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パオと高床

あこがれの移動と定住

藤維夫「畠も森も」(詩誌「SEED」42 2016年10月10日)

2016-12-12 11:12:18 | 雑誌・詩誌・同人誌から
決然と決別する。
ことばが美しさを得るときはどんな時だろう。ことばも、花の美しさについて小林秀雄が、
美しい花がある。花の美しさというようなものはない、と語ったように、ことばの美しさというようなものはなく、
美しいことばがあるだけなのだろうか。いわゆる美辞麗句がむしろ輝かず、醜悪であるはずのことばが光りだすときだってある。
ことばの輝きは関係が生みだすものなのだろうか。だが、一方で確実に醜悪なことばというものもあると思う。
それを醜悪と感じる感性の基盤まで考えれば、醜悪と感じること、それさえも、疑わしいのかもしれないが。
詩のことばが、常用のことばに抗ったのと同じように、いかにもな詩のことばを疑いだして、詩語それ自体にも
抗い始めたのはいつ頃からだろう。
と、こんなことを考えるのは、藤さんの詩にあることばが決然と決別して、そのことによって強さと美しさを
獲得しているように感じたからだ。いわゆる詩語っぽさと一線を画し、なお俗語の浸食からも逃れていることばの姿があるからだ。

詩「畠も森も」は、こう書き始められる。

 やさしさに道は続いて
 畠のまわり 樹木には無数の鳥がとまっている
 季節を忘れるはずはなく
 しばしば風は流れて行く
 見慣れた風景の道沿いの
 はるかに遠く駅舎はまだ残っている

流れるようなことばが「はるかに遠く」にある駅舎へと連れていってくれる。これは、今残る駅舎でありながら、
なぜか記憶の中の駅舎のように時間のはるかも感じさせる。だから、次の連がくる。

 少年の若いときは戦しかなく
 畠も森もすでに眠ったままだった
 歳月も痛み
 状況の働く間は短い

過去の時間が流れ込む。しかしこれは今へと繋がる時間の仮借なさも孕んでいる。ことばは平易だが、歳月や状況という、
なにげないことばも詩のことばになっているように感じる。

 生活の倦みと波頭の間遠い舟歌
 時がきて 柔らぎかけた記憶の奪還
 明日も今日も無視することはできそうもない
 とほうもない無限の果てでやはり一直線はかぎりがある
 そしてがばっと跳ね起きるしかないだろう

この連の一行目は不思議な繋がり方をしている。比喩が併置されているのだ。波頭とは寄せてくる生活の倦みだ。その比喩と
比喩されるものを併置して、まだるい舟歌を流す。若いときの戦の季節を抜け、平穏にあって、「記憶の奪還」を果たしても、
それは奪還できるものでありながら、無視することができずに訪れてしまうものでもある。忘れられることの幸せということ
もあって、忘れられないことの辛さもあるのだ。そして、記憶が奪還されるということは、それだけ時間を消費したことにもなる。
若さの戦の季節とは別に、今度は迫り来る時(とき)との日常的な抗いがある。日常の中で、朝起きたくないという実存の延期は
「かぎり」を前にして「跳ね起きるしかないだろう」になる。存在を立ち上げ続ける日常の営為が、実は「もの」的存在を
「こと」的存在にするのかもしれない。

 いまさらよこしまに捩じれようとしても
 多くの四季の流れと同じようにどこかに消えると
 孤独が解消した花の咲く庭には誰もいない

孤独の解消はヒトの不在の中で初めて可能になる。巡るものでありながら消えていく四季それぞれ、ヒトの不在の中で時間だけは
それでも流れる。最終連はこうなる。

 だれもかまってくれない沿道の雑踏で
 どこへ行こう
 巷の終焉を見る前に旅立つ
 火の王国とやらの幻想の
 うすまる肉体の血の流れは早い
 おお今は炎暑の真夏なのだから
 きっとフルートの音色も遠ざかってしまった

畠も森も抜けてしまうのかもしれない。雑踏は終焉に向かっているのかもしれない。それは自身の旅立ちとも重なる。
その前に自らは真夏の孤独の先へと進もうとしている。音のない先へと。
だが、この最終連は詩が復活するように詩語が立ち現れているのだ。詩のことばとなって詩語が再来する。
長い時を経ても、ことばへの信頼が失われていないことを、詩は告げている。
ことばの強度は美しさを支える。
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西崎憲編集 文学ムック「たべるのがおそい」vol.1(書肆侃侃房)

