パオと高床

あこがれの移動と定住

坂多瑩子「赤い屋根の家」(「ぶらんこのり」Vol.11)

 | 雑誌・詩誌・同人誌から
坂多さんの詩はいつも不思議なところに連れていってくれる。合点がいかない心地良さ。
合点がいかないと、どうにも落ち着かなくさせる詩がある。一方で、合点がいっちゃって、それだけでつまんなくなる詩も大量にあるのだけれど、合点がいかなくても、むしろ、そのいかなさが心地良い詩があって、坂多さんの詩は、そんな詩なのだ。
詩誌「ぶらんこのり」の中の「赤い屋根の家」。こう書き出される。

年老いた犬がやってきて
私はお前だよというから
違う
お前は
茶色の毛はすりきれてるし
きたなくて
後ろ足は棒みたいにつっぱっている
あたしじゃないよ
それでも懐かしそうな目をするから
連れてかえってやった

詩だから、いや詩に限らず、犬が喋ったって、いい。でも、いきなり、「私はお前だよ」と入ってくるのだ。結末にいかせるようなところが導入で来る。つまり詩の行き先は別の地点にあることになる。そして、「違う」で、あっさり、流れを止めて、次の「あたしじゃないよ」までの流れを作る。で、その後に、「懐かしそうな目」という犬のまなざしを喚起する言葉が来る。あっ、連れていかれるなと思う。この犬も連れていかれるのだが、この詩を読んでいるボクも連れていかれるのだ。
「連れてかえった」ではなく、「連れてかえってやった」の「やった」が、いい。私は私を連れかえる。なぜって、懐かしいからだ。
詩はこう続く。

するとたしかにあたしだ
あたしは
あたしが好きでないから
捨ててやろうとおもった
それである日
赤い屋根の家ごと
みんな
井戸にすてた

実は犬の「私」と連れてかえった「あたし」には、「私」と「あたし」という呼び方の分の差異がある。ここに時間の感覚が宿っている。「あたし」は「あたし」から離れられない。人は自分自身から離れることはできない。自分を忘れることによって、忘れた間だけ「私」はいない。だが、すぐに「私」は復帰してくるのだ。「あたし」を捨てるには「赤い屋根の家ごと」捨てることにしないといけない。ここで「あたし」のスケールは「赤い屋根の家」と一致する大きさになっている。で、面白いのが、捨てる場所。「井戸」なのだ。「井戸」はのぞきこむものである。そこには自分がいる。
だから、一度、「井戸」をのぞきこむ。しかし、ここにひとつ、謎が仕掛けられる。詩の続きはこうなる。

イボができやすい体質なのか
イボもすてた

「井戸」から「イボ」か。「イボ」に意味づけをしてあれこれ考えるのも楽しいだろうが、言葉の面白さと流れで読む。ただ、何か、時間の中に立つ体の感覚があるのだ。できちゃった、できやすい「イボ」を捨てるという時間の経過。そして、

井戸をのぞくと
かたむいた赤い屋根が
喉にひっかかった骨みたいに
ひくひくしている
あたしはさっさと新しい家に入って
古い家に帰った
          (「赤い屋根の家」全篇)

ボクが説明を入れたので、詩が途中で切れてしまったが、「みんな」の行からの流れは。微妙な音のずれに乗せられるように続いていく。「井戸」と「イボ」。「すてた」と「のぞく」。「かたむいた」から「ひっかかった」になり、「ひくひく」の音と「さっさ」の音に分かれて、「さっさ」の音の方は「入って」と「帰った」の音便に繋がる。
その音と共に、「あたし」がのぞく「あたし」を「すてた」井戸を、読者も一緒にのぞくことになる。すいっと「あたし」は「あたし」の外に立っているのだ。そこには、帰還した「あたし」がいる。だから、「あたし」は「新しい家」に入って、「古い家」に帰るのだ。「新しい家」だが、「あたし」という「家」であることに変わりはない。ヤドカリ、あるいは常に自らを再生する遺伝子のように。
でも、そんな理屈のあてはめではなく、どこに行くのか連れだされていく言葉の流れが楽しい詩なのだ。一篇の詩の中で少なくとも最初ともうひとつの二つは飛躍がないと面白くないのだが、坂多さんの詩はそのジャンプが矢継ぎ早に訪れる。それが、楽しいのだ。
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