パオと高床

あこがれの移動と定住

寺山修司『月蝕書簡』田中未知編(岩波書店)

2008-06-28 15:48:05 | 詩・戯曲その他
高校生の時、寺山修司の『青春歌集』が大好きだった。国語の授業で教科書にない短歌を先生が印刷してきて、その中に寺山修司の有名な「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」があったのだ。全く印象が違った。胸にズドンときた。角川文庫の『寺山修司青春歌集』を買って、学校に持っていき、早朝誰もいない部室で読んでいた。考えてみたら、寺山修司の流れで、中城ふみ子の『乳房喪失』を読み、岸上大作の『意思表示』を読んだのだ。今、たくさんの魅力的な歌人がいる。しかし、誰かを熱中して読むということはなく、むしろ現代短歌を鳥瞰しているアンソロジーで眺めているだけだ。うずうずと何人か気になる歌人はいるのだが。

で、『月蝕書簡』である。
果たして寺山修司は思い出の中の人だったのか。違う。この歌たちは、確かに既知感があるものが多い。ところが、その既知感自体が寺山修司の出現なのだ。失踪した寺山が住所のひとつをぶらさげて、物語の沃野を背後に立っているのだ。影さえ映しながら。
寺山自身はこの本の「経緯」に載っている辺見じゅんとの対談で「自分の過去を自分自身が模倣して、技術的に逃げこむわけでね、(中略)だんだん自信がなくなってきてね」と語っていたり、付録の佐々木幸綱との対談でも「人は、一つの形式を通して表現する方法を獲得した瞬間から、自分自身を模倣するという習性が身についちゃうからね」と語っていることから、結局未発表に終わったのかもしれない。だが、読者というものは困ったもので、例えば、この歌集の歌たちを自己模倣に過ぎないと思う人も含めて、やはり、ここでの寺山修司の短歌との出会いはスリリングなものを感じさせるのではないだろうか。ボクは十分愉しませてもらえた。

 霧の中に犀一匹を見失い一行の詩を得て帰るなり

この歌は二重の言語が漂流しているようなのだ。犀の実在を見失うことでの言葉の獲得と、「犀一匹」と書かれてはいるが、そもそも犀が霧の中にいたのかというこの言葉自体の実在性への問い。見失って得ている詩という詩。喩に喩を重ねるというか、虚構が虚構を引力で引き寄せ、その不在に言葉を生みだし、その言葉は実在するかのような物語の可能性を見せる。言葉に定着する。この歌の次にくる歌はこうだ。

 消しゴムの孤島に犀を飼わんとす言語漂流記をなつかしめ

消しゴムの孤島の犀なのだ。
先日、寺山修司没後25周年記念講演としてJ・A・シーザーが構成演出していた『引力の法則』でも大きな消しゴムが舞台の背後を移動した。この芝居のチラシに「無の引力」という言葉が使われていたが、失踪、不在に物語の可能性を見て、そこにコラージュのように場面を織り込んでいく。モチーフだけではなく、演劇の立ち上げ方と言葉の起動のさせ方が似ているのだ。
この歌集冒頭の一首

 面売りの面のなかより買い来たる笑いながらに燃やされにけり

いくつかの面のなかから買ってきた面が、即座に燃やされてしまう。しかも笑いながら。ここに何があったのだろう。どんないきさつが、物語の介在があったのだろう。そう思わせると同時に、ボクは面売りの面の中から人が現れるような気がした。そして面を選んだその人物は即座に燃やされるのだ。買った面を燃やされるということは、その人のつけるはずの面を燃やされるということだ。では、ここに面の下の顔はあるか。それは暗い影になっているのではないだろうか。
さらに次の一首

 剥製の鷹抱きこもる沈黙は飛ばざるものの羽音きくため

言葉が拾う不在のもの。そこに言葉がある。消尽する方向に向けて短歌なら言葉、演劇なら身体が虚構の幻を引き受けるのだ。

 てのひらで月をかくしてしまいたる書物眠れば死が目を醒ます




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大江健三郎『取り替え子(チェンジリング)』(講談社)

2008-06-19 21:57:21 | 国内・小説
どうなのだろう?
読んでいる最中も、読後も、この思いがついて回った。文章はこの小説の中で語らせているように比較的読みやすいのかもしれない。しかし、やはり流れはうねうねしている。それでいて、このうねうねが作り出していく小説の軌跡は、個人的なうねうねにとどまらない広さと奥行きを伴った小説の時空を築きだしている。