2016-04-15 01:23:21 | 雑誌・詩誌・同人誌から
変わった名前の雑誌が発刊された。「たべるのがおそい」という誌名だ。
さらに新しいのは、文学のムック本だというところ。しかも、編集が西崎憲。
これはこれはと、誌名を裏切るように、紹介するのが早くなってしまった。

中身についての感想は、おいおいということで、そのラインナップ。
あの驚天動地の面白小説『世界の果ての庭』(第14回日本ファンタジーノベル大賞)の作者で、
短歌、音楽もどんとこい、あっ翻訳も、という西崎憲ならではのコンテンツなのかもしれない。
今村夏子、円城塔、藤野可織、西崎憲の小説(創作)に、
大森静佳、木下龍也、堂園昌彦、服部真里子、平岡直子という若手実力派歌人の短歌と穂村弘のエッセイ。
翻訳小説も、アメリカの作家ケリー・ルースという人の小説を岸本佐知子訳で、
韓国の作家イ・シンジョの小説を和田景子訳で掲載している。

さらに、特集「本がなければ生きていけない」のコーナーには日下三蔵、佐藤弓生、瀧井朝世、米光一成の
エッセイが載っている。この特集、文章もだが書架の写真が面白い。
表紙にはほぼ掲載順に作者の名前が書かれている。編集後記には、その作者名の活字の大きさを同じにする
ことへのこだわりも
記されていた。活字が読みやすいし、何だか楽しげな空気が溢れている本である。

早速読んだのは、短歌とイ・シンジョの小説。短歌、よかった。
個人的にはお気に入りの大森静佳の短歌が読めて満足。木下龍也は心地よく特異でいいな。
イ・シンジョの「コーリング・ユー」。シチュエーションを把握できれば、すいと読める。
短編ならではの仕掛けもあるし、ヒロインの彼が太宰治に似ている風貌という設定も妙に納得できる。
翻訳点数が少ない韓国の若手作家の小説ということで、興味深かった。以前読んだチョン・セランの
『アンダー、サンダー、テンダー』を思いだしたのは、あれは雑誌社と映画会社だったかだったが、
「コーリング・ユー」は放送業界の設定と韓国の都市小説もわりとマスコミや映画人、写真家、画家の
設定が多いからかもしれない。それと二重構造にしているところかな。

次は円城塔に行ってみようか。彼の小説を読むのは久しぶりだ。そういえば芥川賞を取ってからの小説は
読んでいなかった。少しの間楽しめそうな文学ムックである。

福岡の出版社「書肆侃侃房」から発行。ググれば出てくる。
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渡辺玄英・紺野とも 詩誌「レプリカント畑」(2014年3月31日発行)

2014-04-19 03:07:50 | 雑誌・詩誌・同人誌から
創刊されたおしゃれな詩誌。スマホサイズを意識しているような大きさ、薄さ。持ち歩けるサイズとして文庫本があるのだが、そして、詩誌にもポケットサイズを意識した詩誌が存在するけれど、あっ、この大きさが出たか、という感じ。
詩はスタイルだと思う。文体という意味も含めて。で、詩誌も、スタイルなのであって、そこにあるありさまがすでに選択されたものなのだ。で、例えばその形からいって、中井ひさ子さんや坂多瑩子さんら4人で作っている「4B」、秋亜綺羅さんの「ココア共和国」、逆行するように大判写真入りの田島安江さんたちの「SOMETHING」などは、詩誌のありようが洒落ていると思う。もちろん、詩の充実度もで、その充実度でいえば、その他にも毎号興味深く読んでいる詩誌はある。

と、まず開く前の話はここまでで、詩はスタイルだと思うから続く。
スタイルでありエクリチュールである。だから、様相が話し言葉であっても書かれものとして痕跡を記す。考えれば、ケータイやスマホは実は文字盤に文字表記をした段階でエクリチュールになっている。つまりエクリチュールの過剰をボクたちは生きている。同時にそれはシニフィアンの過剰でもある。ボクらが欠落感を感じたとすれば、それは案外、シニフィエの欠落といってもいいのかもしれない。語彙の貧困などというおきまりの言葉で考えていたら、実は事態は逆なのだ。むしろ溢れる語彙の海に溺れているのかもしれない。それを語彙として認識するかの問題はあるが。語彙というより文字記号、文字的記号の氾濫なのかもしれない。もちろん、文字は記号でしょ、といわれたら、このボクの言い回しは反復になる。

