パオと高床

あこがれの移動と定住

寺山修司『月蝕書簡』(2)

2011-10-16 10:27:05 | 詩・戯曲その他
五 鑑賞から離れて1

 これまで「鑑賞アプローチ」を重ねると、寺山の中で「消す」ということが重要な意味合いを持っていることに気づく。消すという作業が、ただ推敲するという作業だけにとどまらないのである。推敲の先にある「消す」という行為の追跡は、

  この二、三年のあいだ、私は自分の歌を消す作業にばかり熱中しているよ
 うに思われる。それは所詮、孤立した個の中への退行の歩みにほかならない
 のだが、一首の周辺から消してゆくことで、作者の内部を活性化するという
 試みが、五を消し、七を消し、この歌をも消してしまうことにある。
              (「個への退行を断ち切る歌稿-一首の消し方」)

と語られるのだが、これは、寺山が歌人としてあった時に果敢に闘われた「私」性の問題とも重なっているのだ。『月蝕書簡』解説で佐佐木幸綱は「前衛短歌運動」当時「論議された問題の一つが〈私〉の問題だった。私小説にもたとえられる近代短歌の〈われ〉とは別次元の〈私〉をどう短歌に定位するか。短歌だって殺人が歌えるはずである。前衛短歌運動はそれを可能にした。」とさらりと記述し、寺山の「私」へのこだわりを寺山の問題と時代の問題の文脈に置いている。一首をその周辺から消す作業と「われ」を消してゆく作業は同質なものである。そこに消えずに残る歌と「私」。それは虚構化された中で勝ち取られた「私」の別のステージとして企まれているのである。
 国文社の現代歌人文庫『寺山修司歌集』には、歌集のあとにノートの形で創作ノート的エッセイも掲載されている。その第1歌集『空には本』のあとの「僕のノオト」には自己告白へのさげすみと「私」の自発性へのアプローチが宣言されている。

  しかしそれよりも作意をもたない人たちをはげしく侮蔑した。ただ冗漫に
 自己を語りたがることへのはげしいさげすみが、僕に意固地な位に告白性を
 失くさせた。
  「私」性文学の短歌にとっては無私に近づくほど多くの読者の自発性にな
 りうるからである。
                      (寺山修司『寺山修司歌集』)

 名エッセイストであり、時代のオピニオンリーダーとなる寺山の一端に触れるような文体である。「はげしく侮蔑」や「はげしいさげすみ」そして「意固地な位に」という言い回しの自己希求させる呼びかけ、逆説的表現での喚起力。これは権力や権威に立ち向かいながら逆転させようとする意図を孕む寺山の文章である。「無私に近づく」ほど「読者の自発性になる」というのは、確かに、社会性や作品の開かれになるし、おそらく現代の表現者へと継承される問題だったのだろう。事実「私性論議」として、「私」の問題は継承されていく。
 だが、これは一方で、ポピュラリティーの罠に陥る危険性を持っていた。つまり、この無私による自発性は、歌謡曲的要素も強く持つものであるからだ。であれば、俳人、歌人、詩人であり、「時には母のない子のように」の作詞家であり、演劇人、エッセイストである寺山にとって、このことは非常に寺山的なあり方ではある。しかし、この「私」は嶋岡晨によって批判される。

  「多様な状況の設定のなかに選ばれた“われ”なるものが、フィクション
 の機能のもとにどれだけ真実の自我を生かしているかは疑問に思われる」と
 して、あまりに多角的な表現が、どれだけ作者独自の自我をとらえているの
 か疑義をただしたのである。
                (『篠弘歌論集』国文社『現代歌人文庫』)

 寺山修司と嶋岡晨との「様式論争」として現代短歌の論争史に残る論争の一つであるらしいが、篠はさらに嶋岡の批評を書いている。

  《悲劇は、彼が短歌の形式に救われ得るポエジイの所有者にとどまってい
 るところにある。発想の根底にあるものが、もしムード的な自我でないなら
 ば、新しいポエジイは古い形式を内部から壊して立ち現れるはずではないか。 (中略)そこにさまざまの物語とモルモット的「私」が投影される。しかし短
 歌の表現形式ではそれらはこまぎれの「型」にとじこめられ。否定的な「生」
 の印象を残して、とらえがたい自我はとらえがたいままに流れ去る。》
                (『篠弘歌論集』国文社『現代歌人文庫』)

