パオと高床

あこがれの移動と定住

黒田夏子「abさんご」(文藝春秋2013年3月号)

2013-02-24 16:03:09 | 国内・小説
表現のジャンルの中で、そのジャンルが持つ約束事と抗ってしまう作品というものがある。意図的に、あるいは作者が創造力の赴くままに書いた結果として。
その場合の意図的にか、そうでないかは、重要なことだろうか。おそらく、出て来た作品の持つ魅力を語る場合には、それほど問題ではないのだろう。意図しようとすまいと、魅力がある作品は魅力的なのだ。が、時として、壮大な失敗作というものが生まれることがある。その壮大さは、紛れもなく意図の壮大さなのだ。

と、こんな書き出しをすると、まるで、この小説が、そうであるかのようだが、ここまでは、この作品と一切関係ない。ただの連想である。言えることは、「abさんご」は、ジャンルとしての小説の約束事に抗った小説であるということだ。
ジャンルとしての小説とは、言い方がよくない。小説は、本来、なんでもありのジャンルなのだ。うーむ、近代小説の約束事としておこう。それと、対峙してしまった小説なのだ。詩が詩ではないもの、夾雑物を差し込むことで詩を成立させようとするように、詩が散文脈を取り込んで、詩を成立させようとするように、小説が、詩のようなものを取り込んで小説として成立しようとする場合がある。もちろん、その場合に、詩が散文になっては詩でなくなるように、小説は、詩になってしまうと小説ではない。そこで「詩的な」という「的」という接尾語がくっついてくる。だが、小説とは、本来、何でもありなのだ。「詩的」であっても小説なのだ。そして、この小説は、何かを名指そうとするところ、名指す前に戻って、それが何ものかを問うところから始める点や、人称代名詞の曖昧さによって、主格が平気で入れ代わるところ、曖昧なものを曖昧なまま残していくところなどは詩の方法を取り入れているといえるのだ。が、その指し示すものが、決して多様ではないという点で詩とは一線を引いている。あるいは、喩の研ぎ澄まし方が、喩だけで自立しないところが、詩とは一線を画している。つまり、名指されないものは、名指すものを持っているのだ。だから、今、名指されいなくても、それは既知の何かに到るための表現なのだ。そこが、この小説は、散文なのだと思う。
で、この小説の「開かれ」を考える。列記、ここからはメモになる。

黒田夏子「abさんご」メモ

近代小説の発生、確立以前に戻し、近代を超克しようとする試み。私小説のパロディや昭和のパロディ、そして、今回のこの試み。このような形になってしまうのかな、と思う。
太宰治をヌーボーロマンと源氏物語、枕草子で処理したような。
久しぶりの文学少年、文学少女の小説。文学的素養に支えられた、小説それ自体を考える小説という意味で。

クンデラはセルバンテスなどで、近代文学の乗り越えを図った。また、外国文学では、「源氏物語」などに小説の可能性を見ている人もいる。説話、物語など。この小説は、古典で近代の超克を図ろうとしている。