で、詩にいく。渡辺玄英さんの詩「未読の街」は、こう始まる。

 これはずいぶん前に書かれたものだ
 読みづらい文章の中に
 欠落した言葉があって
 欠けた言葉の向こうに
 ぼんやりと夕日が差している
 ひとが影になって歩いている

えっ、と思う。「ひと」がいる風景を書いているときに「ひと」でないひとが、むしろ「影」のように存在している。レプリカントな感覚を引き出しているのだ。それは、すでに、冒頭から始まっていて、「ずいぶん前に書かれた」「読みづらい文章の中に」入っていくから起こっているわけで。そこに入っていくときに、書かれたものを読んでいる「ひと」は、「ひと」の「影」になり、書かれたものの中の「影」に出会う。エクリチュールの中に入ることで、存在しているかもしれない街に出会うということが、とりもなおさず、エクリチュールの外にいる「わたし」を薄くする。しかも、エクリチュールの中の「ひと」や「街」は、「欠落した」言葉が、欠落しているのに「ある」。さらに、「欠けた言葉」の「向こう」にあるのだ。
言葉が世界を作りながら、言葉の欠落に世界があるという、「認識」には、記号の森の気配だけが漂っている。漂っているというのは感覚として正しくないかもしれない。なんだか跋扈しているようでもあるし、覆っているようでもあるし、走り去っているようでもあるのだ。そこをどう感じるかは読者の感覚の経験が試されている。
しかし、とにかく、気配であったとしても、実体として「ある」のだ。この実体とは何か。言葉が作りだす実体なのだ。矛盾しているかな。なぜなら、言葉は本来、実体を指示しないはずだから。言葉は概念を指示する。もちろん、実物を持ってきたときに言葉と呼応することはあるが。であれば、言葉が作りだす実体といういい方は、その矛盾を生きているという実感が背景にあって成立するはずなのだ。言葉の世界は、実体のない世界にもなりうるのであり、実体のない世界を実感するというエクリチュールの矛盾が引き受けられている。ああ、言い回しが難しすぎる。ボク自身が落ちこんでいる、エクリチュールの沼に。
ただ、ここで問題なのは、記号のリアルを生き得るかという問題なのだ。すでに、もう「リアル」という言葉に頼ってしまっている。うーむ、記号と概念であれば、記号は概念を指示し、概念は指示される。しかし、記号と記号であった場合、指示すると指示されるの関係は固定されない。これは、オリジナルとコピーの関係にもなるし、本物(?)とレプリカの問題にもなるし、「ひと」と「レプリカント」の問題にもなる。
そして、その気配を感じとるのは「影」を見ることができるか、「音」を聴くことができるかで、詩の続きは、こうなる。

 ありふれた住宅街にすり鉢状に
 窪んだ公園があって
 だれかが砂利をふむ音が
 耳元にきこえてくる(ほかに音はない
 (まだわたしはあそこに立っている

と、なる。ゆっくりと地軸が傾くように影が移動しながら、置き去りにされていく自我が見える。すでに自我なんて言葉はない。わたしがわたしを認識するには首を傾げるしかないのだ。「窪んだ」欠落。

 それは五年前かもしれないし五年後かもしれない
 これからわたしがどこに向かうのかわからない(が
 わたしがそこで生きるかわりに
 かれはこれを書いたのだかもしれない

パーツに分断すれば、古風な表現が組み合わされて、奇妙な感じと無機的な抒情を醸し出す。「五年前かもしれないし五年後かもしれない」。時間はエクリチュールの中では可逆する。あるいは、曖昧性を獲得できる。この一行があるから次の行の詩句がかつての近代詩的な抒情から切り離される。
そして、書かれたものとして生きると「わたしがそこで生きる」の因果関係が静かに交換される。指示するーされるの変換やエクリチュールと実世界の変換が行われる。さらに、書かれたものは一本の線で消されるのだ。消されたものは疑いか、可能性か。この消すという線もエクリチュールが可能にする記述だ。消されたものの下も残る。ないをあるに、あるをないにする言葉の、書かれた言葉の、姿。
こんな詩句も現れる。

 影ができたから日はかたむく
 地面が濡れたから雨は降る というように
 この文章が不完全に記されたから
 わたしはここで傾いている
 (わたしはかれだ(かもしれない

