パオと高床

あこがれの移動と定住

坂多瑩子「鍋の中」(詩誌「現代詩図鑑」冬号  2013年3月12日発行)

2013-03-31 20:46:32 | 雑誌・詩誌・同人誌から
どこを開いて誰から読もうかとわくわくできる詩誌。
で、坂多瑩子さんの「鍋の中」。
「おはぎ」の詩である。個人的に「おはぎ」は好きで、

 ばあさんのまるめたおはぎは
 スーパーで売っている倍の大きさはあって
 おはぎとおはぎがくっついて
 どちらかにあんこが多くならないように
 古びたショーケースに並んでいる

視点の動きの自然さがよく、冒頭、おはぎが、そのあんこの接している具合が、おもいきりのクローズアップ。余計な細密描写はなく、おはぎ、うまそうで、そこからまなざしは引いていく。

 奥にはかまどがふたつ
 薪がいつも燃えていて
 すすけた窓ガラスをトントンとたたくと
 ふりむいたばあさんは
 静かにせんか
 声も出さずに言う

あっ、かまどが燃えていて、饅頭屋の匂いが漂う。そして、ばあさん。ばあさん、どうでるか、声も出さずにたしなめて、

 小豆がびっくりするそうで
 静かに踊ってるときに脅かすなと
 とがめられた
 私は脅かしてなんていません
 言いたくても言えない

ここらから、妙に現実感に夢のような距離感が入り込みだす。音が、声が、言葉としては書かれているが、それは「声も出さずに」というように消されているのだ。「トントン」という窓ガラスをたたく音がむしろ、音のなさを印象づける。小豆が煮られる音だけが、静かに漂っている感じがする。二度の「静かに」が効いているのかな。同じ言葉を繰り返されるとうるさくなることが多いのに、ここでは、静けさが際立つ。音の少なさが、少しだけ異空間のようなものを作りだしている。声は交わされない。交わされることは禁止されている。もちろん、口調に軽いおかしみもある。

 一度だけばあさんを覗き見したことがある
 たまたま通りかかったとき
 なんとも甘ったるい匂いがしてきたからだ
 あんこのようであってあんこのようでもない
 ばあさんのひらべったい背中から
 少しはみ出た鍋が見えて
 ばあさん
 鍋の中じっと見ながら子守歌をうたっていた
                (「鍋の中」全篇)

ここで、小豆を煮る匂いが記述される。すでに詩では、その前から漂っていた匂いを、言葉で差しだす。時間を過去に少し飛ばせている。そして、その匂いの先に「あんこ」を連想させる背中があって、視覚よりも嗅覚から「あんこ」に思えて、だから、見てみると「あんこ」のようではなくて、「ひらべったい背中」で。
その向こうにある鍋に向かって「子守歌」。最終行、いいな。「踊っている」小豆は、そのあと眠りにつくのだろうな。

それから、人称の「ばあさん」がいい。「おばあさん」ほど、親近感や敬意はなく、「老婆」にすると物語性と客観性が出ちゃいそうで、「ばあさん」に落ち着くのだろうと思う。そして、「ばあさん」は何か穏やかなノスタルジックなものだけではなく、やはり、昔話の「ばあさん」でもあって、「あーぶくたった、煮え立った、煮えたかどうだか食べてみろ、むしゃむしゃむしゃ、まだ煮えない」の恐ろしさも連想させるのだ。つまり、作者は大人と子どもを往き来しているのである。
この詩は、立ちどまりの感覚の中に別の風景が入り込んでくることを受け入れている。懐かしさと怖さは背離するものではなく、揺れ幅は、断定される感覚をすり抜けていく。

 
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ハン・ガン(韓江)『菜食主義者』きむ ふな訳(クオン「新しい韓国の文学01」)

2013-03-23 01:06:41 | 海外・小説
圧倒された。
この一冊は「菜食主義者」、「蒙古斑」、「木の花火」という視点を変えた、三つの連作中編小説集であり、同時に全体を通した長編小説ともいえる本である。

