パオと高床

あこがれの移動と定住

坂多瑩子「いとこ」・中井ひさ子「しんと」(詩誌「4B」)

2011-10-30 15:48:14 | 雑誌・詩誌・同人誌から
10月1日付けだから、少し前に発行になった詩誌。
表紙に、柔らかい筆先の鉛筆で書かれたような「4B」の文字。A4の大きさの紙を三つ折りにした体裁で、一篇の詩が次ページを開かずに上下で読める。洒落た詩誌。メンバーは4人で、4人の個性が火花は散らさない。個性として並立した感じがいい。

坂多瑩子さんの「いとこ」は記憶の齟齬がリアルを支える不思議な味わい。連れていってくれる感覚が、この詩でも味わえる。詩に連構成はない。

木の雨戸
板がところどころ反り返っていたけど
いつだったか
親のいないとき
雨戸はずして
ピンポンよくしたねといったら
そんなこと知らないといわれた
球がとんでもない方向にとんでいってさ
それでも知らないといわれた

冒頭部、まず音の流れに引かれる。どこにその始まりがあるのだろう。「板」の母音と子音の構成がことばを引っ張っているのかもしれない。と、思いながら、詩句は、記憶を思いだすように、付帯状況のように、つながる。微妙に時間がずれた感じがある。ピンポンした過去の話をした少し前の過去。「そんなこと知らない」と「いわれた」のは今なのかな。それが、少し過去のように思えるのは、時間が緩やかに流れているからだ。思い出しの付帯状況が時間を引っ張っていっているからだ。ここで、会話の主体が変わる。

親のいないとき
白菜のつけものぺらぺらのまま食べた
あんた 桶からだしてきて
といわれてもあたしはちっとも覚えていない

ピンポンを覚えていない相手と白菜を食べたことを覚えていない「あたし」。「あんた」は「あたし」なのだが、「あんた」といった相手に人称代名詞は使われていない。詩の題名から「いとこ」の関係が予想される。実は、このやりとりに最初の「雨戸」の上でのピンポンのイメージが重なる。そして、詩は不思議な重さを見せる。

親のいないときはうれしかった
あんたもあたしも親がきらいきらいだし
いつだって薄ねずみ色していてさ
えっなにって
青みがかった薄ねずみ色でさ
雨がふると道どろどろとけちゃってさ
いやだね
手のなかにあるものはみんなやわらかくなってしまって
そのうちおなかもふくらんできて

「あんた」と「あたし」が並んでおかれ、「あんた」と「あたし」がとにかく二人を表す入れ代わり可能な者になる。だが、「ちゃった」ことばや語尾に「さ」がつく場合とそうでない場合まで読みとろうとすれば、二人の会話パーツが見えるのかもしれないが、それよりも話の進み行きに乗る方が楽しい。量感は母音と関係があるのかもしれない。と思いながら、白菜の「ぺらぺら」と雨の道の「どろどろ」が印象に残る。「青みがかった薄ねずみ色」の記憶の中のあたしたちは、雨に降られている。雨に消されていく。記憶はやわらかくなって、どろどろになりながら、それは、夢の「遊び時間」となって過ぎていく。

楽しかったね 親のいないときって
遊び時間はこうして過ぎていった
死ぬなよ
えっなんていったの
あしたあさっては紫外線多いんだって
          (坂多瑩子「いとこ」全篇)

今という「あしたあさって」ではない今日が、一瞬、永遠の時間のようなものを漂わせる。「死ぬなよ」には常に、近接過去と近接未来がある。遠来の過去は、茫として、今にあり。

中井ひさ子さんの「しんと」は短い連が全体を作りながら、連の中でも「つぶやき」のような呼吸とそれを起こさせるものとの緊張感がある。緊張感とは張りつめた感じをいうのだが、ここには柔らかな緊張があるのだ。

昼下がりの薄い陽射しは
むやみにけむたくて
咳きこんでしまう

車道の車は止まることを知らない

すれ違う人たちは
真っ直ぐ前をむいたまま
みずくさいな

歩道の片隅で
歩いたはずのカンナが
黄色く揺れているのが
気に喰わない

最初の二行がどこへいくのかと思わせながら、「咳きこんでしまう」という「わたし」との関係を作る。詩の中には「わたし」を示す人称代名詞はないのだが、「わたし」がいる。

例えば、第二連に繋げるときに、「咳きこんでしまう」がなくてもいいような感じもするのだ。第四連まで省略を加えて書いてみると、

昼下がりの薄い陽射しは
むやみにけむたくて

車道の車は止まることを知らない

すれ違う人たちは
真っ直ぐ前をむいたまま

歩道の片隅で
歩いたはずのカンナが
黄色く揺れている

これで繋がるのだ。ところが、これでは、現実を崩しうる、あるいはずらしうるもの、つまり現実を引き受ける存在がいなくなってしまう。移動空間はある。だが、移動が行われないのだ。ことばはことばがつくりあげようとする世界を持っている。それは、実は作者をその世界に取り込むか排除するかの緊張を持つものなのかもしれないのだ。その境界を辿ることばが中井さんの詩には書き込まれている。呟くような呼吸。それがつくる落差、高低差。これが効いているから、後半、時間は少しだけ異界の方へ動きそうになる。呟きのない時間へと動くのだ。

