パオと高床

あこがれの移動と定住

村田譲「かぐやの夜(2)」(「饗宴 58号」2010初夏号)

2010-06-26 12:05:16 | 雑誌・詩誌・同人誌から
福岡の同人誌の次は北海道からの詩とエッセイの饗宴。

冒頭、嘉藤師穂子さんの詩論「逍遙―塚本邦雄」が、「現代詩が善良な飼殺し市民の就眠儀式の歌となってすでに久しい」と、塚本邦雄の言葉に託して、現在の詩状況の一端に対し問いを投げかけている。短歌界でも今、前衛短歌といわれた作家たちへの問い直しがなされているように思うのだが、塚本邦雄、岡井隆それに寺山修司とかも加えての詩的営為は刺激的だと思う。詩誌の冒頭に詩論がくるというのも刺激的だ。

詩が9編、エッセイ4編と詩論、さらに連載エッセイとして瀬戸正昭さんの「林檎屋主人日録(抄)」が掲載されている。この「日録」が面白い。淡々とした語り口の日録という記録に徹しながら、ちょいと日録からこぼれる感慨のようなものが、抑制された言葉で、ポロリとあるところがいい。例えば、モーツァルトの交響曲25番を聞いて「メヌエットのトリオは、雨上がりの虹のごとし」とか。誘われたり、集まりであったりで飲酒したあとの「お誘いがあり、酩酊で帰宅」とか。ただ記されている「暗鬱な日。耐える」といった言葉に引かれた。

で、詩だが、9編のうち3編が連作。「饗宴」の詩は、どれも読ませる。その中から村田譲さんの「かぐやの夜(2)」。注釈で「セレーネキャンペーン」について「『かぐや』(正式名称、セレーネ)に、月への願いと名前が搭載されている。世界中から約41万人の応募があった。」と記されている。

不安の満月に
照らしだされる夜の宴に
サンゴが一斉に産卵する
切り離された球体
淡い雪が
夏の海の下から 降りそそぐ
こんにちはーと透きとおる潮の
流れにのせて
散り散りに咲き誇る

ぷつぷつと幼生のアンテナ
泡立てながら差しだす
月へと贈る言葉を
月周回衛星かぐやに託そうと
種子島まで打ちよせる砂粒に
混じって思いの星々
わたしの名前と一緒に
刻んで ちいさく
銀色のプレートに搭載したなら
先端を伸ばして突き抜ける

戻ることのない姫君のカウントダウンを
数える人差し指に巻きついて
重ねあわせる掌に 願い事
午前一○時三十一分 かぐやが旅立つ
腹にためた息をはぜながら
赤く雲を染めあげて昼を去り
逃げる月を追ってメッセージが空を登る

サンゴの銀河から
あなたへの掛け橋
伝播した便りを届けるから
孵化するまで待っていて
月に願いが
たどりつくまで
          村田護「かぐやの夜(2)」(全編)

書き出しの「不安の満月に/照らしだされる夜の宴に」で、満月の頃に産卵するサンゴの様子が一気に像を結ぶ。そして、一連ではそのサンゴの産卵が「淡い雪」という比喩で語られる。海面を白くし、バンドルと呼ばれるカプセルが水面へ浮いていくさまを「夏の海の下から 降りそそぐ」と表現している。下からそそぐと、上下を転倒させて表現している。実はこれが何だか宇宙の上下のない感覚や地球から宇宙を見る感覚と呼応しているのだ。そして、二連でサンゴの海宇宙は、「かぐや」のたどる空宇宙と交錯する。波に乗るサンゴのバンドルのように人々の思いも波に乗って、まず種子島まで行く。そこで「かぐや」に出会うのだ。サンゴ、思いの星々、わたし、かぐやを第二連で出会わせる。そして、第三連の「かぐや」が実際に打ち上げられた時刻の記述に行く。深読みすれば、サンゴ産卵の夜との表裏をなす時刻の重なりも読める。「腹にためた息をはぜながら」もサンゴと重なる。そして、「赤く雲を染めあげて昼を去り/逃げる月を追って」という詩句に繋がっていく。この2行が時間の経過をうまく刻んでいると思う。白い月が見えるようで、そこへと地上から打ち上げられたものの軌跡がたどれるのだ。あとは願いの伝播があればいい。
「かぐやの夜(1)」の時にも思ったが、肉声にのせて朗読されることを待っているような息づかいがある。

