パオと高床

あこがれの移動と定住

森鴎外「団子坂」(『鴎外全集5巻』岩波書店)

2011-12-22 13:03:37 | 国内・小説
また、鴎外の短い作品。

「対話」と書かれた作品で、女学生と男学生の対話で成り立っている掌編。
団子坂はD坂とどっちの方が有名だろうか。
この作品を知ったのは、司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズの『本郷界隈』で、だ。『本郷界隈』はこのシリーズの中でも、たいへん好きな一冊で、特に鴎外や漱石、一葉たちが、本郷の一画で交差するように暮らしていた息づかいが聞こえるような気がするくだりが好きなのだ。そこに、漱石を意識した鴎外の作品として、この「団子坂」が登場する。
書き出し、人目を忍ぶような学生の会話が、ちょっと艶っぽい。

 女学生。(手にviolinを持ちゐる。)それでは送って来て下さるの。ご迷惑でせう。
 男学生。僕は迷惑だと思えば強ひて為やしません。それでも自分の為る丈の事は責任を以て為る積です。
 女。それはわたくしだつて、良心に問うて見て悪いと思ふような事はしませんわ。でも、又あなたの処へ寄つたのは秘密よ。
 男。その秘密ですがねえ。僕は疾うからあなたに言はう言はうと思つてゐましたが、あなたはこんな事をいつまでも継続しようと思つてゐるのですか。
 女。まあそれぢやあ矢つ張御迷惑なのね。(間。)さうならさうで好くつてよ。

引用しながら引き込まれてしまう。すでに、これで状況がなんだか想像できる。バイオリンを持っている事で、生活のグレードが感じられる。場所柄、すでにあったかどうかは知らないが、音大生のような感じがするし、男は帝大生のように思われる。で、この「秘密」が効いている。二人の心の駆け引きもすでに記述されている。また、書き言葉から会話体へ移動する表現の歴史の一端が感じられるようにも思う。
そして、団子坂。司馬遼太郎が引用した、漱石にかかわるくだりが現れる。

 男。ええ。その通です。僕の意志は弱いといふことを、僕は発見したのです。
 女。まあ。あなたなんぞがそんなことを。(間。)おや。もう橋の処に来ましたのね。
 男。三四郎が何とかいふ綺麗なお嬢さんと此処から曲つたのです。
 女。ええ。Stray sheep!
  男。Sheepなら好いが、僕なんぞはどうかすると、wolfになりさうです。
 女。(笑ふ。)あなたのやうなwolfなんか剛(こわ)かありませんわ。
 男。あなたはさう思つてゐますか。剛いと思ふものに対しては警戒するから大丈夫です。剛くないと思つてゐるものが危険なのです。
 女。あなたは悪い方ね。そんな事を言つて人を嚇(おど)かさうと思つて。

どちらもが、ああ言えばこう言いながらこの時間を楽しんでいる。そして、男と女の力関係の駆け引きも見える。羊から狼へ。うまいなあ。このあと、
男と女の感じ方に触れるような発言があり、

 男。あなたの考は飽くまで女性的ですね。それだから僕の云ふことなんか分からないのです。
 女。さうでせうか。でも、わたくしの方では、楽しく思つてゐられるのに、あなたばかり不可能になるといふのが不思議なのですもの。
 男。それが女性的だといふのです。なんでも物を情緒の薄明で見てゐるのですから。
 女。それはさうですとも。あなたのやうに、なんでも掴まへて、残酷に分析してしまひたくはないわ。

女性的どうこうは、今どきどうかなとも思うが、会話の流れが楽しい。「情緒の薄明(うすあかり)」なんていい表現だなと思う。そして、ふたりの歩きながらわずかの時間は終わる。逢わないと言ってみたり、引っ越しの話をだしたりしながら、結局、別れ際、男は「それではあした待つてゐます。」と言い、

 女。あしたはわたくしも決心して参りますわ。(小走に狭き生垣と生垣との間に曲る。終。)