この本を手にしたきっかけになったのは大澤真幸の『不可能性の時代』である。その中で大澤は、戦後五十年を二十五年に分け1970年までを「理想の時代」とし、そのあとの1995年までを「虚構の時代」と置き、「大きくは、理想の時代から虚構の時代への転換があった、と見ることができる」と書いている。それぞれのターニング・ポイントとなる象徴的な出来事に、三島由起夫の自決と地下鉄サリン事件を考えている。三島の死は身体性の問題も含めてかなり象徴性を持った事件ではないかと思う。そして、70年から73年ぐらいまでに起こった出来事は。ある時代の転換を感じさせるものである。また、95年の前後を見ると、冷戦構造崩壊以後の流れと、バブルの破綻、幻想(虚構)と現実との交錯の仕方の変化などが見られ、「虚構の時代」からの転換も確かに読み取れるような気がする。で、これは『不可能性の時代』を読み続けてからの話になるので、大江健三郎のこの小説に戻ると、大澤はこう書いている。
「『取り替え子』は、伊丹十三を思わせる親友(にして妻の兄)塙吾良の自殺の謎をめぐる小説である。探求の結果、古義人は、彼と吾良が「アレ」と呼んで、どうしても言語化することができなかった、戦後当初のトラウマ的な体験に辿りつく。それは、戦後当初にGHQに対して仕掛けようとしながら挫折した、ある右翼グループの武装蜂起と、それにまつわる殺人事件である。」
そして、長江古義人三部作の二作目は1960年代の政治運動の挫折に結びつき、三作目は9・11テロを意識していると続けながら、
「第一作は、戦後の起点に、そして、第二作は、一九七〇年へと至る時代の政治運動に、そして、第三作は、「現実」への逃避の時代に、それぞれ対応しているのだ。興味深いことに、最終作『さようなら、私の本よ!』の中では、繰り返し、ミシマ(三島由紀夫)が言及されている。と、同時に、すべての物語の原点に、『取り替え子』が描いたような、戦後当初の殺人事件への負い目があった、ということに注意しなくてはならない」
と書く。
大澤は「現実」からの逃避ではなく、「現実」への逃避と書いている。これが、現代を見るキイ・ワードになっているのだ。
で、大江健三郎だが、この作家が紛れもない小説家である理由のひとつは、執拗に繋がっていく精神の持続である。徹底してこの国の戦後と、精神の再生と、生と死の意味にこだわっていく。この持続は散文精神である。それと、言葉を武器に徹底的に戦い、抗い、求め、考える姿勢である。しかも、言葉は言葉の可能性の側に開かれている。
ボクらを取り巻く危機的状況の中で、ボクらがどこを起点に物事にこだわっていけばいいのかを、考えさせてくれる物語だろう。

それにしても、最終章をどう捉えるか。これは、三部作への繋がりを見ないとわからないことなのかもしれないが、うーむ。ちょっと頭をひねってしまった。
それからレアなモデル群に、どういう思いを持っているかも、小説に入り込めるかどうかをわけるかも。



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ダイ・シージエ『バルザックと小さな中国のお針子』新島進訳(早川書房)

2008-06-10 12:39:14 | 海外・小説
ボクらは、背負わされた困難の中で、自立する場所に至る。至るはずだ、という願いも含めて。
どんな状況でも、あるべき青春があるはずで、あらゆる痛恨の思いも込めて、青春のまっただ中を生き抜く想像力に、酔わせてくれること、それも、想像力の現れである小説の力なのだと思う。
〈青春小説〉という範疇があるとする。その範疇にはまった小説を読むことの心地よさ。

この小説は文化大革命当時の下放で山奥に再教育に行かされた青年たちの物語だ。僕17歳と羅(ルオ)は18歳。恋の相手は仕立屋の娘、小裁縫(シャオツアイフオン)。二人は同じ下放政策で山奥にきているメガネというあだ名の友人の鞄の中にバルザックを代表とする禁書の西洋の小説を見つける。彼らは読みふけり、夢や冒険を逞しくする。また、彼らは語り部となって、恋人や仕立屋に小説を語っていく。渇望するままに小説の世界に魅入られていく姿がいい。それで現実が変わっていく状況がいい。文革を声高に糾弾するわけではない。だが、その不条理の中で逞しく繋がっていく想像の力とみずみずしさが、時代や権力と闘うしたたかさも描写している。新鮮さとユーモアとウィット。これが武器なのだ。

