パオと高床

あこがれの移動と定住

坂多瑩子「いとこ」・中井ひさ子「しんと」(詩誌「4B」)

2011-10-30 15:48:14 | 雑誌・詩誌・同人誌から
10月1日付けだから、少し前に発行になった詩誌。
表紙に、柔らかい筆先の鉛筆で書かれたような「4B」の文字。A4の大きさの紙を三つ折りにした体裁で、一篇の詩が次ページを開かずに上下で読める。洒落た詩誌。メンバーは4人で、4人の個性が火花は散らさない。個性として並立した感じがいい。

坂多瑩子さんの「いとこ」は記憶の齟齬がリアルを支える不思議な味わい。連れていってくれる感覚が、この詩でも味わえる。詩に連構成はない。

木の雨戸
板がところどころ反り返っていたけど
いつだったか
親のいないとき
雨戸はずして
ピンポンよくしたねといったら
そんなこと知らないといわれた
球がとんでもない方向にとんでいってさ
それでも知らないといわれた

冒頭部、まず音の流れに引かれる。どこにその始まりがあるのだろう。「板」の母音と子音の構成がことばを引っ張っているのかもしれない。と、思いながら、詩句は、記憶を思いだすように、付帯状況のように、つながる。微妙に時間がずれた感じがある。ピンポンした過去の話をした少し前の過去。「そんなこと知らない」と「いわれた」のは今なのかな。それが、少し過去のように思えるのは、時間が緩やかに流れているからだ。思い出しの付帯状況が時間を引っ張っていっているからだ。ここで、会話の主体が変わる。

親のいないとき
白菜のつけものぺらぺらのまま食べた
あんた 桶からだしてきて
といわれてもあたしはちっとも覚えていない

ピンポンを覚えていない相手と白菜を食べたことを覚えていない「あたし」。「あんた」は「あたし」なのだが、「あんた」といった相手に人称代名詞は使われていない。詩の題名から「いとこ」の関係が予想される。実は、このやりとりに最初の「雨戸」の上でのピンポンのイメージが重なる。そして、詩は不思議な重さを見せる。

親のいないときはうれしかった
あんたもあたしも親がきらいきらいだし
いつだって薄ねずみ色していてさ
えっなにって
青みがかった薄ねずみ色でさ
雨がふると道どろどろとけちゃってさ
いやだね
手のなかにあるものはみんなやわらかくなってしまって
そのうちおなかもふくらんできて

「あんた」と「あたし」が並んでおかれ、「あんた」と「あたし」がとにかく二人を表す入れ代わり可能な者になる。だが、「ちゃった」ことばや語尾に「さ」がつく場合とそうでない場合まで読みとろうとすれば、二人の会話パーツが見えるのかもしれないが、それよりも話の進み行きに乗る方が楽しい。量感は母音と関係があるのかもしれない。と思いながら、白菜の「ぺらぺら」と雨の道の「どろどろ」が印象に残る。「青みがかった薄ねずみ色」の記憶の中のあたしたちは、雨に降られている。雨に消されていく。記憶はやわらかくなって、どろどろになりながら、それは、夢の「遊び時間」となって過ぎていく。

楽しかったね 親のいないときって
遊び時間はこうして過ぎていった
死ぬなよ
えっなんていったの
あしたあさっては紫外線多いんだって
          (坂多瑩子「いとこ」全篇)

今という「あしたあさって」ではない今日が、一瞬、永遠の時間のようなものを漂わせる。「死ぬなよ」には常に、近接過去と近接未来がある。遠来の過去は、茫として、今にあり。

中井ひさ子さんの「しんと」は短い連が全体を作りながら、連の中でも「つぶやき」のような呼吸とそれを起こさせるものとの緊張感がある。緊張感とは張りつめた感じをいうのだが、ここには柔らかな緊張があるのだ。

昼下がりの薄い陽射しは
むやみにけむたくて
咳きこんでしまう

車道の車は止まることを知らない

すれ違う人たちは
真っ直ぐ前をむいたまま
みずくさいな

歩道の片隅で
歩いたはずのカンナが
黄色く揺れているのが
気に喰わない

最初の二行がどこへいくのかと思わせながら、「咳きこんでしまう」という「わたし」との関係を作る。詩の中には「わたし」を示す人称代名詞はないのだが、「わたし」がいる。

例えば、第二連に繋げるときに、「咳きこんでしまう」がなくてもいいような感じもするのだ。第四連まで省略を加えて書いてみると、

昼下がりの薄い陽射しは
むやみにけむたくて

車道の車は止まることを知らない

すれ違う人たちは
真っ直ぐ前をむいたまま

歩道の片隅で
歩いたはずのカンナが
黄色く揺れている

これで繋がるのだ。ところが、これでは、現実を崩しうる、あるいはずらしうるもの、つまり現実を引き受ける存在がいなくなってしまう。移動空間はある。だが、移動が行われないのだ。ことばはことばがつくりあげようとする世界を持っている。それは、実は作者をその世界に取り込むか排除するかの緊張を持つものなのかもしれないのだ。その境界を辿ることばが中井さんの詩には書き込まれている。呟くような呼吸。それがつくる落差、高低差。これが効いているから、後半、時間は少しだけ異界の方へ動きそうになる。呟きのない時間へと動くのだ。

空が少しずつずれて
遠い日に
原っぱで見つけた
抜け穴からの風がおりてくる

鼻の先に しんとくるもの

もうひとつ別の場所が提示される。空のずれ。抜け穴からの風。この風は吹いてくるのではなく、「おりてくる」。ここにも高低差がある。おりてくる風。それを感じながら見上げるわたし。通路のような「抜け穴」がぽっかりと見える。読者の視覚には穴が見えるんだが、詩では、それは鼻が捉えた感覚で表現される。いいな。静謐を一瞬呼び込む。そうしておいて、

塀の上の
カラスが突然飛び立った
何を見た 何が聞こえた

カラスのざわめきに繋げる。そして、「見た」、「聞いた」と問う。カラスはどこに行ったのだろう。別の場所へ。この三行の連が起こしたざわめきは、また消える。この呟くような問いは問いとして残されて

銀杏稲荷の鳥居は
そっぽを向き寡黙

あっけらかんと 夕暮れる
          (中井ひさ子「しんと」全篇)

「そっぽを向き寡黙」という詩句が詩の終わりに向けて引き締まった感じを与える。そして、最終行で引き締めたものをさっと手放してみせるのだ。握った手のひらをぱっと開くように。そこには「夕暮れ」が広がっている。ボクはここに地平線が見えたような気がした。もちろん、この夕暮れのイメージは人によって異なるだろうと思うが。
なんだか、ぶらぶら道草しながら祖母の家に行こうとして、迷子になった赤ずきんのようでもある。
コメント
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