パオと高床

あこがれの移動と定住

上山春平編『照葉樹林文化』(中公新書)

 | 国内・エッセイ・評論
副題は「日本文化の深層」。表紙裏の紹介文には「日本文化の水脈をたどりつめると、そこには縄文の世界が現出する」とある。森の文化、オアシスの文化、砂漠の文化、世界の文化的連続性をどう見極めていくか。今では、当然のようになっている事柄への、その画期を築いた果敢な挑戦が、シンポジウムには溢れていた。

この本、上山春平の「序説」において日本文化の深層としての縄文が提示される。そこでは、柳田国男と江上波夫の天神と国神のいずれを倭人と捉えるかの違いなどへの言及を含めながら、水稲稲作の時期をめぐる歴史の結節点へのアプローチが示される。すでに現在は、縄文後期に稲作が始まっていたというのは定説になっているが、その時期を考えることの重要さが、大きな人の流れ、文化の伝播、生活様式の変化として考察される。照葉樹文化という大きな世界地図の中で見つめられていくのだ。弥生と縄文という文化的移動が、このころから強く提示されてきたのだということを実感できる「序説」である。これが、おそらく伝奇小説の系譜にも影響を与えるのだろう。

そして、本論の「シンポジウム」へとつながる。中尾佐助、吉良竜夫、岡崎敬、岩田慶治、上山春平という、文化人類学、栽培学、考古学といった広範な分野での分野複合的シンポジウムが展開される。
考古学が、考古学者だけの考察対象ではなく、様々な分野を横断しながら時代を立体的に浮かび上がらせるものだということを、このシンポジウムは示している。地形の高低や気候の変化に伴う、針葉樹、広葉樹、照葉樹などの植生による世界地図の書きかえ。同時に、そのことでの文化複合の流れ。農耕の発展を野生採集-半栽培-根菜栽培-ミレット(雑穀)栽培-水稲栽培という段階に分けながら、稲作の広がりまでの流れを見いだしていく討論。それらを食物化できるための土器などの道具の発明。歴史で、稲作を始めたとだけ習うところが、その稲作に至るために準備された栽培史という連続の中で考えることができる。つまり、稲作技術だけが伝わるのではなく、稲作をする人たちが現れ、移入し、しかもそれを受け入れるだけの素地がすでにあったという背景が討論から伝わってくる。さらに、花粉研究で、森が大量に消滅する時期があることから、その時期に田の開拓があったのではないかという箇所などは、分野の総合による学問の広がりと深さを実感できる。

刺激的な一冊。ここから、さらに様々な分野への分化をはたしていけるような、集中、総合、分析、分化をくり返す、学問の面白さが堪能できた。
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日高敏隆が死んじゃった

 | 雑感
日高敏隆の『動物と人間の世界認識 イリュージョンなしに世界は見えない』について、このブログに書いたのは2007年2月だった。
網野善彦や司馬遼太郎が死んでしまったときに、このジャンルは、この人がいるから大丈夫と思うことのできる人だったと書いたが、この日高敏隆もそんな人の一人だったと思う。動物へのあくなき探求が、そのまま人間の世界と繋がってくる。そして、そこに人間の生態と文化への批評性が現れる。そう、ボクのなかでは、多田富雄の免疫系についての文章が、哲学の自他論をするりと生物学的にクリアしてしまったように、日高敏隆の動物学とでも呼べるものは、イリュージョンや現実、そして環境との相互関係での環境論をぱっと跳躍できてしまうパラダイムを持っていたと思う。

何だか、最近、読書日記にならずに、追悼の文が続いてしまった。文化や思考の方法、視点の拡大と展開を行ってきた牽引者でありながら、すでに圧倒的な存在であった人たちが、死んでいく。時代が動いているのだと感じる。せめては、彼ら彼女らの本に触れ、豊穣な知の世界に浸りたい。
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小田亮『レヴィ=ストロース入門』(ちくま新書)

 | 国内・エッセイ・評論
レヴィ=ストロースが死んだという記事を見て、思わず、読み始めた一冊。レヴィ=ストロースが、その思考にあたって用意し、再編し、創出した用語に沿って、手際よくその概要をまとめていく。

ちょうど、ブリコラージュについての章を読んだ朝、朝日新聞朝刊の『定義集』という、大江健三郎の連載欄で、大江は「未来をつくるブリコラージュ」―市民が核弾頭壊す日夢見てーという文章を書いていた。

この「器用仕事」と訳される言葉を、大江は自身の過去にあった雑多なものの思い出、そして、大江自身が行う手仕事の話という身近な語りから、『野生の思考』の引用につなげ、それを未来へ向けた手仕事として、核廃絶に向けて、それを行うための、気の遠くなるような、核兵器を解体していく手仕事へとつないでいく。ああ、こうきたかという思いがする。そう、近代のエンジニアの作業に対するに、効率性の重視による非効率性の切り捨てに対するに、非効率的でありながらも行い続ける営為の必要が語られていく。

大江は書く、核兵器という「科学的思考の総体」に対して、「科学者がこの悪夢を根だやしにする、新しいコペルニクス的転換による道を提示したことはありません」と。そして、この文章のラスト、彼は「夢想します」と言って、次のような光景を記述する。
「ある数の市民たちが、その技術と手持ちの道具で二万分の一の核弾頭を壊す、その光景がひとつの広場から全世界に衛星放送で送られる日、それを私は夢想します」

ひとりの画期的な知性への追悼を、自身の問題意識につなげていく。その身近から理想へと至る流れに、作家のエッセイを見たような思いがする。

『レヴィ=ストロース入門』からは逸れてしまったが、これもまた、思考のリレーということで・・・。
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