と、女は言って、生垣の間の家へと帰っていく。
団子坂からの坂道の空気を漂わせながら、秘密のデートの別れまでのワンシーンが展開される。この場面の前後の膨大な時間へと読者の想像力を喚起しながら。
掌編は、小説の一場面を確かに表現している。

注 引用箇所で一部漢字を現代の漢字に変えている。
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藤維夫「波紋」(詩誌「SEED」27)

2011-12-03 12:09:51 | 雑誌・詩誌・同人誌から
バッハが悪いわけではなく、またパールマンが悪いわけではない。ただ、こちらの気分だ。パールマンの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ」が何だか騒々しく聞こえてしまう。あっ、美しい音色だなと思うのだけれど、どうにも心がざわついてしまう。そんな時だってあるのだ。というときに、藤さんの個人詩誌「SEED」を開いた。詩が5篇にあとがきの詩。巻頭の詩「少しだけ秋」の冒頭2行がすいと入ってきた。心が静かに落ち着いた。

 少しだけ秋が近寄り
 いのちの息づかいにひとつの朽ち葉が舞っている
               (「少しだけ秋」冒頭)

朽ち葉が目に見えるだけではなく、何か音が振ってくるような感じがした。それは、「いのちの息づかい」が見えるものではなく、気配を感じるものだからで、その気配に朽ち葉が舞うから、何か音が重なってくるようなのだ。
次の詩「林のなかで」の冒頭にも心がついて行ってしまう。

 したたかな林がつらなり
 ひとは孤立して歩いている
 風は落ち ありうることとありえないことのはざまに拒まれる
 葉の波長のような宇宙が浮いていないか
 あと戻りする尾灯はもう見えない
              (「林のなかで」第一連)

したたかに連なる生の連続の中で、「ひと」は「ありうることとありえないことのはざま」に拒まれて「孤立」する。予想と予想不能のはざまで、未来の時間の中で、引き裂かれる「ひと」は、現在の中にいて、もしかしたら静かに過去からも拒まれていくのかもしれない。「孤立して」歩く現在。光に反応する色彩の波長が織りなす「宇宙」は「浮いていない」のだろうか。それはやはり「葉の波長」が発する「今」を映すものであり、帰路は見えないのだろうか。そう、「後戻りする尾灯はもう見えない」のだ。
ここでも、「葉の波長」が視覚的なものから聴覚的なものに移り変わっていくような感じがした。宇宙が、音が浮かぶようにあるのだという印象を持ったのだ。もちろん宇宙は沈黙の空間なのかもしれないが。この「波長」、あるいは宇宙は存在の「波長」が織りなす空間なのかもしれない。
だが、その「今」も過去へと流れていく。しかし、流れるといういい方は実は正しくないのだ。そんな線的なものではなく、また、寝そべった平面的なものでもないのだ。過去は立体的に、遠近法のようにも、逆さ遠近法のようにも存在していて、また渦状にも、波のようにも存在している。それは忘却の渦のなかにもあって、「わたし」は「わたし」を、生きられなかった半身と生きたではずの半身の、いずれもから忘却していく。
「波紋」という詩が掲載されている。

 湖を見ていて
 見えずにいるままにおかれるもの
 こころをねだって息を乱す
 樹がなみだしている
 何年もさかのぼればすでに過ぎさってるものもある

 わたしでないもの
 すべてが狂ってしまっていて
 水の深みに届かず
 どこへ行くのか
 時折透明な小雨のなか
 影が立っている

 乾いた人の目がこわくて
 過去として流れていく波紋
 そのまま攫われる快感の驚きで
 いつ立ち去ったかわからない
             (「波紋」全篇)

わたしが見てしまうものはわたしの影であり、それはわたしが見なかったものたちの、わたしには見えなかったものたちの集積である。そして、また、わたしから脱落していくものの後ろ姿の気配かもしれない。
では、そこで時間は静止するのか。いや、時は常に来る。藤さんはそれを詩に書き込んでいる。

 何がありつづけるかはわからない
 生き続ける野のひろがりがある
            (「ひとのいた場所」最終二行)
 映っている動きそのままに
 わたしでありわたしでない
 敏感な悲哀の空へ昇っていく
            (「あとがき」最終二行)
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