○ 文章が等価成立している
通常文章は主節従節関係があるが、規定する主節に同等の主節が重なるような表現が多い。
肯定文の後に否定文をつながえる。あるいはある断定を避けるような付帯状況。「~であるようであり、~ではないようでもあり」のような。これは古文に多い。同格でつなぐ文。
例えば、下手な物まねをすると、付帯状況は、「~の男の、齢三じゅうばかりなる者が、まだ三じゅうには届かないとも見えるようであり、また見えないようでもあり、うつろにしたたる、したたると思えたのは、家事がかりが干していた白妙の、いつか流した光りの粒を映すような、」とか、つなげてみると面白いかも。
○ 人称代名詞をなくす
主語の溶解。人称がつねに溶け合っていく。これがあわいを生みだしている。記憶の妙な共有化が起こる。
この、あわいの往還は、詩ではよくやる手法だが、散文の場合、主語人称に邪魔される場合が多く、人称が往還しても、その往還を書き記してしまう場合が多い。その点、人称代名詞を使わないので、往還が自在になっている。ただ、やはり女性性は残っているような気がする。
○ 人称代名詞がないことで、語り手が登場人物と一体化したり、離れたりする。どこにむかって語られているのか。作者の死といった近代文学の問題を乗り越えようとしている。むしろ、作者の過剰?
○ コギトからの脱却
近代小説の「私」=人称から脱出する。「我思う故に我あり」は「我」の堂々めぐりに帰してしまう。それへの挑戦は、ずっと試みられたが、その中の一人と考えられる。回想の無個性化。朝吹真理子の「きことわ」を連想した。あれは、立ちあがっている三人称を往還していたように記憶しているが。
○ 音
短歌は昔から、詩はまた最近、音の流れが復活している。散文での音へのアプローチは重要。音は呪術性を持つ。意味から遠ざかるように音配列を生みだすことができる。そこに大和言葉の可能性を賭けているとも言える。
○ シニフィアン過剰の文学
本来、詩に近くなるのは当然で、指し示すもの、記号表記の方によりそっていけば、シニフィアンは過剰になる。だが、詩は、その一方で、シニフィエ、つまり意味されるもの(記号内容)にも揺さぶりをかける。つまり多対一ではなく、多対多を平気で容認する。しかし、散文の場合、一対一を崩すように、シニフィアンを増殖させても、基本示すものは一つを守ろうとする。そこで、シニフィアンがシニフィアンを捕捉しようとして膨らむ。
例―詩は、「花も紅葉もなかりけり」とない状態だけを記述することで、ある花と紅葉の像を刻みながら、その不在も語る。つまり、言葉が本来持つ存在の不在を前提としながら、その言葉が宿すイメージをあるものとしても呈示する。しかし、散文の場合、「そこには、花も紅葉もなかった」と書いただけでは、「ない状態しか伝えていないという不安が残る。そこで、「そこには、あの時咲いていた花も、また散り際を彩った紅葉もなかった」とかいうように書きくわえをおこなっていくのではないだろうか。で、黒田夏子の書法になれば、「花も紅葉もあったかもしれないし、いや、すでになかったかもしれない」のようになる。さらに、花と紅葉の指定を解除しようとする。「多肉質の~」とかのように。言葉の始まりへの歩み寄りともいえるのかもしれない。この地点では、ふたたび詩に接近する。

もう一点。ここに到る動機。荒巻義雄が、詩誌「饗宴」で書いていたラカンの引用が参考になる。「現実界」「想像界」「象徴界」。不気味で、不定形で、真理から遠い、脳が作りだす現実界、これは実存空間である。すっきりと安住できるイメージの世界の想像界=母と子の世界。そして、荒巻が「父」的世界という法、言葉、規則の象徴界。この象徴界からの逸脱。つまり、小説の中の父と思われる存在との関係を考えてもいわゆる「象徴」的である。また、近代小説の制度は、ここでは父的世界=象徴界と考えられないだろうか。

