パオと高床

あこがれの移動と定住

多和田葉子『ヒナギクのお茶の場合』(新潮社)

2008-03-26 00:12:31 | 国内・小説
この書名は魅力的だ。これで、もう、一編の詩になっているようで、また、詩が起動する気配に満ちている。で、ありながら、やっぱり小説なのだ。紅茶色でティーバックがあしらわれた装幀が、また、いい。

収録小説は五編。お茶を飲みながら、小説の愉悦に浸ることができた。小説は自由なんだ。小説は言葉でできているんだ。と、改めて感じることができたし、その自由のために多くの不自由と格闘しなければならないのだと、またまた気づくことができた。さらにさらに、格闘は、すり抜けたり、ぶつかったり、いろいろあって、連綿と続いてきた紡ぎ出されてきた既存の作品が、実は跳躍台で、軽やかに飛躍するのは心地良かったりするのだとわかったりする。もちろん、バコンッと跳躍台を踏み割ってしまうパワフルヒッターもいるし、多和田葉子の場合、軽やかだけど、跳んだ後、跳躍台自体を見てみると案外亀裂がつけられているようなのだ。

「枕木」の奇想。それは列車に乗ってワープロに小説を入力している私の持つ奇想で、想像力の流れが列車になって、枕木に繋がって、終わった地点で軌跡が小説になっている。枕木という言葉が、連想から自律性を越えようとする瞬間が小説を閉じさせる。
「雲を拾う女」は、哺乳ビンの乳首に変身した(わたし)を巡る物語のようでありながら、実は、その(わたし)は、対象を描き出す(わたし)であるというカフカの『変身』の構造を持っている。ただし、描き出される対象が、変身した(わたし)と同じ側に住んでいることと、前提として、(わたし)が身体を奪われてしまっているところがファンタジィーの道を辿っていて、悪魔を巡る物語を作っている。
「所有者のパスワード」では永井荷風の小説が「ボクトーキタン」になるところに楽しみがあり、それを漢字の悦楽に変える業に裏返しのテクニックが冴える。ボクらの恋の行く末は?という問いが、ボクらの小説の行く末は?に繋がる酔狂の楽しさと空しさよ。
「目星の花ちろめいて」は「枕草子」か「宇治拾遺物語」か。はてまた、という古文語りの本歌取り意匠。
「ヒナギクのお茶の場合」は、がっちり国際的な枠組みの小説ではないだろうか? 緑髪のハンナと「わたし」の交流が小説の題名通りなのだ。しかも交流は時間も夢も越えていく。ねえ、小説って、そんなもんじゃないの?と、言ってるみたいで。ボクらは現実を夢の時間の力で生きているのかもしれないと思わせる。



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多和田葉子『容疑者の夜行列車』(青土社)

2008-03-21 17:02:31 | 国内・小説
書名と装幀に引かれて読んだ。以前読んだ多和田葉子の短い小説は言葉が乱反射するようにぶつかりあいながら、過激に挑発してきたような印象があったが、この小説は、実験性を確保しながら、言葉の鮮度が別の動き方をしているような気がした。激しくはないが、奇妙な空気を宿しながら、新鮮なのだ。
こんな表現がある。
「泣きっ面は蜜色の涙に濡れているから蜂が寄ってきて更に刺す。」言わずと知れた、「泣きっ面に蜂」ということわざの間接はずしである。こんな表現があちこちにある。そんな知的操作をしながら、一方で夢への入り方やミステリアスな雰囲気を醸す文体を確保しているのだ。

真新しくはないが、人称を二人称「あなた」にし、対象として常に見守られる「容疑者」の位置に置く。それ自体が小説を築き上げる対象になるという探求型の設定が活かされる。その「あなた」が夜行列車で出合う人々、出合う出来事は、時間を越えたものであったり、虚実のあわいにあったり、夢に滑り込んだりしているし、たどり着けない目的地という迷宮性を持っていたりもする。13章からなる地名が書かれた各章は、その場所の独自性が刻まれながら、どこか曖昧な匿名性も持っていて、ボクらの日常と拮抗する別の時空をかいま見せる。なにか「罠にはまってはいけない」という囁きが聞こえるような、微妙な陥穽が感じられるのだ。

12章「ボンベイへ」で人称と旅についての記述が入り、解けない謎に解けないままの辻褄が被せられるのだが、それは作家多和田葉子と作品との追いかけっこそのままの関係であり、ボクらが現実の中にあってその現実と想像力とのバランス感覚のブレであるのだと思う。

