パオと高床

あこがれの移動と定住

ファン・ジョンウン『誰でもない』斎藤真理子訳(晶文社)

 | 海外・小説

ボクらの今に漂っている不安が小説から滲みでてくる。
だが、それは湿気を帯びたものではない。最近の韓国の小説でよく感じられるように、過剰な重さは取り払われているのだが、
それがむしろ現在のボクらの存在の重量と呼応するようで不安と危機を醸し出す。
クンデラの『存在の耐えられない軽さ』ではないのだが。そう、あの小説の時代よりもさらに実存は軽くなっているのかも知れない。
かけがえのなさと無名性が背中合わせであるような。かけがえがないと語りながら一方では、それを語らずにはいられないほどの
交換可能性のなかに存在が置き離されている。その現在を小説は捉え、魅力的な小説世界を描きだしている。

「誰でもない」というフレーズが韓国語では「何でもない」とよく間違われると作者は日本の読者へのあとがきで書いている。
それは同時に「何でもない人」として扱われる瞬間の連続であると彼女は言い、この短編集の扉にも「人はしばしば〈誰でもない〉を
〈何でもない〉と読み違える」と書かれている。ここから、小説は、私のようなあなた、あなたのような私を描きだしていく。
だが、その「ような」の中に、どんなに近似的であっても代えられるものではないという願いがあるのかも知れない。だからこそ、
小説は同時代の空気の中にいるボクらの気分の、ボクらの状況の普遍性を獲得している。

マンションの近隣の騒音に悩まされ、弱い立場にある者が、現実の中でこころの バランスを崩しながら、いつのまにか騒音の主体に
なっていく姿を密度のある描写とチェーホフ的な「喜劇」性で描く「誰が」。

韓国の97年の通貨危機を、ヨーロッパを旅行している夫婦の危機と絡めて描き、危機の瞬間のラストへと見事に持っていく
「誰も行ったことがない」。

「唐辛子畑に唐辛子を摘みに行こうと言われ、行くと答えた」と書き始められる冒頭の小説「上京」。
この小説は、田舎に唐辛子摘みに行く私とオジェとオジェの母と、田舎の老婦人たちの関わりを、人手のない農村と都会のよるべなさとを
絡めて描いている。エピソードもふくめ独特のテイストがある小説だ。

ファン・ジョンウン。1976年ソウル生まれの作家で、「現在、最も期待される作家」と紹介されているが、
作者の名前を覚えておこうと思わせる小説だった。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

カルロス・バルマセーダ『ブエノスアイレス食堂』柳原孝敦訳(白水社)

 | 海外・小説

怖ろしい小説だった。
いきなり、冒頭1章でやられる。書き出しだから書けば、
「セサル・ロンブローソが人間の肉をはじめて口にしたのは、生後七ヶ月のころのことだった」と始まる。
この1章で読みやめるかどうか。読みすすめていけば、読書の快楽が待っている。
そして、悪夢はその後数章のあいだは訪れず、小説終盤三分の一ぐらいからやってくる。ノワールはノワールぶりを発揮する。
といっても、この小説、「ブエノスアイレス食堂」の開店からの変遷をアルゼンチンの歴史と絡めて描いていく小説なのだ。
移民の双子の兄弟が1911年に開店した食堂は第一次世界大戦やアルゼンチンの軍事政権の中で栄枯盛衰を繰り返す。その中で
それぞれの料理人が食堂を引き継いでいく。そして、最後にセサルが現れるのだ。
この食堂には双子の兄弟が執筆した『南海の料理指南書』が受け継がれている。その料理の記述のおいしそうなこと。
これはどんな味なのだろうと、ワクワクさせる。だが、この食堂の料理人たちは運命に翻弄されていく。
そして、極めつけの恐ろしさへと突きすすんでいくことになるのだ。

面白いのは、小説が時系列に沿って描かれていない点で、各章ごとに時間が入り乱れている。
様々な食堂の歴史と食堂に関わった人々のいきさつが、幾層にも重なって、厚みや神話性のようなものを感じさせる。
各章は長くても10ページほど短ければ2ページほどで出来上がっている。描写は淡々として客観性があり、それが読む快さと
読みすすめる速度を促し、また、何ともいえない不安感のようなものを醸し出している。訳もいいのだろうな、きっと。

宮沢賢治の「注文の多い料理店」が、スケールの大きな時間軸を持ち、南米的な運命の因果関係でつながれていけば、
こういった小説になるのかも知れない。それに、人間の複雑な深層心理と食すために在りつづける飢えの根源への思考が入りこみ、
殺意の暗がりを抱え込めば、こうなるのかな。こうなってしまえば、もちろん、全く別ものなのだが。

知人から、ちょっといわくありげに、躊躇いがちにすすめられて、読んだ小説。小説を読む醍醐味を味わった。
ただ、個性を持った小説だからこその、読者を選ぶ小説なのかも知れない。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