「結果が原因を生む」という詩句のあとに続く部分だ。因果が逆転する。指示するものとされるものを逆転させる。ボクらはボクらの存在する文脈を静かに崩壊させる。
雨が降るから地面が濡れるのではない。地面が濡れたから雨が降るのだ。ボクらは先に直感する。その直感の現場では因果は逆転している。現象を生きるとはそういうことなのだ。
と、同時に、言葉の世界は通常の論理の因果を危機にさらすことも可能である。書かれたものは、書き言葉を支える論理の組み替えを、それ自体で揺さぶる。だから、同じように続く詩句の、「不完全に記された」から「わたし」は「傾いて」いるは、本来、わたしが傾いているから不完全に記されたのだが、先行的に「記される」世界を生きた場合、ここでも因果は逆になる。指示すると指示されるという関係は、意味すると意味されるという関係は、読むと読まれるという関係は、書くと書かれるという関係は、交換可能になる。だからエクリチュールの外の「わたし」はエクリチュールの中の「かれ」になり、そうなる「かもしれない」のだ。

そういえば、寺山修司の短歌に、読んでいる本の物語の中に入る短歌があった。寺山も「わたし」の行き迷いの中で、レプリカントな「ひと」=「私」を歌の中に導入するのが魅力だった。ただ、寺山の場合、歌の中を生きる虚構の「私」は、「私」の影ではなくやはり、強い「私」であったような気がする。

詩の第一連は終わり、第二連は、こう始まる。二連の始まりまで引いておく。

 ずいぶん前に書いたものだこれは
 書かれているわたしが書いていたかれを思い浮かべて
 (それで影のように(幾重にも(わ
 (わたしが重なって立ち竦む
 例えばあの公園の銀杏の木、という
 文章の下に埋葬されているわたしたちを
 わたしは覚えていて

「書かれているわたし」と「書いていたかれ」というように「わたし」と「かれ」の入れ替わりが起こっている。「わたし」が「かれ」を書記していたのに、「かれ」が「わたし」を書いている。読む「わたし」もいつか、まなざされる「わたし」になっている。
そのあとにクローズアップされた目元のシーンが記述される。

 みひらいた目元が仄かにあかく染まっている

映画的な、あるいはアニメ的な手法も書かれているなと思う。
書かれるものの可能性へと詩は開かれていく。そこに詩は宿る。同時に、それは、書かれるものの不可能性を詩が引き受ける、その詩の痛みを滲みだしていく。それは、同時に記号の森を生きるボクたちの現代の抒情ともいえるものに重なる。記号の森での存在の可能性は、記号化される存在の限りない逸脱の痛みをよぎらせる。
「言葉の欠落」の中で生きるボクたちには、「いくつもの言葉の欠落」はあるのだろうが、ボクを示すものは、「欠落」の中にしかない。

と、書いていくと詩を理屈っぽくしてしまったかもしれないけれど、むしろ、この詩の魅力は、そんな理屈や論理から離れられる書法の面白さである。そして、限りない迷子感覚と、時間よりも空間的な広がりのただ中に置き去りにされたような「わたし」という文字の魅力なのだ。


紺野ともさん「親和水域2014」も面白い。この展開のスリリングさと言葉の持久できる体力は魅力的で、冒頭から

 細切れのお百度に決まった道は必要ないが、どうしても
 同じ道を選びがちなのは性分なのか

 大通りはいつもの凪
  人魚は普段通りのほほえみ
  (心のうちはいつもみせない)
 乳酸菌の坂をのぼらない
  それでも背中には乳酸がいる
  (粒がぶつかりあって溶ける)
 海は荒れていないだろうか
  海の家のボートが乾ききっている
  (表皮がささくれだっている)

 海岸近くのコルシカ島はまだ夜明け前、仕込みの暗い白
 色電球の刃がこちらをにらむ。槍の先を見据えた角地で

とつながっていく。読み進めるときにわくわくした感じが持てる。そして、行替えのない詩句が10行ほどが過ぎたあと、行替え詩に移り変わりながら、

  断崖から落ちるアイたちは
  ユウに援けを求めない

という二行が現れる。さらにそのあと詩句相互が挑み合うようにして詩を成立させていく。愉しい詩に出会えた。得した気分だ。

収録詩2篇。得した気分を味わえた詩誌だった。
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坂多瑩子「庭」(詩誌「ぶらんこのり」15号 2013年12月2日発行)