 そして、篠はこの嶋岡の批判を

  「寺山の作品にはドラマティカルな『私』があらわれているだけで。徹底
 的に『私』を追求していないため、自我がとらえられないままである」と言
 っている。嶋岡は、寺山のリズミカルな感覚的な表現の美しさを認めながら
 も、こうした発想では、ムード的な自我をつかむに適しているかもしれない
 が、「強靱な批評精神はもとめられない」として、きわめて否定的であった。
                 (『篠弘歌論集』国文社『現代歌人文庫』)

 と、まとめている。
 この篠弘の論考に引用された部分を見ると、嶋岡晨の批判は、寺山批判から短歌の形式への批判に移行しているような感じがする。現代詩という自由詩が「私」と「世界」への批評性をどこまでも追求胚胎するものであるとした場合の現代詩からの短歌批判の様相も持っていたのではないだろうか。寺山は様式の面から嶋岡に対そうとしたようだ。

  《つまり人間の劇的性格こそ作歌の動機であり、「私」的なものの掘り下げ
 から普遍的な「個」を生みだそうとする現代詩人とは二律背反であることを、
 何より人は知るべきなのだ。》
                (『篠弘歌論集』国文社『現代歌人文庫』)

 一九五八年当時の論争である。寺山修司第一歌集、二十二歳のころである。論争や前衛短歌運動を通して、様式と定型の問題や「私」の問題は先鋭深化されていった。それ以前の、その端緒に立つ寺山修司は第一歌集『空には本』の「僕のノオト」に、「僕もまた戦争が終わったときに十歳だった。僕たちが自分の周囲に何か新しいものを求めようとしたとしてもいったい何が僕たちに残されていただろうか。」と書き、その中で、「芽ぐみはじめた森のなかを猟りあってい」るうちに、「新しいものがありすぎる以上、捨てられた瓦石がありすぎる以上、僕もまた『今少しばかりのこっているもの』を粗末にすることができなかった。のびすぎた僕の身長がシャツのなかへかくれたがるように、若さが僕に様式という枷を必要とした。定型詩はこうして僕なかのドアをノックしたのである。」と定型詩との出会いを書いている。
 そうして寺山は、このジャンルに対する作意を強化していくのである。短歌を「市民の信仰的な呟きから、もっと社会性(ユニヴァリテ)をもったものにしたいと思いたった。作意の回復と様式の再認識が必要なのだ。」としながら、「作意をもった人たちがたやすく定型を捨てたがることにも自分をいましめた。」と、自身を定型の中に置く。そして、先に引いた「作意をもたない人」への「侮辱」と「自己を語りたがること」への「さげすみ」を表明しながら現代短歌の前面に躍り出るのである。当然、嶋岡の批判は寺山修司にとって避けられない問題を孕んでいた。篠弘は寺山と嶋岡の論争をこうまとめている。

  しかし、嶋岡との抗争によって、寺山の収穫がなかったわけではない。か
 れ自身が様式論に取りかかる契機をつかんだばかりでなく、「私」性について
 の独自の考え方を打ちだすことができたのである。これまでの短歌における
 私小説的な詠嘆性を払拭して、フィクショナルな「私」の設定を試みてきた
 ことが、ここにいたって、いっそう明確になっていった。そういう意味から
 は、塚本・岡井の論争の場合とはちがって、さらに彼らよりも若い層に与え
 た暗示と影響は、小さくなかったといっていい。
                (『篠弘歌論集』国文社『現代歌人文庫』)

 なんだか、回りくどい言い回しで、こう書く篠弘の心情も興味深いのだが、六五年の最終歌集『田園に死す』までアクチュアルな作歌活動をし、十年ほどで短歌から離れる寺山修司の短歌の特質はすでに、この論争批判のなかにむしろ個性として刻まれているような気がする。
 菱川善夫は、その著書『歌のありか』で、寺山修司の短歌デヴユー作「チエホフ祭」を引きながら、寺山の特質を次のようにまとめている。

