パオと高床

あこがれの移動と定住

ハン・ガン『別れを告げない』斎藤真理子訳(白水社2024年4月10日)

2024-07-09 00:49:47 | 海外・小説

今、というか、ずっと、気になる作家の一人。
とにかく、翻訳されると思わず読んでしまう作家だ。

光州事件を扱った『少年が来る』も衝撃的だったが、
済州島四・三事件という国家的虐殺を扱ったこの小説も圧倒的だった。
暴力の時代の中での人間の尊厳とその暴力への人々の対応を考え続けるハン・ガンの作品は、
暴力に力で対峙するのではなく、新しい地平をどこに見出すかを問いかけてくる。
私たちはどう痛みを共有化できるのか。
その痛みの先にお互いがお互いを見出だす時、そこにあるのは愛の連帯性なのだろうか。
生者も死者も交感しあう。
その時、こうむった痛みは引き継がれ、今、私たちの痛みとなり、歴史の中に、未来の中に、
その痛みの先に辿りつける人々の状態があらわれるのではないか。
そこに暴力をふるう人間性ではない人間性のもうひとつの姿があるのではないだろうか。
ハン・ガンはそれを追い求めていく。

小説は
作家のキョンハがドキュメンタリー映画作家の友人インソンから頼まれて、
彼女が暮らした済州島に、彼女の飼っている鳥を助けに向かうところから始まっていく。
インソンは、済州島の家のなかで、自分の母親が体験した済州島四・三事件の話に向きあっていた。
そして、
雪に閉ざされたインソンの家にたどりついたキョンハの下には、
死んだはずの鳥や、インソンの母、そしてソウルに入院しているインソンが現れ、
何が起こり、何を感じたかが語られていく。
キョンハは、インソンの済州島の家で、それを追体験する。

  落ちていく。
  水面で屈折した光が届かないところへと。
  重力が水の浮力に打ち勝つ臨海のその下へ。

過去の出来事に出会うことは、暗がりに隠された暴力に出会うことである。
それは、人間の持つ暴力性の暗がりを垣間見ることでもあった。
その虚無の淵から、浴びせられた痛みだけが人を落下から拾いあげてくる。
インソンは語る。

  心臓が割れるほどの激烈な、奇妙な喜びの中で思った。これでやっと、あなたとやることにしたあの仕事が始められるって。

二人が計画した映画へのきざしが語られる。

「別れを告げない」は訳者によると「決して哀悼を終わらせないという決意」であり、
「愛も哀悼も最後まで抱きしめていく決意」という意味だと語られる。
ハン・ガンの作品では雪や鳥のイメージはよく使われるし、
『すべての、白いものたちの』などの他のハン・ガンの作品とも繋がっている。

ハン・ガンはこの小説を「究極の愛についての小説であることを願う」とあとがきに書いている。
常に光へのベクトルを見つけていく作品は、そこにある暗がりを徹底的に追体験しようとして真摯だ。
広大な小説の森の中にしっかりとした丸太が埋め込まれていくようだ。

斎藤真理子の懇切丁寧なあとがきが読者を助けてくれる。
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キム・フン『ハルビン』蓮池薫訳(新潮社2024年4月25日)

2024-06-22 08:16:13 | 海外・小説

図書館で「ハルビン」という書名を見て、手に取った一冊。
1909年に伊藤博文を銃撃した安重根について書かれた小説だ。
韓国で33万部のベストセラーになったらしい。

作者キム・フン(金薫)は1948年生まれの作家。
最近読んでいた韓国の小説家の中では年長者になる。
韓国小説が訳され出した頃から翻訳された作家だと思う。
漢字名を見たときに、ああ、彼か、と思ったからだ。

そのキム・フンが2022年、長い年月の思いを込めて書き上げたのが、この小説。
歴史で習った人物が、どう育ち、何を憤り、何を願って、
あの銃撃、射殺という行為に至ったか。
そして、その行為に人々は何を思い、また、作者は何を託そうとしたのか。
情感を抑え込んだ筆致が、読者を誘いだしながら、読者に考える時間を与える。

伊藤の時間と安重根の時間を交互に重ねながら、小説はハルビン駅に向かう。
そこがクライマックスかと思って読みすすめていたのだが、
周到に背景を書き込みながらも、展開は速い。
半分を過ぎ、3分の2ぐらいになりそうなところで、一つのピークは訪れる。
そして、そのあとは
捕らえられた安重根と取調官との相克や、神父、司教の態度、安重根の妻や周りの人々の話が書かれていく。
そこにも時代の力関係の動きとそれへの抗いが現れている。