空が少しずつずれて
遠い日に
原っぱで見つけた
抜け穴からの風がおりてくる

鼻の先に しんとくるもの

もうひとつ別の場所が提示される。空のずれ。抜け穴からの風。この風は吹いてくるのではなく、「おりてくる」。ここにも高低差がある。おりてくる風。それを感じながら見上げるわたし。通路のような「抜け穴」がぽっかりと見える。読者の視覚には穴が見えるんだが、詩では、それは鼻が捉えた感覚で表現される。いいな。静謐を一瞬呼び込む。そうしておいて、

塀の上の
カラスが突然飛び立った
何を見た 何が聞こえた

カラスのざわめきに繋げる。そして、「見た」、「聞いた」と問う。カラスはどこに行ったのだろう。別の場所へ。この三行の連が起こしたざわめきは、また消える。この呟くような問いは問いとして残されて

銀杏稲荷の鳥居は
そっぽを向き寡黙

あっけらかんと 夕暮れる
          (中井ひさ子「しんと」全篇)

「そっぽを向き寡黙」という詩句が詩の終わりに向けて引き締まった感じを与える。そして、最終行で引き締めたものをさっと手放してみせるのだ。握った手のひらをぱっと開くように。そこには「夕暮れ」が広がっている。ボクはここに地平線が見えたような気がした。もちろん、この夕暮れのイメージは人によって異なるだろうと思うが。
なんだか、ぶらぶら道草しながら祖母の家に行こうとして、迷子になった赤ずきんのようでもある。
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田村隆一『四千の日と夜』(3)最終回

2011-10-29 02:19:40 | 詩・戯曲その他
   ○

 その言葉が人間と刺し違える鮮烈な一瞬を、言葉が世界を築きあげることによって、世界を消失させる緊迫の一瞬を詩にしたものが、有名な「四千の日と夜」である。田村隆一は詩についての詩を多く書いている。メタ詩を詩に取り込みながら、メタ言語の状態では呈示せずに、あくまでも詩の言語の可能性に向けて開かれている。

 一篇の詩が生れるためには、
 われわれは殺さなければならない
 多くのものを殺さなければならない
 多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ

 見よ、
 四千の日と夜の空から
 一羽の小鳥のふるえる舌がほしいばかりに、
 四千の夜の沈黙と四千の日の逆光線を
 われわれは射殺した

 聴け、
 雨のふるあらゆる都市、鎔鉱炉、
 真夏の波止場と炭坑から
 たったひとりの飢えた子供の涙がいるばかりに、
 四千の日の愛と四千の夜の憐みを
 われわれは暗殺した

 記憶せよ、
 われわれの眼に見えざるものを見、
 われわれの耳に聴えざるものを聴く
 一匹の野良犬の恐怖がほしいばかりに、
 四千の夜の想像力と四千の日のつめたい記憶を
 われわれは毒殺した

 一篇の詩を生むためには、
 われわれはいとしいものを殺さなければならない
 これは死者を甦らせるただひとつの道であり、
 われわれはその道を行かなければならない
                   田村隆一「四千の日と夜」全編

 この詩に、第一詩集での田村隆一のすべてが凝縮しているようだ。詩に賭ける宿命的な決意と、詩自体の持つ宿命的な性質が、静謐に、だが、冷たい熱を持って、非情の情をひびかせながら表現されている。
 「詩が生れるため」に「愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺」しなければならないのだ。そして戦争という悲惨、野蛮、産業革命以後の人間が生きてきた近代という時間、そして「見えざるもの」「聴えざるもの」からの、「小鳥のふるえる舌」、「飢えた子供の涙」、「野良犬の恐怖」といった詩が「ほしいばかり」に、彼は「四千の日と夜」の「沈黙」と「逆光線」を、「愛」と「憐れみ」を、「想像力」と「記憶」を殺さなければならないと告げる。田村隆一は、ここで近代の人間の歴史自体を詩に吸引することで詩の中で生かすために抹殺しようとしている。それは、とりもなおさず、自分自身の戦後十年という「四千」の時を詩に移行させることによる抹殺と呼応する。彼は、「一篇の詩」を書くために、「殺さなければならない」という詩を書き、築きあげている。そして、そこで、言葉は、言葉が築く詩は、世界と対等につり合い、世界を詩の世界で奪還し、詩を屹立させるのだ。「いとしいもの」を殺して、言葉の中に住まわせること、そうすることが、「死者を甦らせるただひとつの道」であり、詩人は、「その道」を進むのである。

   ○

 詩集『四千の日と夜』は日付を刻み、凍結させた。しかし、同時にそれは、オクタビオ・パスが語るように、歴史的な日付ではない。

  革命も詩も、現行の時間、歴史の時間ー不平等の歴史の時間ーを打ち
 壊し、〈別の時間〉を創設せんとする試みである。しかし詩の時間は、革
 命の時間ではない。批判的理性の日付のある時間や、ユートピアの存す
 る未来ではない。それは時間に先立つ時間、少年の眼差し中に浮かび上
 がる「前世」の時間、日付のない時間なのだ。
                 オクタビオ・パス『泥の子供たち』

 だが、そうであればこそ、田村隆一の詩は、むしろ始点の日付を刻み込む。なぜなら、パスが同じ著書で語るように、「詩とは、歴史の中で、読みの中で現実化する超歴史的な潜在力である」からだ。また、近代詩に対する言葉ではあるが、「詩とは日付を欠いた時間の言葉である。始原の言葉、創建の言葉。しかし、解体の言葉でもある。イロニーによる、死の意識たる歴史意識による、アナロジーの破壊。」であるからだ。戦後詩は、そこに歴史と対峙させるための内部の日付を記載することを要求したとは考えられないだろうか。
                 
