パオと高床

あこがれの移動と定住

北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』(書肆侃侃房2019年6月17日)

2019-07-14 10:20:05 | 国内・エッセイ・評論

表紙、著者名の上に「不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門」と書かれている。
「不真面目な」ってことはないが、ここにすでに「真面目」って何?という従来への問いがある。
何に対しての真面目ってこと?という転換がある。

フェミニスト批評で、小説や映画、演劇がこれまでとは違う世界を見せてくる、てことは、
これまで馴染んだ「ボク」たちの世界の軸が揺れはじめる。あたりまえが、あたりまえではなくなる。
あたりまえってことで作られていた構造が転移する。だから、あたりまえのような顔をしていたことに
ずっと違和感を感じていた人たちは、その違和感の実体に出会える。
一方であたりまえをあたりまえとして享受していた人たちの中の何人かは、何か自分たちのフツーは変なのかな
くらいは思うかもしれない。
もちろん、何だって言えるよ、いちゃもんつけるなよ、という大部の揺るぎない既成の人たちはいるだろうけど。

ただ、はっきりしていることは批評が見せる新しい世界は、謎が解けるような気持ちよさを持っているってことだ。
著者の北村紗衣はチェスタトンの短編から、「犯罪者は創造的な芸術家だが、探偵は批評家にすぎない」という言葉を引いている。
そして、

 たしかに、批評家はテキストを犯罪現場みたいに嗅ぎ回り、犯罪者、つまり芸術家がばらまいた
 手がかりを見て、ヘマを探し出そうとやっきになる探偵で、あまり独創性がないかもしれません。
 でも、この本に登場したミス・マープルのような名探偵は、何が何だかわからないカオスから正
 しいものを救い出してくるヒーローです。

と書き、この本に収録されている二十五本のエッセイは、「全部、私が探偵のつもりで担当した事件だと思っています」と続ける。
そう、探偵は批評家なのだ。
で、「批評をする時の解釈には正解はないが、間違いはある、ということです。」とも書く。
同じ言い回しは、著者の別の本である『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』にもある。

 注意してほしいのは、文学や芸術には正しい解釈はないが間違った解釈はあり、また正しい答え
 がひとつとはかぎらないことだ。文学や芸術の魅力は、ひとつにはある程度の曖昧さを有してい
 て多様な解釈を引き出すことができる点にある。

同じ言い回しが繰り返されるのは、それが著者にとって大切なことだからだ。
そうなのだ、多様性と曖昧さを容認するまなざし。ただ、それは間違いを見極める峻烈さを隠し持っているまなざしでもある。

この本を読むと、目からうろこは落ち、クローゼットから姿を変えた登場人物たちが現れ出る。それに出会える楽しさを味わえる。

フェミニズムの本のいくつかにある、立場を迫るような切迫感はない。
もちろん、フェミニズムが個人の自己決定権を最大限に尊重するものである以上、多くのフェミニズムの本ではフェミニズムへの
強制力は緩和されているのだが、読み手の側は自分自身がこれまで享受してきた価値観との葛藤で強制力をより強く感じてしまう
のかもしれない。
実際に、セクシストかフェミニストかを問われるようで、読みながら自問自答し続ける本もある。それはそれで男性主体主義や
性別志向観に支えられた社会への戦いとしては必要なものだとわかる。ただ、一方でその自問は痛みに耐える持続力も必要とする。
結構それはきつい。だが、この本はそこがうまくコーティングされている。書名通りなのだ。「お砂糖」であり、「スパイス」の
まぶされたスパイシーさがあり、内的に爆発する何かが包まれている。

さらに、とても入口が広い。
「まえがき」の後の最初のエッセイでは、ヴァージニア・ウルフが「女性が自分で考えて行動しようとする時にのしかかってくる
社会的抑圧を擬人化して〈家庭の天使〉と呼んだ」と示して、その「当たり前のように身につけてしまったので、抑圧が存在し、
自分を苦しめていることにすら気付かないことも」あるので、ウルフは「作家らしく言葉で具体化し、対抗しようとしました」と
紹介している。あっ、ウルフでもそれを意識化し続けて、従来の慣れ親しんでいたものへの傾斜をとめようとしていたのだと、妙に
安心した。
また、著者はウルフに倣って、男社会に適応したサッチャーを著者自身の中にいる厄介者と考え、「内なるマギー」と呼び、
それへの「さよなら、マギー」を心がけていることを告白する。これで、読者は楽になれる。そうだそうだ、自分の中の慣れ親しん
だものへと誘惑する誰かと向き合えばいいのだと思えるからだ。自分にとって、それって、なんて名づければいいんだと考えること
が、どこか楽しい。

とにかく、この本は、こんな見方ができるし、この見方にはこんな根拠があるし、どうでしょう、あなたはどう思う?って聞いてくる
ようなのだ。あっ、読書会か。
そして、その見方を示されるとそれまでの価値観にすーと亀裂が入る。正確には、すーと亀裂が入ったところから、その作家や登場
人物を支えていた既成の価値観が現れ、そこにすーと、さらに亀裂を入れることで、別の価値観を持った見方の可能性が示されると
いう感じだ。
解けない謎はない。ただ、解かれたら謎ではなくなってしまう。謎は解かれるまでが謎で、解答を待ちながら、謎は謎を呼ぶ。
その謎は解かれることに出会うことを約束する。
探偵はここにいる。
謎を謎のままにしておくことが、いつまでも男性主体の価値観を継続させるものであるとすれば、呼び込めるだけ呼び込めばいい、謎を。
不断にそれを解いていこう。そんな言葉が聞こえる。

扱われているのは『嵐が丘』やウルフの小説、『二十日鼠と人間』『ワーニャ伯父さん』『サロメ』『十二夜』『わたしを離さないで』
などの文学作品から、『バニシング・ポイント』『ファイト・クラブ』『タンジェリン』『ナチュラルウーマン』『バベットの晩餐会』
などの映画、ディズニーの『アナと雪の女王』などなど。読んでなく、観てなくても批評は楽しめた。

そうだ、著者は『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』では、ロラン・バルトの『テクストの楽しみ』から「楽しみ」と「歓び」の
言葉を引いて、「楽しみ」は、「すでに読者がなじんでいるものから得られる一方、歓びは未知のミステリアスなものとの出会いから
生じると規定した」と書いている。かつて、この言葉は「快楽」と「悦楽」だか「愉悦」だかと訳されていたように覚えているけれど、
この訳し直しもわかりやすい。
そして、「あるテクストがある者には楽しみを、別の者には歓びをもたらすこともある」と続けている。
この本は「楽しみ」から「歓び」へとかけられている橋かもしれない。いつか、その「歓び」が「楽しみ」に変わるために。

                       
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