  しかもここには、すでにはっきりとした寺山修司の詩学が顔をのぞかせて
 いる。たとえば、これらの作品に頻出する「われ」「父」「母」は、けっして
 現実の寺山修司の「われ」「父」「母」の、そのままの投影ではない。それは
 あくまでも作品の上でつくりだされた虚構の「われ」であり「父」である。
 そこに寺山修司の断固とした告白の否定と、〈そうありたい私〉の創造、すな
 わちロマンの設計においてこそ、人間は真に自由であり創造的でありうるの
 だ、という寺山修司の基本的な考え方のあることを読みとらなくてはならな
 いだろう。実際寺山修司ほど、作品世界で多様な「われ」を創りあげた人は
 いない。その意味では、寺山修司は、短歌の告白性、私小説性の価値転覆を
 徹底的に試みた歌人だといってよい。
                       (菱川善夫『歌のありか』)

 前衛短歌運動への共感と愛情に支えられた菱川の論考は、感動的である。この寺山の「自由であり創造的で」あることを求める戦いは、他の前衛歌人と呼ばれる人びとの活動とあいまって、短歌を五十年代から六十年代へと続く文学運動の前線へも押し出していったのである。
 しかも、寺山修司はその攻撃性をたぐいまれな抒情性という武器で武装する。菱川善夫はさらに続けて、前登志夫の寺山評「魔術師の掌を流れる数滴の水」や中井英夫の「したたる美酒」という言葉を引いて、「感傷」という「生命の露」の「露の光を言語でとらえるということは、思想をとらえる以上に実は至難なこと」であり、「すぐれた感受性と、鋭い言語感覚」なしでは不可能であると書く。そして、「チエホフ祭」より二年早く、詩集『二十億光年の孤独』を出し、すでに活躍していた谷川俊太郎に触れながら、「作品が倫理の時代から感受性の時代に突入したことは、戦後の歌壇においても、ほぼ通い合う現象だといえる」と、同時代性を示唆している。そして、この同時代性は、篠弘が「前衛短歌論争」としてまとめている「塚本邦雄と大岡信の方法論争」「岡井隆と吉本隆明の定型論争」そして先に挙げた「寺山修司と嶋岡晨の様式論争」という論争の仕掛けからも見てとることができるのである。

六 鑑賞からはなれて2

 菱川善夫は『歌のありか』で、前衛短歌運動について、こう書いている。「私は前衛短歌の前衛性を、〈想像力の犯罪性〉の上に置く」と。この価値の置き方への衝動の背景は何だろう。ひとつの批評はその批評に至る衝動にどんな背景を持っているのか。
 彼は「技法上の革命は前衛短歌にとって必須の条件ではあるが、技法以上に重要なのは、その技法を必要とした想像力の犯罪性である」と書いている。ここに、単なる技法変革だけではない、前衛短歌の前衛性を見出そうとしているのだ。そして、塚本邦雄に「文明への鋭い批判」を、岡井隆には「反権力の想像力」を、春日井建と中条ふみ子からは「通俗倫理と法的規制に対する反逆」を、寺山修司には「日常的規範性からの脱出という思想」を「とりだすことができる」としながら、「その犯罪性において、彼らは彼らの時代の現実性を作品の中に奪いとることができたのだ。それが前衛の栄光であった。当然のように、その想像力が絶えたとき、前衛時代は終わることになる」と「基本的な見解」を述べる。さらに、この自身の前衛短歌観が何に要請されているのかを考えていく。

  こういう私の前衛短歌観は、人間が無化しつつある現代への破壊力を、前
 衛短歌の中からとりだそうとする私自身の要請に根ざしていることはいうま
 でもない。特に一九七〇年代に入って、人々は社会的共同規範性に自己をゆ
 だね、安易な想像力を食べあって生きているのが実情である。そこから人間
 を覚醒させるためにも、前衛短歌から何を学ぶべきか、現代の要求に応じて、
 前衛短歌の本質を規定しなおすことは、きわめて重要なことだと私は考えて
 いる。私が技法以上に、想像力の犯罪性に重きをおくのもそのためである。
                       (菱川善夫『歌のありか』)