   ○

 田村隆一はこの地点にとどまり続けるわけではない。彼は、前出の「恐怖・不安・ユーモア」で、「やはりそれは、私としても現実的な手がかりがどうしても必要なんで、それがなくてはちょっともたないですよ。その意味で、たとえば『四千の日と夜』のようなやり方だけでいったら、とても生命がもたないですね。」と語りながら、さらに、

  ただ『四千の日と夜』のような世界だと、それはもうぼくにはあの一
 冊だけで十分なんです。それはある種の情熱の激しさもありますし、い
 っさいの日常的なものを全部拒絶していることもあるわけですが、でも、
 それはぼくに言わせるとやはり一種の密室ですから、これをいくら続け
 ていっても、詩人の側としては、要するに真空状態になっちゃうわけで
 す。だから、いくら読む人がそっちのほうがいいと言っても、そういう
 わけにはいかない。
 
と、続ける。「いくら読む人がそっちのほうがいいと言っても」と読者の優位に立たないところが、小説とは違って、詩だなと思わせるが、また、当時の詩の状況から考えれば、読者の詩への要求の力は相当に強いものだったのではないかと想像する。
 そうして、この「真空状態」自体にも、次のように批判を加えながら、

  逆に言うと、あの『四千の日と夜』の世界というものが、そういう一
 種の真空状態の詩の世界にほかならないということは、読む側にとって、
 それがどういうふうにでも利用できる空間だということなんだ。極端に
 言えば、右翼にだって左翼にだって利用できる。だけど、第二詩集から
 のやつは、そういう真空状態を自分としても壊したいわけです。壊すた
 めにはやはり、現実的な手がかりがいるわけです。

と、第二詩集『言葉のない世界』への展開を振り返るのである。「〈詩は言葉でつくられる〉この自明の原理を銘記してほしい。」と語る詩人が。『四千の日と夜』で格闘しながら獲得した言葉の世界に対して、彼は『言葉のない世界』をぶつける。しかも、それを言葉で書くのだ。その詩集に「帰途」という意味深い題名を持つ有名な詩がある。言葉で世界を屹立させようとした詩人は、その宿命を引き受けるように書く。

 言葉なんかおぼえるんじゃなかった
 言葉のない世界
 意味が意味にならない世界に生きてたら
 どんなによかったか

 あなたが美しい言葉に復讐されても
 そいつは ぼくとは無関係だ
 きみが静かな意味に血を流したところで
 そいつも無関係だ
 
 あなたのやさしい眼のなかにある涙
 きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
 ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
 ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

 あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
 きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
 ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

 言葉なんかおぼえるんじゃなかった
 日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
 ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
 ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる
                       田村隆一「帰途」全編

 言葉をおぼえてしまったために、「立ちどまり」、「帰ってくる」。言葉による表現活動の一切は、この詩から離れられない。あとは、風の行方をたずねるだけだ。


引用・参照

 『現代詩読本 田村隆一』(思潮社)
 田村隆一『腐敗性物質』(講談社文芸文庫)
 『現代の詩人3 田村隆一』(中央公論社)
 ミラン・クンデラ『小説の精神』金井裕・浅野敏夫訳(法政大学出版局)
 オクタビオ・パス『泥の子供たち』竹村文彦訳(水声社)
 大岡信『詩をよむ鍵』(講談社)
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田村隆一『四千の日と夜』(2)

2011-10-26 14:45:10 | 詩・戯曲その他
   ○

 田村隆一は、エッセイ「肉体は悲しい」で、「幻を見る人」について書いている。よく使われる一節だが、彼が企図したことの一端がわかる。

  「幻を見る人」にあっては、自由詩のスタイルをとりながら、あくま
 でも静的に収斂されていく。音響も色彩もない、黒と白の無声映画のよ
 うな世界だ。形容詞も副詞もない。いわば、「小鳥」「空」「野」「窓」「叫
 び」「部屋」「屍骸」だけで成立している世界で、あらゆる修飾語から切
 りはなされている単語、裸体のままの単語を有機的にむすびつける動詞
 も、「墜ちてくる」「聴えてくる」だけにすぎない。そして、「小鳥」と「叫
 び」に共通の運命をあたえているものは、「射殺された」という、きわめ
 てアクセントの強い形容句である。この詩に、もしひびきがあるとすれ
 ば、この箇所だけであって、小鳥のはばたきはおろか、人間の「叫び」
 そのものさえ、読むものの耳にはきこえない、まったく無声の世界であ
 る。
                     田村隆一「肉体は悲しい」

 では、彼のこの企図の動機の一端は何なのだろうか。それは、「恐怖・不安・ユーモア」というタイトルになったインタヴューからすくい取ることができる。この発言は一九六九年に初出されているものだから、『四千の日と夜』に限定して書かれたものではないのかもしれないのだが、田村隆一の新しい詩を創作することへの意志と自らを更新し続けようとする持続への決意が表明されている。
 彼は、情緒について書く。

  だからぼくは、例の昭和初期からの日本のモダニズムの詩がみんな感
 覚的になってきたということは、まあ一理ある。ー古い情緒的なものに
 抵抗してモダニストたちは感覚というものを尊重してきたわけでしょう。
 情緒を避けるために感覚に移行していく。ところが、古い情緒は避けら
 れたけれども、新しい情緒をつかまえることはできないわけです。いわ
 ゆるモダニズムの詩ではね。しかし、情緒というものは、人間をいちば
 ん生かしている原動力だと思うんです。ぼくは古い情緒は嫌いだけれど
 も、やはり何らかの新しい情緒がないと、人間のいわゆる生に対する感
 覚というか、また生の諸価値というものは出てこないような気がするん
 です。ところが、不平不満だとどうしても感覚的にならざるを得ない。
                 田村隆一「恐怖・不安・ユーモア」