「菜食主義者」は、妻が突然、菜食主義になり、そのことで浮き彫りになっていく夫婦や家族の関係を描いていく。視点は、夫の視点であり、夫を「私」と置いた一人称小説である。ただ、間違ってはいけないのは、ただ単に菜食主義者になるというだけではない、この妻、ヨンヘは、菜食を求めるだけではなく、植物になることを求めていく。彼女は、自身の中の動物性、そして食物連鎖の頂点としての人間の在り方自体に激しい嫌悪と恐怖を感じ、それが妻のこれまでの家族関係や夫婦関係の中でより先鋭化されていく。彼女の存在は、要請や強制を拒絶する。そして、自分自身への同一性を崩壊させていく。彼女が植物との一体性を求めれば求めるほど、彼女は社会から逸脱していく。夫にとって、彼女は見知らぬ誰かになっていってしまう。

「蒙古斑」は、その「菜食主義者」のあとを継いでいく。ヨンヘの姉の夫が、「彼」という人称で語りの中心になる。「彼」は妻の妹つまり義妹のヨンヘに蒙古斑が残っていることを知り、激しい欲望を感じる。ビデオアート作家である彼は、体に植物のペインティングをしたヨンヘのイメージに取り憑かれ、一線を越えていく。存在原理の中に核のようにある欲望が、常に暴力と密接な関係にあり、暴力が存在を存在たらしめようとすると同時に他者の存在を剥奪していく、または自らの存在を奪い去っていく状況が激しく強く表現される。救いの設定は剥奪されている。越える際で越えられない悲劇が表現される。楽園は存在の側では訪れないのだ。植物をめざし、鳥になろうとしても人は、ついに足をつかまれてしまう。楽園は、存在の消失によってしか現れないのだろうか。

そして、「木の花火」。この小説は、今度はヨンヘの姉を「彼女」にして、彼女の視点で綴られる。彼女はヨンヘとの狂気の行為に走った夫との関係を静かに問い直す。また、ヨンヘの欲望を懸命に理解しようと努める。「時間は流れる」「時間は止まらない」という言葉が、章が変わるごとに置かれる。ヨンヘと姉である「彼女」の理解と再生に向けた時間は、現実的な時の流れの中で遠ざけられていく。精神病院の中で狂気と死に向かっていくヨンヘ。完全にではなく、ただ、わずかだけ解読されるように、現代人がどこにいるのかが提示されていく。
凄絶な小説。そして圧倒された。こわいけど。

カフカは『変身』で、すでに虫に変わってしまった主人公の、日常の関係に潜む不可解を描いた。そこには寓話性の持つ多様な読みの可能性がある。同時に、それは確定される唯一の読みの不可能性を示す。虫にではないが、この『菜食主義者』は、植物になれない人間の、植物になろうとする過程の困難を描きだして、存在の抱え込む背離するものを描きだそうとしている。それは、社会と激しく摩擦する。そして、ここには裸形の存在の持つ境界の危うさがある。だが、それは、境界の前でおののき立ち止まりはしない。越境の危険とどこかしら獲得されようとする存在を差しだしてくる。小説の創造力は、その逸脱に向けて賭けられている。

訳者のきむふなは「訳者あとがき」で、「ハン・ガン(韓江)、ソウルを二つに分けて流れる大河、漢江(ハンガン)のように、彼女の作品がますます深く滔々とした流れをなすことを願う。」と締めている。そう、かなり、気になる作家である。そして、冬の氷結した漢江のように、その氷の上を渡るような危険な越境に魅力を感じた。
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高橋源一郎『さよならクリストファー・ロビン』(新潮社)