 彼の認識である「共同規範性に自己をゆだね」ている実情から導き出される言葉が「犯罪性」である。「現代の要求に応じて、前衛短歌の本質を規定しなおす」というのであれば、ボクらは「人間が無化しつつある現代」をさらに生きているのかも知れない。その存在の軽さの中で、殺伐としたいわれなき「犯罪」の中で、現代の生は、前衛の本質に「犯罪性」という言葉を置くことは、もはやできないのではないだろうか。この「犯罪性」が訴えようとしているもの、価値として呈示しようとしているものはわかる。しかし、その言葉が時代の中で変更を余儀なくされる。むしろ、今、社会を侵犯しうる、あるいは屹立させる言葉は、「倫理」であったりするのではないだろうか。それが、ここで使われる人間性回復のための「反権力」や「反逆」や「日常的規範性からの脱出」になる「犯罪性」という言葉が、時代の中で移り変わる言葉ではないのだろうか。「人間を覚醒させるため」のラディカルな問いと想像力は、現代にあって「倫理」のもつ「社会的規範」や「慣習」への問いとして、人を、その人間性の側に覚醒させるものではないのだろうか。
 七〇年代に入って、文化相対主義や虚構の流れは、存在の軽量化と呼応するように身体性を忘れていくのかも知れない。用意されたポストモダンへの状況の中で、菱川善夫は前衛短歌運動の収穫を検証していく。そこには、短歌の中に引き寄せられた「現実性」の実体を問うことで、七〇年代以降の現在への批判を明確にしようとする意図がある。この問いの図式は続いている。ボクらは現代にあって、前衛なき時代を生きている。それは、つまり、後衛なき時代ではある。しかし、そこは勝ち組負け組に代表されるような、表層での浮沈の構図だけが有効性を持っているかのようであるのだ。
 そんな時代の中で、ボクらはボクらの「物語」を求めている。さらに「私」探しの旅に再度出ようとしている。国家や社会への集約を強いる大きな「私」の存在を前にして、たじろぐ「私」に気づいている。大きな物語は失墜したとする時代が終わり、大きな物語への欲求とその網の目に宿る小さなエピソードの輝きが共存できることを模索している。身体の持つ現実が、か細い糸のようにあなたの身体の持つ現実とつながれていることを、その切れやすさとともに感じている。そして、そんなボクらにとって「現代の要求に応じて、前衛短歌の本質を規定しなおす」重要さは継続しているのかも知れない。
 菱川善夫は「前衛短歌の収穫」として各歌人論を展開する。その中で寺山修司についてこう書く。

 画一化された人間からいかに私を解放し、個人の尊厳を回復するか-寺山修
 司の創作行為は、当然その課題をめぐって展開することになる。だから寺山
 修司は、傲岸な自己憐憫を楯とする境涯短歌を激しく否定する。(中略)大切
 なのは「いまある現実」の中の自己肯定や弁明ではなく、「もう一つの世界」
 へ呼びかける「形而上学」だという。そのために〈私〉の拡散と回収という
 方法が、寺山修司の重要な方法となる(後略)
                       (菱川善夫『歌のありか』)
 
 そして、寺山修司の次の言葉を引用する。

  「あなたは?」そう。私とは誰か?
  詩の中にさまざまに拡散していく私の要素を、内的に統一する形而上学な
 しには、私自身の思想は成り立ち得ない。私文学の出発は、そうした大いな
 る「私」の全体像と、現実にいま存在している私の肉体との相克であって、
 短歌もまた、そのための一つの証言にすぎないのである。
           (『歌のありか』中引用、寺山修司「『私』とは誰か?」)

 この「私」をめぐる問題は『月蝕書簡』付録の佐佐木幸綱との対談でも寺山が短歌から離れる理由のひとつとして攻撃的に語られる。

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