パオと高床

あこがれの移動と定住

樋口伸子「うまおいかけて」(「六分儀 37」 2010/6/24)

2010-07-25 01:41:44 | 雑誌・詩誌・同人誌から
対話への接近が、詩を演劇空間に近づける。その対話の楽しみは、対話の成立と同じだけの対話の不成立のうちにある。それは、ずれ続ける主体間の交流であり、対話の枠組みの広がりは、ずれの連鎖の広がりになる。ただ、そこに収束の境界を刻むのは現代の不幸の体現である。対話の無限空間は、現代にあっては実は対話の不可能性という限界設定で区切られてしまう。それが、哀しいのか。あるいは笑えるのか。
ある時期、ボクらが出会ったポストモダンは、出会ってしまったと出会うことができたの両方を天秤にかけながら、ボクらの微妙な宙づりを実践していった。そして、それは着地点の見極めがたさを準備はしたが、決して、中空を用意はしなかった。なぜなら、そこには過剰なシニフィアンとシニフィエのせめぎ合いがあったからだ。それがボクたちに開いた地平は、中空とは別の地平だったのだ。着地の困難は浮遊の宿命であって、浮遊の空虚を語っているわけではない。言葉のしなやかな強靱さを生み出すために、意匠がしつらえられる。その鮮度を支えるのは、決して純度ではない。であれば、詩が近接しようとする演劇空間は、有効な地平を切り開くものなのかもしれない。

「六分儀」という詩誌の樋口伸子さんの詩「うまおいかけて」。この題名は「うまをおいかけて」ではない。助詞は省かれている。この詩は、こう始まる。

うまがおいかけてくるのです
 え うまが?

そう、「が」という助詞で始まるのだ。主体は相手に委ねられている。そこに、受け応えする対話の相手が現れる。その対話空間で主体はどうにか確保される。聞かれることで、聞かれた相手は主体性を保つのだ。もちろん、聞くー聞かれるの関係としての成立である。繰り返して引用する。

うまがおいかけてくるのです
 え うまが?
はい 馬がですね まいあさまいばん
 ほう 毎朝毎晩 どこから?
そりゃ うしろからですよ へんですか?
 いや へんじゃないけど
 あーんして 大きな声を出して
馬の声をだすんですか
 いえ あなたの声ですよ
まあ いやらしい せんせ
さくらさいて ちって またさいて

別役実を連想するか、寺山修司を連想するか。対話にはなっているのだが、対話が成立しているわけではない。聞かれたことに応えているが、共感された空間が作り出されているわけではなく、しかし、共時的な場ではある。対話の形式が場を生み出しているのだ。そして、その対話は一方の精神に移行する。さらに、文字。ひらがなと漢字の追いかけっこがある。しかし、それも均衡のバランスに徹底されるわけではない。この連での立場は「せんせ」と「あなた」であるわたし=患者となっている。「うま」「うしろから」「声」「いやらしい」が微妙にそのいやらしさに収斂していく。しかし、それは「うま」に何を読むかで変わるのかもしれない。と、思わせておきながら、この「うま」、実は「馬」そのものでもあるようで、というのも、第二連が「おんな」になるからだ。それぞれを喩として、比喩されたものを考えるより、強迫する何ものかと考えていいのかもしれない。第二連はこうなる。

おんながおいかけてくるのです
 え おんなが?
はい 女がですね まいあさまいばん
 ほう 毎朝毎晩 どこから?
そりゃ まえからですよ へんですか?
 いや へんじゃないけど
 あーんして ちょっと声を出して
女の声を出すんですか?
 まさか きみの声ですよ
そんな はじしらずな せんぱい
 きみの声だよ なにが恥知らずなもんか
それよりちゃんと診察してくださいよ
研修じゃないのですから
ほら あの女が また窓の外に
はながちって ちって またさいて

第一連の言い回しをなぞりながら、二連ははみ出していく。「せんせ」は「せんぱい」になっているのだが、第一連からの「せんせ」と患者の図式は残り続ける。一連の患者は女だろうが、二連では、患者は「男」になっているようだ。もちろん特定はできない。ただ、一連の患者が、二連では「おいかける」側の「おんな」になっているようで、そうすると、診察してもらっている男は、第一連で診察していた医者になり、第二連で診察する医者はその第一連の医者の「せんぱい」の医者になる。患者と医者の連鎖。さいて、ちる「さくら」から「はな」へは、時の経過か。すると第三連が、どうつながるかに興味が湧く。どこにむかって動かすのか。ここで、強迫に追跡のテーマが重なり出す。それは、追うと追われるの実体探しになる。が、その前に、追跡は「お巡りさん」を呼び込む。

かんじゃがおいかけてくるのです
 え かんじゃ ですか?
そうです 患者が まいあさまいばん
 ほほう 毎朝毎晩 どこから?
あっちからも こっちからも へんでしょ?
 ははぁ それはへんですな
 もっと話してください調書をとりましょう
そんな 脅してもだめですよ お巡りさん
 なにが脅しですか 初めから説明をして下さい