「わたし」から「あなた」に向かい、「あなた」がその対象に対して投げかける想像力は永遠の追いかけっこなのだ。迷宮性を宿しながら。常に主体の危機を孕みながら。だが、その結果生みだされた創造物は、ボクらをわくわくさせてくれるのだ。



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樋口一葉『にごりえ』(集英社文庫『たけくらべ』から)

2008-03-16 02:17:23 | 国内・小説
『たけくらべ』の美登利が吐く「ええ厭々(いやいや)、大人になるは厭なこと、なぜこのやうに年をば取る」という言葉が、お力の「ああ嫌だ嫌だ。どうしたなら人の声も聞こえない、物の音もしない、静かな、静かな、自分の心も何もぼうっとして、物思いのない処へ行かれるであろう。つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情けない悲しい心細い中に、何時まで私は止められているのかしら。これが一生か、一生がこれか、ああ嫌だ嫌だ」という言葉と反響し合う。
お力の心の中心にある飢餓感のようなもの、空虚な感じは深い。

『たけくらべ』の思慕と離反は、閉ざされた明日を前にした今の切なさは、『にごりえ』では暗い闇を伴う。可能性の糸を断ち切られた子どもの時間は還らない時として封印されてしまう。『たけくらべ』の大人一歩手前、大人一歩後という過渡期は、切なさを永遠の時間のまま停止し、終えられた。それは、『にごりえ』の主人公お力にとっては、すでに離反した時間である。貧窮の子ども時代であり、子どもの時の暮らしを思慕することさえどうしようもないものになっている。過去にも明日にも見放された今があり、その刹那の享楽にだけ身をやつすこともできない。求めたい気持ちがあって求めたい形がない。ただ漠然と不可能性に覆い尽くされている。その漠然とした気持ちを生活は許容しない。お力には頭痛が、ただ、頭痛が、ある。自分自身との一体感から脱落した、行き場のない自我があるのだ。しかも、それが生活の重圧を伴って。

勝手な思いこみだが、この小説は、ラストの方から着想され構成されていったのではないかと思えてしまう。心中ものは、それこそ浄瑠璃など豊富にあるし、また何か実際の事件に着想したのかもしれない。そこに変形が加えられている。まず、心中をそれ自体心中だったのかという謎の中に置く。さらに、心中が二人にとっての愛の成就という形をとっていない。お力は源七を愛しているわけではないのだ。源七にしても、お力への思いが心中に向かわせたのかは定かではない。むしろ思い出への執着のような気がする。それは源七のかつての楽しかった過去への執着でもあるのだ。それは今を放棄する情念の世界でもある。環境による不条理から自ら抜け出す道を持ち得ないお力。自らの情念によって抜け出せない環境を作ってしまった源七。二人の暗がりが交差する一点は何か?犯罪か死か。その両方がこの死にはある。無理心中とした場合の犯罪性と心中とした場合の死と。ただ、ぎりぎりのところで求められたお力は、そのとき、境遇からの解放と同時に自分の担う役割を感じ得たのか?そこにラストを救いと見るかの分かれ目があるのかもしれない。
また、この二人の死について様々に喧伝する人々の噂は、一葉自身の辛い経験から出た告発なのかもしれない。真実は手渡された読者の中にある。

お力にとって客の結城朝之助は、別世界の人間であり、お力にとってはかなわぬ思いの相手。身の上話をするうちに二人の距離はかえってはっきりし、せめて一夜をともにするという行動に出てしまうお力が、つらい。5章から6章にかけて、ただならぬ凄さを感じてしまった。
この結城朝之助は、その後の明治大正期の生活が保障された知識人の姿に移っていくのかもしれない。そう、漱石の主人公の苦悩に引き継がれていくのではないだろうか。

集英社文庫の『たけくらべ』は、読みやすくてよかった。
樋口一葉は、この文庫のあとがきで俵万智が書いているように「この話は、読んでしまっている。だけど、もう一度読みたい」となる作品を生みだした作家の一人だ。そう、さらにあとがきを引かせてもらえば「読んでいるときにしか味わえない、あの独特の感じ。それをまた体験したくて、ページをめくる」気にさせてくれる、とびきりの作家かもしれない。



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笙野頼子『萌神分魂譜』(集英社)