他には吉村伊紅美さんの「魚篇・公魚(わかさぎ)」。

二人で暮らし始めて
わたしが初めて作った料理は
公魚のマリネ漬けだった

彼が仕事から帰るまでの時間を
ひたすら公魚のマリネ作りに
没頭したわけではない
でも新鮮な公魚を魚屋で見つけ
一時間の道のりをバスに乗って
小さなアパートに戻るまでの午前中は
買い物に費やした
          吉村伊紅美「魚篇・公魚(わかさぎ)」(冒頭)

このように書き始められる。ここには語られた物語がありながら、さらに詩の中に封じられた、より語られていない物語がある。その気配が、時間の経過を伴って、「公魚のマリネ漬け」の中にきちんと描かれている。マリネ作りの手際や食べる場面が書かれていきながら、最終行の見事な着地に至るのだ。詩の物語は、こういうありかたができるのだと思わせてくれた一編だった。
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安河内律子「自転車は前のめり」(「季刊午前 42号」2010/3/31)

2010-06-23 11:14:36 | 雑誌・詩誌・同人誌から
「季刊午前」という雑誌は、総合文芸誌の形態を持った福岡の同人誌である。今号は小説3編、詩が6編、エッセイ4編が掲載されている。詩6編の中には井本元義さんの32ページにもわたる「ロッシュ村幻影」という作品もある。この作品はランボーを求めて遍歴する者を主人公に、随想から散文詩、行わけ詩へと至っていく大作である。
で、今回、ここで紹介するのは、安河内律子さんの「自転車は前のめり」。

君の自転車が消えた夜
空では双子の星が三日月を追いかけた
ちぎれたチェーンだけを残し
闇の中でしきりに振り返りながら
無理失理連れ去られた君の相棒

月明かりが道も人も白くする夜
暮らしをたすけた相棒を捜し求める君の目の前
キナ臭い群れが走り去る
塗り替えられた自転車は群れの中
ワタシはここだと叫んでいる

足早な双子の星が脹らむ月を追い抜いて
地上を霧が覆う朝
抗えない相棒たちは覚悟を決める
乗り手の体は霧に溶け
自転車だけが突き進むのは血煙の中
          安河内律子「自転車は前のめり」(全編)

寓意性を持った詩である。その寓意が、寓話の形を持って語りとして成立している。その語りの表れのひとつが、記述されている時間の経過なのかもしれない。一連「自転車が消えた夜」「双子の星が三日月を追いかけた」で時間が描かれる。それが第二連では「月明かり」が「白くする夜」となり、その間の時の流れを書きとめる。そして、三連の「双子の星」が「脹らむ月を追い抜いて」でさらにまた、時間が経ったことを読み手に告げて、「霧が覆う朝」へと至る。そう、これは寓話あるいは童話や昔話での時刻告げの手法である。語り手が聞き手に「それはそれは、遠い昔のことだった」と語るような口調で、「星が三日月を追いかけた夜じゃった」と語っているようなのだ。

そして、寓意は一点の事象、物事にこだわっていく。そうすることで、その事象、物事が持つ意味の多様性が導かれるかのように。それが、ここでは自転車である。消えた自転車、塗り替えられた自転車、そして覚悟を決めた突き進む自転車。しかも、それは「相棒」であったものなのだ。読み手は、ここに何を読み込んでもいいのであろう。
例えば、ボクはここに二つのものを読みとった。ひとつは平和の観念である。平和の象徴の鳩は、ここでは自転車になっている。様々な紛争の正当性を主張するものとして連れ去られてしまった平和という観念を読みとった。
もうひとつは、自転車に象徴されるテクノロジー。これもテクノロジー自体が人の手を離れ、それとして人を逆に攻撃してくる脅威をもつものとして考えられるのではないかと思ったのだ。
これらの連想は、最終行の「血煙の中」から発しているのかもしれない。この「血煙」という言葉に作者は、ある異物感を込めているのかもしれない。あるいは、ここに無意識の介入があるのか。

いずれにしても、こてこてに意味づけして読むと、作者から、「読者は前のめり」といって笑われそうな気もするが。そう、寓意は寓意としてあって、意味づけの枠の中に収まったら、寓意の想像力は失われるのかもしれないのだ。示されるものは何なのか、あれこれ考える楽しみを提供しながらも、そのままの話として成立している一編ではないだろうか。
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梅津時比古『《セロ弾きのゴーシュ》の音楽論』(東京書籍)