「かんじゃ」が「おいかけてくる」のだが、その「かんじゃ」が医者だったのだから、すでに「患者」と「医者」は循環し始める。つまり、医者である患者を診た医者は、次に患者になって、別の医者に診せるわけだから。それが、「あっちからも こっちからも」ということになるのだ。そして、相談相手は、医者ではなく、「お巡りさん」になる。なぜか。追うと追われるの関係は、探偵と犯人、あるいはお巡りと市民の関係だからだ。
ここから一気に対話の転換が始まる。お互いの立場表明をするように混乱が混乱を生み出す対話空間が出現する。

いや その目はわたしを疑っています
きっと犯罪者にしようとしています わたしを
でもね せけんが許しませんよ世間が
 犯罪者を追うのはわたしの務めなのです
ほらね そういって 追っかけてくる

「わたし」という一人称が登場する。語り手は自分を人称を使って語る。聞かれたことへの応答ではなく、「わたし」が「わたし」を主張する。調書をとられている「わたし」ととっている「わたし」が記述される。追われる強迫観念が「わたし」に言葉を吐かせる。

ドーン と机を叩いたって喋りませんからね
あんたは毎日わたしをつけ回しているでしょ
あんたこそストーカー 立派な犯罪だ
 なにをいってるんですか支離滅裂なことばかり
 ちゃんと出るところに出て話してください
へっ 地を出してきましたね
つぎはカツ丼を出すつもりですか
医者の立場からいえばあれはよろしくない
 それは善良なカツ丼に対する冒涜です
そちらこそ善良な市民を侮辱している
いや ただしい日本語を凌辱するものだ

演劇の対話の場が再現されている。「カツ丼」の笑いなどは、ある古風さが、むしろ共同体への幻想を示しているようだ。「冒涜」「侮辱」「凌辱」の移動に限らず、セリフがセリフを誘発しながら、不条理と条理の境を駆け抜ける。表現は、その表現形態を作者がつかみ取った始まりを、滲ませる。それは、かつての言葉を詩の中で復権する作業になる場合もある。一部中略するが、その後、詩句は以下のようにつながって、第一連から三連を位置づける。

はは 何かといやぁヒンヒン馬みたいに
だから 馬が追ってくると初めにいったろ
 あれは女だったろうが さくらのせいにするな
 大体あんたは患者か医者か おい!
オイとはなんだ 一般市民を愚弄するのか
 あんただって 一般警官を愚弄してるぞ
 お巡りだなんていうな 犬じゃないんだ
官憲の犬っていうじゃないか 猫ならいいのか
 それは一般犬や一般猫に失礼だろうが
 せめて黄粉黒豚くらいにしてくれ
これじゃいつまでも埒があかない
仕切り直しをしようじゃないか

この部分の最初四行で、馬から患者まで、男と女が入れ代わって記述される。演技による仮装が読みとれる。言葉が支配の触手を伸ばしている。そう、馬から「さくら」が出てくるのだ。馬肉は「さくら」である。
また、「官憲」や「犬」という言葉が、ある時代性を持った言葉となって、復権される。むしろ、その時代の残映を引きずり込むように。先程も書いたが、寺山たちの活動を連想する。あるいは山上たつひこの過激なマンガの残像を見る。暴かれていくのは、言葉が言葉を支配していく権力の構造かもしれない。警官と市民のやりとりは、追跡のテーマから権力の問題につながる。もちろん、この権力が強固な反権力を呼び込むことは、すでにない。むしろ、ネッワーク化し、移行し続ける権力の流動化が見てとれる。はたして、権力を糾弾した反権力は、単に糾弾するための反権力の言葉によっては表現の獲得にはなりえなかった。いわゆるアングラといわれた演劇は、権力の構造を舞台に創出することで、その演劇自体が反権力の時間と場所を呈示し得たのだ。舞台の中に支配―被支配構造があるように、劇場とその外に置いては日常―非日常といった支配と被支配のせめぎ合いが成立していた。それは政治的言説や日常的言語の枠の外から、それ自体の足下をすくった。それが、現在のように権力の委譲が流動化し日常化した場合、それに対峙する言葉の空間は、どのような成立の場をもつのだろうか。その問いに対する、一つの表現のあり方が、この詩の演劇的空間になっているのかもしれない。日常の裂け目を狙って、そこから非日常の異形性を引っ張り出し、逆に日常を異化するという常套的な手法が、まず、ある。あるいは、徹底して日常と乖離した言葉を使い、別の時空を生み出そうとする営為に賭ける手法もあるのだろう。この詩は、その手法を演劇に帰している。日常と乖離せず、観念や情感の宿らない言葉を使いながら、対話自体で別の場である対話空間を作り出そうとしている。わざわざ、バフチンを登場させるのは大仰かもしれないが、場に出会わせて、その場を共有しようとしたときに現れた方法のように思えるのだ。「仕切り直しをしようじゃないか」のあと、この連を終わらせる詩句は、

