パオと高床

あこがれの移動と定住

クリスマスの約束 小田和正

2021-12-25 01:46:35 | Weblog
あっ、いきなり。
小田和正の「クリスマスの約束」2021が放送された。2年ぶりだ。
で、ラストの前に井上陽水の「最後のニュース」が合唱された。
わっ、すごっ。筑紫哲也の「NEWS23」で流れたのが確か1989年?平成元年?
番組の初代エンディングテーマだった。30年以上前になるのか。
それは、長いのか? 短いのか? どうなんだろう。
ただ、
今聴いても、すごい。
中島みゆきの「最後の女神」もよかったな。
あっ、買っている金平茂紀の本読もうっと。
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須賀しのぶ『革命前夜』(文春文庫 2018年3月10日)

2021-01-16 13:05:24 | Weblog

国内のエンタメ小説を読んだのは久しぶりかも。
面白かった。一気読み必至。
昭和が終わったとき、東ドイツ(DDR)に音楽留学したピアニストの眞山柊史。
昭和の終わりは1989年。それはベルリンの壁崩壊の年であり、一気に東ヨーロッパが開放(解放)
されていく年だった。
バッハに憧れてドレスデンに渡った主人公が、革命前夜の街で成長していく様子が、
東ドイツの歴史(現代史)と重ねて描き出される。音を求める柊史と、音と共に自由を求める東ドイツの人々。
そこに介入する監視の目、政治の強制。その中で彼は、音に、そして音を奏でる思いに出会っていく。
終盤は特に感情が入り込んでいった。

「君たちが自由な言葉を封じても、音楽をこの国から消すことはできなかった。
そして本物の音楽は必ず、人々の中に眠る言葉をよみがえらせる」

ストーリー展開も面白いが、音を、演奏を、言葉にしていく描写が楽しかった。
バッハ、ラフマニノフ、ショパン、リスト、ラインベルガー、メンデルスゾーン。フォーレ、
そして小説でのオリジナルの曲が演奏されるときの音の描写がいい。以前読んだ中山七里もよかったけれど。
小説の登場人物たちの演奏を聴きたくなった。

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『平成音楽史』片山杜秀・山崎浩太郎(ARTES 2019年4月30日)

2019-06-15 09:17:51 | Weblog

音楽評論、社会思想史、社会批評を展開する片山杜秀と「演奏史譚」を専門とする音楽評論家山崎浩太郎が、
平成クラシックを語りつくす。

語る、とにかく、語る。音楽の話から社会評、時代相まで話は面白く転がる。

この本のもとは、衛星デジタル音楽放送「ミュージックバード」の「ザ・クラシック」で2018年に放送された
4時間番組「夏休み自由研究〜平成音楽史」であると書かれている。なるほど、このライブ感は当然のことだ。
書かれているように、平成はCDの圧倒的な普及とバブル景気による音楽ホールの充実、それから音楽関係本の
増加などがあった。
そして、あとがき「おわりに—群雄割拠の音楽史を振り返って」で、山崎が書くように、
「堅苦しい〈教養〉の重しがはずれ、マニアックに面白がることが当たり前になった時代」で、
平成前半はまだ、SNSなどの経由ではなくレコード店の在庫が増え、店での出会いがあった時代だった。そして、
「カラヤンという〈帝王〉なきあと、古今東西さまざまな音楽と演奏家が群雄割拠していく時代だった」と書き、
彼はそんな音楽状況を「分裂しているほうが面白いと思っている」として、片山と縦横に語る。

音楽についての話ももちろん面白いが、佐村河内問題などを語りながら、むしろ「ハッタリ・キッチュ・まがい
もの」が市民権を持ち、価値観を獲得しているという文化社会状況に話が及ぶなどの広がりも楽しい。さらに、
現在の表現はキッチュさとは切り離せないことを、マーラーの登場当時の状況も絡めて語られると、なるほどと
思う。

アメリカグローバリズムに対抗するようにヨーロッパから古楽、ピリオド楽器のムーブメントが起こってきたと
いう分析もそうかそうかと合点がいく。

1989年という平成の始まりのエポックに始まり、そうだ、カラヤンの死はその年の7月なのだ、
東京オリンピックへの言及で終わる平成音楽史。
オリンピックへの時代の空気の中に漂う、ポピュリズムと繰り返される歴史への危惧で結ばれる。

