パオと高床

あこがれの移動と定住

エイミー・ベンダー『燃えるスカートの少女』管啓次郎訳(角川文庫)

 | 海外・小説
『わがままなやつら』を読んで、びっくりしたのは、もう一年も前になる。はかったように、ちょうど一年。あの十五編に、「短いどれもが、鮮やかで、愛おしい」と感想を書いたのだが、ここに収められた十六編、文庫で10ページから20ページくらいの各小説が、鮮やかで、痛くなるほど、愛おしい。

淡々とした語り口に、時に詩のようなフレーズ運びを加えながら、そこにあり、そこにしかあり得ない言葉になっていく叙述は、作者の奇想を謎めいた現実として存在させる。奇妙な話が、作り物のそらぞらしさを感じさせることなく切実な現実として心に迫る。
解説冒頭で、堀江敏幸は「そこがいちばん大切なのだと直前まで知らずにいた部分を、エイミー・ベンダーは永久凍土でできた楔のような言葉でまっすぐに突き刺す」と書く。うまいな、そうなのだ。さらに、「永久凍土」は冷たいはずなのに「刺された私たちの胸にはその瞬間じわりとした熱の波紋がひろがり、今度は予想外のあたたかさにとまどうことになる」と続く。そう、いくつかの感情が、溢れるように、あるいは沁みるように、読者をつかまえる。何だか生きていることの核にある存在の何かに、不意に刻印を押されるような感覚を感じる。同様ではない個々であることが持ってしまうセパレーツな哀しみ。何かを失うことでしか生きていけない者の持つ喪失感と希求心。包まれていながら疎外される気持ち。あるいは包まれていることの持っている、すでにある綻び。冷たくて非情でありながら、どこか痛さがすくいとられるような、ほのかな温かさの漂い。しかし、あっさりと突き放される物語の苛酷さも兼ねそなえている。だが、一方では、かぼそくも結び合えるお互いの居場所も描き出されたりする。
解釈は可能である。ところが、その解釈を無効にするような、他の言葉に置き換えられない、いろいろなものが混ざった全体の空気のようなものがある小説たち。

「思い出す人」では、恋人が逆進化していく。恋人から、猿になり、海亀になりサンショウウオになる。そんな特異な設定の中で、「人間だった彼を見た最後の日、彼は世界はさびしいと思っていた」という文がズバッと立ち上がる。
「癒す人」も傑作だ。「町には二人、突然変異の女の子がいた。ひとりは火の手をもっていて、もうひとりは氷の手をもっていた」と書き始める。ベンダーは、最初の一文で、その魔法の世界に読者を引きずり込む。この火と氷の手は握りあったとき、中和されて普通の手になる。着想だけでいけば、展開が困難になりそうな設定を、癒す、癒されるの関係などに迫りながら、おとしどころのない、オリジナルな世界に引っ張っていく。予想されるような展開、結末はない。ただ、作者は、解釈や意味づけで合点がいってしまわない存在自体が孕むものを表現することで、世界を受容するのだ。それは、世界の中に自分がいるということでもある。

坂口安吾は『文学のふるさと』で、童話の持つ突き放す残酷さに、文学のふるさとがあると語っていたが、そうであるからこそ、愛おしく切なく離れがたい物語になるのかもしれない。

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寺山修司『レミング-世界の涯てまで連れてって』(クインテッセンス出版『寺山修司著作集3』から)

 | 詩・戯曲その他
  「ほうら 事実が死んだ!」

こうセリフを刻んだ寺山修司の「事実」というものに対する「虚構」の位置の際立ちが、僕らを引きつける。虚構は虚構を食いながら「事実」を侵犯する。夢の対義が現実ならば、夢を現実化する演劇の舞台における実在は、そもそも現実を脅かすものなのだ。
『レミング』では、壁が「世界の暗喩」だと考えられる。「壁抜け」の持つ冒険は、事実と虚構の壁を消し去っていく。消失してしまった壁。それは、「他者」と「自己」の問題としてとらえることもできるだろう。侵出してくる他者と考えるか。あるいは拡散していく自己と考えるか。

  「ぼくはね、母さん。今映画の中にいるんだ。他人の夢の中で撃たれて、
  うっとり死んでいるんだ。」

他者の夢の中で殺されてしまう「私」は、他者に先んじて「私」の夢を他者に仕掛けられるのだろうか。

  「夢見られる前に夢を見るんだ。」

その問いは、夢を食う夢、他者を食う自己、自己を食う他者、現実を食う夢、と、しっぽを食わえた蛇の図像のようなイメージを思わせながら、この戯曲の持つシーンの展開と跳躍力に賭けられる。戯曲から出てくるダイナミズムが舞台を連想させる。ナンセンスとシュールさ、毒気のような異端性と抒情がセリフから吹き出す。そして、この戯曲では、舞台の上の現実も舞台の上で食いつかれてしまう。現実に虚構が覆い被さる。その舞台は客席の現実に鋭く拮抗する。かつてアングラといわれた旗手たちが持っていた客席への侵犯力。特に寺山にあって、これはずっと変わらなかった姿勢だったと思う。彼は現実においても圧倒的に虚構作者なのだ。実体化をはたそうとする虚構の夢。その夢の魅力がほとばしる。