望むところだ 詩人じゃあるまいし
死後硬直した詩語の使いまわしなんて

である。そして、最終連の前の連、出前のように登場するのは「調書」である。

おまたせしました
こちら調書になります
これでよろしかったでしょうか?
はい ぜんぜん 大丈夫です

ねつ造される「調書」とまでは言わない。しかし、お手軽な調書の中に、「わたし」は位置づけられる。だが、追跡を重ねた「わたし」は、すでに本来性からは遠くにきてしまっている。最終連は不思議な明るさが詩を包み込む。

空はくるりと裏返しになり
犬と猫が笑いながら次つぎに降ってきた 馬も
これはたのしいどしゃ降りだ
けれど ぼくの帰る家は
もう なかった
          (「うまおいかけて」一部省略)

「わたし」ではなく人称は「ぼく」になっている。追いかけていく主体は、「ぼく」を残していて、「調書」の記述者を登場させる。この追い続けた結果、登場した「ぼく」には、もう「帰る家」はない。このラストを突き放しととるか、一抹のかなしみととるか。「たのしいどしゃ降り」が導き出すのは、やはり明るいニヒリズムではないだろうか。

この詩、強固な権力や近代に対して、アンチやポストが生み出した流れの、それ以降に思いを馳せていく方向性が、現在との関係でとり得る詩の姿のひとつではないだろうかと思う。

もちろん作者にとって、ここまでボクの書いた堅苦しい読みは、しなやかさにとっての邪魔に過ぎないのではないかという気もしているのだが。

田島安江「明けない夜に」2(「something 11」 2010/7/1)

2010-07-20 10:34:25 | 雑誌・詩誌・同人誌から
田島安江さんの「明けない夜に」の続き。

四つの詩の三つ目「日曜日の雨戸」。この詩は一転して、日曜日の朝のある時間帯の表現に絞り込まれる。その第一連。

朝早く
隣のまち子さんが雨戸を開ける
毎朝決まった時間
わたしが夜戻ったとき
すでに雨戸は降ろされている
部屋の明かりだけが
ほんのかすかに漏れてくる
音がなく明かりだけというのが
夕暮れが来ない一日のように落ち着かない
ふいに
首筋を通って針を刺されたような痛みを伴う音が
地球の裏側にむかって一気に降りる
首筋を通った音の針は
一直線に地球の中心へと向かう
          (「日曜日の雨戸」第一連)

詩は現在の日常性に立ち戻る。日常の習慣的な時間が書かれる。この詩では、習慣をしめす用法として現在形が多用される。その日常の間に介入するように「吊るされた言葉」からの連鎖が現れる。あるいは、これによって二章に立ち返らせるかのように。「夕暮れが来ない一日」や「地球の裏側にむかって」という詩句が前の詩と有機的につながっていく。しかも、ここで、「針を刺された」という痛感が書かれるのだ。この痛みは、心の奥に過去が与える痛みと呼応する。さらに使われている技は、その痛みが「痛みを伴う音」として、聴覚から入ってくるのだ。「地球の裏側」の「言葉を吊る」している場所に音が運んでいくのだ。と、読めば、「地球の中心」が心の中心に限りなく近づく。耳から入った痛みを伴った音は、心の側にある痛みと交感しているのだ。すると、この「雨戸を開ける」音は「ウナギ釣りに行くぞ」の声と重なってくる。ウナギ釣りは夜中に行われる。そうすれば、この二つには、深夜と朝という時間のズレが起こっているが、寝ている子どもだった「わたし」の状態と朝まだ寝ている今の「わたし」の状態は重なっているのだ。不思議なのは、これが何だか、「ウナギ釣り」から夜遅く戻った翌日のようにも読めるところで、それぞれの時間が浸食しあっているのだ。
謎は、「痛み」の原因である。まち子さんと朝というモチーフと共に、これは四つ目につながる新しいモチーフなのだ。現実にまち子さんという人物はいるのかもしれないが、この名前から朝を待つのライトモチーフも読みとれるのだ。
そして、第二連。ここで「日曜日の朝」がでる。

日曜日の朝
まち子さんが洗濯機のスイッチを入れる
うなり声をあげて洗濯機の音が迫ってくる
その音は
父が連れていた犬の遠吠えに似ている
まち子さんはつぎに掃除機をかける
それが終わると
まち子さんは電話をかける
甲高い笑い声が聞こえる
わたしはそっと窓を閉める

ここで「父」と「犬」がまた顔を出す。結構アクロバティックな展開のさせ方で、洗濯機の音から犬の遠吠えへと音の連想でもってくる。そのあと、まち子さんは掃除機をかけ、電話をかけ、笑い声が聞こえ、窓を閉める。洗濯機の音は、別の音に遮断されるのだ。「父」と「犬」のモチーフは、生活の音に消される。そこで、「そっと窓を閉める」。