キム・ヨンハ『殺人者の記憶法』吉川凪訳(クオン)

 | 海外・小説

連続殺人犯の独白体という形態の小説である。断章のように短い独白が続いていく。
最も長い章で2ページほど、短い場合は一行である。
キム・ヨンハは小説の実験も行っていく作家で、『阿娘(アラン)はなぜ』というアラン伝説を基にした小説では
メタノヴェルのようなことをやっている。

で、この小説の最大の困難は、連続殺人犯と自らを語る主人公である「俺」の一人称小説でありながら、その「俺」
はアルツハイマーであり、認知症が進んでいき、記憶が失われていくという設定であるところだ。つまり、一人称の
語りの主人公が記憶を喪失していくのだ。それで小説は維持できるのか。その綱渡りをやっている。「俺」は今を記
憶するために日記をつけ、ボイスレコーダーを使う。だが、「俺」は、いつかその日記自体が何なのかを忘れ、また、
日記の存在自体も忘れるだろうという怖ろしい状況を記述する。
その状況で、語られている事実が本当に事実なのかが曖昧になっていく。
どうやら彼は連続殺人犯ではあるらしい。時間が離れた遠い過去の方が記憶されている。新しい記憶ほど崩れていく。
だから、「俺」が自らの父を殺したというのは事実なのかもしれない。そして、「俺」には養女のウニがいる。そのウニの
彼であるパク・ジュテを「俺」は一目見るなり殺人者である自分と同類であると思う。ウニを守らなければならない。
そのためにはジュテを殺さなければならない。「俺」はそう考えるのだが、この関係は事実であるのかわからない。
ジュテが示す現実と「俺」の語る現実が噛み合わないのだ。ウニが養女だということも曖昧になる。
失われていく記憶の中で自分を自分として構築することは可能なのか。そして、そこにある切れ切れの主観的な事実は、
はたして事実なのか。現実は大きく揺らぐ。小説は結論を与えない。どこに事実があるのかは明らかにはされない。

僕らを支える記憶とは過去を作るだけではなく、未来をも形づくるのだと感じられる。
そして、その未来への思いが過去に意義を見いだす。

  未来というものがなければ、過去もその意味がないように思えてくる。

般若心経やモンテーニュ、未堂の詩、ニーチェ、オデュッセウス、オイディプスなどもちりばめながら、思索もさらりと
描きだす。
また、パク政権下で「俺」の殺人が捜査もされずに終わったといった民主化以前の時代の空気にも触れている。
放り出された謎は謎のままだ。むしろ記憶を追うことは迷路を描きだすことではないか、事実とは誰にとっての事実なのか
といったことを不安のままに手渡して、「俺」の記憶は今しかなくなっていく。
一気読みできる面白い小説だった。怖いけどね。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

林和清『去年マリエンバートで』(書肆侃侃房 2017年10月15日)一首一献(4)

 | 詩・戯曲その他

冒頭「紫だちたる」の章の、そのまた冒頭の一首。

あけぼののやうやうしろき山際を見つつリビングに朝の茶を喫む

誰もが知る『枕草子』の一節が上の句を作る。読んだときに、ふと荒川洋治の詩「見附のみどりに」を思いだした。
それほど似ているわけではないし、江戸の荒川の詩に対してこちらは平安。まあ、その時代の違いはそれほどではないのだけれど、
時間の層の作り方が、時間の中に漂う歴史の時間の空気の入り方が、連想させたのかも知れない。
この歌集の歌は、もちろん現代短歌なのだが、歌の背後に古典の風景が、風情があるように思う。
それが、歌が描きだす現在に深みと根を与えている。だから、軽みも軽さに霧散しない。

短歌の幅の中では、確かにもう文語はいらないという文語不要論もあるのだろう。だが、一方で短歌の現在と格闘しながら、
むしろ文語を使いこなし、千数百年の短歌の伝統を背後に宿しながら、果敢に表現の沃野を耕そうとしている歌もある。
それこそ、荒川の有名な詩句を借りれば、「口語の時代」の寒さを越えていこうとしているのかもしれない。古典返りすることではない方法で。
この歌は、そんな現代短歌の一首だと思う。もちろん歌集も。
そして、そんな作歌自体が、記憶を訪ねることにつながるのかもしれない。

