パオと高床

あこがれの移動と定住

熊野純彦『レヴィナス入門』(ちくま新書)

2010-01-27 13:15:44 | 国内・エッセイ・評論
暗がりの中にいて私は私を問い続ける。
しかし、そこに私は現れない。私は常に私に遅れて現れる。
私なのだと考える私は時間の中に消えていく。いったい、私を問う主体とは何か。
実は主体の側から語り出した時に、すでに主体は擦り抜けていくものになっているのではないのだろうか。
差異がおこる。
しかし、私は、存在すること=出来事と存在者=存在するものとの間を往還しながら、決して解消されないままでいて、私は私を離れられない。すでに私は私としての他者でもある。
主体性の獲得は、欲求される。だが、主体性は常に主体的な何者かに脅かされる。私の側に私を条件付けるものはないのかもしれない。他者によってのみ、私は条件付けられる。ただ、それでも、私は他者を解読しようとする。ところが、他者は、その他性によって他者であり、解読、解釈、了解されたとき他者は私に絡め取られてしまっている。
で、あれば、そこからまた私を巡る問いに他者と思いなしたものは引きずり込まれてしまう。そこでは、私は私の問題でしかすぎないものになる。他性は、だから、常に解読できないものとして私の前に現れるもので、在り続けるものなのだ。その他者との侵犯しえない関係の中に、お互いの責任が生まれる。侵犯し得ない関係でありながら無関係ではあり得ない他者に対する態度。そこに倫理が宿る。
ここが、わからない。わからないというのは感じられないのではない。感じられるのだが、わからない。確かに、そうだと思う。関係の糸が切れていそうでありながら、決して無関係ではない他者に向けて、私を規定する条件としての他者に向き合う態度が私の他者との倫理なのだ。決して私に解消しない者として。

おそらく、この他者は神にちかいものとして全的なものを負っているのだと思う。それは、では、神としないときに何になるのか。他性を持つ他者として表される。それは人である。しかし、また、言葉であるのかもしれない。
レヴィナスの言葉を引きながら、熊野純彦は問いを発し、その返答をレヴィナスの言葉の中に探ろうとする。その難解さは、レヴィナスの思考がすでにレヴィナスの言葉に宿っていることに発するのかもしれない。つまり、私によって私の言葉に解消し得ない他者としてのレヴィナスがいるのだ。

この本の表紙に書かれている、本文からの引用はこうである。

「私とはなんらかかわりもない裸形の世界のただなかに、私もまた身ひとつの裸形で投げだされている。それは一箇の悲哀であろう。この世にあることの、底しれない悲惨でもあるようにおもわれる。だが、この悲惨ゆえに、他者へと私はひらかれるのではないか」

私とは私からも離れてしまう孤独なものかもしれない。そして、役割だけでは尽くされてしまわない存在そのものの孤絶と飢餓が私自体に連れ添ってしまう。その時、他者への通路が開かれるのかもしれない。かなり際どい、文字通り際(きわ)である。他者からの疎外だけを語ってしまえば、この論理は門前払いを喰うのかもしれない。だが、ただ一個の役割もなく、そこに存在するただそれでしかない存在者が、それでも自らの存在を引き受けうるのは、常に突然現れる他者との関係においてなのかもしれない。

「『存在することはそれ自体としては、世界のうちで一箇の悲惨である』と書いている。だが、とレヴィナスはつづける。『この悲惨さのうちに、私と他者とのあいだにはレトリックを超えた関係がある』。レトリックを超えるとは、レヴィナスにあっては、さしあたり支配と暴力とを超え出るということである。レヴィナスのテクストは、私にとっては異様な魅力を湛えてうったえてくるようになった」

現在の超越的ではなく内在的に流動する支配―被支配関係の「帝国」的現状にあって、また、違う顔の異形の価値が、グローバルな世界の中で相克し合う時代の中にあって、レヴィナスの問いは魅力的なものなのかもしれない。

内田樹のレヴィナスに関する本とは、また違って、これはこれで刺激的なレヴィナス本だった。と、いいながら、レヴィナス本人の著作に、きちんと向き合わなければいけないのだろうが。
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長谷川四郎『鶴』(講談社文芸文庫)

2010-01-23 08:52:22 | 国内・小説
戦争文学の傑作である。しかも、「戦争文学」という言葉から連想される小説の枠内にはない小説である。

敗戦の直前に、「私」と矢野はソ連との国境線の国境監視哨に配属になる。その監視哨の望遠鏡から国境線を監視し続ける日々が描かれた小説である。

望遠鏡から覗く世界という設定が、すでに望遠鏡の内部の世界とそれを覗く主人公たちの時間とを対比させる。戦争中でありながら、望遠鏡の中の世界は、それを感じさせないのどかな日常の風景を見せる。だが、例えば移動する農民のトラックを、上官は武器弾薬の移送であると思ったりするというように、覗く側の日常は戦時下の時間に覆われている。平原の監視哨は広大な平原の中にありながら、そののどかさの周囲は戦争の悲惨な時に包まれているのだ。この構図に、閉塞と自由への希求という思いが象徴されている。そして、「私」の友人である矢野は、ある日から望遠鏡に釘付けになる。彼は、「私」に、彼が見た望遠鏡の中の風景を示す。それは一羽の鶴であった。

「それまで、鶴がこの風景の何処かに棲息していることを,私は知らなかった。それは望遠鏡をもうそれ以上動かぬくらい極端に廻転させた方向にあり、敵陣地見取図の圏外にあって、いまだかつて誰もみたことのないような地点で、非常に遠方であり、望遠鏡で見ても物の形は漠然としか見えなかったが、鶴はそこに真白く浮き上がって静かに立っていた」

この鶴との距離が、そのまま自由や開放との距離である。そして、この「圏外」に「浮き上がって」いる鶴の姿が、そのままこの小説の位置である。

望遠鏡の中の鶴は男に狙われる。静かに死が歩み寄る。

「私は一瞬、鶴が射たれて、その場に倒れるのを見たように思った。が、次の瞬間、鶴は羽搏いたかと思うと、不思議なくらいの賢明さを以て、悠々と飛び立った」

この鶴に込められた象徴性は鮮やかで、深く美しい。飛び立った鶴は、もう望遠鏡では追えなくなってしまう。

「その時、私はひそかに、だが正確に、私の背後から迫って来る死神の黒い影を感じた。そして逃亡の考えがちらりと私の心をかすめたのだった」

戦時状況の悲惨さを緊張感のある文章で描き出す戦争文学とは違う。だが、この小説には緩急を使い分ける描写の持つ形象力の強さがある。そこから溢れ出す鮮烈さは、一級の青春小説のようでもある。


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