小澤征爾に対する、片山の、小澤は「戦後日本の最高傑作」ということばは、そうかもと思えた。彼は、小澤は
「バーンスタイン先生、カラヤン先生、ミュンシュ先生、齋藤先生とか言いますが、ふつうありえな
いでしょう。水と油の人たちですよ、凡人からすれば。この組み合わせが矛盾しないところに、小澤の超越性が
ある。(略)良いとこどりというのではなく、みんな融合させられちゃう。」と語る。
そして、話は「ある種、日本人のなんでもありみたいなところを、ラディカルに突き詰めた人。なんでもありの
アヴァンギャルドみたいな—それが小澤征爾なんじゃないですかね」となり、さらに、
「私は小澤征爾を五族協和になぞらえて論じたのですが、(略)もしかすると、父の小澤開作が満州で実現でき
なかったことを息子が音楽で実現しているのかもしれません」と展開する。
音楽は国境を越えるというけれど、小澤の平和への願いを込めた活動などを考えるとこの話の広がり方は妙に納
得する。

平成というくくりに対する山崎のあとがきの記述も面白かった。西暦では10年刻み、長いスパンだと50年刻みに
なりがちだが、30年という刻みが長めのくくりで考えるのにいいものだと書いている。
「平成は全体で考えたとき、バブル崩壊後、冷戦終結後の〈現代〉を、30年間という流れでみるのに適している。
10年というスパンだと、変化を断絶ととらえてしまいやすくなる。30年のスパンは、天秤がゆれながら、行きつ
戻りつしながら、私たち人間が生き続けていることを考えるのに便利だと、私は思っている。」
令和という新元号になって、去年から4月までのおびただしい平成話が、何だか、もうすでに今さらみたいな感じ
になってきているが、そんなときこそ、その連続と断絶に思いがいく。

でも、それにしても、音楽評論は財力がないと難しいのかなと思った。
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『おとなの釜山 歴史の迷宮へ」(書肆侃侃房)

2016-08-15 12:38:49 | Weblog


妻との共著で、
『おとなの釜山 歴史の迷宮へ』という旅行本を出版しました。
釜山とその周辺を旅して書いた旅行ガイドです。
韓国のソウル本はたくさんありますが、釜山や韓国南部での一冊本というのはほとんどありません。
豊富な写真に文章も満載。食事と観光と韓国寺院を中心にした内容です。
内容は2章立て。
「第1章 釜山へ度々」では、甘川文化村や釜山の坂めぐりなどから、金井山城、東莱邑城、などなどを巡ります。
エステや買い物とは違った釜山観光の楽しみが溢れています。
「第2章 釜山から旅々」は慶尚南道、全羅北道、慶尚北道、全羅南道を訪ね歩きます。案外行きやすい韓国の地方都市。
そして、その地方都市が持っている様々な顔に触れてみてください。
お寺もいろいろ訪れました。
梵魚寺、龍宮寺、海印寺、通度寺、松広寺、仙巌寺、華厳寺、仏国寺など、韓国寺院はそれぞれが魅力的。
その魅力が伝わればうれしいのです。
はずせないのが、食事。赤一色、辛いだけではない韓国料理のおいしさを味わっています。
特に食の宝庫と言われる全羅道の食事は考えただけもゴクリとのどが鳴ります。

眺めても読んでも面白いものになっているのではと思っています。
そして、行ってみたい、また行きたいと思ってもらえれば、大満足です。ぜひぜひ手に取ってください。

大手書店や下記URLでご注文ください。アマゾンでも買えます。
http://www.kankanbou.com/kankan/index.php?itemid=735
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ブレヒト『アンティゴネ』谷川道子訳(光文社古典新訳文庫)

2015-09-24 10:45:19 | Weblog
ブレヒトの戯曲を久しぶりに、何年ぶりだろう、読んだ。ギリシャ悲劇を改作した戯曲があったのか。それにしても、
なんと今日的なんだろう。今、この国の状況と全くかぶってしまった。

文庫裏表紙の内容紹介を引く。
「テーバイの王クレオンが仕掛けた侵略戦争で、戦場から逃亡し殺されたポリュネイケス。王は彼の屍を葬ることを禁
じるのだが、アンティゴネはその禁を破って兄を弔い、伯父クレオンに抵抗する……。詩人ヘルダーリンの訳に基づき、
ギリシャ悲劇を改作したブレヒトの今日性あふれる傑作。」
アンティゴネはクレオンと論戦する。だが、クレオンは聞く耳を持たない。戦争の地アルゴスではまだ、戦争が続いて
いるのに王は民衆に戦勝を告げ、祝賀会を催す。酔う民衆。予言者ティレシアスの言葉も聞かず、王に賛同していた長
老たちも敗戦の知らせを聞くや王を諫めようとする。それにギリシャ悲劇の構造であるコロスが重なる。民衆の状態や、
国の運命が歌われていく。王はどこまでも戦争を国のためと告げる。王の言葉を逆手に取るアンティゴネの反論。お互い
が相手の言葉を逆転させて争う。例えば、この応酬。