2013-03-15 11:05:12 | 国内・小説
2012年4月25日発行の短編集である。収録作品は、2010年1月発表の表題作、2011年1月発表の「峠の我が家」、そして、2011年4月号から12月号までに発表された「星降る夜に」「お伽草子」「ダウンタウンへ繰り出そう」「アトム」の全6篇だ。
物語を生きる、書く、読む、そして、忘れるという、それぞれをめぐる物語である。それが、ボクらが現在を生きるということと何故か、交差してくる。さらに、そこに物語でなければ生きられないという思いが滲み、痛さがこぼれてくる。
「さよならクリストファー・ロビン」は、こう書き出される。

  ずっとむかし、ぼくたちはみんな、誰かが書いたお話の中に住んでい
 て、ほんとうは存在しないのだ、といううわさが流れた。
  でも、そんなうわさは、しょっちゅう流れるのだ。

そして、浦島太郎や赤ずきんのお話をパロディにしながら、誰かの「お話」を生きているボクたちの消失を描き出していく。それは、物語が「虚無」と戦う道筋を示しだす。が、同時に、物語自体が「虚無」であり、そうでありながら、「虚無」に吸い込まれていくものだという切実なジレンマを呈示する。

  ある時、ひとりの天文学者が、星の数が減っていることに気づいた。
 (中略)星は生まれ、成長し、死んでゆくものだった。だから、時に、
 その数は増え、またある時に、その数は減ったりもした。だが、(略)星
 たちは、どこの時点からか、一定の割合で減り続けていた。

宇宙が「無」によって喰われていく。SFやファンタジーの文脈を取り込みながら、消えていく物語の中で、消えていく作者と登場人物を描き出す。確か、アメリカの作家で、短編でエントロピーを扱った作品があったが、それを高橋源一郎は援用しているのかもしれない。
そして、世界は消失する。ボクらの世界は、誰かの意識の中で、お互いの意識の中で出来ている。日々、膨大な意識が世界を形づくり、膨大な死が、意識の消失が、世界を消していく。その「虚無」を前にして、高橋源一郎は、彼の特徴のひとつである少年性で、リリカルに戦う。

  「あれは『虚無』というものさ」と、ぼくに教えてくれたのは、そし
 て、「世界は『虚無』にどんどん浸食されている。どうしようもない」と
 もいってくれたのは、誰だったろう。
  それが誰だったにせよ、その誰かも、もういないのだ。
  ねえ、クリストファー・ロビン。
  それでも、ぼくたちは、頑張ったよね。

世界が誰かの物語であるなら、そして、自分たちが誰かの「お話の中の住人」にすぎないのなら、「おれたちのお話を、おれたち自身で作ればいいだけの話さ」という方法を戦いの方法として、最後の人となった「ぼく」と「クリストファー・ロビン」は「最後のお話」を書こうとする。この小説「さよならクリストファー・ロビン」を冒頭に、他5篇の小説が続く。

誰かが作った登場人物たちが集まってくる「ハウス」で、作者の死と作者によって作られた者の死の同時性を切なく綴った「峠の我が家」。これも、世界が消えるということはどういうこことなのかに、謙虚さと羞恥をもって触れているのかもしれない。
それにしても、この2篇を読んだとき、今、テレビで放送されている『泣くな、はらちゃん』と結びついた。岡田惠和は、この小説、読んでいるんじゃないかな。もちろん、テイストは全く違うけど。いや、全くって、ほどでもないかな。あっ、ドラマ、たいへんたいへん、面白い。

「星降る夜に」では、今度は、物語を語り聴かせる。という設定を使う。物語作者の死と登場人物の死から、誰かに物語を語り聴かせる、その相手の死に対して、物語はどこに向けて語られるのかを、これもまた切なく問うている。
また、蓄積ではなく忘却へ、進行ではなく退行へと時間を逆に進む状況を描く「お伽草子」。
死者が生者の世界に来て、生者と共に過ごす時間を描いた「ダウンタウンへ繰り出そう」。
世界と世界の『つなぎ目』でのアトムとお茶の水博士の出会いを軸に、『つなぎ目』での人称の錯綜や時間軸の交錯を描き出した「アトム」。
どの作品にも、じわりと涙が溜まりそうな痛さがある。これは、ボクたちがどんなところまで来て、どういうところに今立っているのかに思い至らせるからであり、その取り返しのつかなさへの痛切な思いを呼び起こすからである。
生きている者を描き出していくことで、死と再生を描こうというリアリズムではない手法で、生と死の境界を跨いで、境界線を綱渡りしていく。その綱渡りのバランスの中に再生への願いのようなものが、かすかに、かすかに漂ってきた