今なら、カズオイシグロがらみで、この歌集名から入ってみる。
歌集名『去年マリエンバートで』で、アラン・レネを思いつくか、ロブ・グリエを思いつくか。もちろん両方だというのもわかるけれど、
ボクはロブ・グリエだった。で、著者あとがきは、この映画にさらりと触れて、「男Xは、去年ドイツのマリエンバートで確かに会ったというが、
女Aは記憶していないという。二人は会ったのか、会っていないのか。あいまいな記憶がつくられてゆく。私自身、この映画をくりかえし観たよう
な気がするし、まだ一度も観ていないような気もする。」と書かれている。
カズオイシグロはノーベル賞受賞に関する取材に対して「記憶」と「忘却」について語っていた。忘れたいから忘れる記憶、すりかえられる記憶、
忘却と記憶の選択、記憶に立ち向かう覚悟などが記事には書かれていた。記憶といえば、かつてノーベル賞を受賞したフランスのモディアノも忘却
された記憶=過去をめぐる旅だった。
もちろん向かうベクトルやそのベクトルが纏う想像力と創造力によって創りだされた世界は違うのだが、ボクらは浮遊の歳月を経て、着地できないまでも、
拠り所の気配と幻想を、そして確たる拠り所への願望を形象化しようとしているのではないだろうか。
記憶するしないに関わらず、時(とき)のひだは重層的に織りなされる。それが何ものかわからないまでも、あるいは忘却しつくしてしまったとしても、
ことがらのない世界でも時は折り重なっているのかも知れない。
で、林和清の歌には、そんな時のひだがある。それを『枕草子』の一節を引くようにして形象化した歌が冒頭の一首なのだ。

もうひとつ、面白いのは、というかボクの記憶の奥にいつの間にか埋もれてしまっていた言葉を呼び覚ましたのが、武田悠一の『読むことの可能性』という本だ。
副題は「文学理論への招待」。文学理論を紹介している一冊。これについては、また今度。

もう二首引きたい。

千本の卒塔婆が風に鳴る道を行きぬ北へとながい傾斜を

聞こえてくる囁きがある。時間を超えて。
もう一首は近江の塚本邦雄をめぐる歌の一首。

複雑に空がうごいて近江といふ水に鎖(さ)された秋の日を成す

この歌、司馬遼太郎の『街道をゆく』の第1回「湖西のみち」冒頭を思いだす。

  「近江(おうみ)」
  というこのあわあわとした国名をくちずさむだけでもう、私には詩がはじ
 まっているほど、この国が好きである

歌は水と空とが互いを映じあっているようで、そこに秋がすべてを含むように存在している。「あわあわ」というのとは違うのかも知れないが
「近江」という音が鎖された水のなかでかそけくうごいている。その複雑な照りが秋の日なのだ。

めくりながら、次の一首に出会うのが楽しい歌集だった。読者の「期待の地平」が心地よく裏切られていく。つまり、新たな地平が顕れだすようなのだ。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

J・L・ボルヘス『語るボルヘス』木村榮一訳(岩波文庫)

 | 海外・エッセイ・評論

1978年にブエノスアイレスの大学で行われた、ボルヘスの5回にわたる連続講演の記録である。
テーマは「書物」、「不死性」、「エマヌエル・スヴェーデンボリ」「探偵小説」、「時間」の5つ。
この文庫の序言で、ボルヘスは「読書がそうであるように、講義もやはり共同作業であり、そこでは受講する者と講義を行う者は対等の重みをもっています」
と書いているが、最初のテーマ「書物」では、書物が読者と作者の共同作業の場だということが納得できる。
口頭から記述された書物への価値の推移と、書物をひもとく者が見いだす書物の価値について語られる。文庫で20ページほどにボルヘスの知が凝縮されている。
この人の頭は、そうアレクサンドリアの図書館だ。

  書物は人間が創り出したさまざまな道具類の中でもっとも驚嘆すべきもの
 です。

と、ボルヘスは語り始める。そして、

  書物は想像力でもあります。われわれの過去は一続きの夢でしかなく、夢を
 思いだすことは過去を思いだすことであり、それこそが書物の果たす役割な
 のです。

と、しながら、しかし、古代の人々は口頭の言葉を重んじ、書物を崇拝していなかったと過去の価値を語ります。
プラトンの言葉として、口から出た言葉は「羽のある、神聖なもの」だとされたと紹介し、次にピタゴラスを取り上げる。ピタゴラスは、のちに聖書に記載される
「文字は人を殺し、霊は人を生かす」という言葉を予見していたからこそ、「書かれた言葉に縛られたくない」と思ったにちがいないとボルヘスは洞察する。この
聖書の言葉は中島敦の小説「文字禍」のモチーフだ。
そして、ソクラテスやプラトンらは口頭の言葉に乗って、永遠を生きようとし、書物は問いかけても返事はこないからプラトンは「対話」を生みだしたとボルヘスは語る。

脇道になるけれど、個体発生は系統発生を繰り返すではないが、知の草創期は、個人が若い時期にそうであるように、書く言葉よりも話す言葉の中でお互いを伝え合い、
その反応がお互いを変え、そこでお互いを認識し記憶していったのだろう。それが時間のスパンと歴史の長さ=記憶の連続=記憶の総量の増大によって文字化を進めて
いくのかも知れない。
もちろん、ここには権力が空間支配から永遠不死への欲望による時間支配に移っていく過程もあるのかも知れない。今、現在を支配するものは未来をも支配しようと
欲するだろうし、未来を支配することは過去の歴史を支配することにもつながるのだから。だからこそ、権力は歴史記述を進めていく。

