パオと高床

あこがれの移動と定住

吉田秀和『永遠の故郷 薄明』(集英社)

2011-02-09 11:53:42 | 国内・エッセイ・評論
文芸誌「すばる」掲載のエッセイが集成され、毎年一冊ずつ刊行された『永遠の故郷』の二冊目である。先月、最終刊が発行され、この四部作は完結した。一冊目が、「夜」。次いで「薄明」。そして、「真昼」、「夕映」と続いている。吉田秀和は現在97歳なのだろうか。

この本を読むと、別の時間に連れていかれる。それは、強引に鷲づかみされるようにではなく、気がつけば、自分が何か別の時間のなかにゆったりと浮かんでいるようなのだ。音楽は時空を超えるというが、吉田秀和は、文章で、読者を別の時空に運んでくれる。

この本の冒頭のエッセイは次の一節で始まる。
「夜、急に目が覚めた。寒い夜だった。
 そのあと、いくら待っていても眠りが戻って来ない。床の中で幾度か寝返りをうちながら、考えるともなく考えていると、先日香港暮らしの長くなった人が久しぶり帰って来ての感想に、日本の夜の星空のきれいなことに感心したと話していたのを思い出した。」
あっ、と思う。何か、詩から散文への掛け橋のような文章だなと思うのだ。自在でもある。で、星空の話から、ふっとこうなる。
「そうして、思い出した。」と。思い出したのは、ユゴーの詩で、その詩の一節が記され、その詩句を、
「日本語に直せば、〈測り知れぬほど大きな優しさ(愛・善・善意)が大空から降りてきた〉〈大きな大きな慈愛が空から降ってきた〉とでもなろうか。」と続く。そして、ユゴーの詩でビゼーが作曲した歌曲の話に移っていくのだ。そうして、楽譜が挿入される。その楽譜に沿って、音の進み行きが語られる。
ここには、歌詞=詩と、批評文=散文と、楽譜=曲の戯れがあるのだ。楽譜が読めれば、もっとそれを感じとることができるのかも知れないが、それでも、ここにある言葉から想像することはできると思う。さらに、書かれた文章には、吉田秀和の時間、作曲家の時間、詩人の時間が重層的に、多声的に絡まっている。しかも、それは技巧などとは言えない。もうすでに、書かれてきたものが、そういう風貌を持っているとしか言えないのだ。

吉田秀和は「永遠の故郷」として、歌曲に触れていく。彼の膨大な音楽との生活の中から、選び出すように歌曲に触れていく。そこには、音楽と共にありながら、音楽批評家という文章の表現者であった吉田秀和がいる。
詩人アポリネールやエリュアールの詩から作曲したプーランクの歌曲について書かれた章があるのだが、そこではアポリネールとプーランクの交流を見つめる吉田秀和に、その彼の中原中也や作曲家との交流が重なってみえるようだ。もちろん、それが綿々と書かれたりはしない。むしろ書かれなさによって、その吉田秀和が過ごしたであろう、かけがえのない時間が漂ってくるのだ。
このプーランクに関するエッセイの最後、エリュアールの詩で作られた歌曲集について、彼は書く。
「怒りと冷静、激情と理性、火と涼気、男と女といった二つのものの対立と融合を目指し、歌い上げた歌曲集である。」

この『永遠の故郷』の二冊目はマーラーの歌曲に触れた章で終わっている。おそらく、この次の本でも、マーラーについてのエッセイがあるのではないかと思う。次がまた読みたくなった。そして、何より、曲が聴きたくなった。

セザンヌの絵と「雨の歌」の詩、そして、裏表紙にアポリネールの詩という本の装丁も、よかった。

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レイ・ブラッドベリ『永遠の夢』北山克彦訳(晶文社)

2011-02-06 12:50:01 | 海外・小説
大げさにいえば、ブラッドベリ体験があるかないかで、その人の小説観はかなり違ったものになってしまうのかもしれない。もう少し、大げさにいってしまえば、現実感も変わってしまうのかも。
と、いいながらボクはそんな体験をしていないのだが、そんなことをいいたくなるくらいに、オリジナリティの強さがある作家なのだ。しかも、その強さは押しつけがましさやこれみよがしなところがなく、すいと小説の愉悦のようなものを感じさせてくれるのだ。
『バビロン行きの夜行列車』の短編たちには、うなった。そして、この『永遠の夢』。二つの中編が収められている。2007年刊行と書かれているから、作者87歳かな。それも驚き。で、この二編、訳者あとがきによれば、「ひとつはファンタジー、ひとつはSF」となる。

ストーリーをどこまで語るか。ここはブックカバー裏の紹介文による。
まず、「どこかで楽隊が奏でている」は、
「夢と詩にみちびかれ、記者カーディフは、アリゾナ州の小さな隠れ里サマートンに降りたった。不思議なことにそこでは子どもが遊ばず、住民のだれも年をとらない……。魔法に魅せられながら、やがて崩壊する町の謎をさぐる中編」。
萩尾望都の傑作に『ボーの一族』というのがあったが、それを思い出した。ただ、アリゾナの平原の先が、ちょっと渇いたイメージを運んでくれて、テイストはかなり違う。「永遠の時間」とは、人にとって何なのかをさらりと、しかし切なく語ってくれる。ああ、もしかしたら作家と作品の関係も、作家という有限の生身の人間と、その作品や読者との関係も情感含めて語れば、こうなるのかなとも思えた。アレクサンドリアの図書館の挿話がよかった。
「わたしたちは時間の旅人ですから、永遠への旅路の途中で救えるものは救って、なおざりにされれば失われるものは保存して、遠く旅するわたしたちの長い人生のなにがしかをささやかながらつけ加える、それを当然のことと考えたのです。」
「夏はいつも角をまがったすぐ先にあって、秋は道のどこか遠くにあるもの、その噂さえなかったのだわ。」
詩と思索がありなす抒情に酔うことができる小説だった。

もう一編、「2099年の巨鯨」。
「メルヴィルの「白鯨」における帆船を宇宙船に、白鯨を白い彗星におきかえて描かれた」、「乗組員たちが、深宇宙へ飛びたち、運命、永遠、そして神そのものに接触する」。
主人公イシュメイル、心に語りかけるクモのような異星人クエル、船長エイハブなど人物が魅力的で深い。そして、時間との闘いと共生を語るような哲学的な内容の難解さがなぜか心地いい小説である。
どっちの小説が好きかな。今は、「どこかで楽隊が奏でている」の方かな。小説として、よくできていたし。
で、挿入詩の一節。

どこかで楽隊が奏でている
そこでは月は空にけっして沈むことなく
そしてだれも夏に眠ることなく
そしてだれも死に落ちこむこともない
そこで〈時〉はまさに永久に進みつづけ
そこで心臓は鼓動をつづける
古い月の太鼓の打ち鳴らす音と
〈永遠〉の足のすべるような歩みに合わせて
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