 この意識が、彼に純度の高い言葉の詩を書かせた。そぎ落とされた言葉は、それ自体ぎりぎりのところで言葉の無機質化への傾斜に踏みとどまり、その言葉が持つ情緒から余分な情感を剥ぐ。感覚的な処理ではなく、論理の擬装をまとうことで、明晰な論理自体が持つ抒情を支持する。だが、詩句は衝突し合うことで、論理の整合性に絡め取られることを拒絶する。了解可能な情緒におけるわかりやすさの罠のなかから戦後は、切り離されなければならなかったのだ。その切断面においてこそ、戦前的なるものは意味を持ち、戦後の生は生自体を獲得できるのである。その情緒の継続的変質は、おそらく今現在も続いているのだろう。もちろん、継続伝承され続ける情緒との共生、混合、そして対峙、拮抗をくり返しながら。
 水溶性の情緒は忌避されるが、田村隆一は情緒を軽蔑しはしない。「ただ情緒そのものは軽蔑しちゃいけないと思うんです。まあ、古い情緒はいやらしいし、ぼくのいちばん嫌いなものですけど、しかし、やはり新しい情緒がないと人間のほんとの悲しみとか喜びとかは歌えないですよ」と言う。「ほんとの悲しみとか喜び」を歌うために、それを思索し、「新しい情緒」を模索している。「情緒」をあるものではなく探査、思索するものとして考えているのである。僕らはこのラディカルさにも、ある戦後精神をみることができるのかもしれない。
 僕は、ここを読んだとき、かつて読んだミラン・クンデラの『小説の精神』のあとがきを思い出した。訳者である金井裕はクンデラを紹介しながら、五○年代に若い叙情詩人として出発したクンデラの「歌のわかれ」としての叙情詩人から散文作家への移行について触れている。そして、「抒情詩の精神と小説の精神」を「世界を見、理解する異った対立する二つの仕方」であり、「スターリン主義の絶頂期にあって抒情的態度がことのほか高揚される時代に青春を過した私は、そこに抒情とテロルが不分明なかたちで馴れあっているのを見た」というクンデラのインタヴューを引きながら、

  彼(クンデラ)は、この〈馴れあい〉の例として、ポール・エリュア
 ールがチェコのシュールレアリスト、サヴィス・カランドラの処刑の際
 に書いた詩をあげ、詩人の「抒情的高揚がほとんど奇跡的といってよい
 くらいみごとに」、「自我と世界との批判的距離を無くさせ」、詩人自身が
 いかに「死刑執行者に自己同化」しているかを指摘するのである。これ
 を要するに、叙情的精神とは、対象に無批判的に自己同化を行い、「人間
 生活の他の表示」、いいかえれば「イロニー、分析、理解、冒険、思考…
 …等を掻き消してしまう」精神にほかならない。
         ミラン・クンデラ『小説の精神』「訳者あとがき」から

と、クンデラの叙情的精神との「わかれ」をまとめている。そして、金井裕は、クンデラが、この叙情的精神に対置させる〈小説の精神〉について、「小説とは、『さまざまに異った世界観の出合いの場であり』、『それぞれ異なった世界観の存在』によって構成される『相対的世界』にほかならない」ものだと、書く。そして、「この相対性の精神に、いいかえれば、他者の尊重、他者の思想の、他者の宗教の尊重という原則に、つまり寛容の精神に到達したのだとすれば、この精神は、『相対的世界』によって構成される小説の構造のなかに、だれひとり絶対的な〈真実〉の所有者ではなく、しかしだれもが〈真実〉への権利を主張しうる小説の〈想像的空間〉のなかに、もっともよく具現化されているはずである」と、クンデラの考えを整理してみせる。チェコの歴史を生きたクンデラはより強く「相対的世界」を感じるのかもしれない。だが、おそらく戦中を生きた精神のなかにも、このことと同様の抒情に対する嫌悪と懐疑は強く傷をとどめたのではないかと思う。ある「抒情的高揚」が判断の介在を容赦しない場をつくる抒情の限界。そして、絶対性として現れるものが、実は、決して唯一の絶対ではないという懐疑。
 ところが、「恐怖・不安・ユーモア」では、「相対」という言葉を使いながらこういった展開になっている。

  欲望を軸にした、不平、不満、不安、それから怒りでも、いろんな怒
 りがあるわけでしょう。それが欲望を軸にする場合にはどうしても相対
 的な怒りになりますね。現代の社会体制とか、資本によるいろいろな支
 配がある、それによって人間が疎外されたりするんですけど、怒りがそ
 ういう外にばかり向かっていく。むろん、その怒り自身はたいへん大切
 なものです。その怒りがなかったら、われわれの世の中は救いようがあ
 りませんからね。ただ、そういう怒りはどうしても相対的なものになり
 やすい。たとえば、ある社会的な状況が解消すればなくなるわけです。
 むしろ社会的状況や政治的状況を解消させるために怒りが必要なのかも
 しれないからね。しかし、またもう一つには状況が変っても変らないと
 いう怒りがあるわけでしょう。だからその相対的な怒りと絶対的な怒り
 とがうまくその軸で交叉しないと、詩としての根源的な力が出てこない
 んじゃないかと思うんです。
                 田村隆一「恐怖・不安・ユーモア」