2008-03-14 03:48:53 | 国内・小説
笙野頼子は闘っている。創造的な行為とは闘いなのだということを存在させる作品自体で訴えかけてくる。何と闘うのか?それが、ある具体的なテーマだけになれば、おそらくそこへの具体的な働きかけだけで済むのであって、社会的な行為であったり、批判的な論文であったりするのだろう。実際、笙野頼子はそういった文章を書くことも場合によってはやぶさかではない。しかし、それが、その具体性を生みだす背景すべてひっくるめて、となると、これは思想の闘いになる。さらにさらに、それが思想も含んだ表象すべてになると、表象を対峙させるしかない。そこに「文学」や「絵画」などの場がある。作家笙野頼子の闘いがある。

紹介には「呪われた新世紀に『金毘羅』が放つ、愛の呪文 呪われた市場経済の世に放つ魂の唯物論。」という文がある。「魂の唯物論」に「愛の唯物論」という言葉もある。形ないものが物象化していく過程での絡め取りをいかにすり抜けるか。愛や魂が商品化や制度化の罠をどう切り抜けながら、自己が真の自己に、自由が真の自由に出会えるか。その先に愛の実現が図れるかということで「純愛小説」である。まあ、この真のという言い方も実は問題だが。

本物の体を持たない神である「俺」と神を内部に宿した作家である「私」の独白が交差する。「俺」は作家である「私」を「姫」と見極め、彼女に「君」と呼びかけながら、「君」の心地よさの中に宿り続け、自らの存在を知らせようとする。「私」を「愛している」のだ。作家である「私」は様々な苦境の中で、見続ける「俺」の気配を感じる。「俺」は「私」の魂の乗り物になろうとする。しかし、ここにも「俺」によって語られる「彼」がいるのだ。その「彼」は、「分魂」かそれとも「私」が作りだした別物の「俺」なのか。そう、すでに人称の冒険がされている。一人称の独白と二人称の語りかけが小説の閉じて開く運動を維持する。その働きを持ちながら、二重の一人称はお互いの客観性と主観性の境界を往き来する効果を生みだす。さらに、この一人称があることで、人称が自然と二人称、三人称と分化していく。それこそ「分魂譜」なのだ。そして、こんな文章が持つ高揚感に巻き込まれる。
「死にかけた魂はいつか俺の背に乗ってくれた。君の人前に出したくない足を俺の手が包み、君は安心して俺に跨がる。俺は本来の乗り手とついに出会い、かつてこの地が深海であった頃を見せる。黄水晶の月が転げ回る、海の大きすぎるうねりの中を、俺たちは白神になって浮上して行った。底に動く触手を君はウミユリだと思っていた。貧血する君の肩に海の雪がつもり、光るクリオネが翼を回していた。青く白い空と知る限りの海を、自分が所有していると君は「理解」した。」

また、この小説は神に人が奉仕することを逆転させる。人に神を宿らせることで、人が神という制度に搾取されるのではなく自分の中に神を見いだそうとしている。そこでは、神は心地よさの中に見いだされるものになりながら、人が自ら生きる生命力そのものになろうとしているかのようだ。憑依とかとの差違を作者は懸命に記述しているように思う。この逆転に、フォイエルバッハや折口信夫と違う中間点への跳躍や、日本の宗教史、特に明治以降の欺瞞への批判がほとばしる。「もし神が人間を作ったとしても、人間は神に自分を似せるのだから。」という文章には、人間の想像力が神を作るということが表現されているのではないだろうか。
さらに「私は自分だけの神様というか拝むものが欲しかった。その神は土俗的で素朴なものを選びたかった。無論土俗と言っても古代のものではなく、国家に収奪されていない「リアル」なものを。」という文章もある。これには、近代批判が隠されている。制度からすり抜けられる神様に「自分だけの」を重ね、「リアル」とすることで、収奪されない身体を希求している。

また、「萌え」という言葉もある。この言葉を使いながら、心地よさの実感すべてに渡る言葉として、「萌え」の意味の転換を図っている。商品化された記号としての「萌え」からの「萌え」の奪還。それは商品化に対する笙野頼子の批判となって表れている。

また、形のない、何にでもなれる「俺」が、不思議と何か拘束されている感じを纏っているのだ。身体と精神のような二元論をあえて提示しながら、実はその双方を貫く領域に至ろうとしている。

また、古層の新しさという言い方。新しさにオリジナルが劣化する時間を見る。その場合、古層にこそ、オリジナルの新しさがあるとする逆転。

そして、身近な出来事を書きながら、奇想で身近を過激な小説空間に変える力業。
記憶は定かではないが、ブレヒトが議論をする時、相手の使った言葉を使うことで、それを別の関係の中に置き、相手の考え自体を異化するというような方法を使うと言っていたような気がするのだが、笙野頼子の闘いもまた、そういった流布されるもの通念化されたもの、制度への、その言葉を使った逆転の手法が感じられるのだ。そして、批判への批判を突き抜けるという、際どい一点を貫いていく壮絶さがある。

