パオと高床

あこがれの移動と定住

梅棹忠夫『回想のモンゴル』(中公文庫)

2007-02-27 23:55:11 | 国内・エッセイ・評論
1944年から46年までの2年間の中国大陸、モンゴル草原での体験の回想録である。この文章自体は1981年頃の文章で、文庫版は91年出版である。
長城を越え、現在の内モンゴルに張り出した張家口での研究と交流の日々。騎馬隊を組織し、モンゴルフィールドワークを行った際の逸話や思考。敗戦と帰国までの格闘。知へのあくなき好奇心と最大の敬意。そして膨大な知の集積。それらが、平易流ちょうな文章で綴られる。適宜ひらがながはさまれた文章がいい。客観的な姿勢からくる、ある種飄逸とした雰囲気が、切迫した事態の中で起こっていることを伝えてくる。
戦時中に、この張家口にこんな知的な集団が暮らしていたというのは驚きである。梅棹は当然だが、今西錦司や石田英一郎などなど、そうそうたるメンバーがそこで研究をし議論をし宴会をし生活をしている。「中国語、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、ウイグル語、満州語、チベット語」を操る藤枝晃という人の話も驚きだった。これら生活のエピソードが活き活きと綴られる。
ゲルに住まなければと妻を日本から呼んだり、夜迷ったモンゴルの草原で遊牧民が道を間違わずに見つけ出す凄さを語ったり、ラクダの走りの足の運びの記述があったりと、とにかく面白い。
そして、日本の敗戦。その動乱の中で張家口を脱出、天津への四万人からの日本人の撤退。集めた研究資料を持ち帰るための工夫と努力。日本に帰国してからの梅棹自身の心情と信条。「わたしは、歴史を自分の目でみた、とおもった」という梅棹の思いが込められた回想録である。


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コンサートに行く

2007-02-12 22:58:47 | 雑感
ほんとうに久しぶりにクラッシックのコンサートに行く。
サカリ・オラモ指揮フィンランド放送交響楽団のコンサートだ。フィンランドの楽団ということで曲はシベリウスの交響詩「タピオラ」とヴァイオリン協奏曲ニ短調の2曲。そして、ブラームスの交響曲2番というプログラムだった。
オラモの指揮は若々しくアクションがなかなか見せてくれて、フィンランド放送交響楽団の弦はよかったように思った。
ブラームスはどちらかというと1番、4番、次に3番と思っていたが、CDで聴いたのよりは波のうねりのようなものがあって、よかった。
ここんとこよく聴いたモーツァルトとは違って、やっぱりそれ以降の新しさが感じられた。色調も違うし。
コンサートの音の臨場感って、いいな。
シベリウスのヴァイオリンも、音の流れが楽しめた。
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日高敏隆『動物と人間の世界認識 イリュージョンなしに世界は見えない』(筑摩書房)

2007-02-10 01:00:23 | 国内・エッセイ・評論
この作者、動物行動学者と言っていいのだろうか、動物についての豊富な話は人間の問題に繋がっていく。そして、築かれた世界観が、人類と世界の有り様に至る。
動物は「環境の中のいくつかのものを抽出し、それに意味を与えて自らの世界認識を持ち、その世界(ユクスキュルによれば環世界)の中で生き、行動している。」とこの本は書く。そして、「その環世界はけっして『客観的』に存在する現実のものではなく、あくまでその動物主体によって「客観的」な全体から抽出、抽象された、主観的なものである。」と記述される。そして、主体的な「環世界」は、それぞれの動物の「イリュージョン」によって成り立っている。つまり、客観的環境に対して、実は環世界がそれぞれに違った見え方をしながら存在しているということになるのだ。知覚された世界は動物に於いて違っているのだ。むしろ、客観的な環境というものがないのかもしれない。
それを、モンシロチョウとアゲハの色認識の問題やネコの世界の見え方、ダニの行動、ハリネズミの事故死など豊富な実例をあげながら語っていく。その話題の面白さに引かれる。そして、人間の「イリュージョン」の特質に話は及んでいくのだ。見えるものがイリュージョンである動物たちの中で、人間は概念イリュージョンを持ち、見えざるものを見えるものに転化しながらイリュージョンを変化増大させていく。死に対する輪廻転生の考え方、古代の世界観から地動説を了解してからの世界観への変更などを例証しながら、人間の時代や地域による「イリュージョン」の差違類似が、人間の環世界を実は構成しているのだと気づかされる。
動物と人間の見えている世界の違い。「イリュージョン」なしには世界を見ることができないという動物の現実。これが、とてもまっとうで、自然なことに思えてくる。すると案外、人間相互の中での世界の見え方の違いも、悪や正義で語られるものではないと思えるのだ。むしろ価値観の越境してくる暴力がどうしてこうも多いのだろうという気になる。

以前、多田富雄の『生命の意味論』を読んだとき、免疫学の方からあっさりと自他の区別が語られる凄さに驚きと目から鱗の感覚を持ったことがあったが、自然科学の語り出す世界に、視線の先が晴れるような気持ちを味わうことができた。本書には「色眼鏡なしにものを見ることはできないのである。」と書かれているのだが。

