パオと高床

あこがれの移動と定住

クリストフ・バタイユ『安南・愛の王国』辻邦生訳(集英社)

2007-12-27 00:11:19 | 海外・小説
名前のせいで読むのを避けていた作家である。何だか、勝手にバタイユの息子と思いこんでしまって。さらに、別に息子だったとしても読まない理由にはならないのに。
まず、クリストフ・バタイユにごめんなさい。意固地な偏見はよくない。さらにわけわかんないのは、ボクが別にジョルジュ・バタイユが嫌いだというわけではないことで、こうなると、自分でも理解不能。ただ読まなかっただけということなのだ。

小説は、ルイ16世統治下、ヴェトナムに派遣された軍隊と修道士の物語である。次々に死が襲い、結局、目的は失敗に終わる。その中で、他の修道士たちと別れ、安南へ向かうカトリーヌ修道女とドミニク修道士の話が小説後半からラストまでを支える。

この小説、どうしても描写について考えさせられてしまう。もちろん翻訳なのだが、短い文章の連続なのだ。連続というより、行間まで含めているような簡潔さ。例えば、数行余白の間に「数ヶ月が経ち、そして、数カ年が経った。」という一行が置かれている。両脇の余白に挟まれて、時間がふっと経っているのがわかるのだ。もう少し、うがった言い方をすれば、経っていない時間も含めて、そこにある感じなのだ。
ヴェトナムの時間を「永遠」と書いている箇所が数カ所あり、それが、アジアの時間とヨーロッパの時間、変転と悠久、を対比させる。ほとんど一文で表されたような気にさせるフランス革命当時の時代の流れ。これは書かれた文章が簡潔であればあるほど、時間の激変を感じさせる。その背景の急転の前で、動かない時が修道士たちを包み込んでいる。激流に忘れられながら、自らの拠って立つ価値も忘却していく。しかし、修道士たちはむしろ「天と地と精霊とに導かれ」て「宇宙との調和」を果たす場所に存在する。「からだ」が「真実」であると実感できる場所の発見。そのために、彼らはヴェトナムという他者異質性に出会わなければならなかったのだ。
それはキリスト教的には楽園追放なのかもしれない。暑さと湿度の中、死のある場所のインドシナ。しかし、そこは永遠の時間が自然に宿る楽園でもあったのだ。ヨーロッパ社会から忘れられた修道士たちは、かれら自身がキリスト教的世界を忘れていくことで、異質性を同質化する。そこに、この小説が持つ詩が溢れ出す。美辞麗句、過剰絢爛たる描写の構築物といった小説もあるだろうが、それと真逆に、そぎ落とされたこの小説には、読者を惹きつける想像力の強さがある。そして、ヨーロッパにとってのアジアのイメージを思ったり、一神教的なものの汎神的な世界への滑落が逆に世界との一体化を果たすという開かれの呈示を読み取ったり、革命当時の王権の崩壊が父性と神性にどのような影響を与えたかへのアプローチがあるのではと勝手に思いこんだりさせてくれる小説であった。

「世界は空っぽの貝殻なのだった」と意味を失いながら、受け入れた世界は、棚田を「天の鏡」と語る老人に出会う世界だったのだ。クリストフ・バタイユにとって、ヴェトナムは美しいのだ。



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ケリー・リンク『マジック・フォー・ビギナーズ』柴田元幸訳(早川書房)

2007-12-20 02:38:51 | 海外・小説
相変わらず、不思議な作品たちだ。『スペシャリストの帽子』より、迫力は抑えられているような、しかし、より日常に近いところに別の層があるような感じは強まっている気がする。いきなり状況設定から入り、三人称の語りが登場人物たちの意識で崩れ、何だか不思議な世界をそのまま出現させる手法は、より意識的になっているのかもしれない。すーと非現実が受け入れられてしまう小説世界。しかし、そこに不可解は残る。
どの小説がよかったかな。

「妖精のハンドバッグ」は一番入りやすいかも。ハンドバッグの中が見たくなる。時の流れが違う世界が丸ごと入ってしまうハンドバッグという設定と、そこに入る「バルデツィヴルレキスタン」という国の情景に惹きつけられる。何だかモンゴルの草原を思い出したりした。宮崎駿アニメのキャラを連想したり、ブローディガンの小説をちょっと思い浮かべたりもした。
あれもこれもと書きたくなるが、「石の動物」の月夜の兎たちは視覚的イメージが残る。恐怖を逆手に取る。ホラーのような設定で持ってきて、恐怖の実質は別の所にある。憑かれるものと憑かれたと見てしまうものの恐怖。違和感が嫌悪や嘔吐につながるのは実存的な恐怖につながるようだ。むしろ日常が危うい。思うとおりに動かない、同時性を持たない、日常が危うい。違和感の増幅が槍を持って兎に乗る状況に向かう展開は、妙に時代を映しているような気がした。

この本の作品群には抱え込んだ異質性が地層のように層をなしている。ハンドバッグの中やコンビニの近くの入り口<聞こ見ゆる深淵>、猫の皮の中、兎の地下空間、テレビ番組の中、クローゼットの中などなど。ゾンビや悪魔や魔女やテレビの登場人物やエイリアンはそこを平気で行き来する。

