パオと高床

あこがれの移動と定住

チョン・ソヨン『となりのヨンヒさん』吉川凪訳(集英社 2019年12月20日刊)

2020-04-25 10:52:33 | 海外・小説

2部構成になっていて、1部11篇、2部連作4篇の短編、しかもかなり短い短編(?)が収録された小説集。
全体はSFもしくはSFファンタジーといったテイスト。ただ、今、小説はかなりボーダレスで、特に現代小説は、
SF的要素や推理小説的要素が充溢している。ましてや韓国小説界は、少し前の日本の小説界のように純文学とエン
タメの区別はないようで、立て続けに翻訳される小説は世界基準の文学ジャンル同様、ジャンル境界が溶解している
ように思う。

表紙裏や解説で手際よく各短編が紹介されている。
表紙裏の紹介の一部。
「もしも隣人が異星人だったら? もしも並行世界を行き来できたら?」など。

隣に異星人が住んでいるので、家賃が安くなって借りられたマンションに暮らすスジョンと隣人との交流を描く
表題作「となりのヨンヒさん」。
碁盤の中に宇宙を見ながら宇宙に行くことを夢みる主人公の挫折と夢の継続を描いた「宇宙流」。
朝鮮半島の分断や世界の様々な場所で起こっている内戦などを背景にしたと思われる「帰宅」。この小説では地球と
月の争乱で火星に避難し、生き別れ、母語を喪失した主人公が姉に再会するという状況が描かれている。
未知のウィルスを扱い、今、切々と痛みがくる「最初でないこと」。
「時空間不一致」の「非同時的同時性」を持つ、似ているのに違う世界に入り込んだ主人公の物語「雨上がり」。
この物語の主人公は、違和感の中で存在が希薄化していく。別の世界の中だから、学校の周りの生徒は彼女を記憶できず、
彼女自身の存在も薄れていく。そんな彼女を、同じ経験をした教師が、本来の時空に戻そうと、時空の隙間を探す。
この小説も、様々な同一性への違和や不和が、認知と親和性を求めている現在への寓話として読める。
相手が突然デザートになる「デザート」という小説もある。

それぞれの小説が奇想に貫かれている。
ただ、面白いのは、その奇想からではなく、それがまるで普通な状況として描かれていることであり、
その着想の奇抜さを衒ってないところだ。不思議なはずなのだが、普通に受け入れられるている設定の中で、
夢の大切さやお互いが理解し合うこと、生活をするということのささやかだけれど大切なことが描かれていく。
ほのぼのとしながら切なかったり、どうしようもなさが切実だけれど受容できたり、わからないし理解できないけれど
拒絶には結びつかなかったり。ああ、違和感は違和感としてそこここにありながら、共感は共感として存在していて、
共感や共鳴は同じであることによってのみ生まれるのではないということをふわりと描いてくれる。

小説が描く近未来は、どこかもう現代の枠組みの中に入っているのかもしれない。
結局、小説は今を描くもの、なのかもしれない。奇抜な設定はむしろ現実の異様さを静かに伝えてくれる。

  姉が私に、本当に地球語を一つも覚えていないのかと聞き、私は三日間繰り返し聞いた地球語で、
 ごめんなさいと言った。姉は涙を拭った。(「帰宅」)

  ヨンヒさんとスジョンの間に、宇宙のはるかかなたの炎と南極に揺らめくオーロラと冬に咲く紫がかった
 蓮の花のような熱気が、星くずみたいな光の粒子をばらまいて、一瞬のうちに通り過ぎた。(「となりのヨンヒさん」)

司馬遼太郎『国盗り物語』(新潮文庫)