鞄の中のバルザックに出会った場面。
「巴爾扎克(バールーザッーク)。中国語に訳されたこのフランス人作家の名は、四つの漢字でできていた。翻訳とは魔法のようだ!この名前の最初の二音が重く、好戦的な響きを持っていて古くさいのだが、それがすっと消えてしまう。四つの文字はどれも気品にあふれ、字画に無駄はなく、全体は並はずれて美しかった。地下で何百年も寝かされていた芳醇な酒の香のように、官能的で豊かな、異国の味わいを醸しだしていた」

『ジャン・クリストフ』にのめり込む場面。
「卑小さのかけらすらないその断固たる個人主義でもって、僕に心の糧となるような啓示をもたらした。この本がなかったら僕は、個人主義の輝きも偉大さもついぞ理解できなかっただろう。」

モンテ・クリスト伯の話をまるまる九晩語りつづけて、わくわくしながら聞く仕立屋の老人や、小説をもらえることに目を輝かせる医者などにも知識や真に人をわくわくさせる楽しみへの希求が溢れている。
カバー裏の推奨文が、偽りなく実感できる小説だった。

小説と現実との交錯するこんな表現もあった。
「われらがロミオと…ジュリエットはそこに逃げこみ、今度はフライデーになったあの刑事に助けられながら、ロビンソン・クルーソのように暮らすことができただろう。」

著者自身によって映画化されている。映画はまだ見ていないが、「中国のお針子」という題名だったか?
著者自身も下放政策で山岳地帯で再教育を受けさせられ、その後、パリに留学、この小説はフランス語で書かれていると解説にあった。彼もスタイナーの言葉を借りれば「脱領域の知性」の一人なのかもしれない。



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パトリック・モディアノ『暗いブティック通り』平岡篤頼訳(白水社)

2008-06-06 02:03:41 | 海外・小説
白水社で平岡篤頼訳とくるとヌーヴォー・ロマンの牙城のような気がする。モディアノは、それ以後のポスト・ヌーヴォー・ロマン(?)に位置するのだが、白水社が持っていた現代世界文学の前線基地といった印象は強い。
『暗いブティック通り』というこの小説自体が、ボクの記憶の深みからフイと蘇ってきたようだ。そう、小説の中身が記憶喪失の主人公の過去の追求、蘇りであるのと同調するように。

「私は何者でもない。その夕方、キャフェのテラスに坐った、ただの仄白いシルエットに過ぎなかった。雨が止むのを待っていたのだった。ユットと別れた時に降りはじめた夕立だ。」という書き出しは、直球勝負である。
いきなり「私は何者でもない」から始まる「私探し」の旅なのである。そして、この冒頭、単行本二行に沁みだしているフランス文学の佇まいが、いい。短い章構成が断片的な記憶の回復を表しながら、そこにだけ集中していく現在の主人公の場と状況を綴り、織りなしていく。そして、断章は印象的に像を刻み、その空気を醸し出すのだ。歴史の背景が、時代の重たさが、行間にくすぶっている。そして、余韻ある洒落た文との出会い。
「建物の玄関というものには、そこを通り抜けるのを習慣にしていてその後ろ姿を消した人々の足音の谺が、いまも聞こえるのではないかと思う。」とか、
「《砂はと彼の使った言葉をそのまま引用するが何秒かの間しかわれわれの足跡を留めない》」とか。これに酔えたら、かつて言われた言葉「モディアノ中毒」なのかもしれない。

この小説は1978年ゴンクール賞受賞作だが、同じ私探しが母の虚像からの自立へと向かう『さびしい宝石』は2001年作で、モディアノは19歳の少女の語りに挑戦している。私自身の喪失した記憶探しから、傷ついた少女の存在の基盤探しに向かう作家の歩みは、モディアノ自身が他者性の中に自らの「私」を追求していく営みでもあるのかもしれない。

それにしても平岡篤頼の訳を久しぶりに読んだ。あとがき共々、うれしい気持ちになった。3月にロブ・グリエが死に、追悼文を菅野昭正が朝日新聞に書いていたが、内面へのアプローチと存在を取り巻く問いの連鎖は、この本のあとがきで平岡篤頼が手際よく整理してみせている。
あるいは、「すぐれた現代小説は推理小説的構造をとる」という説。そして、さらに「たいてい最後まで謎の解けない推理小説である」という、もう一つの説という書きぶりなども、またまた、いくつか、この人の訳や文章を読んでみたいなと思わせるものがあった。

今回の新装版、2005年発行で、『冬のソナタ』ブームの影響があるらしい。確かに『冬のソナタ』の脚本家が好きな小説だろうという気はした。写真のイメージや記憶の使い方、醸し出される情感に似た味わいがあるのかも。



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