生者と死者の結婚と離婚を描く「大いなる離婚」。ゾンビが客のコンビニを舞台にした「ザ・ホルトラク」。表題作「マジック・フォー・ビギナーズ」は傑作少年(青年)小説で、人は現実の中にだけではなく、むしろ現実と拮抗する、あるいは現実から避難すべくイメージの世界に生きているのだということが<実感>できる。現実と同量同質の非現実が、僕らに与える使命のようなものが、僕らをつないでいる。そんな静かな感動があった。それにしても、遺言でもらう電話ボックスとウェディングチャペルという着想はいい。その州道沿いの電話ボックスとの応答とそこへの旅という展開もいい。
「しばしの沈黙」はタイムマシンものでありながら、むしろ取り戻せない時間への致命的な想いが伝わる。時を遡行する文体は、そのまま、物語の構造と私たちの時間を解体していくようだ。
この小説に「夜風はリンゴみたいな匂いがする。きっと時間というものもこういう匂いなんだろう」という一節がある。どんな匂いか分からないが、切なくすっぱく、そして変に甘い感じ。さらに匂いにとどまらず、人の知ってしまう時間の秘密と宿命と、その先、至れない場所。そこからこぼれだす、哀しみや切なさや痛みや怖れ。そして、瑞々しさ。小説は、奇妙な展開を見せながら、独特のたたずまいで、それらに包まれている。
「猫の皮」が、案外、この作者の特徴をわかりやすく表しているような気がする。単なる気のせいかもしれないけれど。

とにかく、まっすぐ進まない小説たちで、細部に惹かれ、イメージに酔い、何々ぽさからはぐらかされ取り残される感じが、心地よかったりするのだ。それから、過度な湿度がないのもいい。



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ケリー・リンク『スペシャリストの帽子』金子ゆき子・佐田千織訳(ハヤカワ文庫)

2007-12-11 11:53:27 | 海外・小説
『インディアナ、インディアナ』のあとがきで、柴田元幸が、ここ二、三年で出会ったアメリカ現代作家の三人としてあげていた一人だ。文庫を買って、表題作だけ読んでおもしろいと思いながら、何だかそのままにしていた本である。

今回この短編集を読んで、収録十一編、堪能できた。表題作の恐怖小説のようなひたひたとくる怖さと憧憬を伴った懐かしさ。「ルイーズのゴースト」の切ないような痛さ。「雪の女王と旅して」のイメージの美しさ。「飛行訓練」の構成の面白さ。「黒犬の背に水」の詩情溢れる不気味さ。「少女探偵」「靴と結婚」のパロディの巧みさ。「カーネーション、リリー、リリー、ローズ」の断章構成のスリリングな感じ。どの小説も、奇想とイメージの豊かさと胸に迫ってくる詩的情感が溢れている。静かな筆致といえるのかもしれない。沁みるように体に入ってくる。

謎が謎として置き去りにされてしまう。合点がいくわけではないのだ。ラスト数ページに、一気に展開がある。そこで合点がいくのではなく、むしろ着地は、深い謎を呼び覚ますようでもある。ところが、それが、とても快適な読後感を生むのだ。もちろん、再読したら、また違う印象を受けるのかもしれない。配置されたパーツが見事に符合するような気もする。

話の流れは、通常の辻褄を回避しているようでもある。そう、「夢の文体」とでも言えそうな。「この訳(わけ)のわからなさは、夢のわからなさです」とあとがきで柴田元幸は書いているが、その、ありえなさが、小説の魅力的な創造力なのだ。小説の中では十分に「ありえる」し、僕らはそんな時間も心の中で生きているのだ。空気がきちんと残る小説たちだった。
近々、柴田元幸訳で小説集が出るらしい。楽しみにして待つ。



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ウィリアム・モリス展

2007-12-09 18:35:05 | 雑感
「世界の三大美書」の一つと言われる「チョーサア著作集」を含む66冊の展示会だ。
モリスの装丁の技術、美意識も簡潔に解説してあり、なかなか楽しいものだった。
文字の意匠、配置の妙、紙へのこだわり、空白の使い方、一冊の書物はそれ自体が
作品であった。
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円城塔「Your Heads Only」(SFマガジン2007年11月号)

2007-12-09 12:03:00 | 国内・小説
またまた、円城塔。SFマガジン11月号の100枚ほどの作品だ。恋愛小説?恋愛小説考察小説?恋愛小説解体小説?
文学界の作品より過激、というより実験的かな。最初は入れなくて、枚数も少ない小説なのでスカかなと思ったのだが、途中から乗った。そして最後の2007の章ではその書き出しに笑ってしまった。最後のと書いたが、読み方の処方が最初にあり、断章が構成されているので、一応の最後のといった方がいいかも。

九つの断章が三つのグループに分けられる。「あなた」に語りかける作品自体の独白のようなグループ、仮に?と置く。それと、「僕」と「彼女」の恋愛小説(?)のグループ?。あとは非人称の時代を語るかのような時事的グループ?。おおざっぱに分けるとこんなところか。唐突だが、ちょっと、カルヴィーノを連想した。
この?がまず、やっかいで、小説と読者と作者の関係をめぐる論議をパロディー化しているというか推し進めている感じで、かつて語られた「作者の死」を、それ自体作品が語り出すといった物語=解体された物語にしている。そこで今回使われているのはチューリング・マシン。検索してみたが、計算模型のことで、便利な『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、チューリングの仮想機械は、
「1 無限に長いテープ 2 その中に格納された情報を読み書きするヘッド 3 機械の内部状態を記憶するメモリで構成され、内部状態とヘッドから読み出した情報の組み合わせに応じて、次の動作を実行する。」と書かれていて、この機械が小説を読み出しているような印象を与える。このテープが恋愛小説の部分では何だか遺伝子のモデルに似た印象も与えるのだ。小説の題名の「Head」は、この読み出し機のことだろう。作中で「ヘッド」とルビがあった。

で、この機械のテープとヘッドを「あなた」と「私」に置き換えて語るところが個人的には面白かった。従来の主体の中に現象があるという考えを「あなた」の中にある現象へと中心をずらせた考えが記述されているように受け取って、面白かったのだ。
2008年初頭に小説集が刊行予定。その前にこの人の単行本を読むか。


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