詩は最終連の第三連に進む。閉められた窓の中で、「わたしの洗濯機」は回り続けている。その「止まらない」洗濯機の音に乗って、今度は、まち子さんの部屋の電話が鳴る。まち子さんは知らない女としゃべり続ける。

眠気がやっと去る
あと27分
わたしの洗濯機もなかなか止まらない
電話が鳴る
まち子さんと知らない女が
ずっとしゃべり続けている
どうもわたしのことらしい
もう何十年も前のわたしのこと
そのいくつかに覚えがある
だけどそんなことはおくびにも出さず
わたしは黙って聞いている
誰も知らないはずの体のことを言われ
顔から火が出るほどうろたえる
それがわたしなのか
あの子のことなのか
わからなくなる
          (「日曜日の雨戸」全編)

「犬」へとつながった「洗濯機」は閉ざされるが、「わたし」の「洗濯機」は「わたし」と「まち子さん」と「もう何十年も前のわたし」と電話の相手の「知らない女」などを一気に入れて、「誰も知らないはずの体のこと」まで主客を混在させて回り続ける。「わたし」を存在させている「わたしのこと」は、「しゃべり続け」られることで、「ことがら」として存在する。それは、誰に向かってか、また、どうして知っているのかさえもわからなくなる、とてつもなく「うろたえる」現象なのだが、そこに「わたし」は存在している。すでに「わたし」は見られ、語られることで「わたし」なのだ。ところが、その「わたし」、はたしてどこまで「わたし」なのか。その脈略は、「わからなくなる」のだ。
しかし、「わたし」は現在にいる。現在に戻ってくる。まどろみから混沌への三つ目の詩、三楽章の回転するような旋律は、四つ目の詩に向かう。

「冷たい春の雨」は、終楽章のような趣を持っている。その第一連。

黄ばんだノートが
歳月のかけらをとどめて
机の上に置かれている
父の右上がりの癖のある文字が
並んでいる
激しい雨が降り続いている
いつまでも冷たい春の雨
激しい雨は大切なものを
根こそぎ流していく
そんなとき雨は快感となる

「ノート」が「置かれている」という静かな書き始めで、これまでの過去への旅が、この「机の上」のノートから始まっていたのではないかと思わせる。四楽章は、このように静かに始まる。そこに雨の音が重なる。前の詩の「雨戸」が「雨」を呼ぶ。ここで、作者は「雨」を降らせる。「洗濯機」の水が排水されるように雨が降る。水は、この作者の通奏音として流れている。「ウナギ釣り」の川や「洗濯機」の水、そして、雨。混在した過去を雨が、混在して「大切なもの」を雨が「根こそぎ流していく」。これはしかし、「快感なのだ」。この快感は、「明けない夜」に対して、明けそうな、明けられそうな快感なのかもしれない。
そして、雨の音の中、「友人」が現れる。

友人が雨のなかを訪ねてくる
雨とともに
知らない街の空気を運んでくる
夜の雨は
人の心までも踏み倒していく
友人の
後ろに影のように
父の犬が立っている

過去にずっとつきまとっていた、戻れない時間、至れない時間は、死の側になる。死のイメージが常に漂っていたのだ。雨の中、訪れる友人には、影がない。影には「父の犬が立っている」のだ。最初の詩の「よたよたと歩いていく」犬が、時空を超えて現れる。犬が引き寄せるのは過去と同時に、死である。「知らない街の空気」を「運んでくる」友人は、はたして生きた友人だろうか。ここにある「かなしみ」のようなものが、いなくなった友人という印象を与える。訪ねてくる友人に、その雨によって「心」は「踏み倒されて」いるのだ。
最初ふたつの比較的過去の時間の詩は、「行く」という行為が示されるが、「日曜の雨戸」と「冷たい春の雨」という現在の時間の詩は、「来る」が詩を包んでいる。現在に過去は来るものであり、死は訪れるものなのだ。そこで、「行く」とのせめぎ合いが生まれる。訪れた過去、そして死は、別の世界を誘う。

おいでよ
小さな声が聞こえた
カム・イン
別の声が聞こえる
あんなにもすぐ近くまで行けたのに
勇気のないわたしはついに引き返してきた
父には会えなかった
いくじなし
また声がいった
まち子さんの部屋のベランダに
バタバタと羽音がして
鳥が戻ってきた
鳥にまで笑われた気がする