あっ、ボルヘスに戻る。
さらに、一度だけ文字をいくつか書いたイエスの文字は砂に掻き消されたということや、仏陀が口頭で教えを広めたことなどを示しながら、ついに「神聖な書物」という
「新しい概念」が東方からもたらされたと価値の変化を語る。その2つの例が「コーラン」と『モーセ五書』。これらは聖霊の手になるとされたとボルヘスは言う。
そして、その書物を聖なるものとする崇拝の薄れと共に、それに代わる様々な信仰が生まれてきたとして、書物によって国を象徴させるという例を紹介する。
いよいよ、近代まできた。そして、現代へ。
そこでは、ボルヘスは書物論、読書論、作品論を手際よく織り交ぜていく。例えば、モンテーニュに即して、

  文学もまた喜びをもたらすひとつの形式だと言ってもいいでしょう。読者
 が難解と思うような作品を書いたとすれば、それは作者が失敗したというこ
 とです。ですから、読むのに大変な努力を要する作品を書いたジョイスのよう
 な作家は、本質的に失敗していると考えられます。
 書物は人に努力を求めるべきではない。幸せは人に努力を求めてはならない。

こう語る。もちろんここで終わるわけではなく、モンテーニュは「熱情をこめて書物について語りつつも」それを「怠惰な喜びでしかない」と結んでいるとして、
エマソンの逆の考えも示す。

  図書館とは魔法の書斎であり、そこには人類のもっともすぐれた精神が魔
 法にかけられて閉じ込められている。彼らは沈黙の世界から飛び出そうと、わ
 れわれが呪文を唱えるのを今か今かと待っている。

そうしながら、ボルヘスは自身の考えを告げていく。

  私に言わせれば、ひとりの作家を理解する上でもっとも大切なことはその
 人の抑揚であり、一冊の書物でもっとも重要なのは作者の声、われわれに届く
 作者の声なのです。

と。
 書物への思いを語るボルヘスの講義はこのような言葉で、その第1回目を終えようとする。

  古い書物を読むということは、それが書かれた日から現在までに経過した
 すべての時間を読むようなものです。それゆえ、書物に対する信仰心を失って
 はなりません。(略)楽しみを見出したい、叡智に出会いたい、そう思って書
 物をひもといてください。

この講義、叡智の一端に触れたような気がした。第1回の分、数ページでこれなのだ。

それにしてもボルヘスやカルヴィーノなどの講義録は面白い。小林秀雄や吉本隆明もそうだけれど、学生を相手に講演するときの真摯な態度や親身な姿勢はいいな。
知をどう伝えるか、知を伝えるという行為の様々な姿に出会える。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

詩集『渡邉坂』中井ひさ子(土曜美術社出版 2017年9月9日発行) 一首一献外伝3

 | 詩・戯曲その他

○○ワールドという言い方があって、その人が描きだした世界が異世界である場合や、その人独自の世界観が示されたときによく使われる。
中井さんの詩も、帯書きにもあるように中井ワールドと呼ばれるものだろう。読み始めるとすぐに、どこか別の場所に連れていかれる。
そして、あるものとないものがふいと入れ替わり、あるはずがないものが、ないはずがないじゃないかになって、どこかにぽいと置いてけぼりに
される。でも、それは突き放されるわけではなく、その感じが懐かしく、だが、どこかさびしく、そして、少しこわいような残酷さもあるのだ。
中井ワールドでは、つながっていないものはない。でも、それぞれが抱えている名状しがたい孤独な感じは、つながりのなかにだって漂っている。
だから、区別はないのだけれど、その往き来の先には、もう戻れないような、もうたどり着けないような場所があり、そこへとことばは延びていく。
そのことばは、不思議を不思議と感じさせない、親和力があって、ボクらをつまずかせずに、とぼとぼと歩かせてくれる。あれっと気づいたときには、
そう中井ワールドにいるのだ。

詩集巻頭の詩「しっぽ」

 歩道に
 毛並みのいい尻尾が
 一つおちている
 人はそっとよけて通る

 犬のか
 振りすぎたか

 おとしたこと
 知らずに
 どこを走っている

 太すぎるな
 キツネか

 キツネも
 うれしいと
 尻尾を振るのか

 尻尾を振っているときの
 さびしさってあるよな

 さびしさに気づいたら
 もっと
 さびしくなって
 尻尾になってしまったか

 尻尾はわたしか
       (「しっぽ」全篇)

