パオと高床

あこがれの移動と定住

青澤隆明『現代のピアニスト30―アリアと変奏』(ちくま新書)

2014-06-25 12:44:19 | 国内・エッセイ・評論
音楽を聴くということは、音楽を語ることにつながるのかもしれない。そして、音楽を語るということは、曲を語ると演奏を語るとに別れる。作曲家を語ると演奏家を語るということだろうか。
岡田暁生は『音楽の聴き方』という名著で音楽を語るということに触れていた。梅津時比古は、これまた名著『フェルメールの音楽』で音楽批評の見事な文体を披露した。吉田秀和の『永遠の故郷』には思わず涙が出そうになる。
で、この本。文体が格好いい。ロマン主義的感覚と知的な硬質さが渾然としている。颯爽とした断定と情感のある問いが文を推進させる。

扱うピアニストは30人。
冒頭にグレン・グールドを配する。
その章は「饒舌が隠したもの」という小見出しで、「それにしてもグレン・グールドはしゃべり過ぎる。」と書き出される。
グールドを「純粋主義的な立場」を採ったとして、「簡明なスタイルは、副次的な要因を排除し、透明な論理構築を通じて精神の運動を顕在化させる試みの結果だ。俊敏な打鍵とそれに見合う楽器の軽快な反応が、その前提条件となった、」と書く。そして、コンサートを止め、レコードに専念することで、「レコードを通じて、聴き手は音楽を私有することができる気分になる。そうした個々との接続を通じて、グールドはますます自己の存在を複数化し、ますます個人にとっての実在感を強め、同時に不在感をも強めていく。」とも書く。グールドの肉体の実体的な消滅。演奏が残る。それを「グールドベルク変奏曲」と洒落てみせる。その小見出しの文章は、「グールドは二度死んだ。ますは、コンサート・ピアニストとして。次いで、グレン・グールド本人として。だが、どちらの死も、彼の音楽家としての生を終わらせることにはならなかった。それどころか、姿を消すことで、さらに強く生きながらえることに成功したのである。」と書き継がれる。文学批評の「作者の死」をレトリックとして使っている。作者が死んで生きる、現代を書いている。

他には、ボクが好きなポリーニの文章も面白かった。副題が「未来というノスタルジー」。格好いいよね。そして、天才的な技術力を持って登場したポリーニの70歳の時の演奏を聴き、「多くの思慮を実現する鮮やかさはないが、なにかを諦めるというよりも、ひとつの生命を絶やさずに繋ぐ推進力が大きい。綿密な構築よりも、いまできることを自身に率直に追いかける、ひたむきな疾走だった。」と感じとる。だが、ここまでんお演奏批評では終わらない。青澤はさらに、老いという現在について書き、かつ、問う。

  おそらく、そのときポリーニには現在しかなかった。過去の自己の術
 水準や、未来という精神的な負荷を担う余裕はなかった。確信や進歩へ
 の方向性は、それを憧憬として生きてきた人間にとって、ロマンティシ
 ズムの照準でもあった。しかし、高い矜持や同時代との連帯の夢想もま
 た、厳しくみれば、いまやひとつの壮大な郷愁と化しているに違いない。
 それでも彼はその黄昏を許さず、ノスタルジーだとしても正面で生きよ
 うとする。自らの脱神話化を通じて、その幻影から解き放たれつつある
 老いた英雄は、いまどのように自身を見つめるのだろう。

批評の文体がある。それが音楽を、演奏を語る魅力に繋がっていく。
第一章では「戦後世代の美学」として1960年代と仕切って、ポリーニ、アルゲリッチ、バレンボイム、アシュケナージ、リグットを採り上げる。ボクは、この章が聴いたことがある演奏家が多かった。アシュケナージ評は、妙に納得した。第二章「独歩の探索」は70年代で、アファナシエフ、ルプー、内田光子、ペライア、ゼルキン。以下2000年代以降まで6章に冒頭と末尾のアリアをつけて8章構成になっている。
他の音楽批評と同じで、本として読んで楽しい。そして、その演奏家を聴いたときに、ああ、そういえばと、引っ張り出して読んで、また楽しいだろう一冊だ。

アファナシエフについての章で、彼の演奏会を聴いたときの、書き出しは、「帰れるだろうか、果たして。私はそう思った。2011年11月21日、この夜のなかから出て帰れるか、ということだが、これには二つの異なる意味があった。」である。この時の作者の意味は、アファナシエフの「漂泊する孤独や絶望の煉獄から帰還できるか」という想念の帰還と、名古屋の演奏会場から新幹線の最終で東京に帰れるかという「地上的な意味」の、二つの意味だった。
この文章を借りれば、音楽批評は帰れるだろうか。音楽に、言葉に。この二つながらを往還しながら、語り出される音楽批評は、批評として、これも、やはり、いいな。