2010-06-18 22:46:02 | 国内・エッセイ・評論
副題は「音楽の近代主義を超えて」となっている。宮澤賢治の童話『セロ弾きのゴーシュ』をたどりながら、演奏論、演奏家論を展開していく。
作者がプロローグで書いているように、ここには「ゴーシュのセロとともに内なるアンサンブルを奏でながら、近代主義を超えた、来たるべき演奏についての、新たな探求の旅」があるように思える。展開されるのは、作家論や作品論ではなく、音楽を響かせるその要素からアプローチされる「演奏論」であり、音楽がなる場合に、その奏でられた音楽が,どのようにして成り立っていて、響いているのか、また、それをとらえる言葉の環境がどのようなものなのかまで考えさせられる。そこには、近代合理主義への、効率性と便宜普及性に軸を置いた近代合理主義への反省と問いかけがある。

章立ては、第一章が「楽器の思想」、二章が「テクニックの思想」、三章が「音程の思想」という三部構成である。

一章の「楽器の思想」では、ゴーシュのセロの問題に触れ、宮澤賢治自体が手にしただろう穴あきセロの話から、楽器という演奏家にとっての「死活問題」に言及していく。そして、名器と呼ばれた楽器の持つ特性について語りながら、楽器を手段と見る二元性から、楽器を表現の核ととらえ、「楽器と演奏者との関係性が、音楽を表現する主体の中に組み込まれている」と転換させる。身体性と身体の関係性である「間身体性」という現象学の考えを導き出しながら、楽器の身体性を語り、そこに演奏家との間身体性、間主観性を見出していくのだ。
二章では、さらにテクニックの問題をめぐって、「表現を伝えるための技術」である「テクニック」と、「機械的な指の動きの技術」である「メカニズム」を分けて、それをめぐる従来の考えに宿る近代性を批判しながら、身体の回復を問いかけていく。と、書くと何だろうという感じだが、実際はカラヤンとフルトヴェングラーをめぐる近代性の差異を語って近代合理主義と商業主義の問題に触れたり、伝達の一元化を避ける伝達するものとされるものの多様性と発信者と受信者の相互主体的なコミュニケーション論を援用しながら、表現の相互主体性を語ったり、そこにある身体性としての演奏を知へと転倒させてしまう近代的知の問題をバタイユなどから語り明かしたりしていく。ここでは、実は感動の実際がどこにあるのかをおいかけているような気がする。
そして、三章。ボクはここが一番面白かったのだが、調律におけるピアノの平均律の限界に触れながら、ずれの存在を語り、それをなくそうとする動きと同様に、その解消の先にある微妙な音程のずらしが、いかに音を豊かにしているかが語られる。数値を大切にする音程だが、それが数値だけに限定されず「完全なる調和」のありかを求めて数値を超えていく様子がスリリングなのだ。「調律の芸術」と書かれた調律師と演奏家との音をめぐる関係は、すごい。ピタゴラスコンマと呼ばれるずれや「平均律」という訳語を誤訳とし、「快適音律」という訳や「よりよくなだめすかされた調律法」という説明をしている人の紹介なども興味深かった。

とにかく、この作者の本は面白い。
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坂多瑩子「立ち話」(「ぶらんこのり 9号」2010/6/10)

2010-06-15 07:49:17 | 雑誌・詩誌・同人誌から
坂多瑩子さん、坂田子さん、中井ひさ子さんという三人の方の詩誌。

「立ち話」は冒頭の詩。書かれた言葉から、その言葉の中を動く楽しさを味わえる詩と、そこにある言葉からその言葉の背景に包まれることが何か立体感を伴って心地よい詩がある。もちろん、その一方にのみ傾斜していく詩があるように、その一方だけではなく両方のバランスを行き来する詩もある。言葉は記述されることを望むのか、記述されないことを望むのか。
この詩は、書かれた言葉が、その言葉を包み込む情感を醸し出して、その中にいることを感じとっていたい、その背景の中にいたいと思わせてくれる詩かもしれない。

献体を申し込んできたと
八十七歳になる一人暮らしの隣人が言った
死んだらすぐ行かなくちゃあならないから
とても忙しそうな顔をして
近所には内緒だそうだ
葬儀は身内だけで簡単にすませると言う
たしかに
献体は
新鮮さがいい
そうしなさい
ある朝 そうしゃべった
          坂多瑩子「立ち話」(全編)