 クレオン わしがこの国を、他国の餌食に投げだしているとでもいうのか。
 アンティゴネ あなたに頭を垂れることですでに、他人の餌食になっているのです。
   頭を垂れた人間には、我が身に降りかかるものは見えはしない。見えるのは大地
   だけ、そして、ああ、その大地に呑みこまれてしまうばかり。
 クレオン 大地を、この故郷を侮辱するのか。見下げ果てたやつめ!
 アンティゴネ 違います。大地は憂いのもと。故郷とは大地だけではない。家だけでも
   ない。ただ汗水を流した場所、なすすべもなく燃えるにまかせる家、頭を垂れるだ
   けの場所、そんなところを故郷とは呼べない
 クレオン はっきりとそう言うのだな。故郷を守る気はないのだな。それならこの
   故郷は、もはやお前を認めはしない。面汚しのごみであるお前は見捨てられるのだ。
 アンティゴネ 誰が見捨てるというのです? そういう人も、あなたが支配者になって
   から、減る一方。これからますます減るでしょう。どうして一人で帰ってきたので
   す、行く時は大勢連れていったのに。

すごい。使った言葉を転がしていく。確か、ブレヒトは論戦の方法として、相手の言葉を定義を変えて破綻させるとい
うようなことを書いていたように思うけれど…。ブレヒトの真骨頂かもしれない。そう、これも一言で言えば異化させる
方法かもしれないが、双方が使うところが緊張するし面白い。ただ、このクレオンの台詞、笑えないのは、最近よく聞く
屁理屈=揚げ足取りだからだ。

こんな台詞もある。

  クレオン とうとう本音を吐きおった。この女、テーバイの国を分裂させようとし
    てやがる。
  アンティゴネ 統一を叫ぶあなた自身が、争いを糧に生きている。
  クレオン そうだ、わしはまず何より、この国で戦う。アルゴスでの戦いは二の次だ。
  アンティゴネ なるほど、そうでしょうね。よその国に暴力をふるうときは、自分の
    国にも暴力をふるわねばならないもの。

世界中の様々な国の名前が思い浮かぶ台詞である。悲しいことに、この国の名前も含めて。
ブレヒトが書いた台詞は、やはり普遍性があったということになるのだろう。
もう1か所引用する。逃亡し殺された兄をめぐる応酬だ。

  クレオン お前には、自分の生命を惜しんだ男も、もう一人の男と同じなのか?
  アンティゴネ その人は、あなたの下僕ではなかっただけのこと。それに何より
    も、私にとっては兄なのです。
  クレオン なるほど、お前にとっては、不敬の徒も愛国の士も、同じなのか。
  アンティゴネ 祖国のために死ぬのと、あなたのために死ぬのとは、違うのでは?
  クレオン じゃあ、いまやっているのは、戦争ではないのか?
  アンティゴネ いいえ、戦争です。あなたの戦争です。
  クレオン それが国のためではないのか?
  アンティゴネ 他の国を手に入れるため。あなたは自分の国で私の兄たちを
    支配するだけでは満足しなかった。木立の下で不安なく暮らせば、テーバイ
    は心地よい国。なのにあなたは、遠いアルゴスまで、兄たちを引っぱってい
    かねば、気がすまなかった、そこで兄たちを意のままにしようとした。

これに、今は侵略戦争ではなく、平和のための戦争という名分がつけられるのだろう。怖いな。そして、クレオンは最
後に叫ぶ。

  クレオン もうテーバイはおしまいだ。
       滅びるがいい、わしとともに、破滅するがいい、共に禿鷹の餌食と
    なるがいい、それこそ本望じゃ。

内田樹と白井聡の『日本戦後史論』を思い出した。
この芝居は戦後の1948年にスイスで上演されている。序景として二人の姉妹とナチス親衛隊員の景が加えられている。
ブレヒトの劇構造の特質が出ている。その序景は戦後すぐの状況にあって、その現在とギリシャ悲劇を結びつけるため
に用意されたらしい。訳者の解説によれば、1951年の東ドイツでの上演からは、演じるものが登場して語りかける「プ
ロローグ(『アンティゴネ』への新しいプロローグ)」に変わったということだ。そこには、このような語りかけがあ
る。

  その戦争を終わらせてしまうのです。どうか皆さん、
  最近、似たような行為が私たちにあったのではないか、
  いや、似たような行為はなかったのではないかと、
  心の中をじっくりさぐって頂きたい。

劇の役者が劇に入る場面から始める。ああ、ブレヒトだと思う。同時に、この台詞も効いている。

台詞は、コロスの場面などは特にギリシャ悲劇の詩のようなフレーズが続く。訳も、改行が韻文のようにされている。
読みやすい訳になっていると思う。

この時期、どこかの劇団が上演したらいいのだが。
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