そう、何かさびしかったりすると、「尻尾になったか」とか口ずさみそうだ。
他にも「枇杷の木」。これは少しというか、かなりこわい。導入部分だけ引く。

 庭の隅に
 日暮れの明かりのように
 枇杷の実が
 たわわになっていた

 とじこめている甘さが
 地に落ちると
 夕日が小さくなっていく
 
 弟は
 呼ばれたように
 木によじのぼっていった
 残った影が闇に消された

 あれから
 二日三日たっても
 帰ってこない
       (「枇杷の木」冒頭から第三連まで)

で、このあと展開はこわい方向にいくのだが、それが何だか懐かしいのだ。これは、それこそ坂口安吾の「文学のふるさと」の世界。
誘われるように通路をすすめば、いたみも含めた情感の中に入りこみ、それがとてもここちよい。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

山本哲也「桃」(『山本哲也詩集』思潮社2006年2月15日発行) 一首一献 外伝2

 | 詩・戯曲その他

「桃」つながりで。
惜しみながらも「白桃(しろもも)」を食べた斎藤茂吉。彼の歌は、塚本邦雄の『茂吉秀歌百首』にあるように、
「味覚と視覚が至妙に交錯」し、「一種の法悦に近い満足感を伝」え、「ふくよかなヴォリュームと、甘美な味を」
想像させるものかもしれない。さらにまた、中学校の教科書に掲載されている馬場あき子の鑑賞文にあるように、
食べてしまうことでの哀惜感が漂っている歌ともいえるだろう。
そして、岡部隆介の詩「白桃」では、その甘美な味を想像させながらも、皮にナイフをあてるところで詩は終わっ
ていた。そこには桃を食べることへの期待と同時に来し方へのかすかな悔いの痛みがよぎっていた。
山本哲也の詩になると、そもそも桃は「白桃」ではない。その甘さとみずみずしさがある桃ではなく、単に「桃」である。
詩「桃」は1985年発刊の詩集『静かな家』に収録されている。
ちなみに山本哲也は1936年福岡市生まれ。49歳の時の詩集である。彼は2008年に死去している。
「桃」はこう書き始められる。第一連。

 男がビールを飲んでいる
 くだらない仕事でも
 心をこめてやるしかなかった
 男はビールを飲んでいる
 遠くで鉄橋が鳴っている
 枝豆のたよりない色をみている
 電車が通過しているあいだ
 鉄橋が鳴る
 そんな暗いちからが必要だった

「ている」という現在進行形が繰り返されることで、当然のように今、その現在が描写される。それは今という時間が澱(おり)
のように堆積していく状況を描きだす。そこにたまる鬱屈。日常の頼りなさは「枝豆」の色のように、そこにある。
しかし、その日常は頼りなくも抜き差し難く折り重なっていく。それは暗い情念のような、暴力衝動のようなものも抱え込む。
そして、男は想像する。第二連。

 ビールを飲みながら男は想像する
 果物屋で桃を買う
 指でおさえないでくださいねと女がいう
 腐敗は いつだって
 デリケートな指先からはじまるからね
 家族の数だけの桃を包んだ袋をかかえて
 小さな橋をわたる
 角をまがる もうひとつ角をまがる
 子どもらの声のかがやき
 妻がガラス皿を戸棚からとり出す
 ナイフのにぶい光
 うすい皮と透明なうぶ毛につつまれて
 テーブルのうえに桃がのっかっている
 それだって幸福のひとつのありかただ
 テーブルのしたは暗闇
 いきなりそいつを抱きしめたい衝動にかられるが
 男にはわかっている
 幸福も不幸も表面的なものにすぎないってこと

「桃」は想像の世界でだけ存在している。そこにはないのだ。想像しながら桃を買って帰る日々の暮らしの中を生きる。
食べる前から「腐敗」が忍び寄る。だが、それさえも日常の「幸福」のありかたのひとつではあるのだ。日常性を拒絶している
わけではない。むしろ、そこからの逸脱や日常性のもたらす可能性を拒絶しているのかも知れない。だがボクらの幸せは、
そして不幸は共に表面的なものにすぎないのだとわかってしまうことの限界を生きている。その表面を「指でおさえないでくだ
さいね」なのだ。壊すことは腐敗を顕わにすることでもある。だが、一方で壊されないまま進行している腐敗も認識されている。
そして、最終連の第三連。

 男はたちあがる
 枝豆のたよりない色がのこる
 排水溝をながれる銭湯の水のにおい
 ながいながい塀にそって歩き
 それからバスに乗る
 男は目をつぶる
 すこしずつ腐敗していく桃を
 胸のあたりにかかえてー

ここで、男は帰路に入ったのだろうか。彼は桃を買ってバスに乗ったのだろうか。買わなかったとしても彼は胸のあたりに桃を抱えている。
腐敗していく桃を。桃は見事な暗喩になっている。そして、彼の歩む道には、バスに乗る前に沿って歩いた「ながいながい塀」があるのだ。
抱え込み腐敗していくのは何だろう。夢なのだろうか。いや、そもそも過ぎていく時間そのものかも知れない。
80年代のバブルをまだ迎えていない直前の時期の空気がある。そして、ある断念が時を経て風化していく状況がある。