 まず、「相対的」という言葉の使い方が違う。クンデラは相対的な世界観にウェイトを置き、ポリフォニーが想定されているが、田村隆一は、相手に、対象に、相対するというところにウェイトを置いて「相対的」という言葉を使っている。そして、その対象に支配されない根源性が想定されている。様々な支配への相対的な怒りと、対象自体にとらわれない絶対的な怒りという分け方の中に、相対性に絡め取られない自己の絶対性への何か孤独な信頼があるのではないだろうか。この信頼は無批判で妄念的な信頼ではない。個が個として存在するときに、その存在自体が様々なものを剥奪されながらも、なお残るであろう存在の持つ情感や思念といったものではないのだろうか。だが、はたして、そんなものがあるのだろうか。あるのだ、ということが言葉に賭けられる。人間を言語として考えれば、言語によって書かれる詩は、その詩の存在によって人間とつり合おうとするのではないだろうか。田村隆一の垂直な下降は同等に垂直な言葉の上昇をつり合わせる。この詩人にとって、相対性とは、それを選びとらせるほどの魅力を与えるものではないのだ。おそらく、散文作家は、この田村隆一をこそ相対化して、散文中の人物にしていくのかもしれない。だが、田村隆一は生身のそのまま登場人物として生きているのだ。
 ただ、ここで、彼は「相対的な怒りと絶対的な怒り」とが「交叉」する「軸」という言い方をする。状況の解消と共に解消する情感と対象を喪失しても人が持ってしまう存在それ自体が持つ情感という二つが、交叉する軸という考え方には、第一詩集『四千の日と夜』から第二詩集『言葉のない世界』以降への時の経過による変化が表れているのかもしれない。
 『四千の日と夜』には、剥ぎ取られた存在が、それでもなお、詩を通して獲得した存在それ自体の在りようや、死を通過してこそ現れてくる言葉の世界での存在や、その極限で滴り出てくる情感がある。それが、その状態を抱え込みながら、第二詩集以降、田村隆一自身が語るように「現実的な手がかり」を必要としていく彼の歩みが、この言い回しには宿っているのかもしれない。そう、「絶対的な怒り」だけではなく、そこに「相対的な怒り」との交叉を見つめていこうとする移行があるのかもしれない。

   ○

 もう少し「絶対的」と「相対的」にこだわってみたい。相対的とは他と比較しうる世界である。それぞれが他との比較において存在する。絶対的とは比較を無くした世界である。この「絶対的」と「相対的」ということを世界の内在化と世界の外在性との関係として考えてみると、それは内在化された世界と言葉との関係とも重なってくる。交感不可能な言葉を表現において求めるという行為は、そこでは言葉によって外在化される、自身の内在化した世界との一体化を求める行為であり、自身の内在化したものの絶対性を外部に働きかけようとする行為なのだ。ただし、当然、言葉化されて表出したものは、外在した世界の視線にさらされることになる。
 だが、その段階に行く以前の段階において、いったいに、世界を自己のなかに内在化することは、自分自身を世界に対して超越的な位置に置くことになるのではないだろうか。それが、権力を手に入れれば、超越的な力は内在化した世界をそのイメージのままに外在化させようとするのだろう。だが、個人が個人として世界を内在化させる場合、世界との間に親和性があれば一体感のある状態を生み出すのだろうが、おそらく内在化の強さは、世界との違和や齟齬によるのではないだろうか。そして、自身の超越性や違和や齟齬を回避するためには、世界を内在化すると同時に、自らを世界に内在化させなければならない。というより、そうさせないと、実際に生活をしていくことはできないのであるが、もし、そうしなければ、世界を内在化した自らは、内部世界と外部世界の親和が果たせず、孤絶の中に直立することになるだろう。その直立を生きながら、内在化した世界を、言葉の世界で外在化する。実は、そこに絶対性と相対性の「交叉」する「軸」があるのだ。当然ここに、「詩としての根源的な力」が宿る軸が生まれる。これは、そのまま、実体としての「小鳥」と言葉としての「小鳥」と「野」の関係に等しい。ただ、この場合の実体にあたるものが、すでに強烈にイメージとして実体を離れ、内在化しているのだ。
 江藤淳は『成熟と喪失』の中で「人はイメジで生きている」と書いているが、人はおそらく想像力で生きている。詩とは本来、世界の内在化を始点としているのではないだろうか。だが、それは、常に言葉によって外在化される。外在化されるとは、つまり、違和や齟齬、親和を引き受けてしまうということなのだ。田村隆一は、その第一詩集『四千の日と夜』において、世界を内在化することの必然を表現するという外在化をやってのけるのである。そのことの意味と宿命を問うている。それは例えば、世界との違和や齟齬を詩のテーマとして表現するということとは違うのである。詩自体において、そのことを表しているのである。つまり、詩の創造自体が世界と詩人との関係を構造として持っていることを告げずに表現したのである。内在化した世界を、言葉によって、詩の世界に構築するという詩人の意味と宿命を明らかにしたのである。
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詩誌「饗宴」62号 山内みゆき「未来への確認」、村田譲「思い 手あわせ」

2011-10-25 11:13:11 | 雑誌・詩誌・同人誌から
北海道の詩誌「饗宴」。2011年エッセイ特集と書かれている。エッセイ、読み応えがあるのだが、ここでは詩を紹介。
冒頭の詩、山内みゆきさんの「未来への確認」の一連目が面白かった。

