パオと高床

あこがれの移動と定住

司馬遼太郎「高野山みち」(『街道をゆく9』から)朝日新聞出版

2016-03-24 09:31:54 | 国内・エッセイ・評論

 九度山とは町の名で、山ではない。

あっ、司馬節の始まりだ。
久しぶりの『街道をゆく』。「高野山みち」は短いけれど、やはり司馬遼太郎はいい。
「真田庵」から始まる。今年はドラマで騒がしいだろうなと思う。そこから、幸村親子をたどって、紀ノ川の舟着き場から
高野山への「町石道(ちょういしみち)」のとば口に至る。思索は江戸期の年貢から空海や白河院をめぐり、「高野聖」に
行き着く。街道を経ながらあちらこちらと往き来しながら、あるこだわりが現れるとそこに、テーマのようなものが浮かび
上がる。ここでは、高野聖が、それにあたる。当時の正規の僧と私度僧である「聖(ひじり)」の関係を辿り、聖の役割と
その変質を追う。一方で真言密教の流れとして、そこから流れた立川流も絡める。後醍醐天皇の南朝と北朝の異なる思想世
界にも触れる。さらに聖による密教から阿弥陀信仰への方便のような移行も語る。また、聖の中から重源という魅力的な人
物を引き出すと、彼を造型していく。この人物へのまなざしは作家だなと思う。
作家だなといえば、描写にもそれはあって、こんな描写が出てくる。

  やがて赤い欄干の小さな橋をわたった。ここからむこうは、結界であるらしい。
 路傍にヒメシャガが群生していて、露が結晶したような紫の小さな花をつけていた。

と思うと、真言立川流に帰依したとする後醍醐天皇について、

  後醍醐天皇というのは、宋学の尊王攘夷思想に熱中したが、熱中のあまり、日本の
 みかどと本来絶対的な専制権力をもつ中国皇帝とおなじであり、おなじであるべきだ
 とする政治的信仰をもつにいたった。南北朝の争乱は、この天皇とそのまわりの公卿
 たちの熱狂的な宋学研究からおこったと見られなくはない。
  一方、北朝の天皇では禅宗に凝る人が多かった。禅宗を一つの認識論としてみれば
 まことにあっけらかんにものごとを見切ってしまうという思想で、政敵への呪いや政
 敵を殺す調伏を事としていた当時の密教とはまるでちがった思想世界であるといって
 いい。

と、南北朝の思想世界の差異について思索する。
描写と思索。それが司馬遼太郎の文章の流れ、文体と一致する。読む醍醐味が横溢する。のみならず、司馬遼太郎が空腹を
抱えてカレーライスの店を探したり、迷ったりの臨場感とユーモアが楽しい。この緊張と弛緩。そして司馬遼太郎が持つ思
索の余裕に包まれて、街道を歩く読書の快楽に浸ることが出来る。
そう、

  息切れしないように石段をゆっくり登ることにした。

というように、せわしなさと離れて、ゆっくりと。

 テレビの「100分de名著」という番組で司馬遼太郎の特集を放送していた。磯田道史の話は面白いな。何か本を探して
みよう。
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