あるいは「一そう、二そう」という表現にも、これは無意識に反映していると思う。階と区別する「そう」の世界。重なり、堆積している状態。
○ 題名
a=1、b=2、ここまでは高樹のぶこは正しい、それから、「さんご」だから、これは「いち、に、さん、し」を「ご」にしている。
「さん」=cで、a,b,cが成立して、cは「し」で四になって、次が五。
地点のaと地点のbという分岐ともとれる。Aliveとblancの頭文字、afterとbefore、adultとbabyと考えても面白いかも。あとは分岐した「珊瑚」もイメージできる。
で、結局、aとbにわかれる枝分かれと珊瑚の枝分かれのイメージだろう。「文学界」の蓮実重彦との対談で、黒田夏子はこう語っていたように記憶している。でも、これを言わなかったら、いろいろ考えられたのに。知人は、「さんご」で15。つまり15章の小説構成だと言っていた。これは、すごく楽しい着眼だと思った。
○ 作者の教養が、国文学を踏襲させている。
○ 役割による人称代用の問題点。つまり、人称を関係性と役割に置いて様式化している。その問題はないのか?ただ、その場合の問題指摘は倫理的なものでしかないため、結局、表現態においては、人称を補完するものとしての役割表記は有効と考えられる。
  また、役割、関係によってその人物を名指すのだから、同じ人間が、
  幾重もの呼ばれ方で登場する。
○ 名指されない回想。
  回想、記憶は固有名詞でのみ想起されるわけでは
  ない。むしろ、形容詞や動詞、形容動詞で記憶は想起され、その後名
  指される。その命名以前の状態へのアプローチがある。結果、回想は
  漂いはじめる。しかし、そのことで身近な記憶の気配を残す。
○ 後半、わかりやすくなる。人物の成長と同時に理屈の介入があり、了
  解しやすくなる。「自由」と「貨幣・経済」についての実存性と唯物性
  の語りが、ちょっと浮いている。主人公とおぼしきものの成長が、小
  説に理屈を介入させたのかもしれない。
○ ラストと始まりの円環。
  これは、回想のエンドレスを告げている。
  そして、また、回想はずれながら回帰する。
○ ベースとしての「うつほ物語」。「うつほ物語」をぱらっとめくったら
数字が多かった。
○ 「未実現の混沌にもがく変態途上の不定形」という表現が途中(後半)
  あらわれるが、このあたりは、作家による、この小説の小説論のよう
  に読める。

いろいろと語りたくなるテキスト。その点では面白い小説なのかもしれない。
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詩誌「饗宴」VOL.66(2013年冬号)

2013-02-22 12:41:33 | 雑誌・詩誌・同人誌から
北海道札幌市林檎屋さんから出ている詩誌。
このところ毎号のように掲載されている冒頭の荒巻義雄さんの「詩論」が、何かを啓発してくれる。今号、「詩論 いま考えていることー北海道新聞社文学賞詩部門受賞の弁に代えて」は、ソシュールに触れて「シニフィアン」と「シニフィエ」について、さらりと書いた後、

  このように、言葉というものは、一つの単語から無数の意味内容が派
 生してくるわけで、詩を書く者は、実は言葉を慎重に選び取りながら、
 右に述べたような無数の内容を同時に物語っているのです。
  言葉というものは地層になっています。累々として意味内容が重なっ
 ているのです。詩人は、そのできるだけ深層で、隣接する異なる言葉と
 連合させなければならない。

と、書く。「ねばならない」かどうかは置くとして、ここから、ドゥルーズの〈リゾーム〉の概念を使い、「水平方向」への「絡み合い」のイメージを喚起してくる。シニフィアンの過剰を前提として、シニフィアン相互の関係を取り結びながら、無数のシニフィエへと、また、関係の触手を伸ばす。脳細胞の触手と同じなのだ、この形態は。
そして、「地層」といえば、かつて伊藤比呂美が森鴎外の言葉の地層のことを語っていたが、あの時は、鴎外の持つ和語、漢語、外来語の地層と捉えていたが、同時にそれは、それぞれの言葉が指し示すものの多様な状態も語っていたのだ再認した。
で、これは、今回の芥川賞受賞作「abさんご」を考えるときのヒントにもなる。この小説が、詩ではなく小説なのだという確認になったのだ。さらに、荒巻義雄さんが触れているラカンの〈現実界、想像界、象徴界〉も、この詩論を離れて、ちょうど、読了した「abさんご」の精神構造を考えるときの参考になった。
他にピカソ、ブルトン、ツァラにも、気配を漂わせるようにさらりと触れている。それが、何だか、こっちの感覚を立ち止まらせるのだ。短いけれども、連想が広がる。表現が、次の表現への伝達となる、そんな文章である。結びの一句、この記号の森のなかで、

