パオと高床

あこがれの移動と定住

陸秋槎(りくしゅうさ)『元年春之祭』稲村文吾訳(早川書房2018年9月)

2019-11-29 23:32:34 | 海外・小説

最近、中国の推理小説やSFが流行っている。その華文ミステリ。しかも、歴史もの。
舞台は、2000年以上前の前漢時代の中国、雲夢(うんぼう)澤という現在の湖北省周辺の山の中の村。
祭祀を司った名家、観一族に起こった連続殺人事件を、豪族の娘で巫女への道を歩むことになる於陵葵(おりょうき)が
解決しようとする。
全篇にあふれる古籍の数々。論語、楚辞、詩経、易経などなどが次々に引用され、屈原の謎や、
政治権力と宗教的権威の問題、巫女の宿命や巫女論、はてはいかなる天を祭るかという祭祀論争などを展開しながら、
4年前の事件とそこで起こっていく事件が繋がれていく。
葵と露申という二人の少女の交流と葛藤や謎の解き方、場面展開、歴史的な道具や服装などにアニメ的な要素を積極的に
折りこみながら、本格ミステリになっている。
ミステリは盛られた意匠が面白い。
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深緑野分『オーブランの少女』(東京創元社 2013年10月)

2019-11-27 11:17:23 | 国内・小説

気になる作家の一人。
というより、すでに今ごろ、そんなこと言っているのと言われそうな作家のデビュー作「オーブランの少女」が収められた短編集。
いやいやいや、面白かった。
ああ、そうくるのかというストーリー展開。そうなのだ、ボクらは、私たちは時代の中で生きているのだ。
でもね、その時代がどう動いていて、今、どこに自分がいるのかなんてなかなかわからなくて、それ自体がミステリの土台なのかもしれない。
それをロマネスクに描いていく。どこか翻訳体のように、どこか語り物めく語彙力を駆使して。それがとても小説を読む愉しさを喚起してくれる。
構成も、作家である「私」が手記を手に入れ、それを作家である「私」が物語として書き記すという構成が採られている。
そうなのだ、今物語るとは、物語ることを記す状況を物語るという二重構造が必要とされるのかもしれない。
そして、この小説では、そのことが歴史の、時間の経過を、今と繋げている。

  オーブランほど美しい庭は見たことがない。
 湿り気を含んだ薫りの良い黒土に、青々繁々と奔放に育つ植物たちを目の前にすると、
 大地は生命の母などという陳腐な文句でさえ心からまことだと感じられる。

小説は、こう書き出される。
美しいオーブランの館に集められた少女たち。彼女たちはなぜ集められたのか。そこで何が行われたのか。行われようとするのか。
どこか「少年少女世界文学全集」にあるようなテイストで描き出される世界は、とても巧妙な展開を見せる。
そしていつか「少年少女世界文学全集」から離れていく。まるで、読書好きな少年少女が、そうやって読書の森に迷い込んでいくように。
小説は、エンタメ小説の要素もさまざま取り込みながら、不思議な格調をもった文体で綴られる。

なんだか、アメリカやイギリスにはこんなテイストの小説はありそうだけれど、とても珍しく新鮮な印象を持った。
『戦場のコックたち』と『ベルリンは晴れているか』いつか必ず読むぞ。
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村永美和子『爪のカクシツ』(土曜美術社出版販売 2019年7月10日)

2019-11-10 23:12:25 | 詩・戯曲その他


ことばに拘らない詩は、おそらくないはずなのだ、けれど…。
ほんとうは切り離されるものではないはずなのだ、けれど、内容とことば自体と分けてしまったときに、
伝えたい内容が溢れすぎて何だかことばが置き去りにされているような感じを持ち、それでもそこにある
のはことばで、だから意味だけが先に走ってやってきて、置き去りにされたようなことばの集まりの中に
投げだされてしまうときがある。そんな溢れるような伝達系の流布流通消費されることばに対して、やは
り詩のことばは棹さすものであり、少なくとも一緒になって溢れるような流れの中に身を任せるものでは
ないと思う。溺れる者の藁にすらならなくても。

