パオと高床

あこがれの移動と定住

ハン・ガン『別れを告げない』斎藤真理子訳(白水社2024年4月10日)

2024-07-09 00:49:47 | 海外・小説

今、というか、ずっと、気になる作家の一人。
とにかく、翻訳されると思わず読んでしまう作家だ。

光州事件を扱った『少年が来る』も衝撃的だったが、
済州島四・三事件という国家的虐殺を扱ったこの小説も圧倒的だった。
暴力の時代の中での人間の尊厳とその暴力への人々の対応を考え続けるハン・ガンの作品は、
暴力に力で対峙するのではなく、新しい地平をどこに見出すかを問いかけてくる。
私たちはどう痛みを共有化できるのか。
その痛みの先にお互いがお互いを見出だす時、そこにあるのは愛の連帯性なのだろうか。
生者も死者も交感しあう。
その時、こうむった痛みは引き継がれ、今、私たちの痛みとなり、歴史の中に、未来の中に、
その痛みの先に辿りつける人々の状態があらわれるのではないか。
そこに暴力をふるう人間性ではない人間性のもうひとつの姿があるのではないだろうか。
ハン・ガンはそれを追い求めていく。

小説は
作家のキョンハがドキュメンタリー映画作家の友人インソンから頼まれて、
彼女が暮らした済州島に、彼女の飼っている鳥を助けに向かうところから始まっていく。
インソンは、済州島の家のなかで、自分の母親が体験した済州島四・三事件の話に向きあっていた。
そして、
雪に閉ざされたインソンの家にたどりついたキョンハの下には、
死んだはずの鳥や、インソンの母、そしてソウルに入院しているインソンが現れ、
何が起こり、何を感じたかが語られていく。
キョンハは、インソンの済州島の家で、それを追体験する。

  落ちていく。
  水面で屈折した光が届かないところへと。
  重力が水の浮力に打ち勝つ臨海のその下へ。

過去の出来事に出会うことは、暗がりに隠された暴力に出会うことである。
それは、人間の持つ暴力性の暗がりを垣間見ることでもあった。
その虚無の淵から、浴びせられた痛みだけが人を落下から拾いあげてくる。
インソンは語る。

  心臓が割れるほどの激烈な、奇妙な喜びの中で思った。これでやっと、あなたとやることにしたあの仕事が始められるって。

二人が計画した映画へのきざしが語られる。

「別れを告げない」は訳者によると「決して哀悼を終わらせないという決意」であり、
「愛も哀悼も最後まで抱きしめていく決意」という意味だと語られる。
ハン・ガンの作品では雪や鳥のイメージはよく使われるし、
『すべての、白いものたちの』などの他のハン・ガンの作品とも繋がっている。

ハン・ガンはこの小説を「究極の愛についての小説であることを願う」とあとがきに書いている。
常に光へのベクトルを見つけていく作品は、そこにある暗がりを徹底的に追体験しようとして真摯だ。
広大な小説の森の中にしっかりとした丸太が埋め込まれていくようだ。

斎藤真理子の懇切丁寧なあとがきが読者を助けてくれる。
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阿津川辰海『黄土館の殺人』(講談社タイガ文庫2024年2月15日)

2024-07-06 02:03:53 | 国内・小説

この人の小説、面白い。って言っちゃえば。それで終わるのだが。
〈館四重奏〉シリーズと名づけられた3作目。
『紅蓮館の殺人』『蒼海館の殺人』に続く作品だ。
山火事、水害と限界状況を設定しながらのクローズド・ミステリイの3作目は
地震。
かなりの配慮があっての刊行だったのだろうと思わせるし、実際「あとがき」にも
書かれている。