高橋源一郎は、ケリー・リンクやブラッドベリなどの味わいを持ちながら、バーセルミのように物語自体の関節をはずしながら小説を作りだしていく。そして、さらに抒情の滲み出しがあって、少年少女小説の衣裳も羽織ってみせるのだ。様々な作品をパロディ、コラージュしていきながら作られるタカハシワールド。読むと、やっぱり、刺激的だ。
あっ、それと、この人の小説がいいのは、この人の持つ羞恥心のようなものもあるのかなと思う。実際の人物が傲慢かどうかはわからないが。
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藤維夫「遠い場所」(「SEED」31号 2013年2月20日発行)

2013-03-09 20:52:59 | 雑誌・詩誌・同人誌から
言葉の強さに引き寄せられて、言葉の張力に触れてみたくなる詩。
詩は、言葉を衣装とした、様々なる意匠であり、様式であると思う。詩的なるものと詩の距離とは、詩的なるものを詩にする距離である。
で、あれば、中身は? という中身と形式の二分法は、実は、意味をなさない。だが、極端にいえば、中身は空っぽでもいいのかもしれない、逆と比べれば。つまり、伝えたい何かはあるのだが、言葉自体を伝えようとしないものに比べれば。
さらに、で、実際のところ、張りつめた言葉を持っているものは、それ自体で伝えるべき中身を持っているものがほとんどだと思う。これもまた、伝える何かがあると思っているだけのものに比べれば。つまり、表層は、きちんと深層を持っているのだということであり、表層なき深層は、なかなか、これはないということだ。当然といえば、当然。もし、中身という言い方をするのであれば、衣装と意匠と中身とはすでに外に表れて切り離されない状態であるものだ。で、単純な結論に至る。つまり、表層が充実しているものは、それ自体がすでに中身であり、そこに深層があるということだ。そして、強さは、そのあたりに起因する。
藤維夫さんの詩は、その言葉の強さに惹かれてしまう。もちろん、強さにも様々な姿があるのだが、その様々を含めて強さと書く。
詩「遠い場所」は、こう書き出される。第一連、

 遠い崖があるかどうかわからずに
 むやみに死がさわがしく波だってきた
 無茶はわかっていても
 どっち付かずの方角を望む
 嵐の通り過ぎるのを待つ人のようにじっと考えこんだまま