抑制というか、その言葉の醸すユーモアのために、ある種、慎重に、言葉が出てくる。ひそひそ話の快感かな。「死んだらすぐ」や「とても忙しそうな顔」や「近所には内緒」が妙にリアルでおかしみをもっている。しかも、ただおかしみだけではなく、何かちょっとドキリとするものがあるのだ。だが、これは生きている側からの、生きている側が持つ確かさのようなものを持っている。そして、そのドキリという感覚は「献体は/新鮮さがいい」というフレーズに繋がっていく。レアな生ものの感覚。で、ラスト「ある朝 そうしゃべった」で、急に詩は物語空間の中に踏み出すような終わり方をする。この背景には立ち話の朝の空気があるのだ。晴れた朝のすがすがしい空気の中での立ち話の現場。そこで「私」がしゃべった言葉は「そうしなさい」。朝の、あっけらかんとした、存在を包み込むようで突き放している朝の空気が溢れる。

他に同じ作者の「母その後」では、夢の中に、夢の重さの実感を持って入りこませてくれる。また、中井ひさ子さんの「またなの」は、こんな書き出しの詩。

こんな日は
考える人になって と
公園のベンチに座っていたら

昨日言ってしまった
ひと事が
からだのすき間から
聞こえてきて
ちりちり 痛いよ

またなの と

ラクダが
けむたげな目をして
通り過ぎていく
          中井ひさ子「またなの」(一部)

この詩も書かれた言葉の背景に物語が溢れている。そして、読者を公園の空気の中に連れ出してくれる。そこには通り過ぎるラクダがいるのだ。
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夏目房之介『書って何だろう?』(二玄社)

2010-06-11 03:13:20 | 国内・エッセイ・評論
「書」というとすぐに石川九楊を思い浮かべてしまうのだが、それもきっと見識のなさのせいで、「書」に関する本は実は面白い本がたくさんあるのかもしれない。
どんな面白い本があるのか知らないのだが、この本、楽しい。数回見た、NHK「マンガ夜話」のコーナー「夏目の目」でもじゅうぶん楽しませてもらったのだが、夏目房之介は、学問や知や教養を本当に楽しく摂取して、楽しく発信してくれる人だ。

で、この本、二玄社の『書の宇宙』という全24冊の叢書に夏目房之介が連載した書に関するエッセイをまとめたもので、全24話からなる。あっ、この叢書の編纂は石川九楊になっている。
「書道など中学校以来やったこともなく、興味もなかったド素人の」夏目の目は、「書」をひたすら、見る感じるから始めていく。そして、それに、マンガを筆頭とする、さまざまな他ジャンルをぶつけ、喩にして、読み解いていく。いや、感じあげていくと言ったほうがいいかも。

石鼓文と泰山刻石を「かわいい」と「かっこいい」の対立と見たり、縦の流れを「権力による整然たる秩序の成立、あるいは一義的な価値観」と捉え、それに対して文字が横に平らになった曹全碑という人の書を、「人間たちのいろどる相対的で多義的な世界観」を持つ横の意識があるのではないかと語ったりする。そこにマンガのコマ構成の縦長と横長も介在させて、颯爽とした縦長、艶麗な、あだな寝姿の横長と書き加えたりもする。
また、天下の王羲之相手に、「王羲之に天才のひらめきを求めるのは、そもそも天才という存在を可能にするモノサシそのものに天才を問うようなものじゃないか」と言ってみせ、彼の「書」を谷岡ヤスジのマンガではなく、藤子F不二雄の『ドラえもん』であると言ったりする。結果、なんと「王羲之が素晴らしいから手本となったのか、お手本だから素晴らしいのか。これは解き難いパラドックスかもしれない。」と終わらせるのだ。
あるいは、あるいは、草書をジャズの歴史で語ったりもする。懐素という人を「コードとリズムを尊重したアドリブなら」、張旭という人は「フリージャズに近い」と書くのだが、図版で示されている「書」を見ると何だか妙に納得させられる。
こう書いていくと、何だか気儘に書かれているように思われるかもしれないが、そこは夏目房之介、文字の空白部分への見識や筆遣いの動き、文字構成などに眼力を示し、そこに独特の説得力が現れるのだ。
まだまだ、書きたくなってしまう。藤原行成についての12話では、色紙に書かれたかな文字の「天地不揃い、斜め、重なり、余白と、画面の規範力を中性化する特徴は、実は少女マンガの表現の特徴と、ぴたり一致する」として、具体的に少女マンガのコマ割り図版を示している。してみると、何か平安の頃と現代がつながれるような、緩みやかしぎの歴史性に出会えたような気になったりするのである。

ジャンルがジャンルとぶつかるセッション。気持ちよく遊泳できた。
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