最近、次々に寺山の文庫が再版されている。あの角川文庫の寺山や唐十郎の戯曲のまがまがしかった雰囲気が懐かしい。そういえば、表紙絵が米倉斉加年の夢野久作もあったな。

この戯曲の中のセリフ。寺山という濃い密度とそのままそっくりの欠落を示す。

  「あそこは、永遠の密室、出口さんにとっての世界の果て、そして、あ
  なた方とわたしとの共通の過去でもある、なつかしの四畳半です」

もちろん、あるのは「なつかしさ」だけではない。
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志賀直哉『暗夜行路』(新潮文庫)

 | 国内・小説
例えば、ブラームスがベートーヴェンの交響曲と格闘しながら第一交響曲を完成させたように、志賀直哉は漱石の連ねた長編群と格闘しながら『暗夜行路』一編を生み出したのではないだろうかと思ってみたりする。その完成までの歳月の長さを考えてみれば。
漱石の「則天去私」に対して、すでに肥大化しつづける「私」は自然の中にどう解消されていくのか。

長編の持つ加速されていく吸引力は、この小説でも十分に発揮されている。むしろ、その感動の一瞬が、それまでの読み進めるうちにおこった奇妙な感覚、時として感じる妙な違和感をもたらす部分を圧倒してしまう。後編二部が持つ速度感は大山の場面へと収斂されていく。

保坂和志が「私」の濃度によって小説の人称を分析していた本があったと思うが、この小説、時任謙作の「彼」を「私」と置き換えても、ほとんど違和感がないような気がする。では、何故三人称小説にしたのか。例えば、三人称であることでの主人公以外の心理の動きや描写ができる利点や、主人公不在の別の場を描き出せるといった作家の専制力を使っているかというと、三人称でありながら、主人公のいる場所、主人公の視線を通してしか表現されていないような気がするのだ。つまり謙作=彼とおかれているところを「私」とおいても何ら不自然さがないという不自然さ。ところが、むしろそれが妙に文章を立ち上げる力を持っているのだ。景色や心理を描き出す文章の力になっているのだ。我執にいかない自己肯定や倫理に抑制される自己懐疑が、自然に流露されるような感じを醸し出す。三人称でありながら、持っている一人称性が効いているのだ。
一方、訪れる様々な試練に対する「自我の実験室」のような様相は、三人称であることで、どこか客観性を持っていて、試練の中で獲得していく実存性につながっている。三人称を突き抜ける自我の、自己肯定の強さと、それを封じ込めようとする三人称の客観性が倫理のバランスのように思えてくる。そして、この実存性が、自然の中で交感し合うように溶解していくラストは東洋性への回帰や漱石との格闘から別の地点を目指そうとしているかのような息づかいが感じられるのだ。自意識が宿命性と結託して澱のように溜まってくるものを体内から吐き出してしまうその身体的な疲弊の先に、精神が獲得していく再生の契機。自分が自分についていくと受容することで、自らと他者に対する視界は開かれ、許すという傲岸さの先にある真の許しとしての自らと相手への許容が、心を静かに解放していく。

この三人称性は、無意識と意識の葛藤を描き出すのに有効に作用している。
出生の宿命が心の底に沈む。さらに、そのことから苛酷な事柄が謙作の心に溜まっていく。それは無意識の部分をかたどっている。それが唐突に行動に影響を与えるところを描き出すのに、一人称では無意識を意識化する矛盾を孕むことがあるのだが、三人称なので、行動の描写のあとに、意識が、自身の無意識について考察するという方法がわりとすんなり読める。この小説を、無意識に澱んでいく事柄と意識との葛藤のドラマとして読むことができるのだ。そこには自己を自己として捉えることの困難が現れてくる。それは許すということに結びついてくる。直子を許すということは自身を飼い慣らすということにつながる。それを抑圧ではなく自然としてどう受容するか。献身や自己犠牲による忍従ではなく、自己肯定しながら許し合える姿となって自らの解放とつながる、許しの先の受け入れ、同伴するという姿。僕らの自我は、自意識は、自己は、自らを自らどう飼い慣らして、解放するのだろうか。その時、倫理のとる姿はどんななのだろうか。それを模索した小説だといえるような気もする。

ただ、どうにも前編が、大変だった。それと、この主人公の社会性をどう見るか。ただし、「主人持ちの文学」を嫌った志賀直哉であってみれば、小説とは、それ自体が一つの社会であるべきものなのかもしれない。

志賀直哉の短編が読みたくなった。
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