「崖」に「遠い」という形容詞がつく。「遠い崖」って何だろう、と思ってしまうとつまづくのかもしれない。だが、「遠い崖」がすとんと来る。言葉にベールをかけるのだ。すると、「あるかどうかわからずに」が、そのまま視界のもやのような状態を呼び起こす。「崖があるかどうかわからずに」と書けば、人生の懸崖のようなものだけが意味される(比喩される)のだが、「遠い」が入れば、「遠い」という状態がよぎるのだ。そして、「むやみに死がさわがしく波だってきた」に、この「遠い」が掛かってくる。修飾関係ではないのだ、言葉の残像現象なのだ。認識として不可知ともいえる「死」が、「遠い」はずの認識の彼方から「波だって」くるのだ。つまり、「遠い」が近さに変わっている。寄せる波の距離感が表れる。
で、その先が観念にはいかない。戻ってくる。「無茶はわかっていても」という感慨のような言葉を配置することで、作者に戻る。この「無茶」は前の行の「むやみに」から引き出された音つながりだ。もちろん、意識されてか無意識かはわからない。思考しながら、言葉が言葉として動いているのだ。どちらかだけが走り出すわけではなく、それを聞きとり考えとりながら、言葉が進む。語る人は聞く人だ。いや、聞く人が語れる人なのかもしれない。詩の言葉を作者が聞き分けている。すると、「死」が音のように「波だって」いるのかもしれないとも思えてくる。
そして、行は「どっち付かずの」と、進む。どちらかに決める。あるいは、「どっち付かず」ではない明確な方向を定めればいいのだろうが、人は待機する。待機という実存の延期の時に実存的なのだ。
ここで「どっち」は「無茶」や「わかって」の半角文字の影響を受けている。あるいは「っ」の並び。行は、「無茶は」の「む」から「望む」と閉じる「む」へつながる。立ち止まりを「む」という閉じた音で一瞬完結させる。そして、待機を示す「待つ人」という言葉が書かれ、「考えこんだままだ」に行くときに、また、「っ」の影響を受ける。「じっと」が挿入されているのだ。これらの音を消してしまえば、第一連、実存のためらいは、流れるようなことばの流れで表現されてしまう。藤さんは、そこを聞き分ける。つまり、推敲は、作者の心的状況と言葉の表層を一致させていくようにされているのだ。流麗さをわずかずつ寸断する。そこにいるのは「考え込ん」でいる人である。
この詩は第二連で、明るさに転じるように流れもつくる。

 しきりに明るい感覚を思う
 行きあう日々の潮騒の痕跡にみちびく
 日の終わりから歩むこと
 そこでは不在の始まり
 うたのこぼれる暗い影は去った

音と形が絡み合う。耳が捉えるものを視覚化しようとするというのだろうか。「行きあう日々」が「潮騒」という音になり、「痕跡」という音の痕跡になる。ところが、この「痕跡」が妙に視覚的なのだ。また、時制がずらされるところで、実体が無化される。「行きあう日々」であって、かつて「行きあった日々」ではないのだ。ここには過去の生きられなかった時間と、将来において生き得ない時間の双方が入り込んでいる。死が身体という実体を連れ去ったとき、意識はそこにとどまるのだろうか。それは、自分自身の生きられなかった時間に残した意識と同じように、死の先にも意識は残り続けるものなのだろうかという問いを可能にする。「日の終わりから歩むこと」という詩句は、そんな思いを想起させる。さらに、「そこでは不在の始まり」なのだ。そして、モーツァルトを訪れた灰色のコートの男のように、未完の「レクイエム」と共に、「うたのこぼれる暗い影は去った」という状態になる時間の到来が記述される。それは「しきりに明るい感覚」として、思われる。

この詩は全四連。このあと、第三連7行のあと、最終連は「音」に触れて、詩を閉じる。音楽は、過去の音を聞いているだけではなく、予想するように、まだ鳴っていない音を聴いているのだと、何かの本で読んだ。そうそう、確認してみると、内田樹が、「〈もう聞こえない音〉を記憶によって、〈まだ聞こえない音〉を先駆的直感によって、現在に引き寄せることで経験している」と、『本は、これから』という岩波新書に書いていた。旋律やリズムと言いながら、人は先取りしながら、やって来る音を捉えているのだろうか。

 四季の触手によって生かされた過去はすでに滅びた
 須臾の日の強さに保護されたどこにもない場所
 音楽の静まるところ たとえばハイドン
 ピアノのピッチ
 リズムの彷徨う神秘な劇を見たい