  飼い慣らされてはいけません。

毎号掲載されている塩田涼子さんの連作「転身譚」の21は、こう始まる。このイメージが転身の風景を想起させる。

 掌の中に包み込めるくらい小さな市街に
 欠けはじめた月の明るさが浮ぶと
 一面の
 芒の穂が 銀粉をまぶされたように光り
            (「転身譚21」第一連)

時間の流れがある。「欠けはじめた月」で、時間が移ろう。そして、「小さな市街」と「一面の芒」が空間の二重性を描いている。あっ、転身するのだ。まなざしは、どこにいくのかと思わせる。そして、詩の結び近くで、次のような詩句が現れる。

 あの 無数の
 死なない〈沈黙〉が通る

〈沈黙〉は、あるものではなく「通る」ものなのだ。よぎるものなのだ。そのあと、一行ごとの連が二つ続いて、「転身譚21」は閉じられる。

 それから?

 婚礼がはじまる


この詩誌の「2013年海外詩特集」も面白い。
工藤知子さんの訳でレオパルディの詩。「魚篇」の連作が楽しい吉村伊紅美さんが訳すダミール・ダミールの俳詩。木村淳子さんの訳、ベッツィ・ショルの詩。細野豊さんの訳すエンリケスの詩。いつも「饗宴」で出会わせてくれる海外の詩であり、読み応えがある。今回は(も)、エンリケスはいいな。それと、ダミール・ダミールは面白かった。
ダミール・ダミール、モンテネグロの詩人。ふたつだけ、引用。

 純白の紙に刻みし初日の出
 a landscape imprinted
 in the whiteness of paper
 first sunrise

 静寂の空の刹那やうぐいすの声
 the still sky
 for a moment outshouted by
 the nightingale
コメント (2)
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冬、ソウル(3)成均館と宣靖陵

2013-02-19 11:50:42 | 旅行
景福宮から出て。世宗大路。世宗大王も雪をかぶって。


地下鉄で恵化へ。そして、成均館。韓国ドラマ「成均館スキャンダル」や「太陽を抱く月」などなどの舞台。
儒生が集まる場所。

写真正面、遠くの平屋の建物が儒生の部屋。


日にち変わって、漢江を渡った江南地区。
朝鮮王朝9代王成宗の墓、宣陵と、「チャングムの誓い」で知られた朝鮮王朝11代目の王中宗の墓、靖陵、そして成宗の側室で、中宗の母の墓があるところ。宣靖陵という世界遺産。三陵公園ともいうらしい。これが中宗のお墓。
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安岡章太郎「走れトマホーク」(講談社文芸文庫『走れトマホーク』)

2013-02-16 09:39:30 | 国内・小説
短編小説は、削っていく作業によって成立するのだろうか。短編として成立する、その一点に向けて純化していく小説というものを、まず思い浮かべる。これは、どこか俳句とかぶった勝手なイメージなのかもしれない。ただ、その短さによっては、盛り盛りに盛り込まれると辟易してしまうということがある。そう、結局、何だったのという感じになる。だが、『純化』とは逆に、長編小説への可能性と動機を込めながら一編の短編を仕上げる作者も、もちろん、いるのだろう。
で、そのバランスをうまくとることができる短編の名手がいる。というか、そのバランス、盛り込みがありながら作品としては「純化」されているような短編とでもいったらいいのか、そんな作品がある。この「走れトマホーク」を読むと、これは削ぎ落としではなく、盛り込みだと思わせる。でありながら、盛り込みが破綻ではなく、削いだものを描かなかったことにはせずに、背後で見せる技というか、遠近法の焦点をいくつか持っている、そんな小説なのだ。

この小説は、「或るビスケット会社」がスポンサーとなって、「アメリカ西部の山岳と曠原地帯を団体旅行」する「私」の旅行中の話である。一行は私とS君以外は外国の人ばかりの十何人のグループである。彼らの旅は、ドイツ人の婦人記者が「あたし達は、いったいどんなことをしたらいいんでしょう」と聞くように、目的のない、ただ西部を移動する旅行となっている。これだけでも、寓話的な、ある種カフカ的な小説が進みそうなのだが、安岡章太郎だから、そうはならない。