昨年の秋の終わりにひとかけずつ埋めた大蒜は
春になって細い茎に葉をそよがせ並んで育った
ひとかけが一個に増えるとは 効率的
でも 少しずついっぱい
食さなければ冷蔵庫の中身は減らないだろう

大蒜のそよぐ葉と冷蔵庫の中に収まっている大蒜が頭のなかで一緒になって、もちろん広大な大蒜畑ではないのだが、その大蒜の埋まった土と妙に存在感を示す冷蔵庫のボックスが僕の中で像を結んで楽しかった。で、第二連、

イコール(=)を出しなさい
大審問官が迫ってくる
わたしには嘘はありません
走ります 命尽き果てるまで…

えっ?「イコール」?つまり、答えを出しなさいということかもしれない。しかし、この答えは等号で結ばれていなければいけない。「答えを出せと/大審問官は迫ってくる」ではないのだから、等号で折り合う、対象性の世界を要求してきているのだ。詩はそれに対する反発を示さない。むしろ受け入れていく。「未来」への答えを求める「走ります」という行為を示す。「イコール」の右側にある「未来」へ向かって。そこで、第三連以降が書かれる。

川沿いの堤防の道は途切れつつも
昔の祖父の家に繋がる
もう とうきび畑も 橋もない
過去はもう 保存されていない
記憶は感傷に過ぎない

この連がいいなと思うのは、「保存されていない」と書くことで、「保存されてしまう」ことばのよさだ。「感傷に過ぎない」と書くことで感傷を存在させてしまう、否定しきれないことばのよさだ。「とうきび畑」も「橋」もないと書きながら、あったはずの「とうきび畑」と「橋」を存在させ、イメージさせることばのよさだ。「途切れつつ」繋がっている道は、繋がっている。だから、それは未来へも繋がるはずのもので、繋がると信じるもので、

雲は貨物列車のように繋がって
肩には涼しい風

大蒜のおかげで
スタミナはついたかも
          (「未来への確認」全篇)

と、終わる。日々の連続への思いが、この詩を支えている。昨年の大蒜から私の中へ入ってきた大蒜までを繋げている。確認できる未来なんてないのだけれど、日常は未来を前提しているのだ。

村田譲さんの「思い 手あわせ」。
「饗宴」では、「はやぶさ」や「イカロス」といった宇宙に材を採った詩が掲載されていたのだが、今回は村田さんのもう一つの流れ(と勝手に書いたのだが)の詩かな。詩集『渇く夏』の流れに位置する詩なのかなと思った。自身の来歴を人々の生活や過ぎていく時間と重ねあわせていく詩群に入るのかもしれない。

ひらいては
巻きつく初めてと結び
知らなかった手との会話が
伝わる帰ってからの
温もりのその日
零れる笑みは
滴りソファのくぼみへ、と

ためらうように触感を刻む。ここで、第一連が終わり、次の二連は、

沈みこんだ体を支えながら
そして同時に
願う一本の名前を携えようと

連が異なっているので、「ソファのくぼみへ、と」は「沈みこんだ体」とは繋がっているようで、繋がっていない。ただ、読者の頭のなかでは、「ソファのくぼみ」の量感と「沈みこんだ体」の量感が重なる。この連が「わたし」の始まりを告げる連になっているように思う。ここが、「わたし」を誕生させ、同時にそれは、父の墓の前で父を思っている「わたし」を存在させているのだ。今、ここに「わたし」を送り出してくれた父への思いが終連にある。

父の墓の前
チャペルの鐘の響くもとであわせる
わたしの思い 手のひら
、よ
          (村田譲「思い 手あわせ」一部)

読点に呼吸を宿そうとしている。村田さんの詩は朗読への道筋があるのだが、この「、」は、「手のひらよ」ではだめだろうし、「手のひら」という体言止めの終わりでもだめだったのだろう。「わたしの思い」を入れるための呼吸が確かに読みとれる。
もちろん、この詩は全く違った読み方もできるのかもしれない。ただ、僕は父から「わたし」へと命が生みだされ連続していく詩として読んだ。
前後して作者には申し訳ないのだが、
第三連、

触れるすべてを
変える黄金色の光景の波間へ
ひろがる鼻孔には
ちいさな君の称号がソーサーのうえ
とじて握りしめる
貴い味わい

実はこの連が効いている。触覚が視覚と交互に現れ、絡み合っている。

この詩誌では、他に吉村伊紅美さんの連作「魚篇」シリーズが毎号楽しい。また、塩田涼子さんの「転身譚」も興味深い連作だ。また、「林檎屋主人日録」も密かに(?)楽しんでいる。
荒巻義雄さんのエッセイは文句なく堪能。詩集が出るのか。
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田村隆一『四千の日と夜』(1)

2011-10-24 14:51:15 | 詩・戯曲その他
2009年12月に書いた文章である。今回の田村隆一で過去に書いた文章をアップするのは最後にしようかとも思っている。


始点としての『四千の日と夜』
             
 風の出自をたずねる。
 例えば、佐々木幹郎は、トークライブで語っていた。ヒマラヤ山脈にぶつかるアジアモンスーンと、それによって発生する上昇気流が引き起こす壮大な風の動きのことを。彼は、風を見ていた。そのただ中に立っていた。その話を聞けば、あこがれが宿る。僕らの存在は風になびく。ただ、今は、微風がいい。宇宙からの視点で見ることができる、この惑星を覆う風の動きは、映像の中だけにして、今は、微風の中にいたい。
 と、思いながら、風の出自をたずねる。
 その風は、ある空虚から吹き上がってくるのか。心に空いた井戸から吹き上がる風か。第二次世界大戦という、人類が自ら露呈させた「野蛮」の経験によって、言葉は、「戦後」を生きるための始点を必要とした。その切っ先に、田村隆一がいた。田村隆一はその詩「腐刻画」に刻みつけた言葉のように「深夜から未明に導かれてゆく近代の懸崖」を屹立させた。その「懸崖」から、風が吹く。