ただ、「幻覚、幻影、錯覚などいろいろな意味合いがあるが、それらすべてを含みうる可能性を持ち、さらに世界を認知し構築する手だてにもなるという意味も含めて」使われている「イリュージョン」という言葉がもうひとつ難しいかな。


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I・ブルマ、A・マルガリート『反西洋思想』堀田江理訳(新潮新書)

2007-02-04 15:19:48 | 海外・エッセイ・評論
この本の原題は「Occidentalism : the West in the eyes of its enemies」というらしい。「オクシデンタリズム:敵対者の眼差しの中の西洋」とか、あるいは「敵対者の目に映る西洋」とでもいうのだろうか。『反西洋思想』という訳題が付けられている。原題の方がイメージ通りかも。

筆者は序章の中でオクシデンタリズムを「「敵」によって描かれる非人間的な西洋像のこと」を呼ぶと書いている。現在ある恐怖の抗争、紛争の中に反西洋、西洋憎悪の根底があるとして、それを歴史的にも考察していく一冊だ。では、その西洋とは何なのかが読後まで曖昧に残ってしまう。ところが、それは一方では、いわゆる地理的西洋に止まらないという筆者の思考と一致しているのだ。つまり、西洋憎悪としながらも、射程は西洋のみではなく、憎悪が核に置かれる思想が権力と結びつくことでの悲劇的な状況に及んでいるのだ。
しかし、当然西洋の定義はある。「西洋すなわち世界の自由民主主義国家」と筆者は書く。そして、「我々の問題は、いかにして西洋すなわち自由民主主義国家という思想を、その敵から守るかである」と続けている。この「西洋」はアジアの未だ脆弱な民主主義国家も入る。さらに地理的西洋でありながらも、その国家が内部に抱えこむオクシデンタリズムも批判される。「西洋」だから「自由民主主義国家」だというわけではないのだ。むしろ「西洋」の思想の中に、それを受容することで生み出される「西洋嫌悪」=オクシデンタリズムがあると分析される。それが、様々な地域で様々な様相で対立構造を生み出していく。
ナチズム、毛沢東思想、クメール・ルージュ、イスラム原理主義。そこでは、悪や堕落の中にいるものと規定されたものへの「清浄」という攻撃が仕掛けられる。自由と平等を求めるものへの自由と平等の名の下の粛正とも言える大量破壊が実行される。行為者は歴史の中での自らの意味を見いだし、英雄的な死を受け入れる。微温的で非英雄的な日常は、まるで唾棄されるように脅かされる。
人が、人々が、社会がそれぞれの価値を共存させる状況にたいして、思想の衝突を敵対関係にしていく衝動、そして衝動を破壊行為に進める権力の危機をこの本は問うていく。

西洋をそのまま西洋と読むと、どうしても違和を感じてしまう。だが、筆者の批判の中心と分析の方向は西洋礼賛ではないのだ。西洋や東洋という対立軸の存在。その主体の置き場所によって、同じ言葉が対象を異ならせていき、価値の絶対化が他所の存在理由を剥奪しようとする。これは、どこにでもある、どこにでもおこる現象なのである。自らが、その行為によって何を脅かしているのかを自覚しない限りは。
「敵意が向けられる矛先」として考えられる対象を「都市」「西洋的考え」「ブルジョア階級」「不信心者たち」として章構成をしている。「ブルジョア階級」を扱った第2章「英雄と商人」が面白かった。
西洋中心主義的と批判を受ける一冊かもしれないが、西洋のもたらした近代と現在のグローバルという言葉のくくりの問題点もすかし見えるような気がした。


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若冲と江戸絵画展

2007-02-04 03:50:51 | 雑感
あの「なんでも鑑定団」でおなじみの伊藤若冲の展覧会に行く。
アメリカのプライス氏のコレクションで、若冲だけではなく、江戸絵画を楽しめた。
若冲の画題は広く、色遣いや描かれた造型の豊かさや筆致の自在さが、見ているものを飽きさせない。「鳥獣花木図屏風」のモザイク画の技法は新鮮な青に驚かされ、その描かれた象を初めとする様々な動物に楽園のイメージが喚起される。絵画が作り出すエキゾチックな楽園。溢れる色とタイル画のイスラム風の雰囲気に圧倒される。その一方で、「伏見人形図」の微笑ましいユーモアが光るし、85歳で没した若仲の晩年の作品「鷲図」の鷲は緊張感を持ちながら、口うるさげな老人の顔も連想させる。数点ある鶏の動的な姿。水に頭を沈めることで際だつ鴛鴦の円を描く動線がなめらかな絵。足の不思議な配置や首の動きがおもしろい群れた鶴の絵。そして、軽妙自在でユーモラスな「花鳥人物図屏風」。これは、今回お気に入りの一作だ。などなど、発散される想像力に、思わずニタニタしてしまった。
江戸も深いな。
それにしても、様々な動物、江戸の見せ物小屋とかで見られたのかもしれないが、実際に、そうそうお目にかかれるわけじゃない。様々な先達の絵を模写参考にしたり、ネコから虎の連想などの想像力を駆使したりしながら描いていくのだろうな。視覚効果を計算しながら、多くの伝統の上に立ちながら、「奇想」を形にしていく。何より、見て楽しい。これは音楽が何より聴いて楽しいことと同様、絵画にとって力強いことだろう。
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