パオと高床

あこがれの移動と定住

篠沢秀夫『フランス文学精読ゼミ』(白水社)

 | 国内・エッセイ・評論
フランス語がわからなくても十分楽しめた一冊。
篠沢教授による、ランボー『地獄での一季節』の訳、精読の一部か、または、さわりかも。訳詩集は大修館から出ているが、ここでは小林秀雄、鈴木信太郎訳の『地獄の一季節』の問題点への言及が前半を占めている。

小林秀雄の訳のかっこよさは認めながらも、どこか釈然としない思いが、あったのだが、今回、篠沢教授の解釈を読むと、妙に納得させられた。特に、様々な文体を駆使しているというランボーの表記の動きを語る部分は、そうだろうそうだろうと勝手に納得した。

文体学という批評軸を提唱し、批評の先端を走っていた著者の訳本以外のまとまった本を読むのは、実は初めてである。この人の価値観や発言に違和感を持ちながらも、この人の批評の方法論にはびっくりする。
フランスが占領された時にアラゴンが書いた詩が持つ伝統形式への着眼は面白かった。また、サルトルの体質とも取れる文体学的特徴が、実はサルトルの実存哲学と密接に結びついているという指摘や、カミュやブランショの文体から、それぞれの作家が誰と類縁性を持っていたかを語る論考など、文体への執拗さが持つ凄みがあった。

「文学作品はコトバで書かれている。」と、篠沢教授は書き始める。その「コトバ」にこだわり、「コトバ」から「ピン」と来て、「ブンガク」を読み解いていく。「作者の意図のとおり」とは限らないが、また、「作者が意識していないことを読者が読み取るのも、コトバで書かれているからこそであり、それがブンガクなのです」と書きながら、作者の意図と読者の意図の双方を、「文体」から解釈していく。その方法論は徹底される。

作品は、どこに幸せな出会いを持っているのだろうか。どんな読者に出会うことが幸せで、どこに幸福な意図の一致があるのだろうか。あるいは、別読みの快感はどこにあるのだろう。そんなことを考えながら、コトバの森の迷路に迷う。篠沢教授の地図の、覗き見が出来たような一冊だった。

ランボーの訳は粟津則雄の訳が好きだった。
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穂村弘『ドライ ドライ アイス』(沖積舎)

 | 詩・戯曲その他
7月15日の朝日新聞夕刊に中国の詩人北島の記事が載っていた。その同じ面に「私の収穫」という欄があり、現在は岡井隆がその欄を担当している。その中で岡井は「九〇年代の終りからはじめた短歌朗読の会も十年続いているが石井辰彦、穂村弘や、詩人もまじえて参加者はみな私の得たものだ。」と書いていた。ちょうど、加藤治郎『短歌レトリック入門…修辞の旅人…』で、「ゆがみ」だったか「修辞の彼方に」だったかの章で、穂村弘の歌が引かれていた。で、この歌集をぱらぱらと読む。うん、面白い。さっとアトランダムに目についた歌を十首ほど。

 シャボンまみれの猫が逃げだす午下がり永遠なんてどこにも無いさ
 ガードレール跨いだままのくちづけは星が瞬くすきを狙って
 水銀灯ひとつひとつに一羽づつ鳥が眠っている夜明け前
 「月にいるのは兎? サーカス逃げだした空中ぶらんこ乗りの兄妹?」
 風の交叉点すれ違うとき心臓に全治二秒の手傷を負えり
 「フレミングの左手の法則憶えてる?」「キスする前にまず手を握れ」
 あ かぶと虫まっぷたつ と思ったら飛びたっただけ 夏の真ん中
 靴の紐結ぶおまえの両肩を入道雲がつかんでいたよ
 「神は死んだニーチェも死んだ髭をとったサンタクロースはパパだったんだ」
 叫びながら目醒める夜の心臓は鳩時計から飛びだした鳩
 トナカイがオーバーヒートを起こすまで空を滑ろう盗んだ橇で


2006年に発行された歌集。歌人は、1962年札幌生まれとある。
抒情を乾燥させながら、暴力性と侵犯性を今時の弱さに封じ込めて漂わせる。そして、どこか読み手を脱臼させる歌。会話のカギ括弧の使い方も巧みで、31音の中でダイアローグを実践している。また、知的な操作も魅力的で、「永遠なんてどこにも無いさ」はランボーに繋がるし、「神は死んだ」は、そのまま父性喪失の現代文学を背景に宿しているようだ。
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長田弘『世界はうつくしいと』(みすず書房)

 | 詩・戯曲その他
「窓の話をしよう。」「机の話をしよう。」と二編の詩は語り始め、三編目で「なくてはならないものの話をしよう。」となって、四編目に詩集タイトルの詩「世界はうつくしいと」につながる。その詩は「うつくしいものの話をしよう。」という詩句から始まる。

