パオと高床

あこがれの移動と定住

五木寛之『21世紀 仏教の旅 朝鮮半島編』(講談社)

2007-04-27 11:31:47 | 国内・エッセイ・評論
このところ仏教についてのエッセイが多い五木寛之の、朝鮮半島の仏教を巡る旅である。インド編に続く第二弾となっているが、韓国の寺を巡る旅という面だけではなく、半島から引き揚げてきた作者の半島時代という過去への旅であり、現在に生きるものの心のあり方への啓蒙的な旅でもある。
敗戦時の体験から現実を地獄の相に見る作者が、悩みや苦しみを抱えた人間にとって仏教がどのように慈悲をもたらし、生命力を与えていくのかを問うている。
迫害に耐え、修行僧を中心にして韓国社会の中に息づく華厳経を中心にした韓国仏教は、世界を、いのちを、ひとつのものとして繋がっていると説く。そのどこもが断ち切れにするわけにはいかない繋がりの中にある「一即多・多即一」とする。作者はそこに、さまざまな現実の対立を解消へ向かわせ、軽視されるいのちの重さを取り戻すことが出来る道を探そうとする。
この本、寺の空気や仏教の中に作者が消えていくのではなく、どうしても作者の「私」が出てしまうことをどう思うかはある。作者の抱えた時間や悩みが常に根底にあって、仏教が現在、あなたにどう繋がるかを問うという姿勢なので、これは当然といえば当然だ。また、作家五木寛之であれば、「私」が読者に提示されていくのは当然なのかもしれない。ただ、もう少し、半島の仏教への沈潜が、経巡りが、あってもいいような気がした。
啓蒙する書物。確かに、それが求められる時代だと思う。「啓蒙」それ自体が、すり変えられる危険性を持っているのだが。
この本にも書かれていたが、韓国の山寺は文字通り山中にある。山に囲まれ結界を作っているようで、空気がすでに違うという感じを与える。川のせせらぎを聞きながら整備された参拝路をとぼとぼと歩くうちに山門にたどり着く。華厳寺、海印寺、松広寺、通度寺、梵魚寺、仙厳寺、仏国寺といったお寺は訪れたことがある。有名で大きなお寺で、僕のような観光旅行者が多かったが、それぞれに凛としたたたずまいと厳かな雰囲気を持っていた。そして、現に修行している僧の姿があった。そのうち、かつての百済王朝のあたりを訪ねてみたいと思った。
一時期、五木寛之の小説はよく読んだ。今、ぱっと思い浮かぶのは『風の王国』かな。『ガウディの夏』も何だか頭に残っている。


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岸本葉子『そろそろ旅へ モンゴルのおすそわけ』(東京書籍)

2007-04-20 02:01:56 | 国内・エッセイ・評論
以前、この人の旅行記を読んだような。
それこそ、アジア、中国ものの旅行記は面白いものが多い。雑誌「旅行人」などを中心に活躍している人や、イラストと一緒に洒脱な文章書く人など、旅のディープさだけではなく、その旅行先が持っているユニークさや独自性に触れると楽しくなる。岸本葉子さんも名エッセイの書き手だと思う。
「旅のおすそわけ」確かに戴きました。遊牧民の暮らしがあり、水や道路やトイレを心配するゴビと、デモが行われ自由化の波の中で都市化すると同時に都市の問題も抱え込むウランバートルの比較が、さらりとだが的確に書かれている。また、ラクダに乗る体験や車で走る砂漠など、異なる環境での楽しみや発見が伝わってくる。ゴビの音のなさや星の描写はお見事。豊富な写真もよかった。ゴビが、うらやましい。
「そろそろ旅へ」と、また歩き出した著者の旅行記、今後も楽しみ。


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小倉紀藏『韓国、愛と思想の旅』(大修館書店)

2007-04-17 11:27:42 | 国内・エッセイ・評論
小倉紀藏の韓国思想沈潜記だ。表題通り、韓国の愛と思想を旅する。西洋哲学に惹かれ、80年代のポストモダン状況を生きた著者が、中華思想とその強烈な思想的実践を果たす韓国に出会い、記号の森をどうやって超克するかの旅の道程が刻まれた本である。実体と本質主義の韓国思想を探求することで、彼は日本の記号化された相対社会との間で分裂する。その分裂した自己を一体化していく思想的営為ともとれる。
詩人の分裂や変遷を第一章で語り、以下、文化、歴史とその罪、美やエロティシズムを探っていく。しかし、この人の中には思想とはつまり、思想を生きることだという強い意志があり、その探求はそこを内側から生きながら批判するという姿をとる。その態度は、思想的衝突を避けてポストモダン思想を導入したとする日本的態度を批判する。この批判はそれこそ著者が書くように、すでに丸山真男などによって批判されたものであり、そこから何も学んでいないという著者の慨嘆が聞こえる。
思想を生きようとする著者の文体は、それ自体がスタイルとしてけれんを持つ。そのけれんをどう思うかで印象が変わるかもしれないが、そのけれんがこの人の文の魅力でもあるだろう。
シャーマニズム、東学、仏教、そして儒教、朱子学と、韓国のいわば深みへと経巡っていく小倉紀藏が、否定ではなく無を媒介とする超越しない弁証法、「変革」と「多様性」を「包摂する」あり方に向かう思考は難しいものがあるが、それぞれの章が持つ思索、探求は、充分に説得力があり魅力的だ。
朱子学と中華思想は確かに巨大な理解の尺度なのだろう。
イ・サンやユン・ドンジュやキム・ジハについての文章が興味深かった。


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