2013-12-01 12:24:44 | 雑誌・詩誌・同人誌から

やはり、不思議な世界に連れていかれる。何か異形な世界で、時間がどこかいびつにつながっていて、でも受け入れられてしまう。その愉しさ。
詩「庭」は、こう書き始められる。

 夏の過ぎた庭は根っこが
 全部つながってひとつのいきもののようで

えっ、と、もう庭の中。しかも、庭の根っこから入る。ところが、何だか草木のつながりのある場所が現れているのだ。で、次の行に驚く。

 昨日の雨で足がぬれる

確かに根っこで視線は下に来ているが、この詩句が唐突で、この三行のつながりを面白くしているのだ。ちょっと、しつこく繰り返して書くと、

 夏の過ぎた庭は根っこが
 全部つながってひとつのいきもののようで
 昨日の雨で足がぬれる

となる。えっ、えっ、どこに行くのという感じ。そして、

 足の下でなにかかが吸いついてくる

ぬれた足にぺたっと何か吸いつくのだ。ここまで四行。触れた感じが妙に残る。リアルな感じが詩の中の足を庭の根っこに吸いつける。「つながって」と「ぬれる」と「吸いついて」と「くる」が、それこそ「つながって」いるのだ。でも、それが理屈ではなく、行の意外性を持ちながら動詞つながりを見せるのだ。こうなると、足は庭の根っこにくっつく。

 音がして足がひっぱられて足がのびて
 助けてといってもだれも気がついてくれない

で、この詩、庭の「木」の根っことは書かれていない。「庭は根っこが」と書かれているわけで、つまり雑草、草の根っこ。夏の過ぎた庭の生い茂る草なのだ。それがつながって存在している量感。そこにひっぱられていく感覚。今、行をわけて抜いているのだが、ここに不思議がまた仕掛けられていて、

 足の下でなにかが吸いついてくる
 音がして足がひっぱられて足がのびて

と行は運ばれているのだ。だから、「音」が謎になる。「吸いついてくる音」なのか、何らかの「音」がしたのか。面白さからいけば、「吸いついてくる音」と考えた方が面白いのかな。ぺたっと吸いつく感覚が音で聴覚に変わる面白さ。そして、次に「ひっぱられ」で触覚になり、「助けてといっても」で、また音になり、

 ここにかくれてさ
 おとながきたら
 ひっつきむしを投げつけてやろうよ
 さっき約束したタケオくんタケオくんと呼んでもしんとしている

と、セリフ口調が入る。触覚と聴覚のせめぎ合いが異世界への滲出を容易にしている。視覚で追うと、この跳躍は出せないんじゃないかな。あっ、跳躍は出来ても、このひっぱりこまれる感覚はでないと思う。足をひっぱられながら、声や音がすることで、何か引きずられる空間の広さが感じられるのだ。すでに、ここで土の感じが宿っている。地底世界の別の時空なんて書けば、ちょっと表現がチンケだが、そんなものが予感される。
その別の時間の層から。過去の時間から聞こえてくる声が「ここにかくれてさ」からのフレーズなのだ。この声は作者にとっては過去の声である。
ところが、詩の中では、時間が逆転する。「さっき約束したタケオくんタケオくん」だから、「あたし」は子どもになっているのだ。
ひっぱられて、ここで少女の時間になったと考えるか、そもそも最初から、この詩の主人公「あたし」は少女なのだと考えるか。どちらもできそうだ。どっちが面白いのかな。どっちも面白いけれど、現在から過去に「ひっぱられ」る方が時間は複雑になる。こちらの方が坂多さんの世界なのかなと勝手に思ったりもする。一方、最初から少女にすると、話の流れはわかりやすくなるのかな。作者には申し訳ないけれど、どちらで読んでも面白いし、いずれかに決める必要もないように思う。

で、主人公である少女の「あたし」は、かくれて「ひっつきむし」を投げつけようとタケオくんと約束していたのに、「あたし」は、「吸いついて」きて「ひっぱられて」しまって、庭の中(土の中)に入ってしまったのだ。タケオくんとはぐれてしまったのだ。ここから「あたし」の一体化が始まる。大仰にいえば、分節された社会からの帰還、復帰が図られるのだ。

 バラの木にねこじゃらしがまつわりつき
 シジミチョウがぶつかりそうになって飛びつづけ
 吸いつくような音がぐるぐる大きくなって笑い声になって
 庭いっぱい笑っている