この第三連がピークである。過去の側、死の側と現在が交錯する。「おいでよ」は友人の声か。「カム・イン」は「犬」の呼びかけか。「父」のモチーフと「犬」のモチーフが絡まり合う。「友人」によって呈示された別の世界は、「わたし」がそこには行けないという思いを微妙な悔いとして残す。詩句は、その微妙さを刻む。「すぐ近くまで行けたのに」の「のに」にこもる悔い。「勇気のないわたしはついに引き返してきた」の「勇気のない」という言い訳と、「ついに」というぎりぎり感へのやさしい逃げ。父に会えなかったということへの悔いをオブラートする自己弁明。ここでは、「た」という動詞の文末が、多用される。そこに、かすかな詠嘆が残るのである。引き寄せきれなかった時の存在が感じられるのだ。
そして、「いくじなし」というフレーズが現れる。
責めてはいない。何も責めない。ただ、ここに在る言葉は、友人の側からの「いくじなし」でもあり、「わたし」の心の声の「いくじなし」でもあるのだ。そして、別の世界と往還できる、死の使いでもある「鳥」の羽音がする。これが「明けない夜に」の最終モチーフである。この「鳥」が詩全体を終わらせるピースになる。
「鳥」は「戻ってきた」。つまり、行ってきたのだ。だから、そんな「鳥にまで笑われた気がする」のである。この世に隣接するあの世。現在の横にある過去。「わたし」の周囲を包み込む膨大な別の時空。

激しい雨が鳥の羽根の隙間から入り込む
飛行機が空をよぎる
本を閉じる
窓に椅子を寄せる
ふと世界を感じる
すぐそばに父の犬がいる
鳥が飛び立つ
          (「冷たい春の雨」全編)

終連は、現在にこだわるように、また現在形が積み重なっている。この畳みかけが、案外、最終楽章のラストを思わせるのだ。
最終連は「羽根の隙間から入り込む」雨という微細なまなざしから始まる。一転、その背後の空がイメージされる。この空のイメージが「わたし」から空を見るまなざしを逆転させる。逆に、空から「わたし」を見るような像を作るのだ。カメラが引いて「わたし」を撮っているような印象だろうか。「本を閉じる」のは「わたし」の視線なのだが、読者には同時に、遠くから「本を閉じ」ている「わたし」が見える。「窓に椅子を寄せる」のも「わたし」なのだが、寄せている「わたし」が見える。そして、「わたし」は「世界」を感じる。これはリアルな現在の世界である。「父に会えなかった」という「わたし」は、「世界」に立ち戻る。ところが、ここにある「感じる」世界は、そのリアルを現在の時間にだけ置いているのではない。世界のリアルは見えているものとそれを包む膨大な見えないものとの総和の中にある。
「世界を感じ」ている「わたし」が、部屋の窓の近くの椅子に座っている様子が像を結ぶのである。それは世界のただ中にある一隅である。周囲の既視の世界の周りには、死者や過去の時間がある。そこでは距離は自在となっている。だから、「すぐそばに父の犬がいる」。再来する「犬」のモチーフ。
そして、戻ってきた鳥は、「飛び立つ」のだ。世界はそこにある。


田島安江「明けない夜に」(「something 11」 2010/7/1)

2010-07-18 11:24:21 | 雑誌・詩誌・同人誌から
「something」という詩誌は、以前にもボクのブログで紹介したが、大判で、ゆったりとしたスペースがあり、一人の詩人に詩3ページとエッセイ1ページという4ページの領域があり、インパクトのある写真も組み込まれた、詩誌の理想型のひとつであるような詩誌。鈴木ユリイカさんと棚沢永子さん、田島安江さんの三人の編集で、毎号、気鋭、ベテランの詩人20数名が誌面を飾る。玉手箱のような、この本の中から、どの一編にするかが難しい。もちろん、これは詩の雑誌、ゼリーやキャンディの玉手箱とは違って、きれいおいしいだけではなく、何やらかにやら入っているのだ。
で、田島安江さんの「明けない夜に」。
この詩は「明けない夜に」という標題のもと、「ウナギ釣り」「吊るされた言葉」「日曜日の雨戸」「冷たい春の雨」という四つの章のような四つの詩からできている。
まず、「ウナギ釣り」

ウナギ釣りに行くぞ
父はそう言ってさっさと出かけていく
たくさんの男たちが思い思いの場所にたむろしていて
自分の場所を決めて座り込んでいる
わたしたちも空いた場所を見つけて座り込む
手でつかんだときのミミズの感触も
ぬるりとしたウナギの手触りも
怖いぐらいに手のひらが覚えている

これが第一連。この四つの章(詩)は、どこか交響曲の構成を連想させる。もちろん、交響曲という言葉からくる壮麗な趣の詩ではないが、構成が四楽章形式の楽曲を思わせるのだ。そして、この一連で第一モチーフが現れる。「父」である。そこに一楽章の印象的な旋律としての「ウナギ釣り」が流れる。さらに、この詩全体を通して回想を現在化する現在完了のような文体が示される。田島さんは現在形の終止形がもともと多い詩人だと思うが、述語に使われる「いる」や「くる」の現在形の多様が過去を現在化する場合と、感覚の継続としての現在完了の継続の両方で使われるのだ。「ミミズ」や「ウナギ」の感触は現在に至る。むしろこの現在時から、過去時制に入っていくように。すでに、この場面で回想を回想にとどめてしまう、単なる取り戻せない過去への感慨といった情緒の詩は排除されている。詩の標題「明けない夜に」が、境界の曖昧さとしてイメージ化されているのだ。
そして、二連にいく。

