パオと高床

あこがれの移動と定住

ハン・ガン『回復する人間』から「回復する人間」斎藤真理子訳(白水社)

2019-10-12 22:42:00 | 海外・小説

2019年6月発行のハン・ガンの短編集。
その中の表題作。正確には日本語版の表題が「回復する人間」で、原題は違う。
収められた短編は、ハン・ガンのエキスのようで、長編のある部分に特化された感じがする。ハン・ガンの長い小説も凝縮度は高いのだが、
短編はそこだけが描きだされたような印象があって、その凝縮度はさらに高い。ことばが短くなり詩句のようになっていく彼女の文体が、
短編でも心を惹きつける。

長編『少年が来る』では一つの小説の中で各章ごとに、人称が、語る主体が、使い分けられていた。この短編集では、各短編で人称が使い
分けられている。
冒頭の小説「明るくなる前に」は一人称の「私」がウニ姉さんについて書くという構成になっている。その「私」は小説家である。
大江健三郎などの小説になじんだ読者には入りやすい。私小説の構造が物語の構造を作りだしているのだ。

「回復する人間」は「あなた」という二人称で書かれている。
「あなた」を描写していくことが、距離を置きながらも「あなた」への呼びかけのように思える。それは「あなた」を描き、「あなた」に
語りかける作者がいるからだ。読者は、その「あなた」によって、語りかける者にもなり、語りかけられる者にもなる。
そして、その主人公の「あなた」は、和解できないまま一週間前に死んだ姉のことを思っている。姉との関係、姉への思いは心の傷である。
だが、この思いは同時に「忘れる」ということも、もたらす。忘れなければ自身が危ない。忘れるという現象が反射のように訪れる。
これは忘却の持つ治癒の力かもしれない。そんな心の傷を、主人公が負った踝の下の火傷という体の傷の治療と重ねて描いていく。
火傷の感染症は治癒していく。だが、主人公の「あなた」は忘却での治癒を望んでいるのだろうか。
この小説では、「回復する」は、「回復しない」ことを選択することでの延長で考えられている。忘れるのではない回復。傷を負った時間と
等しい時間が回復への時間として必要なのかもしれない。それを忘却するということは、回復の回避なのだろうかと問いかけているようだ。
韓国のドラマでは、別れるときや裏切ったときに「自分のことを許さなくていい、このことを忘れないで」というセリフがよく出てくるが、
この思想や価値観が背景にはあると思う。ただ、これは、普遍性を持つ心的な状況のような気がする。回復するには、回復するために必要な
回復しない時間が必要だと語ることに、痛みを共有化していく時間の重みがある。
それこそが、そのあとに訪れるはずの回復へのかすかな希望なのかもしれない。
ボクらが受けている傷は痛みの先にどのような治癒を見いだせるのだろうか。
痛みを感じようとする、痛みを共有しようとする、その痛みの渦中にとどまろうとする作者のことばの息づかいを感じる。
そして、表現は、それが表現されたときに希望への薄明かりをあらわすのだという作者のことばにかける切望が感じられる。
だから、ハン・ガンの小説は、やってくる。沁みてくる。