音楽は時間であるか。アファナシエフはCDの解説の中で、バッハの空間性を指摘している。「彼の作品に見出すことのできるものは、……人間の宇宙のひろがりの全体なのである」と。うーん、バッハが空間なのだということは何となくわかるような気がする。ハイドンは、どうなのだろう。時間が流れているような気がする。だから、そこには未来の予感が兆すのだろうか。
で、一瞬の中に、立ち止まった時間の中に、現れるのは、空間化された時間の層なのかもしれない。もし、立ち止まった時間というものを設定すれば、時の移ろいである「四季の触手」によって「生かされた過去」という時間は、立ち止まった時間に集積されながら新たな過去を生みだすという営みからは離れ、「滅びた」と言い表されるのかもしれない。四季の循環によって生まれた過去が滅びるとは、無くなることなのだが、それはまた、生み出されないことである。現在の中で蓄積されながら、滅びていく過去。そう、最終連の一行目を少し、ずらすと、二行目にもつながる。

 四季の触手によって生かされた、すでに滅びた、過去

こう書くと、時間のねじれを表現してはいないが、文脈はつながる。その立ち止まりの瞬間、「須臾」。すでに滅びた過去が「どこにもない場所」になる。その刹那に、時間が空間的に並び、天体のような姿を現す。その時、星が死滅するときに発するような「日の強さ」の中で「どこにもない場所」が予感される。それは、音楽が終わりながら、さらに音楽が訪れてくる場所であり、意識だけが「日の終わり」から歩み出していく地点なのだ。


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孔枝泳(コン・ジヨン)『私たちの幸せな時間』蓮池薫訳(新潮社)

2013-03-01 12:07:32 | 海外・小説
痛く、重い小説である。読みすすめながら、心に澱のようなものが溜まってくる。ざわざわとしたものが残っていく。しかし、ある部分から、何かふわりとした感覚が現れ、少しずつ、光に包まれていくように、ほんのりと体温と同じような温かさを持った日ざしに包まれていく。だからといって、慰撫されて、すべてが解消されるわけではない。読後に、救われたという優しい気持ちと同時に、この小説を読み進めるうちに溜まっていたものの消し去ることのできない重さが残る。その問題の深さと、それでも小説が与える爽快な読後感が、この小説を魅力的なものにしている。

小説はムン・ユジョンの一人称の部分に、「ブルーノート」というチョン・ユンスのノートが差し挟まれる構成で進む。
ムン・ユジョンは、裕福な家庭に生まれた30歳になる女性だが、16歳の時の出来事が心の傷になり、人を信じられなくなって三度の自殺を試みる。その三度目の自殺未遂の後、叔母のシスター、モニカが拘置所の慰問に彼女を連れていく。そこで、死刑囚ユンスと出会う。彼は、仲間と共に知り合いの女性を殺し、その17歳の娘を強姦殺人し、さらにその家の家政婦までも殺した男だった。
「ブルーノート」の章で、ユンスの家庭環境や犯行に至るまでが解き明かされていく。それは、読者にひとりの人間が、犯罪に至るまでに、その人間の過ごした、過ごすしかなかった時間があったことを告げる。
モニカ叔母とユジョンに心を閉ざすユンス。一方、凶悪な死刑囚としてしか見ないユジョン。だが、ユジョンはユンスの中に自分の顔を見る。それは、同時に、ユンスの顔を見つめようとする心の動きにつながっていく。また、ユンスは、ユジョンの心の傷に気づく。そして、ユジョンの顔を見つめることで、自分の心と対話を始める。
死刑囚にとっては、二人が出会う木曜日が、また来週もやってくる木曜日とは約束されていない。刑の執行は唐突に知らされる。その出会う一回が最後の一回になるかもしれない。そんな中で、二人は、その一回ごとのかけがえのなさを。優しく幸せな時間に変えていこうとする。

小説は、人間の更正力の是認、人が法的にも人を殺すという行為の根本的な罪と矛盾、拘留経費と人の命を天秤にかける虚偽、暴力は暴力しか生まないという負の連鎖の指摘、人が人を許す機会を奪うことの過誤などを拠点にして、死刑制度を問うている。もちろん、被害者感情はある。そして、現在、死刑を求めて犯罪を起こす犯行までが存在する。だからこそ、死刑制度は犯罪の抑止としても無効ではないかという意見もある。一方、だからこそ、そんな犯罪者までも生かす必要はない、さらに死刑制度は必要なのだという考えもある。どうなのだろう。小説は、死刑制度についても考える機会を与えてくれる。