老いた父が老いた犬を連れて
よたよたと歩いていく
その姿を横目で見ながら
わたしは大きな口を開けて
赤いスイカを放り込む
種をがりがりと噛む
スイカを食べると元気が出る
あのじりじりと焼けつく
行き場のない怒りの時間を食い尽くせる気がして

「犬」という第二モチーフが現れる。実は、この犬の「よたよた」が最後の詩「冷たい春の雨」で、時を越える、あるいは時空を超える存在の歩く音のように共鳴するのだ。この「よたよた」が次の「がりがり」を誘い出す。そして、「じりじり」につながる。擬態と擬音の連鎖。第一連の触感が聴覚にも転化する。スイカを食べる「わたし」が見えるような気がするのは「わたし」の現在と過去の二重化があるからで、現在の「わたし」が過去の「わたし」を見る対象化が行われているからだ。どこか宮崎駿のアニメを連想させるような場面になっている。スイカの食感は消えている。それは「行き場のない怒りの時間を食い尽くせる気がして」「元気が出る」という心的状況で表される。

そして、終連。「父」の第一モチーフと「犬」の第二モチーフが「ウナギ」の旋律と絡む。

父と一緒に歩いていたはずの
犬がいつのまにかわたしのそばにいる
以来犬はどこにでもついてくる
ウナギをくわえて
わたしを見上げる
          (「ウナギ釣り」全編)

「いる」「くる」「見上げる」と、現在時制を積み上げる。それが「犬」の移動できる時空の幅を証している。「どこにでもついてくる」が、先程の「よたよた」と同じく「冷たい春の雨」の詩へとつながっていく。過去に追いやられてしまった時間でではない。現在と地続きの時間が呈示されている。しかし、この現在時制は、書かれたときにすでに静かに過去に移行していくといった、継続しながらの進行性を持っていて、すでに徐々に戻れなさを感じさせるのだ。薄い皮膜がある。泡に映し出されたような過去。こうして一つ目の詩は開かれながら、終わる。

そして二つ目の詩「吊るされた言葉」。他の三つの詩と題名のイメージが違う。詩も13行で、この「明けない夜に」全体を外から見ているような詩になっている。時間からいくと「ウナギ釣り」よりは今に近い過去。近接過去か。ところが、この詩のほうが過去時制を使っている。つまり、この詩は現在との曖昧な境界にはないのだ。

地球の裏側にいたとき
疲れた日は窓辺に言葉を吊るした
窓辺に吊るすことで
匂いがいっそうきつくなる花のように
言葉を吊るすときは
思いっきりきつくて攻撃的な言葉ほどいい
あの場所ではいつまでも夜が来なかったから
明けない夜はない
などという言葉は空虚だ
いつまでも明るい空の下
裏返しにされた言葉が
そこに吊るされたままで
明けない夜を引きずっている
          (「吊るされた言葉」全編)

夜がないから「明けない夜はない」という状況設定に、現在の中にある過去の時間という状態と、その時間との往還の可能性が含み込まれている。それを可能にしているのが、というか、その状態に置かれているのが、回収されない言葉つまり「吊るされた言葉」なのだ。しかも、「地球の裏側」で「裏返しにされた言葉」なのだ。夜と昼の逆転と同時に、谷川俊太郎の朝の詩ではないが、地球という球面の移動によって、常に夜にならない時間が書かれている。夜が来ないということは、いつも明るく昼ということで、しかし、言葉は「明けない夜」と書かれたときに、すでに読者に「夜」を植え込むことができるのだ。明けない夜というのは、明るい昼ではなく、むしろ夜をイメージさせながら、昼をそこに滲み込ませるのだ。「明けない夜を引きずっている」ということは、夜と昼の区別のつかなさを示していて、昼を迎えられない昼のままの夜、つまり過去と現在が区別されず、現在のままある過去という状態と対応していて、「ウナギ釣り」の構造の解読がなされているのである。そして、この詩自体は「いたとき」や「吊るした」と過去の述語を使っている。これによって、この詩のそれ以外の述語の現在形は、「地球の裏側にいたとき」の現在、つまり、すべて過去時制となるのだ。「父」や「犬」のように、今の「わたし」に侵出している過去ではないから、当然のことだ。

他の章と比べて、物語性の少ない所なども第二楽章という感じがする。もちろん、これが三楽章になるということも楽曲的にはあるのだろうが、この二つ目に置かれることで、詩全体への展望が開ける。はたして、これはメヌエットかスケルツォか、または緩徐楽章か。勝手に、メヌエットのような気もするけど。
それから、ここでは比喩としてだが「匂いがいっそうきつくなる」という嗅覚表現がある。
このあと、三つ目の詩は「日曜日の雨戸」にうつるが、それは次回に続く。