   ○

 戦後詩の始まりを告げたといわれる詩集『四千の日と夜』の鮮烈な詩群の中で、まず、「幻を見る人」に引きつけられる。

 空から小鳥が墜ちてくる
 誰もいない所で射殺された一羽の小鳥のために
 野はある

 窓から叫びが聴えてくる
 誰もいない部屋で射殺されたひとつの叫びのために
 世界はある

 この立ち止まる感じは何だろう。論理が宙づりになっている。「野」があって「小鳥」がいるのではない。「小鳥」がいて「野」があるのだ。世界はそこにあるものの内面で現象化されている。ひとつの存在によって、「空」と「野」は存在を認識される。ところが、ここに静止の圧力が加わっているのだ。「小鳥」は「射殺された」「小鳥」であって、ここでは実存空間は閉じられている。にもかかわらず、「野」は「小鳥」との関係の上に存在する。「幻」としてつかみ取られた直感が、論理の文体を獲得して、一気に呈示される。舞い上がるのであれば、「空」があればいい。だが、二度と舞い上がることのない「小鳥」には「野」が必要となる。
 では、二連の「窓」と「叫び」はどうなるのか。ここでは、一連の「空」と「野」の位置関係が「窓」と「世界」の位置関係と対比され、「小鳥」の位置が「叫び」と呼応する。すると「叫び」の内部に「世界」が封じられるのではないのだろうか。と同時に、「野」に「小鳥」がいる視覚イメージと対応して、「世界」に「叫び」が満ちている聴覚のイメージが表れる。だが、これも、「誰もいない」ところで「射殺された」ものなのだ。そして、この「射殺された」という強い言葉が、作者の意図通りに、他の言葉を凍結させている。視覚も聴覚も、実は遮断されているのだ。
 ところが、言葉はそれでも息づいてしまう。例えば、沈黙という言葉にも、それ自体の音があるように。すると、この二つの連は次のようにも読める。実体を射殺するということが、そのまま言葉化する行為ということにつながるのではないかという読みだ。「小鳥」という実体を射殺することで、「小鳥」という言葉になった「小鳥」が「野」に残る。では、「野」は何か。それが詩という場になる。「空」という立体の、実体の広がりから、言葉となった「小鳥」は紙面という詩の場に落下する。その「小鳥」のために「野」はあるのだ。では、「叫び」はどうだろう。同様に、「叫び」の実体も「射殺され」て、言葉としての「叫び」になり、世界から詩が築きあげる「世界」に移る。その、「叫び」のために「世界はある」のだ。この二つは、視覚、聴覚の両方に向けた詩における言語化の道筋を示している。そう考えると、田村隆一は、その実体と言葉という二重性を「小鳥」や「叫び」という言葉に込めていることになる。指示するものとされるものを言葉と実体とに分離させながら、尖鋭に問題として突出させているのだ。この二重性は、後述するが、「四千の日と夜」という詩の中の「一篇の詩が生れるためには、/われわれは殺さなければならない」という詩句に見られるように、「一篇の詩が生れるためには」と書き、しかも「殺さなければならない」と書く逆説と通底し、第二詩集の『言葉のない世界』を言葉で記述するということにもつながる、田村隆一の詩的方法のひとつでもある。
 彼は、エッセイ「肉体は悲しい」で「〈詩は言葉でつくられる〉この自明の原理を銘記してほしい。そして、観念や感情がくっきりとした形となって生れるのは、詩という構築物によってである」と書いているが、そうであればこそ、言葉は言葉の世界に至って、言葉に宿るものを自白するのだ。

   ○

 読者は、この二つの連で、時間の停止に直面する。そして、三連で、前の連の関係が論理的な文体で解読される。

 空は小鳥のためにあり 小鳥は空からしか墜ちてこない
 窓は叫びのためにあり 叫びは窓からしか聴えてこない

 詩の内部で、自らの記述した先行する連への明晰な確証が行われる。詩人は自身への省察と批判を、記述と同時に行っていく。しかも、「空」と「窓」。この単語は開放と閉塞を同時にもたらしてくる。詩の中で対峙されるべきものが関係として記述されている。「空」の広がりは「小鳥」のためにあるのだが、「小鳥」は墜落するものとして捉えられ、墜落によって「空」を認識する。一方、「窓」は閉ざされた内部を持ち、それが開かれることによって、「叫び」は外に溢れ出す。「叫び」は閉塞された抑圧の中にあり、それによって「窓」が逆に認識される。ところが、ここでそのことへの理解を突き放し、それへの直感を全的に告げる詩句が現れる。

 どうしてそうなのかわたしには分らない
 ただどうしてそうなのかをわたしは感じる

 この詩句にいく距離は相当に近い。一瞬の短絡が詩を跳ばせている。もう一連、あるいは一フレーズあってもいいような気がするのだが、そこに大いなる削除の跡が残る。そして、詩句はまた、一気に「小鳥」と「叫び」に戻る。論理的言質に戻る。

