パオと高床

あこがれの移動と定住

粕谷一希『反時代的思索者-唐木順三とその周辺』(藤原書店)

2009-02-28 23:13:19 | 国内・エッセイ・評論
著者自身が書いている。「本書は、唐木順三の事跡を正確に網羅的に追う評伝とはならなかった。それにしては、私自身の問いが多過ぎたからである」と。しかし、これだけの内容を、著者の問いや見解を指し示しながら、手際よく展開させていく渉猟的逸脱は、お見事なものである。編集人の技と筑摩を作った唐木順三たちへの敬意が、当然のように粕谷一希の気概と相まって作り出した一冊なのではないだろうか。そう、ツヴァイクの『昨日の世界』という書名を引きながら、粕谷一希は、唐木順三の時代と自分自身の時代を、時代精神に迎合するのではなく思索し、生きた時代の人々を描き出し、現在に提示しようとしている。
「要するに、今日の状況からいえば、ほとんど忘れられかけている昨日の世界のことである。(中略)私自身が身を置いていた、私の昨日の世界についてのスケッチに、少しでも興味をもって頂ける読者を見出せれば幸いである。時代に強いられた、第二次世界大戦と敗戦という深淵によって哲学することを強いられた世代の人間として、少しでも自然体で平明に書いたエンターティメントと解して下されば幸いである」
ここには、哲学する精神と身体が存在している、その価値が語られている。と同時に、その時代を、様々な中心と周辺から語っていく、語りのエンターティメントがある。日本の一時期の京大哲学科の才能個性の興味深い紹介にもなっている。
今、唐木順三の本は、文学全集収録以外では、ほとんど絶版になっているようだ。『三太郎の日記』や三木清を思いだし、『二十歳のエチュード』を思って、ちょっとへへへと思い、和辻哲郎や九鬼周造を読んでいなかったことに気づいた。そして、西田幾多郎。この本で紹介されている入門書を手にしようか思った。そしてそして、もちろん、唐木順三。中世に、「無常」に、「無用者」にと思索を深めていく唐木を、「考える人 思想する人」として、また戦後の思想的流れの中で、むしろその思索が「反時代的」であるとすることに、独自の思想家としての唐木順三の面目を探る筆致は、唐木順三への思いが溢れ、この本の読者に、唐木の文章に触れたいという欲求を起こさせる。
出版社、いまでも、なお、出版社の役割の大きさを感じながら、せめて「あとがき」に書かれた粕谷一希の言葉に読書する僕らの希望を託してみたくなったりする。
「編集や出版について哲学することは、編集者である私の義務に思えたのである」
さらに
「唐木順三の思考の深まりと拡がりを考えることを通して、理念型としての編集と出版の意味を、具体的に実感できるのではないかと私は考えたのであった」
この本、出版社は「藤原書店」。がんばれ!出版社。

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津村記久子「ポトスライムの舟」(文藝春秋3月号)

2009-02-27 10:51:45 | 国内・小説
あっ、こういう小説がでてきたのだという感想。

どこか希薄になって、存在の実感から離れていった状況を描く時代があって、身体感の喪失をめぐるベクトルの放射に、様々な意匠がつくされてきた、すでにちょっと古い言い方の「ポストモダン」。そこからの、存在忘却からの、帰還をはたしていた流れの過程に、時代の風が吹き、また、存在は揺らされてしまう、その希薄さに向けて。ただし、ここではすでに、身体は激しい痛みや葛藤や拮抗を、あらかじめ失われてしまっている。価値獲得の、自己実現への戦いは、血みどろさや痛々しさを内に封じ込め、遠ざけられている。そこでは同時に、様々な夢も封印されてしまう。そして、表れてきたものは、執拗な心情吐露や内面的葛藤、心理描写や、欲望の強いベクトルを欠いた、叙事的叙述に過不足なく時代の空気を乗せ、それでいて柔らかみのようなオブラートでくるんだ小説だった。

労働の中での自己実現はあらかじめ排除されている。労働と対価は釣り合っていないし、それでも、対価があることが、すでに主人公を支えている。そこでは、労働の中に自己実現をはかるための戦いや労働の条件をめぐる戦いは、もはやない。労働によって疎外されている自己はあるが、同時に労働からも疎外されそうな危機的自己もある。労働を時給で換算するだけではなく、生活消費を時給計算し、労働時間何時間分なのかを換算してしまう。状況はここまで退行している。そして、主人公は一年分の収入にあたる世界一周旅行に、自己実現を賭けてみるのだ。
その決意をする、パーツを奪われた自転車での事故。あざといが、部品を奪われた自転車が比喩となっている。自転車を操れなくなり、死ぬかもしれないという思いが、お金を貯めて世界一種旅行に参加しようという主人公の心のスイッチを押す。その事故から、世界一周旅行にいけるだけのお金を貯めたラストの自転車をこぐまでの物語である。ラスト、軽快に自転車をこぎながら主人公は思う、「これだけ自分の体が動くという感覚を思い出したのは、おそらく数年ぶりのことだった」と。
途中、友人との共同生活や友人のためにお金を使い、貯金が滞りそうな危機も起こる。しかし、そこでは、頼られる自己や意味を見出された自己が優先される。

