パオと高床

あこがれの移動と定住

ハン・ガン『そっと 静かに』古川綾子訳(クオン 2018年6月25日)

2018-07-30 23:36:04 | 海外・エッセイ・評論

ハン・ガンのエッセイ集だ。
『菜食主義者』『少年が来る』『ギリシャ語の時間』と、いつもいつも圧倒された韓国の作家ハン・ガン。
彼女の音楽にまつわる記憶のエッセイといえばいいのだろうか。

4つの章から構成されている。
第1章「くちずさむ」は、子ども頃からの音楽との関わりを描く4つのエッセイでできている。
第2章「耳をすます」は各エッセイに曲の作詞、作曲者名が記され、ハン・ガンの思い出の曲についての感想や
その曲を聴いていたときの自分自身の記憶などが書かれている。その表現は上質な文学の表現になっていて、
感覚的であったり、滲むような情感があったり、思索的であったり、詩的であったりする。なによりもその曲を、
聴きたくなり、その詞に出会いたくなる。また、引き出される作家や詩人の作品に触れたくなる。ハン・ガンの、
音楽への、文学作品への思いが、丁寧に描かれている22篇だ。
3章「そっと 静かに」の10篇は、ハンガンが作詞作曲をし、そして歌った曲の歌詞と、その時のいきさつや心情が
書かれている。最初、詩集でデビューした彼女の、詩に寄せる思い、そして詩を載せる曲への愛情が溢れている。
そして4章「追伸」。この中の「ごあいさつ」というエッセイは、「あとがき」によると挨拶として冒頭にあった章らしい。
確かに挨拶の側面を持っているが、他の2篇は夢のような、夢を描いた小品になっている。

ハン・ガンのイメージやその表現は、こちらを包んでくるようだ。ことばへの愛情と敬意を持ち、だからこそ、
ことばの持つ困難を引き受けて生きている作家。そして、それだから、困難の先に表れる表現の喜びのようなものが伝わって
くるような気がする。その痛みと共に。

  ある日の夕暮れどき、ふいに舌先にぶら下がってきた昔の歌をくちずさんだことがあるだろうか。
 胸が苦しくなったり、刺されるように痛んだり、ぽかぽかと温められたりしたことがあるだろうか。
 ほかならぬその歌の力で、長いこと忘れていた涙を流したことがあるだろうか。    (「歌の翼」)

  そういえば風という言葉も、日差しという言葉も出てこないのに、なんて光と風に満ちた歌なのだろう。
 今もたまにくちづさむことがあるけれど、歌えば歌うほど心に響く、金素月の詩が持つ呪文の力とともに、
 単純な旋律が穏やかに光ながら体を満たす。 (「母さん姉さん」)

   どれくらい聴いたら、歌は体に刻み込まれるのだろう。 (「You needed me」)

  (略)夜に清涼里から江原道へと出発する列車に何回か乗った。たくさんの駅で人々が乗って降りて、
 寝る者は寝て、騒ぐ者は騒いでいるあいだ、その果てしなく黒い夜を全身で突き抜けながら通り抜けてい
 く列車の轟音を愛した。枕木と、線路と、そのあいだに生えている乾いた草を愛した。淋しくなかった。
 すべてはただ、満ち満ちていた。 (「500 miles」)

  ふと振り返ると、日が暮れる直前の青味の残る空の下、家並みは優しく寄り添い、子どもは私の手を
 握ったまま歌に耳をすましていて、私はその瞬間、この世の誰よりも幸せな人間だった。
  ありがとう、少女のように昔の歌を歌っていたイイダコ料理屋のおばさん。ありがとう、守護天使の
 ように私たちについてまわる歌の数々。その歌に乗って飛び交う幾多の時間。懐かしい昔の想い……。
 突然、背後から私たちを呼び止める、あの声や音。 (「麦畑」)