  うつくしいものの話をしよう。
  いつからだろう。ふと気がつくと、
  うつくしいということばを、ためらわず
  口にすることを、誰もしなくなった。
  そうしてわたしたちの会話は貧しくなった。
  うつくしいものをうつくしいと言おう。

この詩行のつながり、人によっては押しつけがましさや慨嘆が前面に出たり、ぼやきや愚痴っぽく聞こえたりするのだろうが、そんな陳腐への傾斜を上手くかわす。もちろん精神性の強さと緊張感がそうさせるのだが、詩のなかの「ふと気がつくと、」や「ためらわず」がためらうように記述されることで、静かで深い思いが伝わるのだ。
そして、詩は詩を書く詩人の自信のようなものを漂わせながら、うつくしいと言えるものを綴っていく。

  風の匂いはうつくしいと。渓谷の
  石を伝わってゆく流れはうつくしいと。
  午後の草に落ちている雲の影はうつくしいと。

最初に「風の匂い」で入ることで、そのあとの「うつくしい」ものが、すべて風の動きに乗ったまなざしの移動を感じさせる。そしてそれが、

  過ぎてゆく季節はうつくしいと。
  さらりと老いてゆく人の姿はうつくしいと。

時のうつろいに転換されて、人の時間に戻ってくる。あっ!と思う。見事だ。だが、ここでとどまらない。このあとに、やさしい口調の厳しい反語が唯一呈示される。疑問反語をしめす「か」が使われるのだ。

  一体、ニュースとよばれる日々の破片が、
  わたしたちの歴史と言うようなものだろうか。

そして、詩人のゆるぎない価値観が直球で切り込まれる。

  あざやかな毎日こそ、わたしたちの価値だ。

ここにある「あざやかな毎日」という言葉に、一日に対して人間が持つべき責任のようなものがこもる。そう、ただ単に、ささやかな毎日が価値だというような言い方をするわけではないのだ。ささやかな毎日を「あざやかな毎日」と置いている。そのささやかさの中にも「あざやかな」ものを見いだすまなざしと、「うつくしいものをうつくしい」と言う言葉を、会話を持つことが、静かに要求されているのだ。だから、次の句が続いて繰り返される。

  うつくしいものをうつくしいと言おう。

日常をうつくしいと感じる感性。日常の中にある時間に宿るうつくしさ。

  幼い猫とあそぶ一刻はうつくしいと。
  シュロの枝を燃やして、灰にして、撒く。

灰のイメージを呈示する。最終二行のための死への準備がなされる。そして、詩は次の二行で閉じられる。

  何ひとつ永遠なんてなく、いつか
  すべて塵にかえるのだから、世界はうつくしいと。

一気に有限性に対峙する。言葉は、この有限な生が持つ無限へのあこがれなのかもしれない。世界のうつくしさは、それが永遠ではないから、消えてしまうから、その一瞬、うつくしいのだ。言葉はそれを記述する。うつくしさを、永遠への夢とつなげる。だが、その言葉自体も、決して永遠なんかではない。そもそも、永遠にうつくしさを見いだすものではないのだ。だが、そこに記述され残された言葉は、そんな有限さをも伝えながら、諦観を宿しながら、生の側に開かれていることで、「うつくしい」のだ。

この詩集の「モーツァルトを聴きながら」、好きだな。
ここのところ毎年のように詩集が出ている。前詩集『幸いなるかな本を読む人』よかった。
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頼富本宏『日中を結んだ仏教僧』(図説中国文化百華008農文協)

 | 国内・エッセイ・評論
副題が「波濤を超えて決死の渡海」となっている。このシリーズ、図版と言葉の解説が親切である。ただ、興味の湧くところを拾い読みするのに適した本かもしれない。全体を通すと何だか、印象が散漫になるかな。もちろん、それは、収める情報量の多さによるのだろう。それと、情報の対等性への配慮からかもしれない。
仏教僧の渡海の厳しさは伝わってくる。また、その繋がっていく絶えざる営為もきちんと伝わる。

著書が密教学専攻で、種智院大学学長なので、当然、密教の伝授の歴史が中心になっている。奈良期の仏教交流から最澄、空海に至り、「空海に続く者たちの光と影」という章を経て、円仁、円珍へと繋げながら、唐から宋への変化に触れていく。その中で、たくさんの僧たちの格闘と成果を語っていく。これは大変な作業だろう。

やはり、空海に興味が湧くのは、『空海の風景』や『曼荼羅の人』などから、空海についての多少の情報が入っていることにもよるのかもしれない。そこで、空海をライバルと思って批判を加えていく円珍に興味をおぼえた。また、円仁は、かなり面白そうだ。そして、この本の著者が、「無事に帰朝していたならば、疑いなく平安仏教の二大巨星・最澄と空海と比肩しうる人物として、歴史に名を刻んだことだろう」と書く、霊仙という僧の名前を覚えておこうと思った。

