
映画「1980 僕たちの光州事件」を観る。
光州事件を描いたドラマや映画はこれまでもあり、
それぞれ、実は心に迫ってきた。
今回の映画は、光州で中華料理店を開いた一家が、光州事件に巻きこまれていくという設定で
描かれている。
巻きこまれていく当人たちは、何が起こっているのか、全くわからない。
ただ、理不尽な暴力が
自分たちを連れだしていく。
権力や反権力の立場からではなく
一般の家庭の生活を営んでいるものが
どんな暴力に、その生活を収奪されていくのかが
痛いように伝わる。
これが、時代を経て、今、現在の状況の中で描きだされた光州事件なのかもしれない。
世界で起こる理不尽な暴威に
市民生活は約束されているはずの明日を奪われていく。
その現在がこの映画にはある。
そして、「僕たちの光州事件」という、この「僕たち」だ。
ここにはどこか、「男たちの」という含意があるように思える。
韓国にある(もちろん、他の国々にもある)男社会の構図が、当時の家庭観、家庭の中の役割を伴ったセリフとして出てくる。
それはやさしい言葉で皆が納得しながら発せられている言葉なのだが、それ自体に
すでに権力の理不尽さとの表裏があるようにも思える。
もちろん光州事件では老若男女問わず人びとは悲惨な状況に置かれる。
だが、「私たち」ではなく「僕たち」とタイトルされたところに、疎外された「私たち」でありながら、
悲惨や痛みは共有化されてしまう「私たち」が存在していることが問われているように思う。
最終場面には、ハンガンが小説『少年が来る』で問うた、殺さないという人間性、
そこで相手に暴力をふるわない、そのためらいにこもるヒューマニズム
が描かれていた。
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