とにかく王道を歩く探偵小説。
だから、歩きながら、これまでの探偵小説へのオマージュになりパロディーになる。
でありながら、新奇な何かがあるのだ。

「名探偵」を自称し、名探偵の宿命をも引き受けようとするかつての高校生探偵、葛城。
同じく、かつて高校生探偵と言われながら、苛酷な状況から、
探偵であることの一切から逃れようとしながら逃れられない飛鳥井光流。
そして、語り手である助手の田所とその友人三谷。
探偵とは何か、真相を暴くことと事件の解決との違いは何か。
登場人物は悩み、戸惑う。自負、自信とそれへの不安を語っていく。
明確に見えている事件の真相。だが、それに自分たちはどう対処するか。
それが、青春小説のテイストや成長物語の趣を生みだしていく。
地震による土砂崩れで閉ざされた—あちらとこちら—。
土砂越しに提案される交換殺人から事件は始まる。
名探偵は、その土砂崩れによって事件が起こる現場には行かれない。
だが、起こり続ける連続殺人。
並行して流れる時間の中で
推理は推理を誘いだす。

この作家の小説では、『星詠師の記憶』がすごいなと思ったけど、
〈館四重奏〉、3作目まで十分満足。
4作目、期待。
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木下龍也『あなたのための短歌集』(ナナクロ社2021年11月11日)

2024-06-29 13:43:43 | 詩・戯曲その他

数年前、歌人の木下龍也と岡野大嗣、それに詩人の平川綾真智という3人によるトークイベントに参加した。
そのとき木下龍也が、他の仕事をせずに短歌だけで生計を立ていると語り、その一つとして、依頼者からのお題をもとに短歌をつくり、
封書にして送るという個人販売を行っていると語っていた。
この本の扉書きによると、4年間で約700首。その中から依頼者から提供を受けた100首によってできた一冊。

 例えば表紙。
 お題「まっすぐに生きたい。それだけを願っているのに、なかなかそうできません。
    まっすぐに生きられる短歌をお願いします。」
 それに対する短歌。
 「まっすぐ」の文字のどれもが持っているカーブが日々にあったっていい

 本文冒頭。
 お題「自分を否定することをやめて、一歩ずつ進んでいくための短歌をお願いします。」
 短歌。
 きつく巻くゆびを離せばゆっくりときみを奏でゆくオルゴール

たいへんな作業でありながら、楽しい仕事でもあるのかもしれない。
料理の提供と同じで、依頼者の満足を得られなければ、成り立たない。
依頼者がどう思ったかは、想像するしかないが、本書の読者であるボクは、うまいなと唸ってしまう。
お題との寄り添い方、離れ方、裏切り方、共感度が抜群の距離にある。
で、でてきた短歌はいい具合に直裁でありながらも、べたじゃない。
また、作っている作者の側から考えると、お題があり、その依頼者である「あなた」がいることで、「私」から離れられる。
その分、ただ、空想でなりきる他者ではない、ある程度のリアリティを担保しながら、「私」語りからは開放される。
実際書いている本人はヒヤヒヤの緊張感を持っているのだろうが、やはり愉しさがあるのではないのだろうか。
ことばは、相手に対して投げだされるものである。と、考えれば、表現の自然な状態が依頼者と提供者の契約の中で実現されているのだろう。
そして、そこに貨幣価値が伴えば商取引は成立する。
多大な付加価値があるのは、創りだされた短歌の魅力によるのだろう。

かつて、どこかで谷川俊太郎が、自分は自分のために詩を書くというより相手や依頼があって書いている
というようなことを語っていたような気がする。
「私」性は、創造の場において濃淡を変えていく。拠って立つ場所は「私」にのみあるわけではないのだろう。
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キム・フン『ハルビン』蓮池薫訳(新潮社2024年4月25日)

2024-06-22 08:16:13 | 海外・小説

図書館で「ハルビン」という書名を見て、手に取った一冊。
1909年に伊藤博文を銃撃した安重根について書かれた小説だ。
韓国で33万部のベストセラーになったらしい。

作者キム・フン(金薫)は1948年生まれの作家。
最近読んでいた韓国の小説家の中では年長者になる。
韓国小説が訳され出した頃から翻訳された作家だと思う。
漢字名を見たときに、ああ、彼か、と思ったからだ。

