パオと高床

あこがれの移動と定住

ポール・ニザン『アデン、アラビア』小野正嗣訳(河出書房新社 世界文学全集Ⅰー10)

2017-02-16 13:49:13 | 海外・小説
どうしても、書き出しの文章からになる。

  僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わ
 せない。

心に痛みを感じるほどに、いい書き出しで、でも、このあとが抒情的に流れていくわけではない。むしろ痛烈な批判と風刺の書であり、
徹底した自己省察を徹底した社会批判と共に書きつくす、緊張感あふれる本である。
それこそ、かつて数十年も前に読んで、今回改めて読んだ。それこそ、ニザンによって批判される側に至った年齢で。だが、やはり、
いい。疲弊し、老朽化したヨーロッパに否(ノン)をいいながら、アラビア半島のアデンに旅立つ「僕」=ニザン。彼は、紀行文のよ
うにアデンを描写するわけではない。離れていく距離そのままにヨーロッパを問う。しかし、アデンにも安住しない。そう、自己は自
ら自身から離れられない。そうして、自己とはその制度が作り出した自己であるのだ。つまり、アデンに向かい、アデンから批判する
ヨーロッパとは自己を形成した価値の総体なのだ。ニザンはフランスに帰国する。再生するように。帰国した彼はコミュニズムへと実
存の投企を開始する。近代が生みだした資本主義と格闘するために。

  何もかもが若者を破滅させようとしている。恋、思想、家族を失うこと、大
 人たちのなかに入ること。この世界のなかで自分の場所を知るのはキツイも
 のだ。

書き出しに続く文章である。今の社会状況と重なってくる。というより、常に現代は、こんな状況で進んできているのではないのだろ
うか。若さに価値を置きながら若さを搾取する。そのなかで閉塞を感じる若さは苦闘する。
近代の進歩史観と加速化する時間と消費に捉えられ、その近代自体を問うポストモダンが喧伝された。その時代を過ぎて、むしろポス
トモダンが知の袋小路に入ったかのような、さらなる理性の拘束と膠着を生みだしてしまった現代がある。その結果、今、感情の激化
と反知性的理性批判が支持を得ているような気がする。臆面もない強者の論理が、わが物顔で跋扈する。そして排他性こそが自らを高
め保証するものであるかのように豪語する。単純化された判断こそが解決策であるとして支持される。そんな今、ニザンの緊張感があ
り密度の濃い文章を読みながら、「否(ノン)」を言う行為とその行為を思索する深みについて考える。どこにアデンを見いだせるか。
いずれのアデンに立って、規定された存在の場を問うことができるか。

2月14日朝日新聞朝刊に熊本在住の思想家であり評論家の渡辺京二についての記事が掲載されていた。
「〈近代の再考〉テーマを貫く」という見出しで渡辺京二の仕事を紹介していた。彼の論考が一部紹介されている。

 「近代以前の市場経済が社会の中に埋めこまれ、社会から統制されていたのに
 対して、現在では、社会から自立した市場経済が逆に社会を統制し振り回すの
 である」

と。そこで、20世紀に台頭した共産主義とファシズムという政治運動に関して、

 「歯止めのきかない市場経済から、社会を防衛しようとする側面があった」と
 論じる。

と、書かれていた。この二つの、人々を「翻弄」し「破綻」した運動を「歯止めのきかない市場経済」との関係で考えたときに、この
二つが同根の閉塞から発した、表れ方の違いであることに気づかされる。それは、朝日の記事にも書かれているように「ナショナリズ
ムと保護主義」台頭の気運に満ちた現代と繋がる。二ザンは、

  ホモ・エコノミクスのさなざまな種類や変種や一族でいっぱいのこの国
 では、ひとは絞め殺されてしまうことが僕には理解できる。

と書いている。だが、ニザンは、まだ近代の中にいる。というより、近代から逸脱した場所に立つには、そこには地平がないのである。
近代を乗り超え得ない近代の思考が、僕らを形成しているのであれば、僕らは耐えるように自己省察を繰り返すしかないのかもしれない。
それを自虐史観と呼ぶな。威勢の良さが問題を解決するわけではない。むしろ問題との共棲が叡智を生むものだと考えたい。

訳は小説家の小野正嗣。昔の本は晶文社から出ていて、篠田浩一郎訳だった。
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