パオと高床

あこがれの移動と定住

前野りりえ「薔薇の弾丸」(「GAGA 47号」 2010/5/1)

2010-05-28 10:50:04 | 雑誌・詩誌・同人誌から
シンプルだがしゃれた詩誌「GAGA」。白のやや厚手の紙に黒の文字の印字が鮮明。今号は、書き出し1行が鮮やかな冒頭の詩、前野りりえさんの「薔薇の弾丸」に引かれる。薔薇が巣喰う、あるいは薔薇に巣喰うという寄生関係がCGのような手法で綴られる。もちろん、そこは言葉を使う詩であるので、思念が介入するが、その思念のすべり込みがしなやかだ。

薔薇の弾丸で撃たれた

以来 微熱が続く
呼吸をすると 肋骨の間が痛い

肋骨の隙間から貫通した弾丸は
からだの中で粉砕して
血管の中を漂っている

あれから
ペン先に黒いインクをつけて手紙を書くと
文字が途中で薔薇色に変わり始める

大理石の棚の上に置いている地球儀からは
夕暮れの薔薇色の海のしずくがしたたり落ちる

床にこぼれたしずくに指先をつけると
指先は黄緑に そして緑に変容し
蔓のように長く伸びていく

鎖骨のくぼみに溜まっていく薔薇の香り
蔓になった指先で 鎖骨をなでる

崩れていく夕暮れの薔薇色の空
もう 関心は光と水にしか向かない
白い光の中にからだを沈め
水を求めて蔓となった指先を伸ばす

わたしの中に薔薇がいる
いえ 薔薇の中にわたしがいる

かつても 一本の薔薇だった
その記憶がよみがえる

有翼の薔薇となって
夕暮れの街を飛翔する

わたしの中に薔薇がいなくなるとき
そんな日は もう生きられない
         前野りりえ「薔薇の弾丸」(全編)

「からだ」や「わたし」といったひらがなの流れがやわらかく、作者の語彙の選び方と一致しているようだ。一方で「薔薇」は漢字表記で、拡散より集中といった印象を与える。それが「有翼の薔薇」となって、「飛翔」へのイメージを獲得しようとする。音のやわらかさは、「かつても」の「も」にもあって、この音がクッションになっている。5連「の」を重ねたあとの「しずくがしたたり落ちる」は、縦書きになったときに高低差が表れる。そして、大理石の硬質な冷たい固体と、液体の対照性が感じられる。

「わたしの中に薔薇がいる」という心的状況が、身的状況に置き換わっていく移行の自然さに連れていかれた。

ちなみに、薔薇の詩人というと誰を連想するかな。
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藤維夫「影から影へ」(「SEED22号」2010/4/25)

2010-05-26 14:09:32 | 雑誌・詩誌・同人誌から
述懐する草原にはなたれて
いつの日か鳥がさわぐ
ただ見ただけにすぎない森のふちに
さらにひろがりつづけ
黄色い孤独な草原はいつも放浪者を見捨てている

日がすぎて
新しい復活のきびしい朝がきて
どこへ行くか
淘汰された文章からわずかに生き残りがあるならば
無為は無為だけのしずかな樹木であるだろう

伐採の跡地で
世代のうつろいから遅れ
苦患の悲しみを嘆くのか
宿命を領して風化する時代にたえていくのか
神を殺したニーチェの幻影のように
影から影へ謀反の旅をつづけることだろう
          藤維夫「影から影へ」(全編)

「SEED」というのは藤維夫さんの個人詩誌である。22号には5編の詩が収められているが、その冒頭の詩。
「述懐する草原」とか「新しい復活」さらに「きびしい朝」、「宿命を領して風化する時代」といった表現にあるように、名詞をしっかりと繋ぎ止めて置き去りにしない。その一方で詩を収束させずに、置き去りにされたものと進みいくものの間を描き出している。その結果、どこかオリジナルな行の行き渡しが感じられるのだ。
何より、言葉の出所の格好よさに魅力を感じた一編。
「無為は無為だけのしずかな樹木であるだろう」や、ラスト二行に引かれた。詩を書く行為自体が「謀反の旅」であるのならば、それは、しかし「影から影への」謀反の旅なのかもしれない。
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梅津時比古『フェルメールの音―音楽の彼方にあるものに』(東京書籍)

2010-05-22 02:48:46 | 国内・エッセイ・評論
いきなり、冒頭のコラム「フェルメールの音」の、これまた冒頭の文から。

「音が止まる瞬間がある。その時、音は落ちずに空中に貼りついていて、それを支えている空気や光のあやうい均衡が、見渡せる。それは音楽が流れているさなかにも、時折、起き、音に照らされたいろいろな絵を、一瞬、見せてくれる。」

つかまれた。この人のコラムは冒頭の2、3行で心をつかまれてしまう。この本は、梅津時比古が毎日新聞に連載した「クラシックふぁんたじい」という音楽コラムをまとめた一冊である。どのコラムにも音への想いが溢れている。しかも、音を言葉で伝えるという困難が乗り越えられている。彼は、音を描こうとせず、音のありかを描き出しているのかもしれない。音を奏で、作り、愛する人を描き出しているのかもしれない。そして、音のある束の間を描き出しているのかもしれない。音が醸し出す気配が言葉になっていく。詩情が文章に宿っているのだ。しかも、文学や哲学などの素養が共鳴し、やわらかな思索を形づくっていく。音によってもたらされたものが記述される。見開き2ページのコラムは、その短さの中に充溢した中身を含んでいる。もちろん、その中身、ぎちぎちに詰め込まれたものではない。行間に音の住まう空間があるのだ。音は流れていく。その流れの中で立ち止まる音を感じとる。音はとどめておけないからこそ、音をすくいとろうとする。音が過ぎていったあとには、思索の追跡が音の余韻のさらに余韻となって残る。心をつかまれる数行で始まるコラムは、静かな問いややわらかな慈しみ、そして哀しみを伴った悔いや包まれる平安の予感などに辿り着くように終わる。そう、素敵な楽曲の余韻のように。