山本哲也は桃を想像する。そして、それにナイフをあてることはない。その不可能を生きている。削ぐべき自己の不在、不能性、そして、
ナイフをあてる対称性の喪失を生きている。腐敗を感じながら。しかし、そこには紛れもない日々の営みがあるのだ。

山本哲也の詩、いいな。
前にも書いたけれど、何だか野呂邦暢の「白桃」の兄弟が大人になった姿のような気がする。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

岡部隆介  詩「白桃」 一首一献 外伝

 | 詩・戯曲その他
斎藤茂吉の「白桃」からのつながり。
以下、別の場所で以前触れた山本哲也、岡部隆介という二人の詩人の詩と詩についての文章に手をいれたものだ。

まずひとつは福岡にあって、削るようにして厳しい詩句を書き、いつか自在を醸すようになった詩人岡部隆介の
「白桃」という詩。
1993年に発行された、ハガキ大30ページほどの小ぶりで洒落た詩集の一冊「火守」に収録された詩である。

  白桃

 わが誕生日に ゆくりなく
 スイス土産のナイフをもらった

 おお 〈尖端が拡がっている双刃(もろは)の短刀〉だ
 古いふらんす語ではボードレール

 このナイフの刃はアイガーやユングフラウの
 峨々たる雪の稜線を写した瞬間があるか知らん

 また レマン湖の朝霧に
 うっすら曇った瞬間があったか知らん

 わたしは冷たい白桃をひとつ
 冷蔵庫からとり出して柔らかな皮を削ぐ

 いくたびか 数知れず
 ひととおのれの心を同時に刺した

 この大詩人ゆかりの双刃(もろは)の尖端を うごく
 濡れた果肉の凹みに危くすべらせながら

第一連の「ゆくりなく」が効いている。「不意に」や「思いがけず」の意味を表す言葉だが、ここで「不意に」や
「思いがけず」にしてしまうと、この駘蕩としていながら、孕みこんだような緊張感は生まれない。もちろん、いきなり、
「わたしの誕生日に/スイス土産のナイフをもらった」と書き始めてしまうやりかたもあるのかもしれない。これで不意な感じはでる。
だが、この「ゆくりなく」は、それこそ「不意に」出現するのだ。「ゆくりなく」は「ゆくりなく」ナイフを差し出すのだ。
詩は、第二連でボードレールを呼び出す。詩の注釈に「〈 〉の中のことばは、河盛好蔵『パリの憂愁』に拠る」とある。
この本を開くと、

  ボードレールという名前は古いフランス語のバドレールbadelaireもしくは
 ボードレールbaudelaireから来ていて、この名詞は、「尖端が拡がっている双
 刃の短刀」を意味する。ラブレーの『第三之書』の巻頭のフランソワ・ラブレ
 ー師の序詞にもこの言葉が出てくるが、渡辺一夫訳では「幅廣新月刀」となっ
 ている。 
           (河盛好蔵『パリの憂鬱 ボードレールとその時代』)

と、書かれている。ナイフからボードレールへの跳躍が面白い。河盛は、さらにボードレールが自分の名前にこだわったと記述する。

  ボードレールは自分の名がまちがって書かれることを非常に厭がり、例え
 ば一八五三年にプーレ・マラシのところで『室内装飾の哲学』という小冊子を
 二十五部刷らせたとき、自分の名がBeaudelaireとなっているのを見て激怒し
 てその全部を破棄させたという話が残っている。彼の「履歴ノート」の4にも、
 「ボードレールという字は最初の綴りをeなしで書く」と記されている。美の
 使徒であった彼が、自分の名をbeau(美しい)と書きまちがえられることを
 拒否したのは面白い。

確かにbeauとの区別は面白い話である。ボードレールは自らの名前の表すものを気に入っていたのかもしれない。岡部はそこを
「いくたびか 数知れず/ひととおのれの心を同時に刺した」と詩語にする。
「双刃の短刀」だったボードレールと同様に、詩を書くことで「ひととおのれの心を同時に」刺してきた自らを重ねている。
このナイフは岡部隆介が知人からスイス土産にもらったナイフらしい。日本ではあまり見かけない、先が諸刃で尖ったもので、
岡部はナイフの輝きにスイスを思い浮かべる。これはナイフをくれた相手の旅への返礼であり、敬意である。旅行者が見てきたであろう風景を
ナイフ越しに柔らかくまなざす。「あるか知らん」と「あったか知らん」が音調を和らげているように思う。
「あるだろうか」ではない。脚の「ん」は押さえ口調ではなく、はねるような「ん」ではないのか。フランス語の語尾の上がりに似ているの
かもしれない。微妙なことだが、最初、「あるか知らん」なのが次の連では「あったか知らん」と促音便を引き出す形になっている。
これは「うっすら」と「曇った」の音便からのつながりだ。
そして桃をむく。桃の皮を削ぐ。傷つきやすい桃の皮は「柔らかな皮」でもある。ここで、詩は深みに転ずる。自省が宿る。さらりと。