そのキム・フンが2022年、長い年月の思いを込めて書き上げたのが、この小説。
歴史で習った人物が、どう育ち、何を憤り、何を願って、
あの銃撃、射殺という行為に至ったか。
そして、その行為に人々は何を思い、また、作者は何を託そうとしたのか。
情感を抑え込んだ筆致が、読者を誘いだしながら、読者に考える時間を与える。

伊藤の時間と安重根の時間を交互に重ねながら、小説はハルビン駅に向かう。
そこがクライマックスかと思って読みすすめていたのだが、
周到に背景を書き込みながらも、展開は速い。
半分を過ぎ、3分の2ぐらいになりそうなところで、一つのピークは訪れる。
そして、そのあとは
捕らえられた安重根と取調官との相克や、神父、司教の態度、安重根の妻や周りの人々の話が書かれていく。
そこにも時代の力関係の動きとそれへの抗いが現れている。

安重根は、獄中で墨を擦って、獄吏に頼まれた文字を書いたとされている。
その文字が「弱肉強食 風塵時代」。この時代の中の青春が刻まれた言葉なのだろう。
作者はあとがきで書いている。


  安重根の輝く青春を小説にすることは、私の辛かった青春の頃からの願いだった。

と。そして、

  私は安重根の「大義」よりも、実弾七発と旅費百ルーブルを持ってウラジオストクからハルビンに向かった、
 彼の貧しさと青春と体について書こうと思った。彼の体は大義や貧しさまでひっくるめて、敵に立ち向かって
 いった主体である。彼の大義については、後世の物書きが力を込めて書かなくても、彼自らの体と銃と口がす
 でにすべてを話しており、今も話している。

と、続ける。
周到で隣接していく調査や研究の果てに、作者は安重根という人物を、その出来事を小説にした。
そこには、大義だけへの言及ではない、生きた人間の、若者の青春そのものがあった。
そこが、小説だなと思わせる。小説の持つ力だなと思わせる。
常に変わらない敵との対峙の仕方。暴挙か、義挙か。
それよりも、そこから発せられる主体の強さが迫ってくる。

小説にこんな場面があった。
安重根が家を去り、ロシア領に向かう旅に出るとき、彼はウィルヘルム神父に挨拶に行く。
そこで、彼は火炉の灰の中をほじくりながら、

  この世の一方の彼方でウィルヘルムが祈禱をし、その反対側の彼方で伊藤が白い髭を撫でている。そして、
 その間の果てしない原野に死体が折り重なっている幻影が、その灰の上に浮かんだ。死体は飛び石のように、
 その両端を繋ぎ合わせていた。

おそらく、彼は、その飛び石を踏みしめるような思いをしながら、光のウィルヘルムから離れ、
伊藤へと向かって、翔んでいったのだろう。

キム・フンは、あとがきをこう終わらせている。

  安重根をその時代に閉じ込めておくことはできない。(略)安重根は弱肉強食の人間世界の運命に立ち向かいながら、
 絶えず話しかけてきている。安重根は語り、また語った。安重根の銃は言葉だった。

作者は、そこにあった行為としての銃撃を、言葉に託す思いに賭けて、必死の変換を試みている。
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鶴見俊輔『思い出袋』(岩波新書2010年3月19日発行)

2024-06-14 14:22:20 | 国内・エッセイ・評論

鶴見俊輔80歳から7年にわたる『図書』連載をまとめた一冊。
ほぼ2ページくらいの短い文章が綴られている。

翻訳家でエッセイスト、評論、書評、詩の書き手でもある斎藤真理子が、その著書『本の栞にぶら下がる』で、
「美味しいふりかけ」と書いていた一冊。斎藤真理子はこう書く。