安重根は、獄中で墨を擦って、獄吏に頼まれた文字を書いたとされている。
その文字が「弱肉強食 風塵時代」。この時代の中の青春が刻まれた言葉なのだろう。
作者はあとがきで書いている。


  安重根の輝く青春を小説にすることは、私の辛かった青春の頃からの願いだった。

と。そして、

  私は安重根の「大義」よりも、実弾七発と旅費百ルーブルを持ってウラジオストクからハルビンに向かった、
 彼の貧しさと青春と体について書こうと思った。彼の体は大義や貧しさまでひっくるめて、敵に立ち向かって
 いった主体である。彼の大義については、後世の物書きが力を込めて書かなくても、彼自らの体と銃と口がす
 でにすべてを話しており、今も話している。

と、続ける。
周到で隣接していく調査や研究の果てに、作者は安重根という人物を、その出来事を小説にした。
そこには、大義だけへの言及ではない、生きた人間の、若者の青春そのものがあった。
そこが、小説だなと思わせる。小説の持つ力だなと思わせる。
常に変わらない敵との対峙の仕方。暴挙か、義挙か。
それよりも、そこから発せられる主体の強さが迫ってくる。

小説にこんな場面があった。
安重根が家を去り、ロシア領に向かう旅に出るとき、彼はウィルヘルム神父に挨拶に行く。
そこで、彼は火炉の灰の中をほじくりながら、

  この世の一方の彼方でウィルヘルムが祈禱をし、その反対側の彼方で伊藤が白い髭を撫でている。そして、
 その間の果てしない原野に死体が折り重なっている幻影が、その灰の上に浮かんだ。死体は飛び石のように、
 その両端を繋ぎ合わせていた。

おそらく、彼は、その飛び石を踏みしめるような思いをしながら、光のウィルヘルムから離れ、
伊藤へと向かって、翔んでいったのだろう。

キム・フンは、あとがきをこう終わらせている。

  安重根をその時代に閉じ込めておくことはできない。(略)安重根は弱肉強食の人間世界の運命に立ち向かいながら、
 絶えず話しかけてきている。安重根は語り、また語った。安重根の銃は言葉だった。

作者は、そこにあった行為としての銃撃を、言葉に託す思いに賭けて、必死の変換を試みている。
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パク・ソルメ『未来散歩練習帳』斎藤真理子訳(白水社 2023年7月10日)

2023-10-07 05:14:46 | 海外・小説

韓国の小説家で一推しになるかも知れない作家に出会ったような。
現在を未来への散歩の練習ととらえる。
それは過去もすでに現在への迷うような散歩であったのかもしれないし、
現在も散歩することで、
未来へとつながっていく。
過去の中に未来を見る。変な言い方だけど未来を記憶する。
それが私たちにできることであり、私たちがすることであるというより、
していることじゃないのだろうかと
なんだか散歩しながらつぶやいてくるような。
小説は二つの流れで進む。
ひとつは現在と覚しき作家の「私」とチェ・ミョンファンの釜山での交流。
もうひとつは82年に釜山で暮らしていたスミと服役を終えて現れるユンミ姉さん、
それにスミの友人ジョンスンとの82年から現在までの物語。
つながっているのは1982年に起きた「アメリカ文化院放火事件」。
そして、この放火事件は光州事件からつながってきていて、
つまり、現在の韓国社会へと流れてくる民主化運動が
現在から振り返られる。
現在は過去によってあらかじめ夢みられた未来になっている。
その時間のスパンを、そんな時の流れを、小説は独特の距離感で描きだす。
果敢だが無理矢理感がない。
そこにある距離を距離として真摯に見つめる。
迷うようで、明確ではなく断固としたものでなくても、日々に夢みられることを
歩んでいく散歩。
それが釜山をよく歩く登場人物たちの日々の描写から伝わってくる。
龍頭山公園界隈がみごとに立ち現れてくる。また、散歩の文体、散歩の思索が
私たちの毎日の暮らしとやさしく重なってくる。
なんだろう、この読後感は。強く勇気づけられるわけではないのに、
何だか視界がほんのり晴れるような感じがする。
小説は冒頭から結末へ、その結末が冒頭へ繋がるという構成になっている。
小説の中に小説がある入れ子構造かなとも思わせる。
訳者も書いているが原文は独特の文体を持っているのだろう。
訳者が書いている「逡巡」という言葉を遣えば、逡巡しながら文章がリズミカルに進む。
迷いや行き場の予想つかなさが何だか癖になるような心地よさを持っていた。
もう一冊翻訳されている、短編集『もう死んでいる十二人の女たちと』も面白かった。
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エリザ・スア・デュサパン『ソクチョの冬』原正人訳(早川書房2023年1月25日刊)