 小鳥が墜ちてくるからには高さがあるわけだ 閉されたものがあるわけ
  だ
 叫びが聴えてくるからには

 倒置法が効いている。「小鳥」の墜落には「高さ」が、「叫び」の聴覚には閉塞が、必要となる。対句を崩して倒置にする。「高さ」と「閉ざされた」の連続が、田村隆一の思想の場を想起させるようだ。後に、第二詩集『言葉のない世界』の標題詩で「言葉のない世界は真昼の球体だ/おれは垂直的人間/言葉のない世界は正午の詩の世界だ/おれは水平的人間にとどまることはできない」と書くことになる、垂直への意志と水平への拒絶が、そして、時代精神としての墜落と閉塞が、想起できる。
 もちろん戦後の開放があるはずだろうが、詩人は当然として、脳天気に開放を歌う詩人ではないのだ。むしろ詩集名の『四千の日と夜』が示すように戦後十年の精神史的風景がある。例えば、それは、大岡信が『詩をよむ鍵』の中で、「私は一九四五年に十四歳だったが、それから数年後には、われわれが今生きている時代はすでに第二次大戦の〈戦後〉ではなく、第三次大戦の〈戦前〉だという実感と不安をはっきりもっていたことを、明らかに思い出すことができる」と述懐しながら、朝鮮半島の紛争など多くの新たな紛争が生じる中、「以上のような諸要素が、日本の〈戦後詩〉をとり巻いていた状況の主なものだった。当然、ここでは戦争体験、飢餓、原爆などとの関係において、詩人たちの発想の中核に死のイメージが頻繁に現れることになる」時代であり、「全体性の回復」への「希求」を理由として、「感覚を思想の次元に転移させ、思想を感覚の次元で具象化することに、戦前の詩とは比較にならないほど意識的になった」時代であると概観した状況の精神史的風景である。
 それは、次の連につながる。

 野のなかに小鳥の屍骸があるように わたしの頭のなかは死でいっぱい
  だ
 わたしの頭のなかに死があるように 世界中の窓という窓には誰もい
  ない

 死のイメージが「死でいっぱいだ」という言葉そのままで投げ出されている。「野のなかに」墜ちたのは「射殺された一羽の小鳥」であるならば、この「小鳥の屍骸」は一羽なのだろうか。しかし、その一羽の「小鳥の屍骸」が、一気に「わたしの頭のなか」のいっぱいの死に結びつく。脳裏には夥しい死がある。一羽の小鳥の単なる死から、一羽としての実存的な死、さらには「野」を規定する一羽の死から、「野のなかに小鳥の屍骸がある」という「野」と「小鳥」の関係の第一連からの異動を考えてみれば、「野」に飲み込まれた「小鳥の屍骸」という存在のちっぽけさへの転換までも読み取れる。その死が頭のなかに「いっぱい」なのだ。そして、死は死の実体から離れて頭のなかの想念になりながら、同様に「世界中の窓という窓には誰もいない」。「窓」から「叫び」をあげた主体が消えている。つまり「射殺された」叫びと呼応している。窓に向けて叫んだ人は、すでにいなくなっている。そこには、また夥しい死がある。詩人の「頭のなか」を「いっぱい」にした死がある。
 ここで、突然、あるイメージに立ち至る。この「叫び」と「窓」が持つ具体的なイメージだ。これは棺ではないのだろうか。棺には死体の顔をうかがうための窓がある。その窓が死体の叫びを引き出す窓なのではないだろうか。この「窓」と、棺としての「部屋」は、「叫び」と「窓」が記述されている詩句を明確に造形化する。「叫び」の主体が死者であることが読みとれるのだ。であれば、「窓という窓には誰もいない」という言葉が、死者を呼び戻す一切が奪われた状況と感じられる。消えてしまった死体。記憶が掻き消していく存在。それは、「誰もいない」という言葉によって、いたはずであるということが、いたのだということが、その存在の重さを持って存在していたのだということが、実は、伝達されるのだ。棺の空虚。このイメージは、叫びの凍結と同等に鮮烈である。
 さらに、「誰もいない」にこだわってしまう。この「誰もいない」には、言葉が実体を離れて、言葉として抽象を生きる姿も描き出されているように思う。言葉は不在も有在化する。だが、言葉は、言葉の背後に不在を抱えている。空虚は「懸崖」に言葉を屹立させるのだ。そして、詩人は「叫び」の「窓」から、おのれ自身出かけていく。いやむしろ、この当時、「垂直」をめざしている詩人であることを考えれば、出かけていくのではなく、下りていくのかもしれない。
 もうひとつ、この部分から感じとれることがある。それは、内在化という言葉で表せるような感じだろうか。「わたしの頭のなか」への内在化を通してしか存在を存在たらしめないという意志が、ここにはあるのではないだろうか。この「誰もいない」という言葉から沁みだしてくる他者性の拒否が、内部への取り込みの覚悟のようなものとしてある。それは、関係づけへの孤独な意志とでも呼べるのかもしれない。連帯することで他者性をなくし、自己との一体化を図るのではなく、孤独であることの覚悟によって世界を内部に取り込もうとする、そんな世界との関係の結び方があるのだ。「一羽の小鳥」や「ひとつの叫び」という単数表示が効いている。そして、それを果たせない外部は、聞こえない何物かとして逸脱する。その冷徹なまなざしが、世界との関係の逼迫した緊張感を生み出す。流れるように同化してしまうことへの拒絶。そう、ここにも「懸崖」の光景が見える。
 「幻を見る人」は四編の詩を、この題名の下に四つの節に分けて一編の詩にしている。その第一節はこうして閉じられる。
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