パオと高床

あこがれの移動と定住

吉田秀和『永遠の故郷 夜』(集英社 2008年2月5日)

2021-11-21 19:54:01 | 国内・エッセイ・評論

再読する。
というのも、リヒャルト・シュトラウスの歌曲「最後の四つの歌」のCDを図書館で借りたからで、
その時に、あっ、そうだと思い出したのだ、この本を。時間を越えてやってくる思い。
『永遠の故郷』シリーズは、音楽が共にあって、これからも音楽が流れつづける時間の中にいるはずなのだが、
いつか訪れてしまう時間の終焉に、でもそれでも、時間が流れつづけるように音楽はそこにあり、あるはずで、
という、そんな音楽への思いを滲ませている。
あのときボクはこの曲を聴いていたなとか、口ずさんでいたなとか、それは、これまでの膨大に積み重なった時間なのだけれど、
一瞬でもあって、そこにはたくさんの思いが漂っていて、でも、いつか音は止まるのだろうか、
いやそれでも、死が訪れても、音は実はあたりまえに流れ続けていって。
だが、やはり、そこでは音楽は消えていき、消えていきながら、その音楽の流れた時間は、記憶は、
それも薄れながらも消えていくようで、なくしそうで、そんな心のふるえが、旋律のように、音のように
空気のふるえに、ゆれになるのだろうな。

吉田秀和の『永遠の故郷』シリーズは、文章自体が音楽のようだ。
自在さや愉しさ、なんだか切ない感じとか、強靱さとか、そんなものがある。
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中江有里『万葉と沙羅』(文藝春秋 2021年10月30日)

2021-11-20 00:30:19 | 国内・小説

読書愛あふれる小説。
本を読んで本を読みたくなる本だ。ためらいがちな成長物語はやっぱり、いいな。

中学で学校に行けなくなった一橋沙羅は、通信制の高校で幼馴染みの近藤万葉に出会う。
万葉は家庭の事情で叔父と共に暮らすようになり、叔父の古書店でバイトをしている。
読書家の万葉に誘われていくように、沙羅も読書の世界に入っていく。沙羅と万葉がそれぞれに出会った人、
出合った本を通して少しずつ新たな世界に歩きだす。その世界が開かれていく様子を描いた小説。
本を読むことが持つ自由さ(解放区)の獲得と、読書という、ある意味閉鎖空間から、現実世界のただ中に
歩きだしていく姿が、大切な時間を慈しむように描かれている。

小学校の教科書に載っていて、小学生が案外悩む(教えている大人のほうが悩むのかも)、
というのも解答を求めたがるから悩んでしまう宮沢賢治の小説「やまなし」の「クラムボン」についての感想や、
「ごんぎつね」のごんの気持をめぐる会話。
万葉が、叔父の過去にからむ柳川をめぐるときに、重なっていく福永武彦の小説「廃市」。
むしろ「廃市」をベースに作りだされた物語は福永の小説へのオマージュのようにも感じられる。
そういえば、「廃市」は1年ぐらい前に読書会で採り上げて、大林宣彦の映画も観て、ああ、いいなと
思ったなこととかも思い出した。夏目漱石の『三四郎』についての話もさりげなく出てくる。

違う本を読んで語り合うのも楽しいけれど、同じ本を読んでそれぞれ思ったことを話す、その違いが楽しい。共感がうれしい。
それって、豊かな感じだなと思った。
読書することで現実自体もなんだか、きっと厚みのようなものが出てくるのではないかとも思えた。
とか、別に効果などではなくて、素朴にただただ、本を読んでいる時間は、いい。

  個性は本の選び方じゃなく、読んだ感想に出る。
  同じ本を読んでも、読んだ人の数だけ感想があるだろう。

確かに。そんなあたりまえを語りあったりできるのはすがしい時間だと思う。

遠藤周作の『砂の城』を読んでみたくなった。

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くどうれいん『氷柱(つらら)の声』〈講談社 2021年7月7日〉

2021-11-06 15:56:34 | 国内・小説

あっ、発行日が七夕なんだ。
出会う者は誰で、誰に出会うのだろう。出会うのは、何に出会うのだろう。
2011年3月11日を経た後で変わったものと変わらないものとは何なのだろう。
何も変わっていないというとはないのだろうけれども、その変わり方、
その時にどこにいて何をしていたか、何に出会ってしまい、何に出会わずにいて、
どう感じ、どう感じさせられて、そんなさまざまな私がいて、私たちがいて。
その時、即座に表現の現場で動きだした、身震いを始めた言葉があった。
と、同時に表現は遅れてやって来る。一定の時間を経て、思いの襞を掬うように現れる言葉もある。
この小説は、ほぼ10年の時間を経て、私の立っている場所が、立っていた場所がどんな関わりの中で
日常をつくっているのかを柔らかく描きだしている。声高な声ではない、微弱な声かも知れない。
だが、強靱であるのは、それが切れ切れの記憶であっても、それを伝え合うことで記憶をつないでいる
ことなのかもしれない。
小説最初の章は滝の絵で始まる。その絵が新たな姿を見せる。むしろ回帰するように立ちあがる姿に
じわりと心が持っていかれた。

トゲと氷柱(つらら)の違いは何だろう。
そんなことを考えながら読んでいた。氷柱は危険な凶器にもなる。
でも、かりに刺さったものが氷柱であったとして、それが溶けていくときそれは消えるのではなく、
文字通り溶けていく。柔らかな熱は氷柱を溶かすことでじわりと取りこんでいく。
そこに日常があって、日々が流れていく。
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