パオと高床

あこがれの移動と定住

内田樹・白井聡『日本戦後史論』(徳間書店)

2015-06-26 11:11:35 | 国内・エッセイ・評論
危機的状況に対して言論が何を語れるか。
もちろん、言論は危機を煽ることで切迫急務の説得を採るものではない。そうすれば、それは危機を担保に
ヒステリックな心情を誘導しようとする政治の手法と同じになるからだ。
そうならないためにも、史論と名づける史観を示しながら、現状を把握し、問おうとする知性が必要とされる。
白井は「敗戦の否認」という視座で戦後の日本の政治とそれを支えた国民意識を解読する。敗戦を認めず、認
めなかった以上、永続敗戦レジームが継続しているという状況を語り、それによって内田との対談によって出
てくる「対米従属による対米自立」という政治的営為の持つ問題点を指摘していく。それが政治に及ぼしてい
るアンビバレントな様相を示す。
もちろん、この「永続敗戦レジーム」は「戦後レジームからの脱却」というスローガンとは違う。むしろ、そ
こで言われる「戦後レジーム」とう言葉の奇妙な歪みを指摘しているのだ。戦後レジームをアメリカから押し
つけられたものとしながら、それからの脱却でより前近代に戻ろうとする発想。しかも、それは、敗戦を否認
することによって戦前戦中の体制そのものを温存しながら繋げてきた現代史そのものを名づけているものだと
いう歪み。であれば、戦後レジームとは、戦前レジームの一時的な擬態にすぎないのではないか。さらに、で
あれば「戦後レジームからの脱却」とは、単にスローガンのためのスローガンにすぎない。そんな前近代性を
思考しながら憲法の精神を守るのだと言い張る奇妙な歪み。その現政権を二人の対談者は鋭く批判しながら、
それを生み出す戦後史と国民感情も腑分けしようとする。

面白いもののひとつは、内田による精神史的な考察。精神の深層で抑圧されているルサンチマンと自己破壊型
の破滅欲求が、明治維新以降、太平洋戦争や、戦後の対米外交、政治の中で噴出しているという考察だ。それは
現在の政権の中に、個人の破滅欲求として表れていると考える。そして、この個人の欲求が集団の共同の欲望
となり、精神の深層で希求するものが重なってしまう現況の危機を指摘する。ここ十数年の世論の振れ幅のヒ
ステリックな広さ、結論へのせわしなさ、好戦的な決断のほうをより求めるような姿勢、ここに内田の視線は
向かう。そして、政治や文化を支える力学的な実際の動きへの推察と同時に、それを生み出し支える深層心理
を分析し言及する。その語りが面白かった。
確かに、この今の状態はもういいよ、一回チャラにしてしまえという壊滅への衝動はあるのかもしれない。そ
れを抑えずにそのまま露わにしてしまう幼児性は恐ろしいものだ。

他には、司馬遼太郎の日露戦争から太平洋戦争終結までの40年を「鬼胎」とする見方に敬意を払いつつも、そ
れを「鬼胎」ではなく歴史の継続として当然生み出されたものだと批判するくだりもそうかもなと思えた。

また、フランスがドイツに侵略されてから第二次世界大戦終結までの状況と、ドイツ協力によって迎えた敗戦
を否認したという指摘や、ドイツの戦後処理でヒトラーへの責任の負わせ方による敗戦の否認という指摘は、
それでもこれらの国の戦後処理が日本とは違うということを考えさせてくれた。
戦間期ということばをヨーロッパでは使うと書かれているが、確かに、そんな状況を思わせる、あるいはすで
に戦前であるともいわれるような時代の中で、何かうっすらと感じていた異形性に対談で言葉が与えられてい
く感じがした。

従属すれば自立独立させてもらえると考える「のれん分け」とか、守株のうさぎを待つように仕向ける「待ち
ぼうけ」戦略などの言葉も合点がいく。
権力の言葉に、操作し蹂躙しようとする言葉に対抗する言葉の力を信じたい。
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