『金毘羅』を読むとまた違った印象を持つのかもしれないけれど。


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ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』御輿哲也訳(岩波文庫)

2008-03-07 23:53:52 | 海外・小説
この星を60数億の意識が包んでいる。その中で意識が交わるお互いになれる関係はどれだけあるのだろう。交差する意識。その重なりとズレ。

スコットランドの孤島の別荘に集まる人々。ラムジー夫人を中心に、夫である哲学者ラムジー氏、そして子供たち。キャンバスに夫人を描こうとする画家のリリーやバンクス氏などの意識が、お互いの思いを、過去を描き出していく。いわゆる「意識の流れ」という手法。そこでは今まさに起こっている意識が、自らの過ごしてきた時を往き来し、過去を現在につなげる。そして、今この場所で、お互いの意識は、様々に揺れながら、微妙な反発やほのかな思い、慈しみ、理解と無理解を、お互いの上に重ねていく。

小説は三部構成になっている。
第一部「窓」は、この別荘に集まる人々の一日が描かれている。この一日に、実は静かで穏やかな日々のすべてが凝縮されている。人は決して単一の感情で相手に臨むものではないだろう。その都度の多くの思いの中を漂いながら、大きなある感情に覆われている自分自身に気付くのではないだろうか。その意識の動きは、意識の停止する状態つまり死に枠取られている。死が、意識の停止が、意識の流れるこの小説を静謐な空気で支配している。明日、灯台に行こうとする夫人と息子。期待する息子の気持ちをくみ取らずに「晴れにはならんだろう」と言ってしまうラムジー氏。それに反発するラムジー夫人。灯台は第一部では行き着けない明日を象徴する。その点滅する灯り。それは、それぞれの意識を照らし、それは生の光を、その揺れのはかなさまで含めて象徴する。この第一部では特に17章の晩餐会の場面が圧倒的だ。集う人々の意識がラムジー夫人を中心にして交響的に響き合う。その章の終わりは晩餐の席をあとにする次の文章である。「夫人は、肩ごしにもう一度だけ振り返って、それがもはや過去のものになったことを知った」。その後で、18章と第一部ラスト19章の寝室の場面になるのだ。第一部のラストで、夫が言って欲しい一言を、夫人は「笑みを浮かべ」て、「見つめるだけ」で口に出さずにおく。そして、その一言は結局封印されてしまうのだ。明日へのつながりが断層を持ってしまう一日が終わる。小説の言葉は、その周囲に熱と冷たさを伴って、包み込んでくる。

第二部「時はゆく」の鎮魂は息をのむ美しさだ。美しさという言葉が適切かはわからないが、この第二部は、痛い思い、悼む気持ち、静かな怒り、にじむ悲哀など、生が、過ぎ去ったもの、失ったものに対して持つであろうあらゆる感情と、それを含めて流れていく、流れ出す、時の姿が美しい。第一部から十年の歳月が流れていく。その陰惨な暴力の時代を、ウルフは不在の側から告発する。この告発は、詩情が、暴力に対してみせる清冽さと繊細さに満ちている。ここでは、意識は時そのものの意識となっているようだ。「それにしても、一晩とは結局何なのか?」という言葉が表すように、この十年を第一部ラストの寝室からの一晩にする。そこにある断層と連続。時が流れ出すように、第三部「灯台」に繋がっていく。

第三部では、あの日行けなかった灯台へラムジー氏と子供たちは出発する。それを孤島から見守るリリー。彼女は十年越しの絵を完成させようとしている。舟にのるラムジー氏の意識と、それを見つめるリリーの意識。意識は空間を超える。隔たった空隙を意識が飛ぶ。そのダイナミズム。リリーからはラムジー夫人への思いが溢れ出す。息子のジェイムズは舟の舵を取る。灯台に向けて。それは、十年前の過去への遡行でありながら、時を超えて、未来への曳航でもある。

時は鎮められ、繋がりながら流れる。意識は記憶を思い出だけにしない。20世紀の始まり、戦争の世紀の始まりにすでに捧げられたレクイエム。表紙紹介文にある「去りゆく時代への清冽なレクイエム」という言葉が心に残る。
「われらは滅びぬ、おのおの一人にて」とは、小説中繰り返されるいくつかの言葉の一つだ。一人にて滅ぶ、われら。それを切れ切れにしない時の繋がりが小説から沁みだしてくる。




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