これは外から庭を見ているわけではない。庭になって見ているのだ。笑い声になった「吸いつくような音」に取りまかれているのだ。
ここで「吸いつくような音」と書かれているから、やはり、先程の「吸いついてくる」と次の行の「音」はそれこそ「吸いついて」いたんだ。ただ、まだ、「吸いついてくる」音として認識していなかった状態を示す行わけとも考えられる。
タケオくんとはぐれた淋しさなんてない。「あたし」が庭になってしまう快感なのかな。怖さもあるのだけれど。

 雑草と呼ばれたものたちも
 がさりがさりと寄ってきて
 あたしのほうに
 にわかに寄ってきて陽気に寄ってくる
 もう庭ぜんたいが土のなかだ
 夏の過ぎた庭に昨日の雨がふっている
              (「庭」全篇)

ほら、時間までひっついちゃった。いい着地だと思う。寄ってくる雑草。「あたし」にまとわりつきながら、「あたし」は庭になる。「寄ってきて」、「寄ってきて」、「寄ってくる」という動詞の繰り返し。すごいなと思った。詩の中で多く使われる促音便も含めての「っ」が調子と速度をもっていて面白い。促音便が多いのは時制に進行表現が多いからで、こんなところにも作者の時間感覚が出ていると思う。ちなみに過去形は「さっき約束した」の一か所だけかもしれない。タケオくんだけが過去に成っている。この時制の使い方によって、時間の転換と現在・過去の混合が果たされているのかもしれない。

どうも、書いちゃうと理屈ぽくなっちゃって、いけない。そんな理屈抜きで、とにかく連れだされた世界が愉しいのだ。詩が描きだす物語がここにはある。

9月25日に発行された、詩集『ジャム、煮えよ』。坂多さんワールド、全開している。
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藤維夫「粗末な夕暮れ」(詩誌「SEED」33号 2013年10月31日発行)

2013-11-28 11:58:54 | 雑誌・詩誌・同人誌から
詩の言葉は、あっ、詩だけに限るのだろうか、まあ、一応、詩の言葉はということで、詩の言葉は、わかり得ることを書きながら、わかり得ないこととの境界を刻んで、わかり得ないことに至ろうとする軌跡を示すものではないのだろうか。その状態は倍数に似ているのかもしれない。公倍数を探しだしながら、倍数の無限の前に立ちつくす感じ、かな。公倍数は、常にそれぞれの数の勝手な倍数の可能性も孕んでいて、その暴走がスリルであったりする。何故って、公倍数は了解可能事項をなぞるだけの場合があるからだ。そうなると、倍数の飛躍がないとつまらない。詩が膨張し続けるのも仕方がないように思う。
で、一方で、言葉遊びのようだが、逆もあり得る。
わかり得ないことを言葉化しようとしながら、わかり得るところを顕わにしてしまう場合だ。なんだか公約数に似ているのかもしれない。削がれながら詩は凝縮する。しかし、この場合もそれぞれの約数の可能性がはみ出していないと、単に、わかり、納得する了解事項の公約数を示してみせるだけになるのかもしれない。共感とか同意とか、そこには常識という危険な地平が横たわっているのかもしれない。では、どこで共感し納得し、合点するのか。それは、もう共感し納得し、合点してみないとわからない。つまり、わからなさの快感が、わかりきったことの慰撫を超えることができるかだ。
そして、この境界の往還は、断念するしかないものと断念し得ないものとの間の振幅でもあるように思う。人間の知性はわかりたがりながら、わかることに退屈し続ける。つまりは百代の過客なのだ。と、わかりきったように書いて、実はこの見識が退屈なものになってしまうのだ。

と、こんな能書きとはお構いなしに、ただ断念と断念できないものとの狭間に峻烈な言葉を刻む詩があった。
藤維夫さんの個人詩誌「SEED」33号。あとがきの詩までいれると6篇の詩が掲載されている。すべての詩から部分引用したくなるのだが、冒頭の詩「粗末な夕暮れ」。あるとないの狭間を往還する感覚を感じた。
第一連でくっきりと境界が刻まれる。だが、この境界は、存在するわれわれにとっては、くっきりと峻別されているわけではない。ただ、時間は不可逆的にそこにある。それは「ありようのなさ」を描きだして、取り戻せない。だから現実として、くっきり、なのだ。