夏目房之介『孫が読む漱石』(実業之日本社)

2010-07-10 09:56:45 | 国内・エッセイ・評論
斜に構えるというが、夏目房之介は、その斜度がいい。きっと彼にとって、もっとも対象を見るのに適した斜度があるのだと思う。

夏目漱石へのひと味違った入門書であると同時に、夏目房之介への入門書でもあるのかもしれない。というのも、孫であった著者の、祖父漱石への思いと父への思いが、この本を大きく支えていると同時に、社会的に「漱石の孫」として位置づけられた著者自身の反発と内省そして容認に至る過程が綴られているからだ。
反発を感じていた著者が、年齢と共に漱石を認識、再認していく状態が、漱石のこの国における位置の確かさを証していくといった構造をとっている。まあ、自己本位で、ある種偏狭な漱石が、社会国家意識の中にあって個人の持つ価値と必要をどう思索していったか。個人という意識を持った近代知識人がどんな宿命的なものを抱え込まなければならなかったか。また、彼の小説が、そんな漱石の思索と実生活を彼の嗜好共々にどう表現しているかを、独特の小気味よさと知性と洒脱のバランスで読み解いていく。房之介の文体は、「書」をめぐるエッセイの時とも、マンガを語る語り口とも変わらない。夏目房之介節なのだ。で、随所にマンガが差し挟まれ、例えば、『三四郎』の美禰子に関しては、「僕が美禰子から連想したのは高橋留美子のマンガ『めぞん一刻』(1980~1986年)のヒロイン管理人さんである」といった、妙に納得のいく房之介ならではのマンガ引用があったりするのだ。

ほぼ10数ページで読解していく漱石の各作品については、その作品を読んでいなくても、じゅうぶん楽しめる。これは邪道だろうか。いや、面白い評論、エッセイというのは、その書かれている作品を読んでいなくても案外、結構楽しめるものなのだ。もちろん、読んでいてこそ、より楽しめなくてはいけないのだが。読んでたら返ってつまらないというのもありかも。
で、やはり、そんな中に顔を出すフレーズがよければ、さらに満足なのだ。

例えば、欧州大戦の渦中で、病苦と闘いながら身辺を書いた『硝子戸の中』をめぐる文章の「ただ、当たり前の倫理を論理的に証明するのは、簡単ではないし(というか、ほとんどできない)、逆にそれを疑うことはいくらでもできる。」とか。
または、この『硝子戸の中』についての文章の結びで、「欧州大戦や国家を論ずべき知識人でありながら、それに拮抗する「たたかい」の意味や価値を自分と身の回りに見出す。それが「文学者」としての身のちぢめかたになったのだろう。漱石の句〈菫程な小さき人に生れたし〉の「小ささ」には、世界と拮抗するだけの緊張感があったのだと、今となって僕は思うのである。」といった文章など。
そう、この文章は、漱石が常に対峙した自然主義文学との違いなどを考えると興味深いのかもしれない。

もうひとつ引用すれば、『こころ』について。
「さんざん謎めいたことをいい、そこに先生の謎の過去を感じさせ、たしかに読者もそれを知りたくなる。が、冷静に読んでしまうと〈先生〉なる人物に〈思わせぶりもええ加減にせーよ〉といいたい気にもなる。」と書いたりする。この洒脱。口調がどこか初期の漱石のユーモアのようにも思える。で、続きはこうなる。
「それはともかく〈邪悪にして神聖な恋〉という言葉は、いわば〈神〉や世間の許さざるものにして、しかしなお人間性の真実として神聖であるという意味にとれる。これを先の〈神などの大きな物語を失った知識人〉像にあてはめると。個しかよる根拠のない近代知識人の原罪意識〈神殺しの犯人〉と、人間としての存在証明の〈喩え〉としても読めるのである。」と、引き締まった解読に転換させるのだ。これはそのまま、夏目房之介が指摘するように漱石文学の「多義的な深淵」であり、開かれた作品の持つ力なのだと思う。その漱石の存在感を房之介は敬意を持って感じとり、洞察考察している。

ともかく柔よく剛を制すような、あるいは硬軟使い分けの呼吸の絶妙さを持った本だった。

大家正志「あっ」(「SPACE 92号」2010/7/1)

2010-07-03 16:57:51 | 雑誌・詩誌・同人誌から
質、量共に充実した高知の詩誌。それこそ何十年もまえに高知を旅行したときに食べた皿鉢料理の豊穣を連想する。シナリオやエッセイや小説も収められているが、23名による24編の詩に圧倒される。しかも、紙面がゆったりと組まれていて、詩を大切にしているという感じが伝わる。高知の詩誌と書いたが、パソコン文字打ち間違えると今どきに高知の「志士」ででてきてしまうのだが、執筆者は関東圏や近畿、中部、九州と多方面にわたる。
そんな中から、大家正志さんの「あっ」。全編引きたいのだが、長いので、その冒頭から特質が表れているところまで。

