パオと高床

あこがれの移動と定住

武田徹『神と人と言葉と 評伝・立花隆』(中央公論新社 2024年6月7日)

2024-09-28 08:35:00 | 国内・エッセイ・評論

立花隆の評伝。
どう捉えるんだ。
その好奇心、論理性、探究心、推進力、ケレン味を。
そうか、書名「神と人と言葉と」か。
NHK出版新書から出ている『哲学史入門Ⅱ』で、
上野修が、
デカルトやライプニッツらが中世以来の「「神ー世界ー人間」の関係を念頭に置いて」いたと書いていたが、
それと呼応する書名だ。
武田は立花の宗教との距離の取り方を本書のひとつの柱にしている。
それが、『宇宙からの帰還』や『臨死体験』などにつながっていったと考えている。
うん、この「神ー世界ー人間」を「神ー人ー言葉」にし、
言葉を生業にした立花が、言葉で、言葉そのものである世界と渡り合ったのは
当然であり、、それを書名はうまく表している。
これが、立花を作ったし、立花が求めたし、立花が描きだしたものなのかもしれない。
さらに上野は『哲学入門Ⅱ』で、
スピノザの言葉の「神」や「実体」を「現実」に「一括変換しても、そのまま読めます」とも書いている。
してみると、この書名はさらに、「現実」そのものとそこにある「形而上」的なものとの際を探った立花を
表しているのかもしれない。

武田徹は、立花隆をもちあげない。
なぜ書こうと思ったか、なぜそう書いたか、どこに問題があり、どこが問題を展開させたのかを探る。
それは、立花自身がその著書でやったことだから、
立花について書くためには、欠落させるわけにはいかないまなざしなのだ。
武田は、立花隆がやった手法で立花隆評伝を書こうとしたのかもしれない。
いやいや、面白かった。
うん、それでもこぼれる存在のすごさ。
両親のキリスト教、ウィトゲンシュタインの言語、記号論理学、小説や詩への思い。
立花隆が何に依拠していたのかを探す評伝は、
立花が圧倒的な影響を受けたと本書で語られたウィトゲンシュタインの
語りえぬことについては沈黙しなければならないという有名なことばのように、
この本は、語り得ることの境界を求めた立花隆という存在への武田徹の語りえる際なのかもしれない。
で、いつも、それから溢れてしまう人たちがいる。立花隆もたぶん、その一人と思う。

この本、立花隆の若き日の詩や文学への憧れ、キリスト教との関係などが興味をそそられた。
彼の自作詩も掲載されている。
好奇心と知性が論理の整合性を求めたらとめられない。それに無邪気さまで加われば。これは‥‥。
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北村薫『いとま申して 『童話』の人びと』(文藝春秋 2011年2月25日)

2024-09-05 11:00:37 | 国内・小説

北村薫が膨大な父の日記を資料として描きだした若き日の父。
雑誌『童話』に出会い、童話にあこがれ、戯曲や他ジャンルの小説へと広がり、進んでいく父の青春の日々が綴られる。
加賀山直三との出会いが父宮本演彦(のぶひこ)を歌舞伎へと連れだし、
通い続けるうちに父自体も歌舞伎と歌舞伎役者に対して一家言もつようになっていく姿など、とてもとても共感できてしまう。
おずおずと何もしらずに興味で読みはじめた小説から、いつのまにか考えの言い方や人の作品への批判の仕方を覚えていき、
自身への矜恃と他者への無力感を感じながらも、
こんなものじゃない、こんなはずじゃないと思って先へ進もうとする。
そんな姿が、作者北村薫のコメントを差し挟みながらも書かれていく。
日記と対話するような絶妙の距離感がさすが。
この距離感が評伝風の味わいと小説的な空気感を醸しだしているのかも。

歌舞伎、落語、文学様々、多様多彩な蘊蓄を持つ作者北村薫のルーツを探っていくようだ。

旧制神奈川中学(現希望ヶ丘高校)から慶応予科へ、単位を気にしながらも、学校へは行かず、電車に乗っては歌舞伎座へ行くというそんな青春。
小説、戯曲を練り、仲間の作品への感想を持ち、日記に記していく日々。かかわりあう人びととの交流が群像劇のように記されていく。
金子みすゞ、北村寿夫、奥野信太郎とかも現れて、横光利一や芥川龍之介などへの言動も入ってくる。そして、次作へと続くようによぎる折口信夫。
天皇崩御と即位の式典の描写も含めて大正から昭和へ移る時代の様相が浮かびあがる。
うん、時代の中の青春が書かれている小説なのだ。

北村薫は『太宰治の辞書』も面白かったな。
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