 いつまでも帰れない岸辺の水面
 わたしとあんたの面影を探す
 朽ちて行ったままのそれだけが日に照らされている
 広い世界の無名のなか
 ありようのなさの乾いた有無があるのみだ

「ありようのなさの乾いた有無」という詩句に引かれる。わかり得るものとわかり得ないものの拮抗線を感じる。で、第二連。

 ただ幻想のようにまっすぐひろがるだけの
 強引な始末
 新たな等高線をたどるにしろ
 あいまいに見入ってしまう劇の結末はなかった
 秋の台風に先だって強風が吹き
 帰る家とてなくの幻視の朝がやってくる
 ああ断層の巷というほどのこともなく
 なければないで粗末なままの夕暮れであろう
             (「粗末な夕暮れ」全篇)

「幻想」は「まっすぐ」に延びるのではなく、「ひろがるだけ」で、さらに「強引な始末」と繋がる。「まっすぐ」という言葉と「ひろがる」という言葉が出会う違和感がいい。
「強引な始末」も直線的な延びる時間ではないのだろうか。だが、藤さんは、それを「まっすぐひろがる」とイメージする。
で、面白いのは横に広がっているのかと思えば、その逆さ遠近法ではなくて、「新たな等高線」という言葉で、縦への空間的なひろがりを連想させるところだ。理屈っぽく、屁理屈っぽく、藤さんの言葉を追いかけているわけではない。言葉の位相転移は、面白さの一つだと思うから、ここは大切なことなのだ。「等高線」という言葉が生み出す曲線のイメージもここにはある。だから、作者は「等高線」のあとに「たどる」という言葉を書く。
で、曲線化は曖昧性と、案外、仲がいい。だから言葉は「あいまいに」という次の言葉を導きだしながら「劇の結末」へと至る。
もうひとつ、まなざしの移動もここにはある。つまり、「等高線」は地図を上から見ている感覚なのだ。「等高線」は地図を見下ろすことで存在する。「まっすぐなひろがり」を見ているまなざしは、ここで上からの視線に変わっているのだ。そして、すぐに「あいまいに見入ってしまう」と、もとの視線に戻る。
また、読んでいていいなと思うのは、ここで「始末」と「結末」がすり替わるところだ。「始末」はあるけれど「結末」は「なかった」と書く。清水邦夫という脚本家の名作戯曲『あらかじめ失われた恋人たち』の「あらかじめ失われた」という言葉を思いだす。つけられる始末があったとしても、結末はない。その中で吹き来る「強風」がボクらを連れ去ってしまったのだ。ただ、連れ去られたのはボクらか、「家」か。ボクらに帰還する「家」はない。そこに断念が宿る。ボクらには「の」朝しか来ない。さらに、「幻視」する朝しか来ない。ここで、「しか」と書いてしまうのは、ボクであって作者ではない。作者は、「しか」ではなく、「やってくるもの」として捉えている。「しか」を書くのは、あくまで読者であるボクの感慨で「しか」ない。ここにある断念は、「故郷」を「故郷」的な風景を失った者の断念である。大仰にいえば、「現代詩」が、時の流れの中で失った「故郷」への、そんなものはいつか失われたものであるし、あるいは「あらかじめ失われた」ものであったのだというような断念である。ところが藤は、それを指弾したり糾弾したり、慨嘆したりはしない。「しか」と書かない藤は、最終2行で受け入れる。

 ああ断層の巷というほどのこともなく
 なければないで粗末なままの夕暮れであろう

なければないで、見えるのだ。「粗末なままの夕暮れ」が。これだって、ボクらの風景だ。故郷なのだ。

他5篇にも立ち止まり、思考させる言葉が並ぶ。例えば、「さりげなく」の最終蓮。

 波は荒立ってきていて黒い沈黙がつづいている
 この世にわかりやすいものはなにも存在しない
 声を呑み込むほどの鬱がぐるぐる旋回している

「忘れられても」の第三連、書き出し。

 すぐ記憶になるわずかな遠さ
 風景は溶け出して恐怖の物量がはしってくる

「あとがき」の詩。第一連の、

 精神の示唆があっかたどうか
 たぶん知の揺籃
 無知の顰蹙を買っている

同じく、「あとがき」の第二連。

 まだはまだです すこしだけおくれているだけ
 やがて朝もゆっくりくる筈で
 透明な浅い夢が目覚めているだろう

このフレーズ、思わず口ずさみたくなる。
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