2020-04-21 23:38:35 | 国内・小説

やっぱり面白い。久しぶりに司馬遼太郎の長編を読む。
この文庫は、数年前に大阪の司馬遼太郎記念館で買った。ブックカバーがいい。

主人公は全4冊の最初2冊が斎藤道三。後半2冊は明智光秀と織田信長。
小説連載は63年から66年、NHKの大河ドラマになったのが1973年ということ。
執筆時期は『竜馬がゆく』とかぶっている。明智光秀が幕末の奔走家に似ているという表記があったこともうなずける。
すでに歴史を経たからこそ鳥瞰できるのだろう。ひとつの作品からどんどんと次の作品がつながっていく。
作者自身が歴史の豊饒のただ中を疾走、散策していくようだ。だから、司馬の小説はだんだんと物語から離れるように、
作者が常に時代や人物と語りあい、作者自身が現代と歴史的時間の中を往来するようになっていったのだろう。だから、
今魅力的な歴史家磯田道史のように、常に歴史を現代史として見つめる眼差しにつながっていくのかもしれない。

それにしても、司馬遼太郎の小説の魅力の一つは、未知のキャラクターを際立たせることだ。
坂本竜馬もそうだが、道三も明智光秀も知る人しか知らない歴史上の人物だった。しかも道三や光秀はむしろ悪人。
それを司馬は活写する。『坂の上の雲』の秋山兄弟もそうだ。『花神』の村田蔵六もだ。
で、その人物の魅力的な定稿を作ってしまう。

特に初期の小説は時代を画然と分かつために能力の限りをつくす個性が躍動する。一生青春のように生きる人物が、
旧体制から抜け出そうとする時代の青春と共に生きる「颯爽」とした姿を描き出す。そこに惹かれる。
でも、その一方で『燃えよ剣』の土方歳三も書いている。信長と光秀の比較も、考えようによっては竜馬と土方の違いなのかもしれない。
もちろん、信長はある意味凶暴だが……。
ただ、彼らはみな自らの合理を貫く。もちろん人間は不合理であり、情念を抱え込んでいる。
だが、司馬は明晰な合理性と果敢な行動力で時代の狂気や不合理と抗う人物を屹立させる。
彼が何度も語っている昭和の戦争に向かう狂気と、戦争の不合理への強い憤り、そして何故そうなったのかという執拗な問い、
そして悔いがそこにはあるのだろう。

いま、大河ドラマは「麒麟がくる」で明智光秀を扱っているが、道三のミッションをこなすためにあちらこちら動き回る活動的な光秀や、
鉄砲の名手ぶり、黙考するが感情的な面などなど、司馬が作り上げている明智像がかなり投影されている。
で、今回も司馬節に酔ったのだが、司馬の文章は詩的だったり、漢文的だったり、随筆風だったりと楽しめる。
センテンスの展開も早く、心地よい。
たとえば、道三のいくさに向かう情景。

  月が馳走(ちそう)といっていい。
  するどく利鎌(とがま)のすがたをなし、峰の上の天に翳(かげ)ろいのない光芒(こうぼう)をはなちつつ、
 山をくだる道三とその将士の足もと を照らしていた。

とか、

  どの村にも春が訪れている。城壁から遠望すると、梅の多い村は白っぽく、桃の多い村は淡々(あわあわ)と紅(あか)く、
 ひどく童話的な風景に みえた。そういう春の村々にむかってむなしく貝を吹きたてている道三の兵もまた、一幅の童画のなか
 の人ではないか。
 