各エッセイが歌のタイトルになっているし、それぞれで扱われた詩や歌詞が、かなり引用、掲載されている。
また、記憶と重なる曲は、韓国の70年代、80年代のフォークソングやロックバンドから、ピーター・ポール&マリー、
ジョーン・バエズ、メルセデス・ソーサ、「Let it be」それに「菩提樹」などさまざま。さらに、それに李箱や白石
などの文学畑の作者もいるし、パンソリなどの伝統音楽も入ってくる。

各エッセイについている歌手や詩人、作家などの註釈がとてもいい。そのまま、聴きたい、読みたいリストになる。
本の題名『そっと 静かに』はうまい訳だなと思う。
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クォン・ヨソン『春の宵』から「春の宵」橋本智保訳(書肆侃侃房 2018年5月29日)

2018-07-03 17:47:01 | 海外・小説

原題は『あんにょん、酔っぱらい』という短編集で2016年出版ということである。
作者と切っても切り離せないのが「酒」であり、7編の短編はすべて「酒を飲むひと」が登場する。
と、これは「訳者あとがき」に書かれた作者の紹介である。「酒」を愛する作者と書かれた彼女は、
1965年生まれと略歴にあり、「386」世代にあたる作者。80年代の韓国民主化学生運動の世代である。

この短編集の中の短編が「春の宵」。日本語版の表題作になっている。
何だろう、確実に悲惨なのに、宵のような、春の宵のような雰囲気があり、何だかこの絶望にはそれを悲惨と
語りきってしまえない何か、「せめてもの」とか、「その先だから」といったほのあかりがある。
希望のあかりではない、ただ、絶望にもほのかな色彩があるのであり、そこにこわれ物としての人間の脆弱さと
それでも生を営んでいく日々のしなりが共存するようである。

帯からあらすじを抜くと、「生まれてまもない子どもを別れた夫の家族に奪われ、生きる希望を失った主人公ヨンギョン」。
その彼女はアルコールに依存していく。その彼女が出会ったのがスファン。二人は共に暮らすようになるが、
彼は健康保険に加入していないことなどから治療が遅れ、リウマチ性関節炎を悪化させ、療養所に入院。そしてヨンギョンも
依存症で同じ療養所に入院。「危うい同居」を始める。スファンは、その負い目のような意識から、飲酒に抜け出すヨンギョンを容認する。
そうして、ついにスファンは亡くなってしまうのだが、その時、ヨンギョンは外泊して飲酒し、スファンのことも忘れてしまう。

小説の中で、トルストイの『復活』から引いてきている「分数」の表現がある。
ひとがそれ自体で普通に完璧な存在が分母と分子が同じ状態、つまり1。これが十全の状態なのかもしれない。
で、ヨンギョンは語る。「分子にその人のいい点を置いて、分母に悪い点を置くと、その人の値打ちがわかるというわけよ。
いくら長所が多くても、短所のほうが多ければ、その人の値打ちは1より小さくて、もし逆なら1より大きいのよ」と。

韓国社会の中で、いや、現代社会の中で、ボクらは長所と短所の釣り合いきれない足し算をしているのだろうか。
それとも1からの限りない欠落を生きているのだろうか。
この小説の二人はお互いの欠点を語るお互いを受け入れ合う。欠点の大きさを語るお互いを、それは違うと認め合おうとする。
例え、周りからは救いのない絶望的な状況だと見えていても。
1でなければならない、その理想の状態から剝がされてしまったときに、それは本来の自分ではないとして蓄積された恨がある。
その解消を生の強いモチベーションと考える従来の価値ではない、
現代の、弱々しいが切なく、そこにあるための生きる処方のようなものが、この小説には漂っている。

訳者も書くように『あんにょん、酔っぱらい』という原題の「あんにょん」はこんにちはだろうか、さようならだろうか。
いつも楽しく、「こんにちは」であり、「さようなら」と、そう挨拶してお酒とはつきあいたいものだ。

それにしても韓国の小説は面白い。けれど、どこか強く傷ついたり、欠落したりする人が多い。
もちろん、それがあってこそ、小説だということもいえるのだろうが。
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