恋愛や暴力や犯罪を一切書かずに、逆に、それに関わってはいられないのよ、私たちのささやかな生活はとでもいいたいような、姿勢。そう、ここからでも小説になるのだ。しかも、ほのぼのやフワリとも違って、さらに切なさややるせなさとも乖離した、労働と生活を描き出そうとしている小説。で、ありながら悲惨の露出も避けた、そんな小説の場所が、ここにはある。このポトスライムのようなしたたかさを、物足りなさと感じるかどうかは、読者に委ねられるのかもしれない。
既婚者はひらがな、漢字で、そうでない人物はカタカナ表記になっているのかな。子どもの名前はオール漢字で、これから、かな文字が生まれるのかも。

いれずみの挿話や恵奈という友人の子どもとの会話などに先行する他の作家の小説に対するスタンスの違いが含まれているような気がした。
関西語圏が、いま強いのかな。方言の時代がくるような・・・。

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台北旅行

2009-02-24 13:11:08 | 旅行
年末から3泊4日で台北に行く。何年ぶりだろう。以前行ったときは、高雄と日月譚にも行ったので台北自体は一日だけだった。
で、今回は故宮博物館に一日浸った。途中で、お茶して、ゆったりと。それでも、そんなに観覧し続けると頭がくらくらしてしまう。どのくらいいたら、たっぷりになるのか、なかなかわからないけれど、まずは満足。もう少し、書と軸をみたかったような気が、あとでした。

それから、今回は手頃な値段で「仏跳牆」が食べたくて、いろいろ探して、「儂來餐廳」で食べることができた。美味しかった。これ、より贅沢高級になるとどんなものになるのかと思わせた。日本語が達者なホテルフロントの方が、予約を取ってくれて、感謝感謝。ちょうどそのレストランで結婚式があっていて、「仏跳牆」があるかどうかわからないというところを、どうにかお願いと頼み込んでくれたのだ。この人はとても頼りがいがあって、安心感を与えてくれる人だった。からすみチャーハン、エビの卵オムレツも美味しかった。カキのフライを残してしまってごめんなさい。
「徳也茶喫」でお茶して、「鼎泰豊(本店)」と「高記」で小籠包食べ比べして、「高記」では上海生煎包子や紫米八寶甜飯も食べて満足。「鼎泰豊(本店)」では、二人だったので一蒸籠十個の料理を五個にして二種類出してくれたり、大包を半分に分けて出してくれたりとサービス満点だった。「好記担仔麺」、「度小月」で担仔麺を食べる。「度小月」は黄金蝦捲も美味。「好記担仔麺」の雑然とした雰囲気も良かった。とにかく食べ物が美味しい。太っちゃった。まだまだ、あれもこれも食べたかった。胃袋に限界はあるし、旅行日程で食べられる食事の回数は制限あるし、残念。と、食べ物の話ばかりになる。

それにしても、冬一番の寒波が来たというので、台北で長袖のアンダーシャツとマフラーを買っちゃった。
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馬場あき子『短歌への招待』(読売新聞社)

2009-02-24 03:17:11 | 国内・エッセイ・評論
招待されてしまいました。

ことわざの中に「律」を見て。短歌の「律」について語り始める。
語りはいにしえの律から現代短歌の律へと進む。実際の歌を引きながら、語り口は明快である。
律の大衆性に依拠して歌う歌、それとの格闘のあとを刻む歌。そこに、次には「調べ」が現れる。短歌の中心的な構成要素が、引き出される。
さらには短歌史を辿る。近代短歌を正岡子規の『歌よみに与ふる書』と雑誌『明星』派の流れの中で、いかに短歌が近代短歌に変遷していったかが語られる。そこに横たわる、万葉集と古今和歌集。それをめぐる措定と反措定。また、たびたび起こる短歌滅亡論との対峙の中から常に展開を繰り返してきた短歌の流れが綴られる。そして、戦後短歌は前衛短歌の衝撃を持って、現代短歌へと続いてくる。
その結節点での論争に触れ、また、重要な流れを作った価値観にも触れる。斎藤茂吉の「ますらをぶり」と釈迢空の「たをやめぶり」。その二つとも少し違う「旧派和歌」の伝統文体。「男歌」と「女歌」。その二つを入れ替える歌。それぞれが、もたらす歌の趣。
短歌に接するときの、楽しみと深みとを伝達してくれる本である。問題意識を刺激してくれる。さらなる深みへの道案内になってくれる一冊でもある。

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柴田翔『贈る言葉』(新潮文庫)

2009-02-04 10:17:00 | 国内・小説
1966年発行の小説である。『されど われらが日々』が64年の発行である。柴田翔が35年生まれらしいから、この二作品、29歳から31歳ごろの作品。青春への作者の思いと若さということの現れと時代への鎮めるようなまなざしが込められた一編かもしれない。生きることを律しながら、自由であろうとする潔癖と未熟の混在。観念と生活の絡まるような関係が、越えがたい壁として自由を束縛していくことになる実人生の中での存在の意味づけの難しさ。それを難しさとして抱え込む精神の時期。どうにかして存在忘却から逃れようとしながら、逆に報復されるように観念が、その価値観が抑圧を生みながら、無力感と空虚を露呈させる無惨さが、青春小説として描かれる。青春とは悔いと鎮魂と、そして傷つきやすさを、感傷のオブラートに包み込むものなのかもしれない。しかし、ここでは、その観念が暴力を拒む方向で抗っている。倫理的潔癖さを守ろうとすることと、自分を他人に投影することへの激しいためらいがある、そのことが、結果として、お互いを傷つけてしまったとしても。そこに、何か、現在の事件との距離を感じる。自己と向き合うことと他者と触れあうことの葛藤を、お互いが関係性を持つことへの勇気として語った小説とも読めそうな気がする。
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