とか。あとひとつ、ああ、こういう書き方をするのかと、

  光秀は決意に時間がかかる。
  が、いったん決意したとなると、そのあとのこの男の行動は、構図の確かな絵師のように、運筆が颯々(さつさつ)としている。

「颯々」か。うまい表現だよな。

歴史上の人物がどんな持ち物を持っていたかは、持ち物が残っていればわかるのかもしれない。
また、様々な記録も残っているだろう。そこから、その人物の嗜好性や価値観に至り、では、この人はどんな暮らしををして、
どんな人を好んで、であれば、この場面があったかもしれなくて、実際にその場面が記録されている場合もあり、そこではこんなことを
言ったかもしれなくて、だから、この出来事が起こって、その出来事のときにはこのように考え、あるいはこう衝動的に感じて、と想像して、
創作して、ああ、人物は、こうして小説のなかを生きるのだと思わせてくれる。だから、司馬遼太郎は小説家なのだ。
と同時に、その歴史上の人物が、そういうふうに彼の時代のなかで生きていたのだと思わせるところが、司馬を歴史の語り手にする。
さらに、そこに司馬という現代の知性が、歴史をどう捉えるかという価値観を記述し語る。確かに司馬は歴史家でもある。
司馬史観ということばが生まれてしまうのかもしれない。本人はこのことばをどう思っていたのだろう。
彼は一貫して想像力に溢れた歴史小説家だと僕は思う。それが司馬遼太郎の最大無二のすごさだ。

見てきたように語ることが実際ではない。だが、見てきたように語られたものが持つ想像力と創作力は、
そこにあった歴史がどんな夢や現実を孕んでいたか、どんな彼が彼女が、あなたが私が生きていたかをあぶり出していく。
やっぱり、司馬遼太郎は面白い。

唐十郎『特権的肉体論』(白水社 1997年5月15日)

2020-04-15 19:27:37 | 国内・エッセイ・評論


唐から、演劇界を駆け抜けた唐から、元気をもらおうと思って、この本の中の数篇を拾い読みする。
これは、以前『腰巻きお仙』に収録されていた。
千田是也を中心にした新劇界に肉体の特権性で挑みかかった唐という印象がやはり強い。頭でっかちになっていき、
時間や空間の中に「スルスルと吸い込まれ」ていく、その「スルスル」に「特権的肉体」で待ったをかける。

  肉体とは、……最も現在形である語り口の器のことだ。(「いま劇的とはなにか」)

とか、

  もし、この世に、特権的時間という刹那があるなら、特権的肉体という忘れ得ぬ刹那もまたあるにちがいない。(「石川淳へ」)

「ホラホラ、これが僕の骨……」とうたう中原中也に痛みという肉体を見出し、檀一雄に雪の中で投げ飛ばされ、
「お前は強いよ」と言って立ち上がった中原中也の話から始められるこの本。芝居という空間を作り上げる肉体の特権性をめぐる話は、
勢いのある文章とその文章を支えると独特な論理とイメージの疾走がかっこいい。

  痛みは、肉体を気づかせ、恥は、肉体の痛みを持続させる。しかし、痛みの意識は、自らの内に自然に発生するものではなく、
 そこには必ず他者の視線が介在する。石に頭をぶつけて、痛いという感覚とは逆に、視られた肉体の痛みは、自らを石にさせるのだ。
                                                (「いま劇的とはなにか」)

痛みを与えたものになる自分をみつめるまなざし。自分が相手になるその瞬間。これは見る—見られるを超える瞬間かもしれない。
演劇の発生する現場かもしれない。

  肉体が自らのものであるのに、自らのものでなくなってゆくこのような麻痺は、あの痛みの意識から始まる。(いま劇的とはなにか))

身体と精神の二元論的な考えが、一瞬に瓦解するその刹那の麻痺をとらえているのかもしれない。
この文章には実存の深みをみつめる一節も出てくる。存在は、この瞬間に舞台に立つ。

  存在の井戸を覗き込んでいるうちに、逆に、井戸から覗き込まれるとしたら、そこから身を離しても、意識は逃げのびるどころか
 井戸の底に向って降りてゆかねばならぬ。(「いま劇的とはなにか」)

唐は、この1970年の文章で書く。

  これはけっして芝居の世界だけではない。現代芸術というものが、すべからく、肉体を枯らした空騒ぎの世界に包含されているのだ。
  ならば、肉体の特権的時間とは何か、肉体の山水花鳥とは?—
  いつだって、見るべきものがなくなるなどということはけっしてないのだから、君は足を使って出かけてゆくのだ。
  どこかにある現代の河原へ。(「幻の観客へ」)