゴルが虫になるという特殊を描きながら、その日常性を具体的克明に一般化し、普遍に至る。しかし、その普遍はむしろ普遍的何ものかを立ち上げるのではなく、あらゆる特殊の介在をもたらす。そこでは、実存主義的解釈が起これば、作家カフカの生活からの投影に、より解釈を見いだすべきだという主張が起こり、心理学的解釈や精神分析的解釈、神学的解釈、身体論など多くの読みが続いている。おそらく、そのどれもが面白いものなのだろう。で、ありながら、開かれた作品は閉じることはない。
川村二郎が、ベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』から引いている一節がある。
《名づけられず、ただ読まれること、しかもアレゴリーの信徒によって不正
確に読まれ、もっぱらアレゴリーの信徒の手によってきわめて意味深いもの
とされること、それは名づけられることに比べて、どれほど有意義だろうか。》
川村二郎『アレゴリーの織物』
そして、これに続けて「正確な読みというものがそもそも成り立たない対象に関しては、不正確な読みが正しいのだ、ということである」と、川村二郎は書いている。つまり、先に引用した「任意の呼び方」をあえてすることが「不正確な読み」になり、正確な読みの成り立たなさが「対象の名づけがたさ」になる。それは、また、「ああも呼びこうも呼ぶ方が、対象の性格に忠実に寄り添った行為でさえあり得よう」とする態度となる。ただし、「アレゴリーの信徒」にとってはなのだ。
この『アレゴリーの織物』では、ベンヤミンによるカフカ論の章は「カフカの沼」という章題になっている。その沼沢にあるカフカの作品の群れたち。ブクリと浮かんだあぶくのひとつが『変身』だった。しかし、このあぶく、球形はこの惑星の相似形であったのだ。つまりは、僕らの生きる時間なのである。
引用・参考・参照
カフカ『変身』池内紀訳(白水Uブックス)
『変身』からの引用は特記がないものはすべてこの本からだ。「グレーゴル」
の表記は、それぞれの引用文献に従った。
カフカ『変身』城山良彦訳(集英社ギャラリー「世界の文学」)
川村二郎『アレゴリーの織物』から「カフカの沼」(講談社)
川村二郎氏は2月8日の新聞で亡くなられたことが報道されていた。
ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミン・コレクション2』浅井健二郎編訳から「フランツ・カフカ」西村龍一訳(ちくま学芸文庫)
T・W・アドルノ『プリズメン』から「カフカおぼえ書き」渡辺祐邦、三原弟平訳(ちくま学芸文庫)
池内紀『となりのカフカ』から「第三章虫になった男」(光文社新書)
池内紀『カフカのかなたへ』から「変身譚」(講談社学術文庫)
木村敏『時間と自己』(中公新書)
内田樹『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』(海鳥社)
ミラン・クンデラ『小説の精神』から「そのうしろのどこかに」金井裕、浅野敏夫訳(法政大学出版局)
ロラン・バルト『テクストの快楽』沢崎浩平訳(みすず書房)
三原弟平『カフカ変身注釈』(平凡社)
石川達夫『黄金のプラハ』から「Ⅳ プラハのユダヤ人街をめぐって」(平凡社)
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