岡部隆介は、1912年6月30日福岡県筑紫郡筑紫村(現・筑紫野市永岡)生まれ。教員をするかたわら、詩作を続けた。
「母音」「九州文學」などさまざまな詩誌に関わりながら、1958年46歳のときに「匈奴」創刊。1977年「木守」創刊。
詩集に『雉の眼』(1975年第一詩集)、『ナムビクワラのたき火』(1980年)、『冬木立』(1987年)、
『魔笛』(1995年)、『木の葉叢書』シリーズ5冊がある。福岡県直方市に暮らし、2001年5月14日没。

と岡部の詩についてあれこれ書きながら、斎藤茂吉の短歌からの連想。
つまり、斎藤茂吉は、

 ただひとつ惜しみて置きし白桃のゆたけきを吾は食ひをはりけり

と、惜しみながらも最後(?)の桃を食べたのだ。そして、食べ終わった愉悦を表現している。
彼は白桃の「ゆたけき」を食べ終わっている。何か桃自体が甘美ななにものかを象徴しているようでもある。それは恋か?
それに対して、岡部の詩は「白桃」にナイフを滑らせているところで終わる。その時に、わずかの悔恨のような
過ぎた時間への悔いや痛みのようなものがよぎる。それはナイフの出自へのあこがれも伴っている。

桃をめぐる詩の表れ方が、何か面白い。これに山本哲也の「白桃」の詩を置いてみる。それは次で。
山本哲也の「白桃」には野呂邦暢の小説「白桃」のその後のような雰囲気があるのだが…。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

斎藤茂吉「白桃」 一首一献(3)

 | 詩・戯曲その他


 ただひとつ惜(を)しみて置きし白桃(しろもも)のゆたけきを吾は食ひをはりけり

有名な歌。
斎藤茂吉。「〜界の巨人」という言い方を許される人の一人だと思う。
この短歌は第10歌集『白桃』の標題歌である。収録短歌は昭和8年から9年まで、刊行は17年である。ちょっと歴史記述をする。
昭和8年が1933年。茂吉51歳。前年が5・15事件で、この年に日本は国際連盟脱退。昭和17年は太平洋戦争を始めた翌年になる。茂吉60歳の時か。
茂吉の短歌で、中学校などでよく目にするのは、母の死を前にした『赤光』の短歌で、

 みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる
 死に近き母に添寝(そひね)のしんしんと遠田(とほだ)のかはづ天(そら)に聞こゆる
 のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳ねの母は死にたまふなり
 星のゐる夜ぞらのもとに赤赤とははそはの母は燃えゆきにけり

「其の一」から「其の四」までの構成の「死にたまふ母」連作である。引用は「其の三」までからだが、時系列にそって歌が並び、
茂吉の心と状況が呼応するように流れていく。松岡正剛は驚嘆すべき読書ブログ『千夜千冊』の中で、茂吉の『赤光』のこの連作に関して、

  挽歌「死にたまふ母」はなかでも大作で、一種の歌詠型ナレーションになっ
 ている。いわば“短歌による心象映画”でもある。

と書いている。「短歌による心象映画」。「こういう構成感覚は茂吉の師の伊藤左千夫にはなかったもので、すでに茂吉が徹底して新風を意識
していることが伝わってくる」と松岡正剛は続けている。茂吉の独創性の一端なのだろう。
それにしても何だか「アララギ」派という文学史的な臆断で斎藤茂吉のことを考えていたのだが、彼の歌をぱらぱらと読んでいると、なんのな
んので多様な姿に驚かされる。授業でならった「実相観入」といわれれば、例えば、

 沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ

戦後の茂吉批判の少し前にあたる歌である。この歌などに触れると、「写生」を、心や生命を対象と共に写し、客観性の枠から逸脱する「写生」
へと推し進めたといった教科書的な薄い理解をすいと越えてくれる。理論評論、美学的な視線も大切だが、実作がそれを追い越していく姿を見る
ような気がする。それこそ小林秀雄が「当麻」で書いた、美しい花がある。花の美しさというようなものはないといったような言葉を思い出す。