だが、訳者蓮池薫が、「あとがき」で、この小説が「多くの共感を得ているのは、著者がこの小説を通じて、単に死刑制度のことだけでなく、読者個々人にもっと身近な、人間存在の根源に迫る問題をも投げかけ、考えさせているからだといえる。つまり、他者への『愛』、そしてその反義語である他者への『無関心』についてである。」と書いている。死刑制度を「単に」としていいものかは、訳者ももちろんわかっているが、この小説が、胸に迫ってくるのは、まさに、この他者への眼差しなのである。

  なぜなら、以前に叔母が悲しい口調で私に忠告したように、悟るには
 痛みが伴い、他人であろうが自分であろうが、その痛みを感じるには相
 手を眺め、その思いを知り、理解しなければならないからだ。
  そう考えると、悟ろうとする人生は、相手に対する憐れみなしには存
 在しないことになる。憐れみは理解なくしては存在しないし、理解は関
 心なくしては存在しない。愛情とはつまり関心なのだ。

 「わからない」という言葉は、免罪の言葉でも何でもなく、愛情の反義語
 だ。また、正義の反義語、憐れみの反義語、理解の反義語、人間がお互
 い持ち合わせなければならない、本当の意味での連帯感の反義語なのか
 もしれない。

レヴィナスの「他者の顔」も連想する。また、民主化を支えた386世代の作者の思いと思考の強靱さを感じる。
そして、「生きる」ということへの信頼とそれを人間の使命だと考える思考も、全体を支えている。叔母はユジョンに告げる。

  「……だから私たちは、死にたいと言う代わりに、もっとちゃんと生
 きたい、と言わなければならないの。死について話してはならない理由
 は、まさに生命という言葉の意味が、生きろという命令だから……」

ユジョンは、ここでは、まだ、こう問い返そうとする。

  生きろという命令だって?誰の命令なの?一体誰が、何様だと思って
 そんなことを言うの!

しかし、死刑囚、すでに生を期限付きでしか与えられていない死刑囚ユンスとの交流の中から、ユジョンは気づく。

  死にたいと考えたりすることがほかならぬ生きている証であり、生き
 ている者にだけ許される人生の一部分だということだ。だから、もう死
 にたいという言葉の代わりに、私はしっかり生きたい、という言葉を使
 いたい。

小説の背景には、多くの思索がある。それが、読者を説得していく力になっている。先程も書いたが、暴力の連鎖もそうである。より重い重力こそが「恩寵」に向かうという思索もある。偽悪と偽善をめぐる問いもある。そして、何よりも、死を超えるものへの、傲慢ではなく、かといって控えめでもなく、直裁でありながら慎ましい、切々とした希求が、この小説を支えている。

文章の特徴なのだろうか、比喩が多く、その比喩に慣れると、どのような喩えが遣われているのかが楽しみになる。例えば、痛切な、

  鋭いナイフで切り刻まれるように胸が痛む。あれほどひび割れし、乾
 ききっていた私の胸の片隅で、永い間凝固していた血が涙に変わって目
 からこぼれ出た。

とか、

  気持のなかでは、そんな欲望がさながらコンクリートの隙間から顔を
 出す野花のように湧き出てくるのを感じていた。

とか。
ああ、抜き出したらきりがない。そうだ、韓国は詩の国なのだと思う。そして、修辞を大切にしている国なのだ。

蓮池薫の訳は、妙な文学臭さがなく、それでいて、言葉のイメージがよく伝わってくる。言い回しに無理がなく、文章がよく届いてくると思った。

小説は、映画やコミックの原作にもなっている。

小説を読んでいる間も何度かそうであったが、作者のあとがきである「作者の言葉」を読んで、涙が出てしまった。
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