いくつかの焦点のひとつ。一行の中に、頑なに流儀を守るスイス人がいて、彼は、浮いている。これが、順応と孤絶、流されると流されないといった、遠近法の焦点のひとつとなる。
また、小説全体は、前半、次の文によって基礎トーンがつけられている。

  「あたしたち、いったいどんなことをしたらいいんでしょう」という
 リリー小母さんの心許ないつぶやきも、結局このトリトメもなくひろが
 った曠野の真ン中をひた走りに走りつづけている旅の、奇妙な空白感か
 ら生じたに違いない。

目的の無さ、そして生じる空白感。これは現代人の時代の中での精神風景を描き出している。これも遠近法の焦点のひとつ。あっ、これは遠近法ではなく、全体の通奏低音か。上手いのは、引用した部分で描きだしたい心情を表現したあと、すぐに、テーマ性のある次のような文章を続けるところだ。

  旅というのは所詮、何処かへ行って帰ってくることだ。それは月旅行
 でも莫大な費用と労力をかけて何をしに行くかといえば、結局地球に戻
 ってくることでしかない。われわれが宇宙船の飛行士によせる期待や不
 安は、月でどんな石ころを拾ってくるかというより、どうやって彼等が
 無事に戻ってくるかである。これは旅というより、われわれの生そのも
 のの不安というべきだろう。だから日常不断の生活の中でも私たちは、
 ふと旅に出ているような心持であたりを振り返ったりする。―いったい
 おれは、こんなところへ何をしにきているのだろう?

随筆のように、うまく滑り込ませる。これが、小説ラスト、馬の「トマホーク」に乗って、無事、馬舎に戻ってきたときの感慨と重なり、小説を着地させる。帰る「ホーム」の問題。小説は、「私」の軍隊時代や「父」への回想のよぎりを含みながら、そこにかすかにネイティブ・アメリカンの歴史性への思いも漂わせ、「ホーム」へと収斂していく。その、それぞれの部分が焦点のひとつひとつとなって、描かれた短編の背景を作りだしている。

この小説は昭和47年発表。70年代の初頭に描かれた小説である。高度経済成長の最終時期、石油危機の前年ごろの作品である。その時期を合わせて考えると安岡の精神風景が何を見ていたのか興味深い。連れて運ばれた戦時中と同じように流れの中で目的を見いだしていたはずなのに、それがすでに、ある終焉の予感を孕み、目的が目的化するという時期の中での目的それ自体の喪失感。安岡の感性は諧謔を持ちながらも、帰路へのまなざしを示し、批判性をたたえている。
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冬、ソウル(2) 食事編

2013-02-10 17:27:35 | 旅行
そんな、寒いので料理で暖まる。
一日目、ホテル近くの路地のカルビ屋さん。「地球の歩き方」にも載っていた
「テバクスップルカルビ」
ハンバンヤンニョンテジカルビを食べる。

秘伝のたれに漬け込んだお肉が美味しい。「漢方(ハンバン)」というだけに、少しくせがあって、それがまたいい。バンチャンもケランチムや餃子が付いていて充実。
寒いのにしめで冷麺をたべる。このムルネンミョン、麺が緑色。桑の葉を練り込んでいるということ。
お店は鐘路3街で、こんな感じ。お店のアジュマが孤軍奮闘で、たいへん親切。


二日目、朝、雪の街。

で、この黄色い看板の店でソルロンタンを食べる。

暖まって、いざ、「景福宮」へ、だったのだ。

お昼は、ククス。あおあさのりの入ったククス。めずらしくて、のりのとろみがよかった。ヤクルトつき。


で、夜はやっぱり「タッカンマリ」。東大門の「タッカンマリ横町」で。

サリまでセットになったセット料金を適用していて、注文しやすかった。以前、「タッカンマリ」を食べたとき鍋の中を辛くしすぎたので、今回はつけだれのみに辛みを効かせて、スープは出汁の味を満喫。

満足。
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