  例えば、食欲がガタンと落ちて、お粥にして、お粥からご飯に戻ったのだが、ちゃんとしたおかずがまだ食べられない。
 でも白飯だけではというのも味気なくて、何か欲しい……ふりかけぐらいなら……美味しいふりかけがあれば……という感じのときだったので、
 『思い出袋』は役立った。
  鶴見俊輔のふりかけは美味しい。何しろもともとの材料がいいので、あそこからこぼれてきたものを集めても美味しいに決まっている。

そう、美味しすぎる。
鶴見俊輔が出会った人や本、そして出来事が自在に重なってくる。一切の体験と思考が絡み合いながら、通念、常識を問い直していく。
2ページほどなのに、えっ、この文章どこにいくのと思わせながら、当初の場所に着地する。
そこにはきちんと思考の後、レアな問いが置かれている。
鶴見俊輔の合理性は、多くの不合理の中をくぐり抜けながら、良心にたどりつく。
しかも、良識はすでに疑いのふるいにかけられているから、そこにあらわれる良心は、時の勢威にあたふたしない。
そばにおいて、折に触れ、ふりかけたくなる一冊だ。
それにしても、射程の広さがすごい。
ジョン万次郎、金子ふみ子と入ってきて、大山巌、乱歩、クリスティ、正津勉、柳宗悦、丸山真男、加藤周一、
映画、相撲などなど、過去も現在も、あちらもこちらも 縦横無尽だ

斎藤真理子も引いていたが、そんな中で、こんな文が出てきたりする。
イラクの戦争で人質になった日本人へのバッシングのような論調について記している件だ。

  なぜ、日本では「国家社会のため」と、一息に言う言い回しが普通になったのか。社会のためと国家のためとは同じであると、どうして言えるのか。
 国家をつくるのが社会であり、さらに国家の中にいくつもの小社会があり、それら小社会が国家を支え、国家を批判し、国家を進めてゆくと考えないのか。

こういった剛直な思考が柔軟な躍動の中から現れてくる。
国体は国家じゃない。するりと合点をいかせながら、きちんと読者を立ち止まらせてくれる。
こんな一節もある。

  自分で定義をするとき、その定義のとおりに言葉を使ってみて、不都合が生じたら直す。
 自分の定義でとらえることができないとき。経験が定義のふちをあふれそうになる。あふれてもいいではないか。
 そのときの手ごたえ、そのはずみを得て、考えがのびてゆく。

鶴見俊輔に出会うことは、この定義を問う方法を学ぶことかも知れない。
詩が、現代詩が、行う定義づけも、実は、こんな感じなのだ。
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中山七里『いまこそガーシュウィン』(宝島社 2023年9月29日)

2024-06-05 01:42:13 | 国内・小説

そうか、ガーシュウィンか。
で、一気読みできる本を読みたいなと思って読んだ一冊。

舞台はアメリカ、ニューヨーク。大統領選のあと、よもやの共和党大統領がヘイトスピーチをガンガンやりまくって当選。
アメリカ国内では白人至上主義者が移民への差別を助長させる。
分断化の加速。
そんな中、ピアニスト、エドワードは、
ショパン・コンクールで平和をめぐる「五分間の奇跡」を行った岬洋介とピアノの二台連弾による「ラプソディー・イン・ブルー」のコンサートを企画する。
そのカーネギーホールでのコンサートへの流れがストーリの中心線である。
そこに大統領を暗殺しようとする〈愛国者〉という人物が絡んでくる。

  「音楽で暴力に立ち向かおうというのかい。それはファンタジーだよ」
  「音楽には暴力に比肩する力があります」
   岬の言葉は静かだが自信に満ち溢れている。聞いていると、知らず知らずのうちに胸の底へするすると入り込んでくる。
 「音楽に力があるのは古今東西の為政者が認めています。慰撫するメロディ。鼓舞するリズム。だからこそプロバガンダに利用されたり、
   逆にミュージシャンが利用されるのを怖れたりしているんです。コンサートを中止させようとしている人たちも同じなのですよ」