もちろん逆もあるだろう。ことばがただことばを再生産し続けてどこか中身を喪失させてしまうという、
単にことば遊びだ言って批判されるような。
だが、ことばに拘るとはその遊びも引き受けながら、ことばが帯びる意味や形や色を表現していくことなのだ。
俊成や定家、安西均なら、いずれかならば「実」を採りたいというのだろうが、彼らがもとめたものは、やはり、
「花」も「実」もだ。

村永さんの詩は、ことばに拘るという当然を忘れてしまいそうな「瞬間」に、ことばに拘るという当然を思い出
させてくれる、当然に出会わせてくれる。
たとえば表題詩「爪のカクシツ」。たくみにことばを駆使した「故藤富保男氏を偲びつつ」と記されている。
引用の詩の括弧の中はルビ。

 生爪 剝がした
 こっちの 爪
 ケガした か
 あっち の爪

「の」の位置が変わるだけで、爪の「こっち」と「あっち」の距離感がでる。第2連と3連は一字さげ。状況説明がされる。
もちろん、説明なんてものではなく、生爪が剝がれてでてくる「血」とそこにある「皿」との三角関係。
これは状況としてそこに「皿」があるだけではなく文字面としても三角関係を示している。

  身の内外 の血めぐり
  で バランスみだし
  の 血まみれには
  爪 血 皿 は肩寄せ 止血
  平時 の滋養の血配りこそ
  精確 に
  天(そら)と地の おだやかな日
  血管(ちくだ) の銘々皿へ 注ぐ

「爪」という字と「血」という文字は似ている。で、爪がはがれると「皿」になる。文節は切られているのに、ことばが流れる。
リズムを作りだしている。なにか「の血めぐり」が「後(のち)めぐり」のように音として自在性を持つ。
すると「バランスみだし」てしまうと、「の 血まみれ」は、「後(のち)まみれ」が崩れた形のようにも思えてしまう。
で、3連は省略するが第4連で、「爪」と「血」の文字の類似が語られる。

 どのみち爪たち が血塗られるのは
 爪や血 の文字頭に突き刺さる
 一画目 のノ(トゲ) と見まがう
 爪牙(そうが) の確執(カクシツ) の仕業

「確執」「仕業」の前の「の」が裏拍子を打っているようで、休符から入るようでもあって。ことばを微妙に軽くしているようでもあって。
そして、最終連。

 グサリ と きそうな
 〈牙(ガ)〉のノ(キバ) の跳ね反りに
 爪
 血
 皿
 の 文字の見せぬ角質や薄皮
 を 横にらみ 形 影も照らし合わせ
 脳頭(とう) へ駆けのぼらせ
 適切 に対(むか)い
 的確 に処す

「牙」は跳ね反るのか。確かにそうかも。「爪」「血」「皿」の文字の形や影、文字の持つ形や影、そして文字自体が発話をきっかけに
音化する瞬間。そこにある佇まいと動こうとする契機。村永さんはそれを捉えようとし、捉えたときにはそこから思考を動かそうとする。
それが詩を形づくる。「適切」と「的確」。ことばが持っていて発するものを追う運動が、ここにはある。
冒頭の詩「魚と塩」の第2連も引いてみる。調理されていく魚を描いている。

   死んでる?
   生きてはいないよう
 粉 になった
 塩 に火が点き
 白 白と総身(み)くねり
 煙 に巻かれ
 “荒塩!”
 “手塩!”
 の 太声遠のき

 人の唇(くち)
 が獣の気色で
 近寄り

 食卓ごと
 かつての海浜の かたむき
 で なだれかかり

   記憶の塩田 の大パノラマ
   と 一八〇度の魚眼レンズ
   とがカチカチッ と焦点合わせ

 重ね塩 で強張った死
 を新しい死が おおい
 魚眼の陰画紙に 焼き付いたか塩の 辛さ

横書きにするとかえってわかりやすいかも。漢字一文字が「粉煙白煙」になっている。
塩をまぶされる魚から海と塩田へと広がり死へと詩は向かう。そして、味覚の「辛さ」で着地させる、おもしろさ。