例えば、「溶けあうもの」を引いてみよう。
冒頭「ふたり、という言葉は、時に心に沁みる。温かさと悲しさがないまぜになって。この、ふたり、を基本に、ヨーロッパの音楽は発展してきた。」と始まり、ピアノ連弾に触れていきながら、ラフマニノフの「二台のピアノのための組曲第一番〈幻想的絵画〉」を紹介しながら、「そこにただよう悲しみが、ふたりで弾くことで、溶けて温かいものに変わっているような音だった。」と結ばれる。

とにかく、どこからでも読みたくなる一冊なのだ。ただし、同時に取り上げられたCDにも向かいたくなる一冊で、それはそれで、たいへんな欲求を起こさせる本なのだ。

ちなみに、梅津時比古に今年度の日本記者クラブ賞が贈られたということだ。
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松岡正剛『白川静』(平凡社新書)

2010-05-08 10:22:08 | 国内・エッセイ・評論
2008年11月に発行されたこの本、帯に「白川静への初の入門書」と書かれている。2006年に亡くなった白川静に関する本は、確かに最近よく目にするようになったと思うが、その驚嘆すべき巨人について、これまた驚異の博覧強記松岡正剛が語るとなれば、これはこれは面白くないわけがない。と、あっさり白川静を「驚嘆すべき巨人」と書いたが、そのなにが「驚嘆すべき」なのかの一端をスケールの大きさ深さ共に感じさせながら紹介してくれる。
白川静の本、少し読んでは、そのただならなさにたじろいでいたボクを、やさしく白川静に連れて行ってくれる一冊だった。

この本の大半を、柳井港から松山の三津浜港に行くフェリーの中で読んだ。白川静という広大な海に浮かぶ瀬戸内の島のように、松岡正剛が取りかかれる場所を呈示していく。それは、同時に松岡正剛という膨大な知の図書館から検索され、選び出された知の連鎖に触れるという海と島の関係でもあり、漢字という海から姿を現す、その漢字と中国そして日本を探求する拠り所としての島の存在なのかもしれない。

では、この本の内容を語ることができるかというと、それがなかなか難しい。ただ、例えば「呪能をもつ漢字」では、呪と祝を重要な切り口として解読していった白川静の、圧倒的に鋭い見識とダイナミックな展開そして執拗さが伝わってくるのだ。

松岡正剛は、この本の表紙裏に書かれているように、「見取り図」を作ってくれる。神話学への問いかけ、『詩経』と『万葉集』の同時解読、「巫祝王のための民俗学」という観点と方法を取り入れた万葉集研究、『孔子伝』、「狂字」と「遊字」、「字書三部作」などという項目で「見取り図」を作りながら、それぞれの偉業について、どこがどう独創的でどう時代を画期したのかを解説してくれる。読みながら、わくわくとする。だが、このわくわくを語るためには、こちらに膨大な知の集積がないと不可能なのだ、きっと。しかしながら、このわくわくは、それでもう十分なのだ。そして、ここにある「わくわく」は、白川静その人から発せられるものでもありながら、それを結び連結させていく松岡正剛の発する知の渉猟の愉しさでもあるのだ。一例を挙げれば、「字書三部作」に触れるところで、「辞書編纂者」としての白川静を語っていくのだが、そこが、こう展開される。

「辞書編纂者のことをレキシコグラファーといいます。この言葉がヨーロッパで最初につかわれたのは1658年で、この言葉自体が当時の新語でした。なぜこのような新語ができたかというと、最初の英英辞書であるロバート・コードリーの『アルファベット』が出版された1604年をきっかけに、十七世紀イギリスで辞書編集が大流行したからです。」と書かれ、ここから「レキシコン(定義集)」という言葉が生まれ、それが定着して、「レキシコグラファーはあらゆる概念創造をしている人だと尊敬されるようになっていく」から、では「新語」は何かといって、ホッブスの『リヴァイアサン』が引かれ、ホメロスのころにすでにレキシコグラファーは出ていたと語り、では、表音文字と表意文字でのレキシコグラファーの違いは何かを説きながら、東洋での苦闘と苦心と刻苦勉励に触れて漢字に戻り、始皇帝の文字統一への言及から漢字の辞書編纂の歴史を追って、白川静「字書三部作」に至るのだ。
あっ、こう書いてしまえば何だか、船酔いしそうな感じだが、それが見事に連れて行ってくれるのだ。

もうひとつ。例えば、「狂字」について。
「したがって「狂」はけっして妖怪や化け物じみたものではなく、それゆえたんなる意味不明の狂気でもなく、また『西遊紀』的なアニメっぽい民衆的なものでもなくて、むしろ「聖」に匹敵する表象力なのだということを強調するのです。どちらかといえばミシェル・フーコーが『狂気の歴史』において、「狂気とは、神の並みはずれた理性と比較した場合の、人間固有の尺度である」といったのに近い解釈です。」
と、こういう連結の仕方が、随所にあって、快感なのだ。

紹介しながら、知的満足を与え、さらに先へと向かいたくさせる。新書の魅力溢れる一冊だった。
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