2023-03-01 15:32:25 | 海外・小説

韓国人の母、フランス人の父を持つ今年31歳になるスイス在住作家のデビュー作。
舞台は韓国の北朝鮮との国境の町ソクチョ。
ソクチョというと「冬のソナタ」を撮ったユン・ソクホ監督の四季シリーズ「秋の童話」を思い浮かべる。
あのドラマ、子供時代の風景が美しかった。

ただ、小説は冬。寒さが厳しい。
主人公は作者と同じように韓国人の母とフランス人の父を持つ。ソウルの大学に通っていたのだが、
今は、この町の小さな旅館で働いている。そこに、フランス人のバンド・デシネ作家がやって来る。
バンド・デシネはフランスの漫画と解説されている。
その作家ヤン・ケランは、最終巻になる第10巻の着想を得るためにソクチョに滞在する。
主人公は彼に興味を持ちながら、彼のスケッチブックを覗き見し、やがて彼と交流していく。
ソクチョの冬の閉ざされた風景とその場所にいる主人公の心の動きを、余韻を含む会話や切なさや鬱屈、
さらにさらりと宿るあやうさなどを織り交ぜながら描き出していく。漂う詩情が心地いい。
自らの作品の中の女性をイメージ付け、描き出そうとするケラン。
自らを物語の中で生かしたいと思いながら、物語のない日々がひたひたと迫ってくるヒロインの心の振幅。
足場とする強固な土壌を持ち得ないのに、そこにいる、その場所が足場になっている中での、
ここではない何処かへの思いとその思いの前でたたずむ姿。それが、読者にやさしく差しだされる。

小説の中で名前を与えられていない主人公は、冬から春へと歩きだすのだろうか。
物語は与え、与えられる関係のの中にある。ケランに着想を与える主人公の「わたし」は、
ケランの作品によって物語を与えられるのだろうか。物語は与えられるものではなく、
そこでもやはり歩み出すことから始まるものなのだろうか。

「自分が本当に言いたいことは、いつまでたっても伝えられないんじゃないかって気になるよ」
とケランは言う。主人公はそれに対して、
「たぶんそれでいいんじゃないかしら」と言い、さらに
「だって、さもなきゃ、あなたは絵を描くことをやめてしまうでしょう?」と続ける。
要約されたり語り終えられたりしないから、小説は続いていくのかもしれない。
そう、「決して終わらない物語さ。何もかもが語られる物語。あらゆるものを含んだ。寓話だね。究極の寓話だ」
へと向けて。
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ケン・リュウ「紙の動物園」

2022-01-15 07:57:58 | 海外・小説
『Arc ベスト・オブ・ケン・リュウ』に収録の短編「紙の動物園」。2011年発表の出世作。

母が、クリスマスギフトの包装紙を折って作った動物に息を吹き込むと、動物は動きだす。

 母さんの折り紙は特別だった。母さんが折り紙に息を吹きこむと、
 折り紙は母さんの息をわかちあい、母さんの命をもらって動くのだ。
 母さんの魔法だった。

中国人の母とアメリカ人の父の間に生まれた「ぼく」。幼い頃の世界は、大人になるにつれて齟齬を生みだす。
作者のケン・リュウは、1976年中国蘭州の生まれ。街の中央を黄河が流れる都市だ。蘭州ラーメンが美味しかった。
で、11歳の時に家族とともにアメリカに移住したと、略歴に書かれている。

小説には、英語を話せない母とアメリカ社会の中で生きていく「ぼく」とのズレが書き込まれていく。
それが紙の動物たちとの交流と離反を通して描かれる。
小さな世界と大きな世界の違和。何がささやかな生活に亀裂を入れ、そのわずかな亀裂がかなしみをもたらすのか。
読み終えてそんなことを考えた。ヒューゴ—賞、ネビュラ賞、世界幻想文学大賞の3冠受賞作と紹介されている。
じわりかなしい小説だった。
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