詩集は2部構成で、「あとがき」にもあるように1部がことばへの拘りが強い詩群かもしれない。
2部は、1部の詩にも流れているのだが、死者がいる時空の感覚が表されている詩群になっている。時間とは過去が現在に混在していて、
過去だけではなく、訪れていない未来も貫入してきていて、だから死者の時間も気配を持ちえていて、作者はそれを感じ続けている。
第2部の詩から「水仙月」の冒頭から一部。「水仙月」は宮沢賢治の童話に由来か。

 高鳴る 潮騒
 居並ぶ寝床の子らを急に起こし
 まかなう母の掌の 豆腐が
 包丁の切っ先のブレに ふるえ

 まだぬくとい死をぎゅっと抱いてあげたくて
 冷たくならないうちに
 息つめた生者たちあつまり
 身内の胸ぐら深く 引き寄せ

 はずみがついて手放す 沖への装束
 潮の満ち干をねがいどおりにしてくれる
 神話にでてくる〈珠(たま)〉をさがしに
 砂地に立つ はらから

「ぬくとい」はあたたかいの方言。背後に死を持つ神話的な空気が流れているように感じた詩だった。2部の詩は心の襞に沁みる。
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井本元義『太陽を灼いた青年』(書肆侃侃房 2019年10月20日刊)

2019-11-04 12:37:07 | 国内・エッセイ・評論

井本元義さんが、圧倒的な情熱でたずね歩いたランボーの軌跡。その追跡が一冊になった。
井本さんには、本書でも引用しているようにランボーを描いた小説がある。
それは迫力があり、面白かったのだが、どこかで、小説ではない形で、いつかランボーに
ついて書くのではないだろうかという気がしていた。積年の彼のランボーとの関わりが
直截な形式となって著されたのが本書だ。

ランボーに出会う。出会って素通りできる人はいい。
だが、取り憑かれてしまうとランボーは始末におえない。
なぜか。
ランボーは何も要求しないくせに、取り憑かれた者にはランボーが何かを求めているような声が
聞こえてくるのだ。そして、まるで彼が創作を要請しているような気がして、それに答えようと
して創作に向かおうとすると、あるいは創作すると、ふん、創作なんてと言い返してくるような、
そんな、彼が言わない声が聞こえてしまう。そんな永遠に続く運動の、生活の、創造の、宿命。
それに出会ったしまう。
ああ、これでもまだ微温的なのかもしれない。
ランボーに出会ってしまい、そこから目を離せなくなった者は、すでにそこでランボーに魅入ら
れた者かもしれない。そして、いつかランボーを見つめるまなざしは、ランボーが見つめるまな
ざしと並んで彼が見つめたものを見つめようとする。そのためには、彼がそこにいた全てを体感
しなければならない。そう、「酔いどれ船」に乗って「地獄の季節」を経巡らなければならない。
井本さんは旅に出る。ランボーを求めて。それは、ランボーを探しながら、何かを探し、何かを
見つめたランボーになろうとする旅なのかもしれない。もちろん、おのれ自身がランボーになる
なんて不遜なことは思わない。ただ、井本さんは、ランボーが、そこにいて、生きて、つまり、
見つめて、聞いて、感じて、考えた、すべてを、そして、彼がそこにいたことで、今でも宿って
いるだろう彼の気配をたぐり寄せようとする。
その結実した果実のひとつが、この『太陽を灼いた青年』だ。

ランボーの移動した人生の距離、それは、故郷の家族、特に母と妹であったり、ヴェルレーヌと
の彷徨であったり、パリコミューンへの参加であったりする。そして、詩を捨てて渡ったアフリ
カでの日々であり、死を迎えるまでの帰郷してからの時間である。著者はそれを追う。まるで、
その移動が自らの人生の距離であるかのように。そして、ことばが、一冊の本になる。読者はそ
こで、出会いを経験する。

著者が訳したランボーの詩を小林秀雄や粟津則雄の訳と比べてみるのも楽しかった。
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