最後のほうで高丘親王についても記述されている。そして、栄西、道元などの入宋の僧や、宋からモンゴルを逃れて日本に渡ってきた禅僧に触れ、文化への影響を列記しながら、本書は閉じられている。
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檀一雄『花筐・白雲悠々』(講談社文芸文庫)

 | 国内・小説
太宰治を読んだら、檀一雄を読みたくなった。檀一雄の豪放でありながら繊細な感じや、片雲の風に誘われていってしまうあの身勝手さに触れたくなった。
この本、「檀一雄作品選」となっていて、若さの鮮烈を描ききった「花筐」、リツ子の死の際を痛切に描いた「終りの火」、『火宅の人』につながる苛烈な逃走の序幕のような「白雲悠々」を読んだ。

「花筐」は、瞬間の死を詩のように結晶化させた若さのもつ輝きに包まれた作品だ。そして、それはすでに生自体が輝くために宿命的に死が存在していることを告げている。そこに至るためには、無頼を生ききらなければならないのだろうか。強い孤独の報復の手前で小説は終わる。そこが見事に、若さの小説になっているのだ。
その死が作家の創作と激しく闘い合う壮絶さを示しているのが「終りの火」かもしれない。作家の気迫が愛する者の死と対峙している。これはまた、「白雲悠々」の世事や生活から逃走しようとする作家の哀感ともつながっていく。そうすること自体によって創作の中で、自身の哀しみやつらさを引き受けようする作家の業が「白雲悠々」という小説を魅力あるものにしている。

檀一雄は詩的な精神を散文精神として耐久させようとした作家だったのかもしれない。それは、散文精神という持続する精神の運動が引き受けざるを得ない無惨さの継続に耐えなければならないのかもしれない。瞬間のみの輝きですべてを終わらせてしまうことができない時間の報復に耐えながら、戦いながら、逃げながら、そこから詩への憧れが迸るような作品を描き出した。

ただね、やっぱり、身勝手だよな。とんでもないよ、あなた。と言う人がいるのは当然なような気がする。でも、何だかとても引力の強い作家なのだ。
『火宅の人』はよかったな。作者にとっての真の生活への希求が、彷徨が、生活を突き抜け、作者のリアルにぶつかり、強靱な作品を作り上げていた。「私」のスケールが小説から溢れ出しそうにして小説を張力いっぱいに張りつめさせていたという気がする。で、読み物としても面白いのだ。何だか、そんな印象が残っている。
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加藤治郎『短歌レトリック入門…修辞の旅人…』(風媒社)

 | 国内・エッセイ・評論
作者は告げる。「短歌は、修辞の王国です」と。そして、今、「〈修辞ルネッサンス〉とでも言いましょうか」と。

直喩、隠喩、音喩。枕詞に掛詞、序詞、縁語と歌枕。外国語外来語、口語、ルビ、固有名詞。本歌取り、翻案。破調。短歌の修辞が短歌引きながら語られる。引かれる短歌の豊穣さが楽しい。そして、加藤治郎の語り口がわかりやすくて親しめる。さらに修辞の項目にオリジナリティのある項目が加えられている。記号表記を含めた表記的喩。丸括弧記号パーレンの項目。そして、修辞に収まりきれない、その修辞自体のもたらすゆがみ。さらには、修辞の彼方に向かおうとしているような短歌が例示された「修辞の彼方に」という項目が、ある。修辞の旅をしながら、現代短歌に出会っていると思えるところがいいのかもしれない。

「もともと和歌は修辞の宝庫でしたが、近代短歌、特に写生の理念は、言葉が物や実景と一義的に結びつくことを導き、多様な修辞を排除しました。雪は花であるというような言葉の因習を破壊する和歌革新のプランとして必然の選択であったと言えましょう。しかし、その後、修辞の排除は教条化し、表現はむしろ痩せたものになっていったのではないでしょうか。戦後短歌のリアリズムは、個人の生き方や現実社会の反映を作品に求めました。真摯な作歌態度と修辞は、相容れないものだったと思われます。前衛短歌の登場によって、ようやく修辞こそが現実を迫真的に表現するための方途であることが明らかになりました。そして世紀末の現代短歌は、遊びの復権ということも含め、全面的に修辞を開花させたのであります。」と、伝統と歴史的連続断絶の中での短歌の異動を作者はまとめる。そして、「魂というものは、あるときは研ぎ澄まされ、またあるときは遊び心をもって自由に漂うものではないかと思います。修辞は、魂に力を貸してくれるかけがえのない友人でありましょう」と、〈修辞ルネッサンス〉を受容している。

このあと、この本は「歌ことば草子」という章だてで、いくつかの言葉にこだわって短歌を拾い出している。

短歌の解読や短歌入門の本は、何だか読んでて面白い。ぱらぱらと、ながら読みしても面白いし、ぱっと抜き読みしても結構いける。解読された歌を見ながら、今度、この人の短歌をもう少し詠んでみようと思ったりするのも楽しい。
〈浮遊する直喩〉という言葉、いいな。
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