「白桃」に戻るが、この歌については、塚本邦雄が『茂吉秀歌「白桃」「暁紅」「寒雲」「のぼり路」百首』で書いている。彼は、

  味覚と視覚が至妙に交錯しつつ、結句で一種の法悦に近い満足感を伝へ、
 読者にも、その心理を体験させるほどの、特徴ある佳品と言ひ得る。

としたあと、果物の白桃の出自に触れていく。岡山で19世紀末に偶発的に生まれたこと。そして、この品種が当時まだ新しい品種で、「固くて酸
つぱい在来種に馴れてゐた日本人には、まさに味覚の驚異であつた」、「まことに鮮麗、純白の果肉は独特の香気を含み、くどからぬ程度の甘み
を保つ」と説明していく。この塚本の筆致がいい。
そして、茂吉は「最盛期に到来した数箇を、一つまた一つと賞味し、最後の一つを眺めて楽しんでゐたのだらう」と推察する。
で、これでこの歌への評は終わるのかと思わせておいて、塚本は茂吉が「白桃」を「しろもも」と読ませたことに触れていく。
「白桃」は「はくとう」という品種であり、銘柄だから「大和言葉にくだいて」見るのは違うだろうというのだ。茂吉が「岡山あたりの名産白桃」
と記したことから、むしろ「作者は名産白桃(はくたう)を一応考慮の外にして、外皮の白色に近い桃を白桃(しろもも)と称し、かつ歌つてゐ
た方が無難であつた」と苦言(?)を呈している。さらに「白」は「しら」と読む方が好みだとして、この歌への歌評の最後の一文を「私自身の
好みから言へば、白桃(しらもも)を採るだらう」と結んでいる。
言葉へのこだわり、話の展開、面白い。

「白桃」といえば、野呂邦暢に傑作短編があった。また、桃は様々な詩でも書かれていて、その比較もなかなか楽しい。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

井上法子『永遠でないほうの火』(書肆侃侃房「新鋭短歌シリーズ25」2016年6月20日) 一首一献(2)

 | 詩・戯曲その他


 煮えたぎる鍋を見すえて だいじょうぶ これは永遠でないほうの火

井上法子『永遠でないほうの火』(書肆侃侃房 2016年6月20日)の一首。
作者は、1990年生まれ、福島県いわき市出身と紹介されている。
歌集装幀の青い色が持つ冷たさが、火のイメージに重なる。その火が灯になり、光とつながるまでの
「すごくさびしい」存在である「にんげん」への祈りにも似た歌たち。その歌たちは、火を宿しなが
ら水の佇まいを帯びる。透明な青は炎でもありながら水であり、結晶でもある。それは翡翠(かわせみ)の色にも映る。
燃えさかるような炎のイメージではない。火はオレンジ色の外縁に対して冷たい青の中心を持つ。
そして、そここそがより熱く。だが冷たい。表現を生み出す熱源は、表現されるほどに冷たく結晶化されていく。
それが痛く切なく美しい。
チェホフと名づけられた猫が登場する連作「そのあかりのもとで、おやすみ」の歌。

 わたくしのしょっぱい指を舐め終えてチェホフにんげんはすごくさびしい
 煙草屋の黒猫チェホフ風の吹く日はわたくしをばかにしている

冒頭の歌。青が、瑠璃色めく青が、翡翠になる歌。

 かわせみよ 波は夜明けを照らすからほんとうのことだけを言おうか

連作「かわせみのように」へと展開していき…。

 ふいに雨 そう、運命はつまずいて、翡翠のようにかみさまはひとり

青がかわせみからすべりだしてくるような一首。

 紺青のせかいの夢を駆けぬけるかわせみがゆめよりも青くて

声にも色彩が染む。

 聴覚を雨にとられてなつかしい彼らの声が煮こごる 青く

雨と光はにおいさえ呼び込んで、こんな素敵な一首を生む。

 月を洗えば月のにおいにさいなまれ夏のすべての雨うつくしい

火が生み出すことばが熱をさげながら結晶化し、火から離れようとする。燃えさかる必要はない。
だが、灯されなければにんげんはさびしい。
この歌集は、巻頭にブランショのことばが置かれている。ブランショには、ここで引用されている
『来たるべき書物』以外に、『焰の文学』と訳されたカフカやマラルメ、そして「文学と死ぬ権利」が収められた翻訳本がある。
ランボーは詩人とは「火を盗む者」だと書いている。火中の栗を拾うではないが、火の言葉の系譜が文学のなかにはあると思う。
そして、火の言葉の系譜に繋がる人たちは、間違いなく、燃えさかるのではなく冷たく沈潜する。熱源を冷却させる。
劫火とも呼ばれるものから遠ざかるように。にんげんが宿命的に持ってしまう劫火から、その永遠から身を離すように。
そう、レンジの火、それは「永遠でないほうの火」である。だが、表現の火は永遠への火でありながら、
永遠に永遠は訪れないという痛切な火でもある。そして、さらに、ただ永遠に続いていく劫火でもあるのだ。
だから、歌う。

 煮えたぎる鍋を見すえて だいじょうぶ これは永遠でないほうの火

この一首、辛いときに口ずさんでしまいそうな歌である。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加