じぶんの袋の底が抜けていることになんとなく自信がもてなくて
落ちてゆくがままにまかせて
ひとから指摘されても
あああっ とか うううっ とか
まるで
ナナフシがむかしのナナフシでなくなったナナフシに出会ってしまったときのように
現実感覚がうすれてしまっているのは
なんとなく自覚しているが
袋の底からすとんストンと抜けていくなにかをおしとどめようとしたくないのはなぜだろう

     こどものころの夢は地球への帰還がかなわなくてもいいから
     宇宙の果てを見ることだった。宇宙の果てとはなんなのか、
     そのことを知りたかった。あるひとは恒星をのせて回転する
     天球が宇宙の果てでありその外には空虚も場所もない、とい
     い、あるひとは人間理性によっては有限であるか無限である
     かを決められない、といい、あるひとは宇宙は有限であるが
     境界はない、といい、あるひとは宇宙の境界条件は境界がな
     いということである、といったりしていて、宇宙の果てを見
     たことがないぼくはますます宇宙の果てを見たくなるのだが。

いやだとおもっても
ひとは死ぬしかないし
めんどうでも
ひとはだれかに愛される
疲労感しかのこらないとしても
ひとは生きているしかない

       ことしは木の芽時に雨が降ったり、寒かったりして
                     発狂しませんでした。

       日々の暮らしは底なしだけど
       ずばずばくだっていくのも
       なけなしの
       力をつかってのこのこと
       界雷するのも
       飽きてしまいました
       だからといってなにもかも
       ご破算にしてしまえるほど世間は浅くありません
       無歓無愉無尻
       さようなら。
          大家正志「あっ」(冒頭から一部)

各連の文字を落として書かれた内容から多声性へのにじみよりが考えられる。が、多声へのこだわりは自らの内なる声への耳の傾ぎ方を必要とする。声は客観性からは意外と遠いと思うのだ。視覚イメージは対象を対象性として認識できる。だが、聴覚は対象を実は主観の側から認識しながら、対象性への段階を獲得していくもののように思う。で、あれば、多声の世界は実は、内的必然の呼び出されていく地平あるいは空間なのかもしれない。
さらに、ボクらの宇宙。あえて「ボクら」と書いたのは、宇宙は「ボク」の宇宙であることに充足し得ないのだ。これは、宇宙論にちょっとでも、興味を持った人なら了解できるような気がする。「ボク」の宇宙が「ボクら」の宇宙に滑り出していくところに宇宙の初歩があるのだ。
その一方にボクがいる。徹底的な「ボク」がいる。面白いのは、そんな「ボク」と「宇宙」には、これは通底路はあるのだが、通路が築かれているわけではなく、またパラレルを容認するほど、実は対句的関係でもないのだ。宇宙に関する詩には、どうしても知の介在がある。ところが、その知、分かりすぎた状態を語る場合もあるが、宇宙に関する知の場合、多くは、了解したものを語るわけではなく、その距離、隔てられた距離を語っているのではないだろうか。詩は感得できないものに向かう。そういう意味では、宇宙論がレヴィナスの他者論などと引き合う過程が納得できる。
あっ!「あっ」から離れていく。
そんな、通路の通路としての断裂や、パラレルな関係性への疑いを詩にしていったのが、大家さんの詩の挑戦のように思える。その挑戦の「挑戦性」に対しても詩は微妙にずれながら疑問を示す。それが、詩の持つ豊かさなのではないのだろうか。
つまり、ボクと宇宙は、ちっぽけな自分と大きく果てない宇宙といった対象性で消化されるものではなく、ただ有機的な関係性でつながれているのだという思いなし。しかも、その関係性の結び方は、どこまでも関係の直接性から微妙に離れてしまった関係の間接性にあるのかもしれないという思いを引き受ける自身の現在なのだという感受が、実は宇宙を補完しているのだ。そう、「ことしは木の芽時に雨が降ったり、寒かったりして/発狂」しなかったのだ。

何だか、わかりにくい言い回しになってしまった。とにかく、この詩は、読み手を饒舌にする。そして、詩は多声を引き受けながら、「みたことがないのに、その静寂がなんとなく美しくおもえるのはなぜだろう。どうすればみえるのだろう。みえないから美しいのか。美しいからみえないのか。それとも、そこは地球人にさとられない空虚という美しさにみちているのだろう。」といった詩句や、「あ、から、ん、までくりひろげられる世間並みの冗舌の林に/かくれているものかくされているもの/あかるみにだされるもの/つきのひかりにてらされるもの/まぶたにのこるもの/こえになるもの」といった詩句を巻き込みながら終連へと向かうのだ。着地の終連は、一行のみ。

影がまばゆい風の道


引用部には、アリストテレス等の出典が書かれている。
ひらがなの入れ方や、話体の入れ方、「界雷」といった言葉などにも関心が向かった。