こんなコンサートをめぐるやり取りがある。

そういえば、村上龍の『五分後の世界』にもミュージシャンが出てきた。
あの小説では、ボクは、勝手に、ミュージシャンを坂本龍一ってイメージしていたけど。
坂本自身は「音楽の力」という言い方は確か、嫌っていたような。
「力」じゃないんだよな。それ自体を別のことばにすることがたぶん、あるんだよな。
しなければならにという「ねばならない」じゃなくって、べつの、ことばが要請されるっていうか、
そんな、ことばにされることを、求めているっていうか。

あっ、中山七里の、この小説、ガーシュウィンを聴きたくなりました。
確かに、「いまこそ」、ガーシュウィンかも。
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信田さよ子『暴力とアディクション』(青土社 2024年3月5日)

2024-05-29 03:48:24 | 国内・エッセイ・評論

著者は、公認心理師・臨床心理士という肩書になっている。
「現代思想」や「ユリイカ」「こころの科学」などに初出の文章を収めた一冊。「暴力」という問題について考えていた時に出会った本だった。

依存症、DV、虐待、トラウマなどを生みだす背景、その現れ方、そしてそこにある制度や権力の問題、それを含めた語彙や現在の対処法の問題などを、
臨床を基盤にしながら記述していく。
そこには報告、思索、提言があり、ほんのちょっとだけでも知ったつもりでいた自分自身が、実は何も知らないでいたと気づかされた。
と、同時に自分自身の中にある価値観がどんなに自らを縛っているか、あるいは心地よく思わせているか、
だからこそ、それがどんなに疑わしいものか、おぞましい(?)あるいは、おそろしい(?)ものかと思わせる本だった。
そんな本は結構多くて、というか最近、そんな思いばかりする。
黒川伊保子を読んでもそうだったし。そうだそうだと思いながらも、ああ、そんなだったよなと思ったり、
えっ、こっちの感覚でいたよとか感じて愕然としたり。
少し前に読んだ『戦争は女の顔をしていない』には、あるはずだと思っていたのに、気づかないようにしていた何ものかに連れだされて出会わされた。
開き直れば、だからこそ、本を読むのだが……。

で、この本の中にフーコーの考えを引いた部分がある。
「ある行為をどう定義するかを〈状況の定義権〉と呼ぶが、それこそが権力そのものであると哲学者M・フーコーは述べた。」と書き、
DVの父親が「家族という状況の定義権は自分にあると信じて疑わなかったが」と続く。家族であれば、これが家族の中での自身の権力発動そのものになる。
考えてみれば、同様のことを国家間でも行ってしまう。「暴力」という構図の中では個対個の関係が、本来複数性を持つはずの集団対集団の関係でも同じ構図で起こりうる。
さらに、この本に書かれた「洗脳」の方法にまで触れれば、集団が巨大な一個の個になり得る状態が見えるのかもしれない。
「結婚と同時に、彼らは、状況の定義権を妻から奪うこと(妻に許さないこと)に腐心する。いや、楽しみながらそれを行うと言ってもいい。
植物にたとえれば、妻の育ってきた土壌から根っこを抜き、自分と同じ鉢に移植する作業に似ている。根っこを抜くために有効なのは、
否定し罵倒することでそれまでの妻の依拠していた自信を破壊し打ち砕くことだ。身体的暴力はそのための一つに過ぎない。
根っこを引き抜いてしまえば、あとは自分の植木鉢のルールに従って育てるだけである。これはあらゆる洗脳に共通のプロセスだ。」
結果、妻は夫の定義の「ワールドだけが彼女たちの世界」になり、「自発的服従によって支配は貫徹される」と書かれる。
かつて国家が、現在もおそらく国家が行う、集団が行う「洗脳」は、すでに社会的最小単位でも行われているのだ。
いや、すでにではなく、構図として同時的に相補的にあるのだ。
補完と連続。暴力の連鎖というが、それは微細と極大ではなく、遍在と偏在でもなく、様々なる様態であり、擬態なのかもしれない。

この本の痛みの否定と承認の文章も面白かった。
痛くて泣いた相手に、「痛くないよ」と言うのと、「痛いの痛いの飛んでけ」の違い。痛いの感覚主体を奪われるとどこにいくのかという問い。
それが生存の基盤を奪うということになるという言葉は、ちょうど並行して読んでいた高橋源一郎の『ぼくらの戦争なんだぜ』と重なった。
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ヨン・フォッセ『だれか、来る』河合純枝訳(白水社 2024年1月5日)

2024-05-24 15:58:58 | 詩・戯曲その他

2023年にノーベル文学賞を受賞したノルウェーの作家の初の邦訳作品。
戯曲、小説、詩など広い執筆活動を展開している作家で、解説によると本人は自身を「詩人」と定義しているらしい。
で、この作品は戯曲である。
第7場からなり、登場人物は、彼、彼女、男の三人。場は海に面した入江にある家の庭とその中に限られている。
その家はノルウェーの西海岸の入江にあり、人の暮らす場所からは遠く、フィヨルドの海岸を連想させる。
彼と彼女は人から離れて、二人だけの暮らしをしたいと、この家を買い、逃げて(?)来た。

彼女 (陽気に)もうすぐ私たちの家に入れる
彼  おれたちの家
彼女 古いすてきな家
   他の家から遠く離れて
   そして他の人たちからも
彼  君とおれ二人だけ
彼女 だけではなくて
   二人で 一緒
   (彼の顔を見上げる)
   私たちの家
   この家で一緒に住む
   あなたと私
   二人だけで 一緒

これが冒頭の入りの会話だ。
二人だけの、二人で一人の暮らしを求める。だが、すでに二人には不安が兆す。
「だれか 来る」、「きっとだれか やってくる」と。期待して待つ「だれか」ではない。そして、来るのは予感ではなく、ほとんど確信に近い。
すでにベケットの『ゴドーを待ちながら』がベースにあるのだろうと推察できる。
ただ、「ゴドーが来た」といったそこからパロディーや二次的創造を行った戯曲ではない。

やってくるだれかをめぐる彼と彼女の会話の中にあるずれ。そして、訪れた男をめぐる彼と彼女のまなざしの動き。
彼らはわずかなまなざしの動きで、相手の心を自分の心を微妙に絡ませていく。それは交差と離反を繰り返す。静かに孤独が沁みだしてくる。
相手への疑いだけではなく、疑いを生みだしていく孤独が戯曲から立ちあがってくる。
やって来ないゴドーというのは辛かったが、現れてしまうだれかというのも辛い。
来るだれかによって、訪れる状況の怖さは、何もホラーだけではないのだ。
彼と彼女と男は、この入江の中で静かな生活を営めなかったのだろうか。なぜ、営めないのだろうか。

引用した部分でもわかるように、セリフは、セリフの訳は、詩のような行替えをしながら、短い会話を刻んでいく。
そして、たくさんの「間」が置かれていく。まるで、その「間」の中に存在のありかが隠れているように。
何かが起きるわけではない。ただ、ここには何も起こらないが存在を包む何かがある。人をずれさせる微妙な状況の動き。
その時、存在はどこか疎外される。求める状況から逸らされるように。

家のなかにある以前住んでいた人の生活の痕跡が、累積する時間と死の気配を伝えている。
作られた演劇空間自体が、そこに登場する人物を少しずつ不安にさせ、おびやかしていく。

戯曲なので演出によってさまざまな演劇ができるだろうと思う。その演出的解釈も広く取り得る戯曲だと思った。

また、解説が懇切だ。
それによると書かれた言葉は、ノルウェーの二つの公用語のうち西海岸で使われる少数派の、辺境語ともみなされがちな「ニーノルシュク」。
この言葉は「書き言葉」であるということで、フォッセはそれを「話し言葉」として使う試みを行っているらしい。その地域言語が世界へと出かけていく。すごいな。
それにしても翻訳はたいへんだっただろうと思う。
含意のある日本語だと思った。
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平谷美樹『賢治と妖精琥珀』(集英社文庫 2023年8月30日)

2023-12-03 09:42:27 | 国内・小説

大正12年7月31日から8月12日までの宮沢賢治の樺太への旅を取り入れたファンタジー。
なんとなんと、宮沢賢治とラスプーチンが対決するというお話だ。
しかも妖精を封じ込めた琥珀をめぐる争奪戦。
石への蘊蓄も高い宮沢賢治を持ってきて、しかも前年の妹トシの死からの賢治の心の動きを織り込んでいく。
しかもしかも、その心の変化が賢治の宗教観、宇宙観と繋がっていく。
あの絶唱「永訣の朝」から「青森挽歌」や「宗谷挽歌」「鈴谷平原」「噴火湾(ノクターン)」などの詩とも絡ませながら物語は展開する。
で、その物語は幻視や呪法も駆使した活劇なのだ。
二つに割れた妖精琥珀。一つは賢治のもとにあり、もう一つはロシアの怪僧ラスプーチンが持っている。
この二つを出会わせ絶対的な力を持とうとするラスプーチン。奪われまいとする日本の特殊グループ。
そして、妖精琥珀はお互いを求め合う。
花巻から青森を経て北海道を縦断し、稚内から樺太へ。
一気読みの一冊。

読後、宮沢賢治の詩を読みたくなった。
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パク・ソルメ『未来散歩練習帳』斎藤真理子訳(白水社 2023年7月10日)

2023-10-07 05:14:46 | 海外・小説

韓国の小説家で一推しになるかも知れない作家に出会ったような。
現在を未来への散歩の練習ととらえる。
それは過去もすでに現在への迷うような散歩であったのかもしれないし、
現在も散歩することで、
未来へとつながっていく。
過去の中に未来を見る。変な言い方だけど未来を記憶する。
それが私たちにできることであり、私たちがすることであるというより、
していることじゃないのだろうかと
なんだか散歩しながらつぶやいてくるような。
小説は二つの流れで進む。
ひとつは現在と覚しき作家の「私」とチェ・ミョンファンの釜山での交流。
もうひとつは82年に釜山で暮らしていたスミと服役を終えて現れるユンミ姉さん、
それにスミの友人ジョンスンとの82年から現在までの物語。
つながっているのは1982年に起きた「アメリカ文化院放火事件」。
そして、この放火事件は光州事件からつながってきていて、
つまり、現在の韓国社会へと流れてくる民主化運動が
現在から振り返られる。
現在は過去によってあらかじめ夢みられた未来になっている。
その時間のスパンを、そんな時の流れを、小説は独特の距離感で描きだす。
果敢だが無理矢理感がない。
そこにある距離を距離として真摯に見つめる。
迷うようで、明確ではなく断固としたものでなくても、日々に夢みられることを
歩んでいく散歩。
それが釜山をよく歩く登場人物たちの日々の描写から伝わってくる。
龍頭山公園界隈がみごとに立ち現れてくる。また、散歩の文体、散歩の思索が
私たちの毎日の暮らしとやさしく重なってくる。
なんだろう、この読後感は。強く勇気づけられるわけではないのに、
何だか視界がほんのり晴れるような感じがする。
小説は冒頭から結末へ、その結末が冒頭へ繋がるという構成になっている。
小説の中に小説がある入れ子構造かなとも思わせる。
訳者も書いているが原文は独特の文体を持っているのだろう。
訳者が書いている「逡巡」という言葉を遣えば、逡巡しながら文章がリズミカルに進む。
迷いや行き場の予想つかなさが何だか癖になるような心地よさを持っていた。
もう一冊翻訳されている、短編集『もう死んでいる十二人の女たちと』も面白かった。
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